西暦621年〜640年

621年:辛巳
唐で「開元通宝」の鋳造が始まる。 新羅朝貢する
622年:壬午
厩戸皇子が斑鳩(いかるが)宮で四十九歳で薨去。
橘大郎女ら天寿国繍帳を作る。
東ローマ皇帝ヘラクレイオス、サーサーン朝への反撃を開始。
7月16日、ムハンマドがメディナへ遷る(ヒジュラ(聖遷)- イスラム暦元年)。
623年:癸未
新羅が任那を討つ。
倭、軍を任那に遣わし、新羅を討つ。
アヴァールから独立した西スラブ人がサモ王国(英語版)を建てる( - 658年)。
624年(推古天皇三二年):甲申
大臣馬子が葛城県の支配権を望んだ時、女帝は、「あなたは私の叔父ではあるが、だからといって、公の土地を私人に譲ってしまっては、後世の人には私が愚かな女だといわれ、一方であなたも、不忠だと謗られよう」と言って、この要求を拒絶した。
唐で「武徳律令」が制定され、均田制や租庸調制が定められる。
唐、『芸文類聚』の成立。
バドルの戦いでムハンマドのメディナ軍が、バドルの戦いでメッカ軍クライシュ族に勝利。
ラマダーン月の始まり。
625年:乙酉
高句麗王、僧恵灌を賜う。
ウフドの戦いでメッカ軍がメディナ軍に勝利。
イングランド東部イースト・アングリアのサットン・フーの船葬墓からこの年の銘の金貨が出土している。
626年:丙戌
蘇我馬子が没する。
霖雨の時期に大飢饉がおこる。
唐で玄武門の変が起こり、勝利した李世民が第2代皇帝太宗として即位( - 649年)。(貞観の治)。
627年:丁亥
ハンダクの戦い(塹壕の戦い)でメディナ軍がメッカ軍に勝利。クライザ族虐殺事件が起こる。
628年(推古天皇三六年):戊子
4月10日 (推古天皇3月2日)、日本列島の東の太平洋上で皆既日食。『日本書紀』に書かれた初めての日食記録。
4月15日 (推古天皇3月7日)、75歳で小墾田宮において推古天皇崩御。死の直前、推古天皇は田村皇子(皇極天皇の夫)と山背大兄皇子の両名を枕元に呼ぶ。遺言して崩御。 田村皇子には、謹しんで物事を明察するように諭し、さらに聖徳太子の子山背大兄王にも、他人の意見を納れるように誡めただけで、後継者の指名は避けたようである。 後に田村皇子が舒明天皇として即位。
9月20日、喪礼が執り行われ、遺令によって女帝の亡骸は息子・竹田皇子が眠る墓に合葬された。その所在は奈良県明日香村五条野の植山古墳とされている。後年、時期は不明ながら、大阪府南河内郡太子町山田にある河内国磯長山田陵に改葬された。 遺詔をめぐって群臣の争いが発生、田村皇子擁立派の蘇我蝦夷が、山背大兄王擁立派に回った一族の蘇我境部摩理勢を殺す。
唐の僧侶玄奘(三蔵法師)がインドへ向けて出発(- 645年)。
東京都最古の寺院浅草寺が創建される。
真臘のイシャーナヴァルマン1世が扶南を滅ぼす。
フダイビーヤの和議。ハイバル征服。
サーサーン朝のホスロー2世が暗殺される。 息子カワード2世は東ローマ皇帝ヘラクレイオスと和睦、サーサーン朝の占領地は奪回される。
629年(舒明(じょめい)天皇元年):己丑
2月2日(舒明天皇元年1月4日)、第34代舒明天皇(田村皇子)が即位する。 田村皇子(たむらのみこ)。
別名は、息長足日広額天皇(おきながたらしひひろぬかのすめらみこと)。 父は敏達天皇の子・押坂彦人大兄皇子で、母は糠手姫皇女。 皇后は宝皇女(のちの皇極天皇)で、中大兄皇子(のちの天智天皇)、間人皇女、大海人皇子(のちの天武天皇)を儲けた。 蘇我馬子の娘・法提郎女との間に古人皇子を儲けた。 吉備国の蚊家采女との間に蚊屋皇子を儲けた。 先代 推古天皇は、在位36年(628年)3月7日に死去した時、継嗣を定めていなかった。 蘇我蝦夷は群臣にはかってその意見が田村皇子と山背大兄皇子に分かれていることを知り、田村皇子を立てて天皇にした。これが舒明天皇である。
舒明天皇の時代、政治の実権は蘇我蝦夷にあった。 最初の遣唐使を送り、唐からの高表仁の返訪を受けた。唐には使者の他にも学問僧や学生が渡り、隋の頃に渡った者も含め、僧霊雲、僧旻、僧清安、高向玄理が帰国した。百済と新羅からの使節も訪れた。
