西暦651年〜660年

651年(白雉二年):辛亥
3月15日、十師たちを呼んで設斎した。 左大臣巨勢徳陀子が、倭国の実力者になっていた中大兄皇子(後の天智天皇)に新羅征討を進言したが、採用されなかった。
6月、百済と新羅が使を遣わして調を貢ぎ物を献じた。
12月30日、大郡から新しい宮に遷り、そこを難波長柄豊碕宮と名づけた(大化元年12月9日に同趣旨の記事あり)。
新羅の貢調使の知万が唐国の服を着て筑紫に着いたので、その変更をとがめて追い返した。
サーサーン朝ペルシアが滅亡。
652年(白雉三年):壬子
1月1日、元日礼を終えてから、大郡宮に行った。
2月、班田を完了した。 3月、難波宮に帰った。
4月、戸籍を造った。最初の班田収授を実施。
4月15日、僧恵隠を内裏に呼び、無量寿経を講じさせ、沙門恵資を論議者とし、沙門1000人を作聴衆にした。
4月20日、講じ終えた。
4月20日、日本国内にて大水害発生。死者多数、田畑の被害甚大。 百済と新羅が使を遣わして調を貢ぎ物を献じた。
9月、宮が完成した。
12月30日、天下の僧尼を内裏に呼び、設斎、大捨、燃明した。
653年(白雉四年):癸丑
5月12日、遣唐使を送った。一船の大使は吉士長丹、副使は吉士駒であった。別の一船の大使は高田根麻呂、副使は掃守小麻呂であった。(朝鮮半島における唐の侵略に関する情勢に対応するのも目的の一つと考えられている)。
5月、病中の旻法師の部屋に見舞いに行き、直接やさしい言葉をかけた(白雉5年7月とも)。
6月、百済と新羅が使を遣わして調を貢ぎ物を献じた。 旻法師の死を知り、使を遣わして弔問し、贈り物をした。また、法師のために多くの仏像、菩薩像を造らせ、山田寺に安置した。
7月、難破した遣唐使船(高田根麻呂)の生存者5人のうち、筏を作って助けを求めた門部金を褒め、その位を進め禄を授けた。 孝徳天皇と中大兄皇子とが不和になり。中大兄皇子以下は飛鳥に還る。 この年、中大兄皇子とともに、孝徳天皇を捨てて倭飛鳥河辺行宮に移った。中大兄皇子は天皇に倭京に遷ることを求めたが、天皇がこれを退ける。中大兄皇子は皇祖母尊と皇后、皇弟を連れて倭に赴いた。 臣下の大半が中大兄皇子に随って去った。 天皇は気を落とし、病を患う。
654年(白稚五年):甲寅
1月5日、中臣鎌足に紫冠を授け、封を増した。
2月、遣唐使を送った。押使は高向玄理、大使に河辺麻呂、副使に薬師恵日(5月とも)。(朝鮮半島における唐の侵略に関する情勢に対応するのも目的の一つと考えられている。)
7月24日、西海使の吉士長丹らが、百済と新羅の送使とともに筑紫に着いた。
10月1日、中大兄皇子とともに、病に罹った孝徳天皇を見舞うべく難波長柄豊碕宮に赴いたが、
10月10日に孝徳天皇が死去した。
孝徳天皇が崩御後は、とくに元号が定められなかった他、記録にも元号は記載されていなかった。このため後世では、便宜上不明のままで定義されている。
655年(斉明天皇元年):乙卯
皇極天皇、飛鳥板蓋宮で斉明天皇として、再び即位。 政治の実権は皇太子の中大兄皇子が執った。 『日本書紀』によれば、しばしば工事を起こすことを好んだため、労役の重さを見た人々が批判した。有馬皇子の変に際して、蘇我赤兄は天皇の3つの失政を挙げた。 大いに倉を建てて民の財を積み集めたのが一、長く溝を掘って公糧を損費したのが二、船に石を載せて運び積んで丘にしたのが三である。
