西暦581年〜600年

581年:辛丑
中国で楊堅(文帝)が北周を滅ぼして隋を建国。「開皇律令」が公布される。
蝦夷の首長、綾糟ら、朝廷への服属を誓う。
『歴代三宝紀』の撰者・費長房が、翻経学士となる
582年:壬寅
隋で都の大興城が整備され、仏教治国策として大興善寺が国寺として置かれる。
東ローマ帝国で、ティベリウス2世に代わりマウリキウスが皇帝に即位。
新羅、調を献ずるが、朝廷は拒否する。
霊感寺の創建
583年:癸卯
任那復興のため、火葦北国造の子、日羅を百済より召喚する。
蘇我馬子、石川の宅に仏殿を造る(元興寺縁起)。
突厥が東西に分裂する。
隋の文帝が郡を廃止し、州県制を導入。 隋で、九品官人法が廃止される スラブ人やアヴァール人に追われた避難民によりペロポネソス半島のモネンバシア市が建設される。
584年:甲辰
司馬達等が、播磨国で高麗からの渡来僧で還俗していた恵便に、娘の嶋(善信尼)とその弟子2人を出家させたという(日本最初の尼)。
崇仏派の蘇我馬子が邸宅内に仏殿を建立し、請来した弥勒仏を安置した際には、仏舎利を献上し、また法会を開催したとされる。 新羅に難波吉土木連子を遣わす。
智顗が陳の都建康に出て、光宅寺で『法華文句』を講ずる。
東ローマ皇帝マウリキオスがラヴェンナに総督府を設置。
585年(敏達天皇十四年):乙巳
蘇我馬子、塔を大野丘の北に建て、盛大な法会を行う。物部守屋、塔・仏殿を焼き、仏像を難波の堀江に捨てる。 敏達天皇は廃仏派よりであり、廃仏派の物部守屋と中臣氏が勢いづき、それに崇仏派の蘇我馬子が対立すると言う構図になっていた。以前より、崇仏派の蘇我馬子が寺を建て、仏を祭るとちょうど疫病が発生していたため、物部守屋が天皇に働きかけ、仏教禁止令を出させ、仏像と仏殿を燃やさせた。その年の8月15日病が重くなり死去。仏教を巡る争いは更に次の世代に持ち越された。 額田部皇女については、夫が没した際、殯宮に穴穂部皇子が侵入し、皇后は寵臣三輪逆に助けられたが、逆の方は殺されるはめとなった。 排仏派の物部守屋が司馬達等を面罵し、善信尼ら3人の法衣を剥奪して監禁したとされる。
後梁の後主が即位。
西ゴート王国がスエビ王国を滅ぼす。
9月14日(敏達天皇14年8月15日)、敏達天皇、死亡する。
10月3日(敏達天皇14年9月5日)、用明天皇が即位。
586年(用明天皇元年):丙午
謚号を、『古事記』では、橘豊日命(たちばなのとよひのみこと)という。 『日本書紀』では、橘豊日天皇(たちばなのとよひのすめらみこと)という。 前代の敏達天皇が亡くなると即位した。敏達天皇とは違い、用明天皇は蘇我稲目の孫と言う事もあり、崇仏派であり仏法を重んじた。 穴穂部皇子、物部守屋に三輪君逆を惨殺させる。 疫病が流行し、物部守屋が仏殿を破壊
587年(用明天皇二年):丁未
丁未の乱、物部守屋の変が起こる。 用明天皇、病のため仏教に帰依せんことを群臣にはかる。物部守屋・中臣勝海は反対する。中臣勝海は殺され、物部守屋と蘇我馬子は、互いに兵を集めて対立。 用明天皇、崩御。
4月9日(古事記では4月15日)に死去した。廃仏派の物部守屋の一味が暗殺したと言う説もある。尚、天皇は即位しておらず、死亡した敏達天皇の代理として政務を代行していただけだとする説が存在する。 この時、蘇我馬子は多くの皇子や群臣を味方につけ、仏教排斥活動に走る物部守屋討伐を図る。聖徳太子十三歳の時である。
7月、穴穂部皇子を擁立していた物部守屋、この戦により滅亡する。 ただし物部の伝承文献『先代旧事本紀』には、この事件の事は記されてはいない。むしろ、物部守屋を傍流と位置づけており、物部総本家と蘇我氏の対立はありえない。 用明天皇の病没後、敏達皇太后(もう一人の本来の妃)が詔を下して泊瀬部皇子(崇峻天皇)に即位を命じる。
9月9日(用明天皇2年8月2日)、崇峻天皇が、即位 欽明天皇の第12皇子。母は蘇我稲目の娘である小姉君で、敏達天皇、用明天皇、推古天皇の異母弟にあたる。大臣(おおおみ)の蘇我馬子によって推薦され即位した。一方大連(おおむらじ)の物部守屋は、穴穂部皇子(あなほべのみこ)を即位させようとはかるが、穴穂部皇子は蘇我馬子によって逆に殺されてしまう。その後、蘇我馬子は、物部守屋を滅ぼし、これ以降物部氏は没落してしまう。 物部氏の没落によって欽明天皇以来の崇仏廃仏論争に決着が付き、法興寺(飛鳥寺)や四天王寺などの、造寺事業を積極的に行った。しかし、即位したあとでも政治の実権は常に馬子が握っており、次第に不満を感じるようになった。
