西暦521年〜540年

継体天皇一六年(522年):壬寅
この年に江ノ島が湧出したことになっている。(地震があった?)
百済、大伽邪の軍事・交易上の拠点であった海岸地帯(多沙津)を占領し、大伽邪を震撼させた。このため、大伽邪は隣国の新羅に急接近する。
司馬達等が来朝する。
司馬 達等(しば だっと・しば たちと・しば の たちと・しめ たちと、生没年不詳)は、飛鳥時代の人物。氏姓は鞍部村主(くらつくりのすぐり)あるいは鞍師首。子に鞍作多須奈(くらつくりたすな)、孫に仏師鞍作止利がいる。 『日本書紀』雄略天皇条に記載される鞍部堅貴の一族。一説には南梁の人とも言われる。日本に仏教が公に伝わる(仏教公伝)以前から仏教を信仰していたとされる。『扶桑略記』によると、522年(継体天皇16年)2月に日本に渡来し、大和国高市郡坂田原に草堂を結び、本尊を安置し帰依礼拝したと伝わっている。
523年:癸卯
北魏で六鎮の乱が起こる。
南アラビアのヒムヤル国王ズー・ヌワースがユダヤ教に改宗し、キリスト教徒を弾圧(ナジュラーンの迫害)。
524年:甲辰
東ゴート王国の執政官であったボエティウスが処刑される。この時期までに『哲学の慰め』が執筆される。
525年:乙巳
ナスカの地上絵が作成される(コロンビア大学のストロングによるC14法年代測定では誤差は±80年)。
コンスタンティノポリスで象牙製の二連板浮き彫り「大天使ミカエルの像(英語版)(大英博物館蔵)」が作成される( - 550年頃)。
この年から、キリスト紀元(西暦:ユリウス暦)を使い始める。これ以前は、「ローマ建国から何年経ったか」あるいは「誰と誰が執政官の年か」などを暦として使っていた。
526年(継体天皇二〇年):丙午
9月、磐余玉穂宮(いわれのたまほのみや、現在の奈良県桜井市池之内か)に遷す。
東ローマ帝国のアンティオキアで被害者25万人以上の大地震が発生。
東ゴート王テオドリックが死去。テオドリックの娘アマラスンタの息子アタラリックが即位。
527年(継体天皇二一年):丁未
磐井の乱起こる(『日本書紀』)。 6月3日、倭国(ヤマト政権)は近江毛野(おうみのけな)及び6万の兵に任那(朝鮮半島南部)への派遣を命じた。近江率いる政府軍は新羅から領土を奪還し任那へ併合することを企図していた。任那は、倭国に友好的な地域であるとともに、倭国にとって重要な経済的・軍事的拠点でもあったので、任那の基盤強化が求められていたからである。 この軍事計画に対して、筑紫(九州地方北部)の有力者であった磐井(日本書紀では筑紫国造磐井)は反逆を企て、それを知った新羅は磐井へ贈賄し、ヤマト政権軍の妨害を要請した。 磐井は兵を挙げ、肥前国・肥後国・豊前国・豊後国を制圧するとともに、倭国政府と半島諸国(高句麗・百済・新羅・任那)間の交通路となる海路を封鎖した。これにより近江毛野の軍は半島への渡海を阻まれた。このとき磐井は近江毛野に「お前とは同じ釜の飯を食った仲だ。お前などの指示には従わない。」と言っている。 ヤマト政権では平定軍の派遣について協議し、将軍の人選を行ったところ、衆議一致で物部麁鹿火(もののべのあらかい)が推挙された。 梁の武帝が、第1回目の捨身を行ない、捨身を行なった寺を同泰寺と命名する。
東ローマ帝国でユスティニアヌス1世が皇帝に即位(- 565年)
528年(継体天皇二二年):戊申
磐井斬殺される。(『日本書紀』) 8月1日、継体天皇は詔を発して、物部麁鹿火を将軍に任命し、反乱平定を命じた。 11月11日、筑紫三井郡(2004年9月時点での福岡県小郡市・三井郡付近)で磐井軍とヤマト政権軍が交戦し、激しい戦闘の結果、磐井軍は敗北した。日本書紀によると、このとき磐井は物部麁鹿火に斬られたとされているが、筑後国風土記逸文によれば、磐井は豊前の上膳県へ逃亡し、その山中で死んだ(ただし官軍はその跡を見失った)とされている。 12月、磐井の子、筑紫君葛子(つくしのきみくずこ)は連座から逃れるため、糟屋(2004年9月時点での福岡県糟屋郡付近)の屯倉をヤマト政権へ献上し、死罪を免ぜられた。 河陰の変で、北魏の爾朱栄が霊太后を倒し孝荘帝を擁立。