5月、「空中(おおぞらのなか)にして竜(たつ)に乗れる者有り。貌(かたち)、唐人(もろこしびと)に似たり。青き油(あぶらぎぬ)の笠を着て、葛城領(かつらぎのたけ)より馳せて胆駒山(いこまのやま)に隠れぬ。午の時に及至りて、住吉の松嶺(まつのみね)の上より、西に向ひて馳せ去ぬ。時の人云ふ、蘇我豊浦大臣の霊なり。」  内容は、竜に乗り青い笠をかぶった者が、葛城山から生駒山に飛び、さらに住吉から西の彼方に飛んで行った、というもの。「蘇我豊浦大臣」とは曽我入鹿の事。したがって、これは曽我入鹿の怨霊とされている。(『日本書紀』記)
7月11日、斉明天皇、北の蝦夷99人、東の蝦夷95人、百済の調使150人に饗応した。難波宮で歓待。
8月1日、河辺麻呂が大唐から帰った。
10月13日、小墾田に宮を造ろうとしたが、中止した。 冬、飛鳥板蓋宮が火災にあったため、飛鳥川原宮に遷った。 高句麗、百済、新羅が使を遣わして調を進めた。百済の大使は余宜受、副使は調信仁で、総員は100余人であった。 蝦夷と隼人が衆を率いて内属し、朝献した。 新羅は弥武を人質にし、別に12人を才伎人にしたが、弥武は病死した。
656年(斉明天皇二年):丙辰
斉明天皇は、飛鳥の天香具山から石上山にいたる長大な溝を掘り、舟二百艘をもって石上山の石を積み、飛鳥の東側に高台を築く。民衆はこれを「狂心(たぶれごころ)の渠(みぞ)」として罵り、「造ったそばから壊れるだろう」とあざ笑ったとある。この「狂心の渠」を造った理由としては、中大兄皇子が岡宮(奈良県飛鳥岡本)に私邸を築き、外界からの不法者の侵入を防ぐためとのものが有力であるが、詳細は不明である。 8月8日、高句麗が大使に達沙、副使に伊利之、総計81人を遣わし、調を進めた。
9月、高句麗に、大使に膳葉積、副使に坂合部磐鍬以下の使を遣わした。 飛鳥の岡本に宮を造り始めた。途中、高句麗、百済、新羅が使を遣わして調を進めたため、紺の幕を張って饗応した。やがて宮室が建ったので、そこに遷って後飛鳥岡本宮と名付けた。 岡本宮が火災に遭った。 香山の西から石上山まで溝を掘り、舟で石を運んで垣を造った。 吉野宮を作った。 西海使の佐伯栲縄と吉士国勝らが百済より還って、鸚鵡を献上した。 『隋書』の成立 西明寺の創建
657年(斉明天皇三年):丁巳
王玄策、和糴副使左監門長史という官職や李元慶の友(陪臣)などを務め、右驍衛率府長史となり、3回目の天竺行に赴く。ブリジ(婆栗闍)国などを歴訪する。
7月3日、覩貨邏国(とからのくに)の男2人、女4人が筑紫に漂着したので、召した。
7月15日、須弥山の像を飛鳥寺の西に造り、盂蘭盆会を行った。暮に覩貨邏人を饗応した。
9月、有馬皇子が狂を装い、牟婁温湯に行き、帰って景勝を賞賛した。天皇はこれを聞いて悦び、行って観たいと思った。 この年、使を新羅に遣って、僧の智達、間人御厩、依網稚子らを新羅の使に付けて大唐に送ってほしいと告げた。新羅が受け入れなかったので、智達らは帰った。
第4代正統カリフのアリーがクーファに拠点を移す。 スィッフィーンの戦いが起こる。ユーフラテス川上流域(シリア北部)のスィッフィーンで行なわれた第4代正統カリフ、アリー・イブン・アビー=ターリブとシリア総督ムアーウィヤの戦い。
658年(斉明天皇四年):戊午
1月13日、左大臣巨勢徳太が死去した。
4月、阿倍比羅夫が蝦夷に遠征した。降伏した蝦夷の恩荷を渟代、津軽二郡の郡領に定め、有馬浜で渡島の蝦夷を饗応した。