玄奘の天竺(現在のインド)旅行(-645年、「大唐西域記」)
『梁書』の成立
630年(舒明天皇二年):庚寅
1月12日、宝皇女を皇后に立てる。
3月、高句麗の使い宴子抜、百済の使い素子ら来る。
8月5日、最初の遣唐使(犬上御田鍬ら)を送り、唐からの高表仁の返訪を受けた。
10月12日、岡本宮に遷る
唐軍により頡利可汗が捕えられ東突厥が滅亡。
唐の太宗は西域諸国から「天可汗」に推戴される。(東突厥は682年に再興する)
第1回遣唐使として犬上御田鍬が派遣される。
ムハンマドがメッカを征服。周辺各国にイスラム教への入信を呼びかける(遣使の年)。
東ローマ皇帝ヘラクレイオスがエルサレムに入城。
サーサーン朝から返還された「真の十字架」を奉献する聖墳墓教会を再建。
631年(舒明天皇三年):辛卯
3月1日、百済より、扶余豊璋(ふよほうしょう)王子が人質として来日。現時点で言われている説は、この百済の皇子が、後の中臣鎌足ではないかとしている。さらに聖徳太子が記したとされている『未然記』『未来紀』をある法則で解読した場合、この豊璋王子とは聖徳太子の養子とされている山背皇子ではないかという説もある。
百済の王子豊璋、日本の人質となるという。
632年(舒明天皇四年):壬辰
8月、唐の高表仁が遣唐使を送り使者として来る。
10月、犬上御田鍬ら唐の使い高表仁らとともに帰国する。学問僧霊雲・僧旻らもが帰国する。
11月26日、高表仁が唐へ戻る。 高表仁は、天皇と礼を争ったとある。
ムハンマドが没し、イスラム教団でカリフ制度がはじまる。
アブー・バクルが後継のイスラム指導者である初代カリフに選ばれる。
リッダ(背教)の戦いが起こる( - 633年)。
633年(舒明天皇五年):癸巳
中大兄皇子は、高句麗侵攻による百済救援のために兵を送る。

一説によると、中大兄皇子は蘇我入鹿と元来は仲が良かったが、恋敵から不仲になったという説がある。
1月、唐の使い高表仁ら、帰国する。
634(年舒明天皇六年):甲午
役小角、大和国葛木上郡茅原(現在の奈良県御所市茅原)に生まれる。
現在、生誕の地とされる所には、吉祥草寺が建立されている。
吐蕃は唐に対し公主(皇女)を迎えたいと申し出る。
アブー・バクル死去により第2代カリフにウマルが選ばれる。
チャールキヤ朝のプラシーケン2世がナルマダー川の戦いでハルシャ・ヴァルダナの軍を破り南インドの独立を維持する。
635年:乙未
百済から使いが来る。
635年以前、クブラト・ハンにより黒海北岸のタマン半島のファナゴリアを中心とする大ブルガリアが成立する。
638年(舒明天皇八年):丙申
6月10日、岡本宮が火災に遭う。田村宮に遷る。
『北斉書』の成立 『周書』の成立
吐蕃の唐公主の婚姻が、吐谷渾(前涼と東晋の間にあった国)の妨害により、実現しなかった。
シリア地方のヤルムーク河畔の戦いで、皇帝ヘラクレイオス率いる東ローマ帝国軍がイスラム帝国軍に惨敗。
サーサーン朝から奪回した領土を再び失う。
637(年舒明天皇九年):丁酉
蝦夷背いて入朝せず。蝦夷が反乱したため、上毛野形名を将軍として討たせる。
「貞観律令」が施行される。
カディシーヤの戦いで、サーサーン朝がイスラム軍に敗れ、都のクテシフォンを占領される。
638年:丁酉:戊戌
この年、百済・新羅・任那、朝貢する。
吐蕃の王ソンツェン・ガンポが、吐谷渾へ兵を送って攻撃し、その上で降嫁を迫った。
これにより唐が妥協。
東ローマ皇帝ヘラクレイオスが「エクテシス」を発布。
639年(舒明天皇十一年):己亥
7月、舒明天皇の命で百済大寺(吉備池廃寺)が建立される(天皇の命による日本初の官寺)。
学問僧恵隠・恵雲、新羅の送使に従い唐から帰国する。
640年(舒明天皇十二年): 庚子
遣隋使の南淵請安と高向玄理が帰国。
百済使・新羅使ともに来朝する。
10月、天皇、厩坂宮から百済宮に遷る。
唐が麴氏高昌国を滅ぼし、最初の都護府である西州都護府(後の安西都護府)を設置。
孔穎達が「五経正義」を著す。
イスラム帝国のシリア地方征服が完了。 中部ジャワにシャイレーンドラ朝が成立