西暦661年〜670年

661年(斉明天皇七年):辛酉
王玄策、3回目の天竺行からの帰国、後に左驍衛長史となった。4回目の天竺行をしたという説もあるが定かではない。 百済救援に向かうため海路についた斉明天皇一行は、途中、九州北部の朝倉宮(福岡県朝倉郡朝倉町山田)に逗留する。ここで朝倉社(麻低良布(めてらめ)神社とされている)の木を切って宮を建てたために、神が怒り、雷を落として宮を崩したとされている。 「亦、宮の中に鬼火見れぬ。是に由りて、大舎人(とねり)及び諸の近侍(もろもろのちかくにはべるひと)、病みて死れる者衆(おお)し。」 鬼火が現れ、これによって近侍する役人が、次々に亡くなった。(『日本書紀』記) これにつき、斉明天皇恐れをなした。
1月6日、斉明天皇、百済救済のため自ら船団に乗り筑紫へ出港。
1月8日、船団が備前の大伯海に至った。大田皇女が女を産み、大伯皇女と名づけた。
1月14日、船団が伊予の熟田津の石湯行宮に泊まった。額田王が歌を詠む。
3月25日、船団が娜大津に付き、磐瀬行宮に居した。
4月、百済の福信が、使を遣わして王子の糺解の帰国を求めた。
5月、白村江の戦い第一派出発:1万余人。船舶170余隻。指揮官は安曇比羅夫、狭井檳榔、朴市秦造田来津。豊璋王を護送する先遣隊。
5月9日、斉明天皇、朝倉橘広庭宮に遷った。周辺の神社を壊してその材木で宮殿を建てる。
5月23日、耽羅がはじめて王子の阿波伎らを遣わして貢献した。
6月、(新羅国武烈王7年) - 武烈王(金春秋)が高句麗への遠征の途中で陣中にて死去。
7月24日、朝倉宮で斉明天皇が死去した。中大兄皇子は皇太子のまま称制を継続。
8月1日、皇太子が天皇の喪に付き添い、磐瀬宮に着いた。
10月7日、天皇の喪が帰りの海路に出航した。
10月23日、天皇の喪が難波津に着いた。
11月7日、飛鳥の川原で殯した。9日まで発哀した。
カリフのアリーがハワーリジュ派に暗殺される。シリア総督のムアーウィヤがカリフとなり、ダマスクスを都とするウマイヤ朝が成立。

後に、9世紀〜13世紀にかけてグリーンランド/アイスランドからイギリス、デンマークをから北部の北欧地域全般において、出現する事となったヴァイキングの文化中で、4代カリフ=アリーを示唆する遺物が発見される。それによれば、アリーはヴァイッキングの神として崇敬を受けていた可能性があるとの事。
百済の遺臣は鬼室福信・黒歯常之らを中心として百済復興の兵をあげ、倭国に滞在していた百済王の太子豊璋王を擁立しようと、倭国に救援を要請した。これは倭国が百済への影響力を増大させることを意味していたが、百済再興の為には古くからの同盟国である倭国の助けが不可欠だった。中大兄皇子はこれを承諾した。
662年(天智天皇元年):壬戌
唐・新羅連合軍が百済を侵攻。これにより白村江の戦いへ。中大兄皇子自ら軍を率いての遠征であったが、これは民衆の反発を受けながらの遠征であったとされる。 斉明天皇、百済を援けるため、難波に遷って武器と船舶を作らせ、さらに瀬戸内海を西に渡り、筑紫の朝倉宮に居て戦争に備えた。遠征の軍が発する前に亡くなった。
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中大兄皇子、幼名を葛城皇子という。諡号は天命開別尊(あめみことひらかすわけのみこと)。 舒明天皇の皇子で、母は皇極天皇。正妻は異母兄弟の古人大兄皇子の娘・倭姫王。中臣鎌足らと謀って蘇我入鹿など蘇我氏を滅ぼしたあと、叔父の孝徳天皇を立てて自らは皇太子となる。そして大化という元号を制定し、さまざまな改革を行った(大化の改新)。友好国の百済が660年に唐・新羅に滅ぼされたため、朝廷に滞在していた百済王子・扶余豊璋(ふよほうしょう:豊璋王の事)を送り返し、百済復興を図った。 百済救援を指揮するために都を筑紫に移したが、そこで斉明天皇が崩御した。