西暦641年〜650年

641年(舒明天皇十三年):辛丑
10月9日、舒明天皇死去。
役小角、元興寺で学ぶ。このとき、孔雀明王の呪法を学んだと言われる。その後、葛城山(金剛山)で山岳修行を行い、熊野や大峰の山々で修行を重ね、金峯山(吉野)で金剛蔵王大権現を受け取り、修験道の基礎を築いた。
吐蕃(チベット)のソンツェン・ガンポ王が唐の文成公主を妃として迎える。
アレクサンドリア包囲戦でイスラム軍が勝利。
東ローマ帝国はエジプトを喪失。 東ローマ皇帝ヘラクレイオス1世死去、後継の皇帝ヘラクロナスとその母マルティナが追放され、コンスタンス2世が即位。
玄奘がハルシャ・ヴァルダナ王臨席のもとカナウジ城での論戦に勝利し、プラヤーガナの「無遮大会」に参加する。
アラブ軍がエジプトを征服
642年(皇極(こうぎょく)天皇元年):壬寅
第35代皇極天皇即位。 宝皇女(たからのみこ)。天豊財重日足姫天皇(あめとよたからいかしひたらしひめのすめらみこと)。 敏達天皇の子・押坂彦人大兄皇子の子・茅渟王(ちぬのおおきみ)の長女。 母は吉備姫王(きびひめのおおきみ)という。 はじめ高向王と結婚して、漢皇子を産んだ。 後に舒明天皇の皇后として、中大兄皇子(のちの天智天皇)、間人皇女、大海人皇子(のちの天武天皇)を産んだ。 舒明天皇の後、継嗣となる皇子が定まらなかったので、皇極天皇として即位した。在位中は、蘇我蝦夷が大臣として重んじられる。 蘇我入鹿、自ら国政を執る。 対外的には、朝鮮半島の諸国と使者を交換し、唐にも使者を遣わした。蝦夷に対し、三度にわたって阿倍比羅夫を海路の遠征に送った。
1月15日、即位。
1月29日、阿曇比羅夫が百済の弔使を伴って帰国した。
4月8日、追放された百済の王族、翹岐が従者を伴い来日した。
7月25日、蘇我蝦夷が雨乞いのため大乗経典を転読させたが、微雨のみで効果がなかったため、29日にやめた。
8月1日、天皇が天に祈ると、雷が鳴って大雨が降った。雨は五日間続いた。
9月3日、百済大寺の建立と、船舶の建造を命じた。
9月19日、飛鳥板蓋宮の造営のために百姓を徴発する。
2月21日、小墾田宮に遷った。
ニハーヴァンドの戦いでサーサーン朝がイスラム帝国に大敗する。
高句麗の淵蓋蘇文が栄留王を弑害し、宝蔵王を擁立。
643年(皇極天皇二年):癸卯
4月、飛鳥板葺宮に移る。
10月、蘇我蝦夷、紫冠を独断で子・入鹿に授ける。
11月1日、蘇我入鹿が斑鳩宮を襲撃(山背大兄王襲撃事件)。山背大兄皇子を筆頭とする上宮王家を包囲する。山背大兄王は自殺したとある。
ランゴバルド王国国王ロターリ(英語版)が「ロターリ王の告示(ロターリ法典(英語版))」を編纂。
644年(皇極天皇三年):甲辰
中臣鎌子(中臣鎌足)、神祗伯(神道を司る神祗官の長官)に任命される。ただし、中臣鎌子は再三にわたって拒み続ける。 役小角、藤原鎌足の病気を治癒したという伝説があり。呪術に優れ、神仏調和を唱えた。
7月、東国で常世神への信仰流行する。秦河勝、これを鎮める。
11月、蘇我蝦夷・入鹿、甘樫丘に邸宅を並べて築き、戦備をととのえる。 善光寺が創建されたとされる。
ウマルが暗殺され、第3代カリフにウスマーンが選ばれる。
645年(皇極天皇四年/大化元年):乙巳
乙巳の変が起こる。
6月12日、中大兄皇子、中臣鎌足と共に、皇極天皇の目前にて蘇我入鹿を暗殺する。諸説では、蘇我入鹿は無実の罪で暗殺されたともあるが、実際は不明である。この蘇我入鹿の計画を企てた6月8日からの内容を「乙巳の変」という。 乙巳の変以降、中大兄皇子の周辺で不審火が絶えないという事が起こる。(『日本書紀』『多武峰縁起絵巻』記)
高句麗や百済の新羅侵略に対して、唐は高句麗征討に乗り出す。この戦いは六四八年に唐の皇帝・太宗が亡くなるまで続く。
6月13日、蘇我蝦夷が自殺し、蘇我氏滅亡。