529年(継体天皇二三年):己酉 近江毛野を朝鮮半島に派遣。 新羅、伽邪諸国のひとつである金官国に攻め込む。恐れをなした金官国西隣の阿羅は、日本に救いを求め、ヤマト朝廷は阿羅に兵を派遣するが、失敗に終わる。
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磐井の乱とはどのような事件だったのか、 その歴史的な意味については諸説ある。まず、ヤマト政権が中央集権を強めるために、筑紫(九州地方北部)を軍事力で屈服させた事件であるとする説。 日本書紀の記述からは、5世紀後期-6世紀前期にかけてヤマト政権と地方首長との間に多くの紛争があったと考えられている。これをヤマト政権の支配強化の表れとする見解においては、磐井の乱もその一つととらえている。 一方、ヤマト政権による朝鮮半島進出により筑紫の人民が搾取され、それに耐えかねて人民が反乱した事件であるとする説、朝鮮半島の利権争いを背景に筑紫がヤマト政権から政治的独立を図ろうとした事件とする説もある。 僅かな史料しか残されていないことから、磐井の乱の持つ意味・性格についての定説はない。 しかし、日本書紀の記述をたどれば、この事件の後、任那における倭国の影響が急速に低下していることがうかがえる。 このことから、磐井の乱が何らかの契機となって、倭国が任那経営へ熱意を失った、若しくは任那経営に失敗してしまうこととなったと考えられている。
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東ローマ皇帝ユスティニアヌス1世がアテネのアカデメイアを閉鎖し非キリスト教の哲学者を追放する。追放された哲学者たち(ダマスキオス、シンプリキオス、プリスキアノスら)はサーサーン朝ペルシア帝国へ亡命する。
ベネディクトゥスがイタリアのモンテ・カッシーノに修道院を創設。
530年:庚戌
北魏の六鎮の乱が、爾朱栄らによって鎮圧される
ユスティニアヌス1世が古代ローマ法の集大成である『ローマ法大全』編纂を命じる(533年完成)。
531年(継体天皇二五年/安閑(あんかん)天皇元年):辛亥
3月10日継体天皇崩御。『安閑即位前紀』によれば、同年二月十日に継体天皇は安閑を即位させ、その日に亡くなったとある。 しかし『日本書紀』によれば、崩御されたのは五三一年であるが、安閑元年は五三四であるとしている。また『古事記』によれば、継体天皇の崩御は五二七年としている。 『百済本記』によれば、「継体二五年、高句麗の安蔵王が暗殺。日本においては天皇、太子、皇子が同時に死んだ」とされている。 継体天皇に譲位されて即位する。そのとき既に66歳であり、わずか4年で崩御したため主立った功績はない。 別名を、『古事記』では広国押建金日命(ひろくにおしたけかなひのみこと)と言い、『日本書紀』では広国押武金日天皇である。 継体天皇の長子である。
サーサーン朝ペルシア帝国でホスロー1世が即位(- 579年)。
サーサーン朝の最盛期を迎える。
532年(安閑天皇二年):壬子
任那の金官国が新羅の手に落ちる。ここで、ヤマト朝廷は伽邪滅亡の危機を救うべく、阿羅に任那日本府を派遣する。
1月、東ローマ帝国でニカの乱。 ユスティアヌス1世がニカの乱により退位寸前まで追いこまれるが、皇后テオドラの励ましによって武力鎮圧し、皇帝による専制支配を固める。この後コンスタンティノポリス市街の再建が進められ、巨大な地下貯水池(バシリカ・シスタン)もこの時期に造られる。
6月、東ローマ帝国とサーサーン朝ペルシアとの間に「永久平和条約」を結んで東方国境を安定させる。
ディオニュシウス・エクシグウスによって西暦が考案される(この年より以前の西暦は概念としてのみ存在)。
533年:癸丑
アド・デキムムの戦いが発生。
ヴァンダル戦争において9月13日に東ローマ帝国とヴァンダル王国との間で戦われた会戦。
トリカマルムの戦いが発生。
ヴァンダル戦争において533年の12月中頃に東ローマ帝国とヴァンダル王国との間で戦われた会戦。
東ローマ帝国、北アフリカのヴァンダル王国を征服。 ユスティニアヌス帝治世下の東ローマ帝国で、『ローマ法大全』が完成。