その後も長い間皇位に就かず称制したが、663年白村江の戦いで大敗を喫した後、大津へ遷都してそこで即位した。 天智天皇は死に臨んで、息子の大友皇子に皇位を継がせたいと思ったが、崩御後に起きた壬申の乱により、弟の大海人皇子が勝利して即位した(天武天皇)。しかし、天武の系統の天皇は孝謙天皇(のち称徳天皇として重祚)までで、光仁天皇以降の天皇は、すべて天智の系統である。 天智天皇の歌は、小倉百人一首に採られ、冒頭に置かれている。大海人皇子から額田王を奪ったという話も有名。 天智天皇が長く即位しなかったことは、古代史における謎の一つであるが、このことについて興味深い説が二つ存在する。  一つは、天武天皇を推す勢力への配慮。即ち、従来定説とされてきた、天武天皇は天智天皇の弟ではあるというのは誤りで、皇極天皇が舒明天皇と結婚する前に生んだ漢皇子であり、彼は天智天皇の異父兄であるとする説に基づくものである。確かに、一部の歴史書に掲載される両天皇の享年をもとに生年を逆算すれば、天武が年長となってしまう。「父親が違うとはいえ、兄を差し置いて弟が。」ということなのである。 もう一つは、天智の女性関係に対しての反発から即位が遅れたとする説。これは、万葉集に記載された孝徳天皇が妻の間人皇女(天智の同母妹)に当てた歌に彼女と天智との不倫関係を示唆するものがあるとするものである。当時の人々の恋愛事情(異母兄弟姉妹間での恋愛・婚姻は許されるが、同母兄弟姉妹間でのそれは許されない。)を考えれば、この説も理解できる。現に天智の即位は間人の死後間もなくなのである。果たしてどちらが本当なのか、どちらも間違いなのか、興味深い問題である。
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ここで中大兄皇子、事実上の執権を握る。
2月20日(天智天皇元年1月27日)、天智天皇、百済の鬼室福信に品を下賜
3月28日(天智天皇元年3月4日)、天智天皇、百済の余豊璋に布を下賜
3月、白村江の戦い第二派出発:軍主力の2万7千人。指揮官は上毛野君稚子、巨勢神前臣譯語、阿倍比羅夫(阿倍引田比羅夫)。
4月、馬の尾に鼠が子を産むのを発見(高句麗が破れ日本に属する暗示とされる)
5月、阿倍比羅夫を百済救援に派遣、余豊璋を百済に送り王位を継がせる 吐蕃の宰相ガル・トンツェンが吐谷渾を征服する。 東ローマ皇帝コンスタンス2世がローマに赴き教皇ウィタリアヌスと会見。
663年(天智天皇二年):癸亥
ここに天智天皇の右腕でもある中臣鎌足の記述はない。結果として百済と日本の連合軍は敗北。百済は事実上の滅亡を迎える。同時に豊璋王も姿を消す。 歴史上ここで天智元年としているが、実際は668年(天智7年)に即位している。
3月、阿倍比羅夫ら、新羅征討のため出発
6月、百済の余豊璋、謀反の心のあった鬼室福信を斬り首級を塩漬けにする
8月、朝鮮半島の白村江(現在の錦江近郊)において倭国・百済の連合軍と、唐・新羅連合軍(唐・新羅の同盟)との間の、海と陸とで白村江の戦い)が会戦した。
10月5日(天智天皇2年8月28日)、白村江の戦い(唐・新羅連合軍対 百済・日本連合軍)にて日本が敗れる 10月13日(天智天皇2年9月7日)、百済が降伏、人民が相次いで日本へ逃れる 唐が単于都護府を雲中に設置。
664年(天智天皇三年):甲子
ウィットビー教会会議が開かれローマ式典礼がケルト式典礼の優位に立つ。
3月11日(天智天皇3年2月9日)、冠位二十六階を制定。氏上・民部・家部を定める
6月16日(天智天皇3年5月17日)、唐の郭務悰らが来日
10月25日(天智天皇3年10月1日)、中臣鎌足ら、郭務悰に天皇からの贈り物を渡す
10月28日(天智天皇3年10月4日)、郭務悰に対し晩餐の宴を催す 当時称制を執っていた中大兄皇子は、唐・新羅がさらには博多湾から大宰府に攻め込むことを想定し、水城を築かせた。 対馬・壱岐・筑紫に防人と烽を設置し、筑紫に水城を築く。 唐の道宣、『広弘明集』・『大唐内典録』を撰述。