6月14日、皇極天皇が軽皇子に譲位した。新しい天皇により、皇祖母尊の称号を奉られた。 軽皇子(かるのみこ)、孝徳天皇として即位する。 豊日天皇(あめよろずとよひのすめらみこと)という。敏達天皇の子・押坂彦人大兄皇子の子・茅渟王(ちぬのおおきみ)の長男。 母は吉備姫王(きびひめのおおきみ)という。 皇極天皇(斉明天皇)の同母弟で、天智天皇(中大兄皇子)の叔父にあたる。皇極天皇の娘の間人皇女を皇后にした。阿倍倉梯麻呂の娘の小足媛(おたらしひめ)を妃として、有間皇子を儲けた。 蘇我石川麻呂の娘の乳娘(ちのいらつめ)を妃とした。 『日本書紀』の評によれば、天皇は仏法を尊び、神道を軽んじた。柔仁で儒者を好み、貴賎を問わずしきりに恩勅を下した。
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皇極天皇4年(645年)6月に乙巳の変が起きると、14日に皇極天皇は中大兄皇子に位を譲ろうとした。中大兄は辞退して軽皇子を推薦した。軽皇子は三度辞退して、古人大兄皇子を推薦したが、古人大兄は辞退して出家した。 14日のうちに、軽皇子は壇に登って即位した。 皇極天皇に皇祖母尊(すめみおやのみこと)という称号を与え、中大兄を皇太子とした。阿倍内麻呂(阿倍倉梯麻呂)を左大臣に、蘇我石川麻呂を右大臣にした。中臣鎌子(藤原鎌足)を内臣とした。僧旻と高向玄理を国博士とした。 初めて元号を立てて、大化元年(645年)とし、650年には白雉に改元した。 『日本書紀』が伝えるところによれば、大化元年から翌年にかけて、孝徳天皇は各分野で制度改革を行なった。 この改革を、後世の学者は大化の改新と呼ぶ。この改革につき書紀が引用する改新之詔など一連の詔は、後代の官制を下敷きにして改変されたものであることがわかっている。このことから、書紀が述べるような大改革はこのとき存在しなかったのではないかという説が唱えられ、大化改新論争という日本史学上の一大争点になっている。 孝徳天皇の在位中には、高句麗、百済、新羅からしばしば使者が訪れた。従来の百済のほかに、朝鮮半島で守勢にたった新羅も人質を送ってきた。日本(当時は倭)は、形骸のみとなっていた任那の調を廃止した。多数の随員を伴う遣唐使を唐 に派遣した。北の蝦夷に対しては、渟足柵、磐舟柵を越国に築き、柵戸を置いて備えた。史料に見える城柵と柵戸の初めである。
6月19日、元号を「大化」とする。(元号を初めて発布する。)
7月2日、皇后と2人の妃を立てた。
7月10日、高句麗、百済、新羅の使者が朝貢した。任那の調を代行した百済の使者に対し、調の不足を叱責した。
7月14日、尾張国と美濃国に神に供える幣を課した。
8月5日、東国等の国司を任命し、戸籍の作成と田畑の検校などを命じた。鐘匱の制・男女良賤の法を制定 朝廷に鐘を備え、訴訟の遅滞に抗議する者が撞くようにした。 良民と奴婢の子の別を定めた。
8月8日、仏教の援助を約し、僧旻ら10人の僧を選び十師とした。
9月1日、使者を遣わして諸国の武器を治めさせた。
9月3日、古人皇子が謀反を企んだ。
9月12日、中大兄皇子が古人大兄皇子を討った(11月30日、11月とも)。人口調査を実施。
9月19日、土地の貸借を禁止した。
12月9日、孝徳天皇、都を難波(なにわ)へ遷都する。(難波長柄豊碕宮)
玄奘三蔵、西域より、唐の都長安に帰朝する 唐の道宣、『続高僧伝』を撰述。
646年(大化二年): 丙午
「改新之詔」が発布される。
1月、子代離宮に行った。諸国に兵庫を修営らせた。
2月15日、民の投書を受けるための櫃を設けた。
2月22日、子代離宮から帰った。高句麗、百済、任那、新羅の使が調賦を貢いだ。
3月2日、東国の国司に訓戒する詔を発した。
3月19日、東国の朝集使に対し、国司の失政を咎め、訓戒する詔を発した。
3月20日、中大兄皇子が自らの入部と屯倉を天皇に献じた。
3月22日、王臣と庶民の墓制を定め、殉死を禁止した(薄葬令)。祓にまつわる諸々の愚俗を禁じた。上京の途上での馬の飼育請負を登録させ、不正を禁じた。市司と要路の渡守に田地を与え、渡し賃の徴収をやめさせた。
8月14日、品部を廃止し、旧職を廃して百官を設け、官位を叙する方針を詔した。