534年:甲寅
武蔵国で国造の地位を巡る内紛があったとされる(武蔵国造の乱)。
10月3日、アマラスンタが東ゴート王国第3代国王(女王)に即位。
10月、北魏が東魏と西魏に分裂し、東側で孝静帝が東魏を興す。
11月16日、ユスティニアヌス1世治世下の東ローマ帝国で、『ローマ法大全』の一つである「勅法彙纂」が公布・施行される。
12月、孝武帝が毒殺され、北魏が滅亡する(代わって翌年1月、文帝が西魏を興す)。
年末、東ゴート王国のアマラスンタ女王に対して、共同統治者のテオダハドがクーデターを起こし、王位を独占する。これにより、東ゴート王国女王アマラスンタが廃位される。
西魏の宇文泰が郷兵を結集し、府兵制が成立する。これに伴い十二大将軍・八柱国の軍団が整備され、武川鎮軍閥(関隴集団)が結集する。
東ローマ帝国の対ヴァンダル王国戦争の最終局面 :東ローマ帝国ベリサリウス将軍がヴァンダル王国第9代国王ゲリメルを捕縛。
ゲリメルは降伏し、ヴァンダル王国は滅亡する。
メロヴィング朝フランクの北部・中部・南部で、それぞれ、テウデベルト1世 (en)・キルデベルト1世 (en)・クロタール1世が即位。 国王ゴドマール (en) を最後に、ブルグント王国がメロヴィング朝フランクに滅ぼされる。 フランク王国(パリ・ソワソン)がブルグンド王国を征服。
535年(宣化(せんか)天皇元年):乙卯
継体天皇の第二子、安閑天皇の同母弟。先の安閑天皇が亡くなったとき、その子供が居なかったために弟の宣化天皇が即位した。 『古事記』では、建小広国押楯命(たけをひろくにおしたてのみこと)という。 『日本書紀』では、武小広国押盾天皇(たけをひろくにおしたてのすめらみこと)と言う。 都は檜隈廬入野宮(ひのくまのいおりののみや、現在の奈良県高市郡明日香村檜前)に移した。 筑紫の官家の整備を行い、大伴金村に命じて新羅に攻められている任那に援軍を送った。即位が69歳と遅く、在位が3年余りと短い為あまり主立った事績は無い。人柄は清らかで君子らしい顔立ちをしていた、と言われている。 諸国屯倉26ヶ所を設置。
北魏が東魏と西魏に分裂。
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インドネシアで、世界災害規模の災害が発生する。(隕石の衝突か、クラカタウ火山の噴火のどちらか)翌年にかけて世界的な異常気象を引き起こした。 『南史』梁本紀第七には、高祖武帝治下の中大通年間の出来事として、「西南方で雷鳴が二度、響いた。」と記録されているが、 インドネシアの年代記『古代諸王の書』では、スマトラ島とジャワ島が本来はひとつであり、この災害で2つに分かれた事が明記されている。
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この年、この災害以後、寒冷化が始まり、世界各地で破滅的な大旱魃が発生。(紀元後史上最悪の災害) 世界各地の古文書・年代記・伝承などに異常寒波・自然災害・飢饉・疫病が発生し、その結果政変や文明の崩壊がおきたことが記されている。中には「太陽が姿を隠した」という内容のものが掲載される。 世界中の民が、大移動を始め、各地で豊穣な土地を求める戦争が始まった。 ヨーロッパ・アフリカ大陸では、ペストが流行を開始。(ただし「ペスト」という判断をしたのは後世の歴史研究家たちであり、病状からして明らかにペストよりも危険な病状) 朝鮮半島で洪水が起き、年末には地震も起こったことが『三国史記』に記されている。 中国でも異常なできごとが起こっている。「黄色い塵が雪のように降ってきた」と『南史』に記されている。「黄色い塵」とは火山灰のことと考えられている。 世界が「暗黒時代」を迎える。
4月30日、東ゴート元女王アマラスンタが殺害され、東ローマ帝国が軍事介入を開始(ゴート戦争)。
536年:丙辰
『日本書紀』:日本で天然痘が流行し、多くの人口が亡くなった。