隋の晋王、大運河の一部、邗溝を開削。
588年:戊申
蘇我馬子『書紀』によれば飛鳥の邸宅を壊して、発願による日本最初の本格寺院の法興寺(飛鳥寺)の造営が始まる。百済仏舎利を献じ、僧・寺工・画工や鑪盤博士、瓦博士等が来て最初の本格的伽藍、法興寺(飛鳥寺)を着工。 蘇我馬子、善信尼らを百済に留学させる。
589年:己酉
2月2日(禎明3年/開皇9年1月12日)、隋が南朝の陳を滅ぼし、中国を統一。
西ゴート国王レカレド1世がカトリックに改宗する。
590年:庚戌
ローマ教皇にグレゴリウス1世が即位。
アイルランドの修道士コルンバヌスがリュクスイユ修道院を建てる。
591年:辛亥
東ローマ皇帝マウリキオスがカルタゴに総督府を設置。
天台智顗が、晋王に菩薩戒を授け、「智者」の号を賜る。
ウェセックス王ツェアウリンに換り、ケント王エゼルベルトがイングランドのブレトワルダ(覇王)に即位。
592年(推古天皇元年):壬子
この年、蘇我氏の専横政策に業を煮やした祟峻天皇は、蘇我氏に背き、このため、蘇我馬子に殺されたと『日本書紀』は伝える。 内容は次の通り。
10月4日に、猪を献上する者があった。天皇は笄刀を抜いてその猪の目を刺し、「いつかこの猪の首を斬るように、自分が憎いと思っている者を斬りたいものだ」と発言。そのことを聞きつけた馬子が、天皇は自分を嫌っていると警戒し、部下に暗殺するよう命令を下した。
12月12日(崇峻天皇5年11月3日)、蘇我馬子が、東国の調(ちょう)を進めると偽って天皇を儀式に臨席させ、その席で東漢直駒(やまとのあやのあたいこま)の手により祟峻天皇が暗殺された。臣下により天皇が殺されたのは、日本史ではこれが唯一の例である。また、死去したその日に葬ったことと、陵地・陵戸がないことも、他に例が無い。 このところには諸説あり、物部守屋と祟峻天皇の行動があまりにも似ている事から、両者は同一人物ではないかと言われている。 崇峻天皇が馬子の指図によって暗殺されてしまい、翌月、先々代の皇后であった額田部皇女が、馬子に請われて、豊浦宮において即位した。時に彼女は三十九歳で、史上初の女帝となった(ただし、神功皇后と飯豊皇女を歴代から除外した場合)。
額田部皇女と額田王が混同される事が多いので注意。額田王は天武天皇の后であり全くの無関係。また額田王と同様に持統天皇もまた天武天皇の后(後妻)であるため、額田王と持統天皇も同一視される傾向にある。
隋で均田法が施行される。
593年(推古天皇二年):癸丑
4月10日、甥の厩戸皇子(聖徳太子)を皇太子として万機を摂行させた。 推古天皇は頭脳明晰な人で、皇太子と大臣馬子の勢力のバランスをとり、豪族の反感を買わぬように、巧みに王権の存続を図った。在位中は蘇我氏の最盛期であるが、帝は外戚で重臣の馬子に対しても、国家の利益を損じてまで譲歩した事がなかった。 聖徳太子が推古天皇の摂政となる。 聖徳太子の発願による四天王寺の造営が始まる。
現存する世界最古の企業「金剛組」が創立。
伝承によればこの年、厳島神社が創建。
594年:甲寅
1月4日(推古天皇元年12月8日)、推古天皇即位。 法隆寺五重塔心柱のヒノキ材の伐採年代が年輪年代法によりこの年(推古2年)のものと判明している。 仏教(三宝)興隆の詔が発せられる。
天台智顗が『摩訶止観』を講じ、章安灌頂が記述する。
595年:乙卯
4月、淡路島に香木が漂着する。おそらく焚き火のために薪として拾われた香木であったが、それを焚いた島人がその芳香に驚き、朝廷に献上する。 聖徳太子がこの香木を鑑定したところ、沈香木であった事が判明。 これまでは焚香料としてしか入手手段のなかった香が、はじめて香木(原木)のかたちで日本に伝わる事となる。
596年:丙辰
教皇グレゴリウス1世により修道士アウグスティヌスがイングランド宣教に派遣される。 聖徳太子、病気療養のため道後温泉に滞在(伊予風土記)
598年:戊午
隋で科挙が行われる。高句麗遠征に失敗する。
599年:己未
突厥の啓民可汗に隋の義成公主が嫁ぐ。
5月26日(推古天皇7年4月27日)、日本で、倭(ヤマト。大和国・奈良県の前身地域)を震源域とした大地震(推古地震)が発生。cf. 白鳳地震。
600年:庚申
日本が第1回遣隋使を派遣。(『隋書』倭国伝にみえるが、『日本書紀』に書かれていない。) 隋で、三階教が邪教とされ弾圧を受ける。