665年(天智天皇四年):乙丑
1月3日(天智天皇3年12月12日)、日本に滞在していた唐の郭務悰が日本を離れ帰国
3月16日(天智天皇4年2月25日)、間人皇女、薨去
3月22日(天智天皇4年3月1日)、亡き間人皇女のために僧330人を出家させる 長門国に、同じく筑紫に大野城・基肄城を築く 守大石、坂合部石積らを遣唐使に派遣 唐で、儀鳳暦が使われ始める 唐の朝散大夫沂州司馬上柱国の劉徳高が白村江の戦いの戦後処理の使節として来日し、3ヶ月後に劉徳高は帰国した。この唐使を送るため、倭国側は守大石らの送唐客使(実質遣唐使)を派遣した。その大使らは、唐の高宗の泰山封禅儀式の際に唐に対しての臣従を誓った。との説もある。
白村江の戦いに敗れ、追撃を恐れた日本は北九州から瀬戸内海沿岸にかけて大野城、基肄城、長門城などの古代山城を築かせた。
クブラト・ハンが死去し大ブルガリアの部族連合が崩壊する。 北方のヴォルガ川中流域にはヴォルガ・ブルガール人、西方のバルカン半島にはドナウ・ブルガール人が拡大する。
666年(天智天皇五年):丙寅
唐の高宗が泰山で封禅の儀を執行する。 高句麗、泉蓋蘇文没、内紛起こる。
667年(天智天皇六年):
3月27日(天智天皇6年2月27日)、斉明天皇と間人皇女を小市岡上陵に合葬、大田皇女を陵前の墓に葬
4月17日(天智天皇6年3月19日)、中大兄皇子、都を飛鳥より近江(大津宮)に遷都する。 伊吉博徳を遣唐使に派遣
11月 - 大和高安城、讃岐国屋島城、対馬金田城を築く。 白村江の戦い後に、唐や新羅が、日本を攻めて来るのを恐れて天智天皇は都を難波から内陸の近江京へ移して、防衛網を充実させた。 『日本書紀』には、唐の百済鎮将劉仁願が、熊津都督府(唐が百済を占領後に置いた5都督府のひとつ)の役人に命じて、白村江の戦いにおける日本側の捕虜を筑紫都督府に送ってきたという記載がある(「十一月丁巳朔乙丑 百濟鎭將劉仁願遣熊津都督府熊山縣令上柱國司馬法聰等 送大山下境部連石積等於筑紫都督府」)。
668年(天智天皇七年):戊辰
2月20日(天智天皇7年1月3日)、中大兄皇子、第38代天智天皇として即位。
4月10日(天智天皇7年2月23日)、大海人皇子が立太子
6月19日(天智天皇7年5月5日) - 近江蒲生野にて薬猟。大海人皇子と額田王の相聞歌 9月 - 新羅使、調を貢進する。
10月 - 唐・新羅連合軍(唐・新羅の同盟)が高句麗を滅ぼす(唐の高句麗出兵)
新羅の僧が草薙剣(天叢雲剣)を国外に持ち出そうとする(草薙剣盗難事件)
『日本書紀』によれば、是歳条によると、沙門(僧の意)の道行が草薙剣を盗み、新羅に向かって逃げた。しかしその途中で風雨に遭ったため、道行は迷って帰ってきたという。同書では道行の素性に関する記載はなく、その後の道行の経緯も記されていない。
唐が平壌に安東都護府を設置 東ローマ皇帝コンスタンス2世が滞在中のシチリア島で暗殺される。
669年(天智天皇八年):己巳
11月13日(天智天皇8年10月15日)、中臣鎌足に大織冠と大臣の位を授け、藤原の姓を与える。 中臣鎌足の家に落雷が落ちる。この直後、中臣鎌足は病に倒れ、十月に病死。
この年、河内鯨らを遣唐使に任ずる。唐使郭務悰ら2千余人来るという。
670年(天智天皇九年):庚午
年初(天智天皇8年12月)、近江宮内の大蔵や斑鳩寺で火災発生 全国的に戸籍をつくる。(庚午年籍)
5月24日(天智天皇9年4月30日)、法隆寺全焼 背に申の字が書かれた亀を発見(壬申の乱を暗示するとされる)
唐が安北都護府を鬱督軍山から受降城に移転
南スマトラにシュリービジャヤ王国が興る。
ウマイヤ朝軍がチュニジアに進軍し、ケルアン(カイラワーン)市の建設に着手。