東ローマ帝国の歴史家プロコピオスの記述:昼の太陽は暗くなり、そして夜の月も暗くなった。太陽はいつもの光を失い、青っぽくなっている。われわれは、正午になっても自分の影ができないので驚愕している。太陽の熱は次第に弱まり、ふだんなら一時的な日食の時にしか起こらないような現象が、ほぼ丸一年続いてしまった。 月も同様で、たとえ満月でもいつもの輝きはない。 歴史家・教会指導者エフェソスのヨーアンネースの記述:太陽から合図があったが、あのような合図は、いままでに見たこともないし、報告されたこともない。太陽が暗くなり、その暗さが1年半も続いたのだ。 太陽は毎日4時間くらいし照らなかった。照ったといっても、実にかすかだった。人々は太陽が以前のように輝くことは2度とないのではと恐れた。 朝鮮半島では、雷が鳴り、疫病が大流行し、続いて、広範囲の干ばつが起こったことを『三国史記』は伝えている。 中国でも異変が起こり「降ってきた黄色い塵を手ですくい上げることができた」と『南史』に記されている。飛来した火山灰か。
蘇我稲目が大臣となる。
537年:丁巳
1月14日(宣化天皇2年12月18日)、第28代天皇・宣化天皇が即位。 大伴磐・大伴連狭手彦らを任那救援に派遣
ローマ皇帝ユスティニアヌス1世によりニカの乱で焼失したハギア・ソフィア大聖堂が再建される。
現存しているイスタンブルの「アヤ・ソフィア」とは再建されたこの3代目の建物を指す。
538年:戊午
仏教公伝、百済の聖王(聖明王)、仏像と経論を倭に献上(「上宮聖徳法王帝説」・「元興寺縁起」、552年との説あり) 日本に仏教伝来。百済の聖明王、仏像と経論を朝廷に送り、仏教が公伝される。(宣化天皇3年、欽明称制7年、上宮聖徳法王帝説、元興寺縁起)(日本書紀では欽明天皇13年(552年)とされる) この背景には、535年の大災害以後、翌年536年から発生した天変地異(異常気象)を回避するための方法を模索していた事が上げられる。このために日本に仏教を伝来させたとある。 同時に、アジア大陸での災害を逃れるべく、百済人の己知部を筆頭に7053戸もの秦人や漢人が日本に亡命。この流れから、本格的に仏教を取り入れる事となった。
キース・ディビッド著「535年の大噴火」によれば、先ずは試しとして、蘇我氏に仏教を生活に取り込む事を勅命として担当させたとある。(蘇我氏が百済との交易を盛んにしていたため、蘇我氏が志願したという見方もある) 大和朝廷は、これによって、神の怒りが鎮められると考えた。
この仏教伝来以後、仏教の儀式に必要な仏具や調度品などが輸入されるようになる。濃密な香りを持つ「焚香料」も渡来し、仏教儀礼の場面で使用されるようになる。
中国南部(ベトナム・ハノイ含む)では住民が各地で反乱や暴動を起こしたことが『南史』に記されている。
539年:己未
天変地位(異常気象)から、疫病などの二次災害をもたらす。
大和閣内では、神道を担う物部氏が、仏教を担う蘇我氏に対して「外津国(諸外国)から、異神をもたらし、大和国に神の祟りを起こした」という事で糾弾。
540年(欽明天皇元年):庚申
12月30日(欽明天皇元年12月5日)、第29代天皇・欽明天皇が即位。ただし、『上宮聖徳法王帝説』『元興寺縁起并流記資財帳』によれば、欽明天皇の即位は、531年にあったとしている。(つまりは、継体天皇の後の安閑・宣化天皇の御代が存在しなくなる。) 名を、『古事記』では、天国押波流岐広庭(あめくにおしはるきひろには)天皇という。 『日本書紀』では、天国排開広庭天皇(あめくにおしはらきひろにわのすめらみこと)という。
継体天皇と手白香皇后(たしらかのひめみこ)の間の息子である。
宣化天皇が、身罷った時に、安閑天皇の皇后である山田皇后を推薦したが、これは辞退されたためまだ若い欽明天皇が12月5日に即位した。宣化天皇の皇女岩姫を皇后とし敏達天皇を設けたほか、用明天皇、崇峻天皇、推古天皇の父である。 都は磯城島金刺宮(しきしまのかなさしのみや、現在の奈良県桜井市金屋・外山)。ただし古事記には、師木島大宮とある。 大伴金村と物部尾輿を大連(おおむらじ)とし、蘇我稲目宿禰を大臣(おおおみ)としたが、すぐに大伴金村は失脚する。これにより物部氏と蘇我氏の二極体制ができあがる。 渡来人(秦氏・漢氏)の戸籍を作成