9月、高向玄理を新羅に遣わし、任那の調をやめさせた。蝦蟇行宮に行った。 逢坂関が山城国と近江国の国境に置かれる。 僧道登が宇治橋を架けたと記す日本最古の石碑が建てられる(宇治橋断碑)。
唐の玄奘三蔵、旅行記『大唐西域記』を撰述
647年(大化三年):丁未
1月26日、高句麗と新羅の使が調賦を貢いだ。
4月26日、皇子、群臣、百姓に対して庸調を与えるむねを詔した。この時、小郡を壊して宮を造った。有位の人の出仕の礼法を定めた。荒田井比羅夫が誤って溝を掘って難波に引き、工事がやり直しになったことを諌める者があったので、即日に中止した。
10月11日、有馬温湯に行った。
12月30日、武庫行宮に行った。 この年、七色十三階の冠を制定した。 朝廷によって越国北部(現:新潟県新潟市付近)に渟足柵(ぬたりのき)が築かれた。
唐が鬱督軍山に安北都護府を設置。
新羅が金春秋(後の武烈王)を遣わして高向玄理らを送った。金春秋は人質としてとどまった。
ハルシャ・ヴァルダナ王の死によりヴァルダナ朝の支配が崩壊し、北インドは混乱状態になる。 この期に乗じて、ティーラブクティ出自ハルシャ王の臣下であったアラナシュが王位を簒奪。 その直後に2度目の天竺行に赴いていた王玄策と蒋師仁の一向が、天竺(ヴァルダナ朝)で捕縛される。 しかし、王玄策と蒋師仁は脱獄に成功し婆羅か(ネパール)と吐蕃(チベット)に檄文を発した。吐蕃と泥婆羅から合わせて8千人余りの兵を得た王玄策/蒋師仁らの率いる2ヶ国の軍勢は、天竺軍を破り、アラナシュとその妻子を捕らえた。
648年(大化四年): 戊申
王玄策と蒋師仁らが唐へ帰朝。アラナシュらの身柄を太宗に引き渡し、朝散大夫に任じられた。またこの時、那羅邇娑婆寐という自称200歳の方士を伴っていた。 那羅邇娑婆寐は、自ら長生の術を得ていると吹聴したとある。かつて太宗皇帝はこれを信じ、深く礼敬を加えて長生薬を調合させた。そして四方へ使者を発して奇薬異石を求め、バラモン(ヒンドゥー教司祭院)へ使者を出して諸国へ薬を取りに行かせたと言われている。
尚、この時において、王玄策がガンダーラにて仏足石を転写したものを唐へ持ち帰ったとされており、これが後(753年)に日本の薬師寺にも伝わる。
2月1日、三韓に学問僧を遣わした。
4月1日、古い冠を廃した。左右大臣はなお古い冠をかぶった。 磐舟柵を治めて蝦夷に備え、越と信濃の民を選んで初めて柵戸を置いた。
新羅が使を遣わして調を貢じた。
唐が、高句麗を攻め(第3次)たが、攻略に失敗した。
『晋書』の成立
東ローマ皇帝コンスタンス2世が「テュポス」を発布。
649年(大化五年):己酉
2月、冠十九階を制定した。 高向玄理と釈僧旻に命じて、八省百官を置いた。
3月17日、阿倍倉梯麻呂が死に、天皇は朱雀門に出て哀哭し、嘆いた。
3月24日、蘇我日向が皇太子に蘇我石川麻呂を讒言した。天皇が軍兵を起こしたため、石川麻呂は逃げた。 孝徳天皇の側近である蘇我倉山田石川麿呂、中大兄皇子に殺される(首は塩漬けにされた)。 尚、蘇我倉山田石川麿呂の死については、諸説あり、最も有力なものは、蘇我倉山田石川麿呂が自殺し、3月26日に追討した軍が蘇我石川麻呂の首を斬った。という説がある。 同じく左大臣阿部内麿呂が亡くなる。
4月20日、巨勢徳陀古を左大臣に、大伴長徳を右大臣にした。
5月1日、三輪色夫と掃部角麻呂を新羅に遣わした。 磐舟柵(現在の新潟県村上市)を築く 巨勢徳陀は左大臣となる
新羅が金多遂を遣わして人質にした。
倭国に対する朝鮮三国時代における外交工作が活発化。
650年(大化六年/白雉(はくち)元年):庚戌
1月1日、味経宮に行って賀正礼を行い、その日のうちに帰った。
2月9日、長門国/穴戸国司の草壁醜経が白い雉を献じた。
2月15日、白雉を観る儀式を行い、大赦し、白雉と改元し、穴戸国に鷹を放つことを禁じ、同国の調を3年間免除した。
4月、新羅が使を遣わして調を貢いた。
10月、宮地にするために墓を壊されたり家を遷されたりした人に物を与え、荒田井比羅夫に宮の堺の標を建てさせた。 山口大口が詔を受けて千仏の像を刻んだ。 安芸国に百済舶2隻を造らせた。
スマトラ島にシュリービジャヤ王国が成立。