5月、皇孫の建王が8歳で亡くなった。天皇は甚だ哀しんだ。
7月4日、蝦夷二百余が朝献した。常よりも厚く饗応し、位階を授け、物を与えた。
7月、僧の智通と智達が勅をうけて新羅の船に乗って大唐国に行き、玄奘法師から無性衆生義(法相宗)を受けた。
10月15日、紀温湯に行った。
11月5日、蘇我赤兄が有馬皇子の謀反を通報した。
11月11日、有馬皇子を絞刑にした。塩屋・魚と新田部米麻呂を斬刑にした。
沙門の智喩が指南車を作った。
唐が安西都護府を高昌から亀茲に移転。
659年(斉明天皇五年):己未
百済、唐と新羅によって滅ぼされた。その後、王宮復興の気運が高まり、百済の将軍鬼室福信(きしつふくしん)が、日本にいる豊璋王子を呼び戻し擁立する。しかし、豊璋王はこの後、鬼室福信の手腕と名声をねたんでか、鬼室福信を殺害し、その首を塩漬けにして、結果として自らの王朝の衰弱を招いてしまう。 『北史』・『南史』の成立。
1月3日、斉明天皇、紀温湯から帰った。
3月1日、斉明天皇、吉野に行った。
3月3日、斉明天皇、近江の平浦に行った。
3月10日、吐火羅人が妻の舎衛婦人とともに来た。
3月17日、甘檮丘の東の川辺に須弥山を造って陸奥と越の蝦夷に饗応した。
3月、阿倍比羅夫に蝦夷国を討たせた。阿倍は一つの場所に飽田・渟代二郡の蝦夷241人とその虜31人、津軽郡の蝦夷112人とその虜4人、胆振[金且]の蝦夷20人を集めて饗応し禄を与えた。後方羊蹄に郡領を置いた。粛慎と戦って帰り、虜49人を献じた。
7月3日、坂合部石布と津守吉祥を唐国に遣わした。坂合部石布は遭難・漂着し、原住民に襲撃され死亡。津守連吉祥らは唐に到着。
7月15日、群臣に詔して、京の内の寺に盂蘭盆経を説かせ、七世の父母に報いさせた。
9月30日、遣唐使が唐の皇帝に謁見。
11月1日、唐での冬至の儀式にて、日本からの遣唐使の風采挙措が最も優れていたとの評価を受ける。
660年(斉明天皇六年):庚申
新羅と唐の連合軍が百済を滅ぼす。
1月1日、高句麗の使者、賀取文ら百人余が筑紫に着いた。
3月、阿倍比羅夫に粛慎を討たせた。比羅夫は、大河のほとりで粛慎に攻められた渡島の蝦夷に助けを求められた。比羅夫は粛慎を幣賄弁島まで追って彼らと戦い、破った。
5月8日、賀取文らが難波館に到着した。
5月、勅して百の高座と百の納袈裟を作り、仁王般若会を行った。 皇太子(中大兄皇子)がはじめて漏刻を作った。 阿倍比羅夫が夷50人余りを献じた。石上池のほとりに須弥山を作り、粛慎47人を饗応した。国中の百姓が、訳もなく武器を持って道を往来した。
7月16日、賀取文らが帰った。覩貨邏人の乾豆波斯達阿が帰国のための送使を求め、妻を留めて数十人と西海の路に入った。
7月、新羅からの救援要請を受けて唐が軍を起こし百済が唐・新羅連合軍に滅ぼされる。唐は百済の旧領を郡県支配の下に置いたが、すぐに百済遺民による反抗運動が起きた。
9月5日、百済の建率の某と沙弥の覚従らが来て、鬼室福信が百済復興のために戦っていることを伝えた。
10月、鬼室福信が貴智らを遣わして唐の俘百余人を献上し、援兵を求め、皇子の余豊章の帰国を願った。天皇は百済を助けるための出兵を命じ、また、礼を尽くして豊章を帰国させるよう命じた。
12月24日、軍器の準備のため、難波宮に行った。 唐で高宗に代わり則天武后が権力を握り始める。