西暦541年〜560年

541年(欽明天皇二年):辛酉
百済の聖明王(三国史記では聖王、中国の正史では諱を明とすると書かれている)は、任那日本府に対して、欽明天皇より出された「任那日本府とともに任那を復興せよ」という詔勅を示して、任那と百済の団結を呼び掛ける。しかし、任那日本府が新羅と百済滅亡への謀略をめぐらしていたため、戦況は百済側に不利であった。百済は使者を送りこみ、首謀者を深く罵ったとある。
ヨーロッパ/ ヨーアンネースの記録によれば、東ローマ帝国でペストが襲来。 ただし、ペストの病状と記録内の病状を見ると、おそらくは1時間たたないうちに(おそらく数分程度で)亡くなっている症状が診て取れる事から、ペストよりもさらに危険な病気であった事が判明。
東ローマ帝国で共和制ローマ以来続けられてきた執政官(コンスル)制度が廃止され、「コンスル」は称号の一つになる。
544年(欽明天皇五年):甲子
2月、百済は、任那復興会議への出席を求めるが、任那日本府はこれを三度断り続ける。
11月、任那復興会議が開かれる。新羅と阿羅(伽邪の小国のひとつ)の国境に城を築き、任那に兵を集めて新羅を駆逐するための索が錬られるが、任那日本府はこの決定を無視する。
546年:丙寅
ローマ略奪が発生。東ゴート王国の国王トーティラに率いられた東ゴートの軍勢が、およそ1年間にわたってローマ市内で破壊・略奪を行った。
548年(欽明天皇九年):戊辰
高句麗、百済を侵攻。百済は任那日本府に援軍を要請する。しかし任那日本府は、要請を無視する。この任那日本府に対して百済が調査を行ったところ、任那日本府と阿羅は結託し、高句麗に百済侵攻をそそのかしていた事が判明する。 中国・南朝梁で、侯景の乱が起こる。 サン・ヴィターレ聖堂が献堂される。
550年:庚午
百済、高句麗の奴と捕虜を倭に贈る(紀)。
北斉が東魏の皇帝から禅譲され建国。
中国北部で北斉が東魏を滅ぼす。 『大乗起信論』が真諦(チュンディ)によって漢訳される。
東ゴート王国王トティラ、シチリア島を東ローマ帝国から奪取。
インドでグプタ朝が完全に滅亡。 ネストリウス派の修道士により中央アジアから東ローマ帝国に絹の製法が伝えられる。
551年:辛未
百済・新羅・任那、高句麗と戦い、百済は旧都漢城の地など6郡を回復する(紀)。
552年(欽明天皇一三年):壬申
仏教が公伝する。百済の聖王(聖明王)、仏像と経論を日本に献上(「日本書紀」、538年との説あり)。 ただし、『上宮聖徳法王帝説』によれば、これを欽明天皇のときとしながら、五三八年(宣化天皇の代)の事としている。説としては、こちらのほうが有力である。『元興寺縁起并流記資財帳』も同様の記事がある。これによって、廃仏派の物部氏と崇仏派の蘇我氏の間で対立がおこり、物部氏は寺を焼き、仏像を投げ捨てる事までした。これにより物部氏と蘇我氏の間の確執が始まる。 「ほとけ」という言葉は、物部氏によって伝えられたもの。「ほとけ」とは、「ほとおりけ(熱病)」の略語であるとされている。 北アジアで突厥が独立し、西魏と結んで柔然を滅ぼす。 昔々、腰越のあたりに大きな湖がありそこには、五つの頭を持った暴れ者の龍が住んでいて村人を苦しめてた。 村人はこの龍を鎮めようとしたが、龍の乱暴はますますひどくなるばかり。 激しい天地振動があおこり、空には美しい天女が、海には島が現れた。 龍は天女に一目惚れし、結婚を申し込んだ。 天女はこれからは人々を助ける龍になるならば結婚を受け入れるという。 龍は改心し、二人は結ばれ、長くこの地域を守った。(江ノ島岩屋の伝承)
任那は平壌と漢城を放棄(三国史記によれば538年)する。
トティラ、東ローマ帝国の将軍ナルセスに破れる。
シチリア島、東ローマ帝国領土となる。
553年:癸酉
第2コンスタンティノポリス公会議で「三章問題」が討議されその著作が排斥される。
キリスト教、第2コンスタンティノポリス公会議(第五全地公会)で教義を確認。
554年(欽明天皇一五年):甲戌
百済の聖明王、新羅と戦い敗死する。この時、日本は佐伯連が百済救援に参加、新羅軍は任那への侵攻をさらに勢いづかせる。 推古天皇が生まれる。後の第33代天皇。 百済から易博士が来日。この時も、五行大義と干支(十干/十二支)、陰陽五行思想が日本に伝えられる。
東ローマ帝国の皇帝ユスティニアヌス1世がイタリアの東ゴート王国を征服。 東ローマ帝国が西ゴート王国領イスパニア南部を征服。 西魏が江陵を陥落させ、梁の元帝を殺害。
555年:乙亥
北斉の文宣帝が柔然を撃破。
西魏に亡命した一派も突厥により殲滅される。
日本の欽明天皇、白猪屯倉(しらいのみやけ)を設置。
557年:丁丑
中国で西魏に代わり北周が建国。
中国南部で梁から禅譲を受け陳がおこる。
558年:戊寅
南岳慧思、『立誓願文』を撰する。
サーサーン朝ペルシアのホスロー1世が突厥の室点蜜(イステミ)と同盟し、ブハラの戦いでエフタルを滅ぼす。
559年:己卯
『魏書』の成立。
560年(欽明天皇二〇年):庚辰
任那、新羅に討伐軍を送るが、敵の罠にかかってしまい退却する。
(日本書紀には新羅は白旗を立てて欺いたと書かれている。同年の三国史記の新羅本紀にも伽耶が反乱を起こしたため、軍隊を送り、白旗を立てて敵を驚かせたと言う似た記述が見られる。)同年高句麗にも軍を送っている(三国史記では554年に似た記述が存在する。)
なお、任那は一つの国ではなく十国が集まった連合であると言う記載が日本書紀にある。
西ゴート国王アタナギルドがトレドに遷都。