西暦671年〜680年

671年(天智十年/弘文元年):辛未
天智天皇、崩御される。
晩年、天智天皇は病床にあり、大海人皇子に皇位を継承したいと言うが、その直前に大海人皇子は、蘇我安麻呂から天智天皇が何やら企んでいる事を聞き、これを辞退する。よって皇太子である大友皇子が継承する。大海人皇子は持統と共に吉野へ隠棲。近江王朝は大海人皇子暗殺のため、後を追うように兵を差し向けるが、大海人皇子と役行者とのつながりを危惧してか、撤退する。
弘文天皇が即位。
大友皇子といい、天智天皇の皇子である。大海人皇子(天武天皇)の反乱(壬申の乱)によりその治世は短く、明治3年(1870年)に弘文天皇の諡号を与えられるまでは天皇として数えられなかった。 在位は、671年12月5日から672年7月23日までの間である。 この後、近江王朝は、再び大海人皇子に対して兵を差し向けるが、大海人皇子は東国へと逃亡。この後に尾張氏の助けを得る。これが、壬申の乱の起因となる。 (現、官弊大社「近江神宮」に祀られている)
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宮下文書 孝霊天皇の時代に日本に渡来した徐福が富士山大神宮の神官から見せられた古文書をもとに漢文で書いたものを、天智天皇10年に中臣藤原物部麻呂が書き直したとされている。 富士山の神であり皇室の祖先神でもある木花咲耶姫命が、富士の火口に飛び込んでこの山の守護神となったくだりの記述は有名。実際、木花咲耶姫命が 富士山の神とみなされるようになったのは近世からなので、この文書は江戸時代初期より以前の時代までは遡らない。 なお徐福というのは中国の秦の始皇帝(在位BC221-210)の命により東方の仙人 の島へ不老不死の薬を探しに行ったといわれる人で、日本では徐福は日本に来たのではないかという説が根強く存在している。。
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2月24日(天智天皇10年1月10日)、大友皇子が太政大臣となる
4月17日(天智天皇10年3月3日)、水準器が献上される
4月、筑紫で8本の足を持つ鹿が発見されたとの報告が入る(多足動物は五行思想で奸臣の存在を意味する)
6月7日(天智天皇10年4月25日)、 漏刻台が完成(グレゴリオ暦では6月10日、「時の記念日」)
9月、天智天皇、病を得る 11月14日(天智天皇10年10月8日)、内裏で百仏(もものほとけ)の開眼
11月23日(天智天皇10年10月17日)、大海人皇子が吉野に退隠
12月29日(天智天皇10年11月23日)、内裏西殿の仏像の前にて蘇我赤兄、中臣金、蘇我果安、巨勢人、紀大人が大友皇子と病床の天智天皇の前で誓盟
新羅と唐が対立する(唐・新羅戦争)。
唐僧義浄が渡印のため広州を出航し室利仏逝(シュリービジャヤ王国か)に到着。
672年(天武元年):壬申
1月9日(天智天皇10年12月5日)、大友皇子が即位し、第39代天皇・弘文天皇となる
7月22日(天武天皇元年6月22日)、大海人皇子、村国男依・君手らを美濃の多品治のもとへ遣わし武器の調達を命令
7月24日(天武天皇元年6月24日)、大海人皇子、挙兵し吉野を出立。大分君恵尺らを留守司・高坂王のもとへ遣わし駅鈴を求める。また恵尺を近江の高市皇子・大津皇子のもとへ派遣、都を出て大海人皇子と合流させるよう命じる
7月26日(天武天皇元年6月26日)、大海人皇子、朝明郡迹太川(とほがわ)の辺で天照大神を望拝
8月、壬申の乱が起こる。
東国に逃れた大海人皇子は、兵を集結させた後、大垣あたりで兵を二分化し、南北から近江王朝を攻める。しかし尤もな近江王朝の敗因をつくったのが、大納言蘇我果安であると言われている。蘇我果安は近江王朝の主力部隊の副将として参戦していたが、決戦の直前に山部王(近江軍)を殺害し、近江軍を敵前で空中分解させてしまう。
大海人皇子、天武天皇として即位。
ここから、周囲の豪族層が関わる事ができない「皇親政治」が開始する。この中核をなしていたのは持統皇后であるとされる。
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国風諡号は天渟中原瀛真人天皇(あまのぬなはらおきのまひとのすめらみこと)。
名は大海人(おおあま)皇子。なお、生年を631年とすることに反対する説もある。舒明天皇の次男で母は宝皇女(皇極天皇)である。天智天皇の同母弟。 『日本書紀』によると才能に恵まれ、武徳に優れ天文、占星の術を得意としたとされる。なお、天武天皇の事跡の多くは『日本書紀』に述べられているが『日本書紀』編纂の中心人物が天武天皇の息子の舎人親王であるため、美化されているのではないかと疑う説もある。 壬申の乱で天智天皇の息子である大友皇子(弘文天皇)を破り、即位する。 即位後は飛鳥浄御原宮律令の制定を命じ律令国家の確立を目指す。官僚機構の整備として宮仕えするものはまず大舎人としその後才能を斟酌して官職を与えるようにした。また、官人の勤務評定や官位の昇進に関して考選法を定めた。さらに八色の姓を制定して朝廷の身分秩序を確立し、新冠位制を施行して冠位賦与を親王にまで拡大した。豪族の弱体化策として豪族に与えられていた部曲(かきべ)を廃止し、食封制度も改革した。さらに、一貫した皇族だけの皇親政治を行った。これに対応して行政機構も太政官と大弁官が並立し、上層官僚貴族には実質的な権力を伴わない納言の官職が与えられ、天皇の命令は主に大弁官を通じて地方に伝達された。 天皇の宗教的権威も高められた。
伊勢神宮の祭祀が重視され広瀬・竜田祭が国家事業として行われた。仏教に対しても大官大寺等の造営が進められるとともに僧尼の統制が強化された。一説によると天皇号の使用も天武天皇が始めたとされる(天皇号の始まりは推古天皇説などもある)。 飛鳥浄御原宮を建造したほか難波にも宮殿を建造した。また、藤原京の建造を開始したのも天武天皇のときであるとする説もある。 外交面においては新羅の朝鮮半島統一(676年)をうけ、新羅との国交保持のため唐との国交を断絶した。 文化面では帝紀と旧辞を記し校訂する修史事業が行われた。また、五節の舞を始めとする宮廷儀礼の定式化も進められた。
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8月21日(天武天皇元年7月23日)、大友皇子(弘文天皇)、長等山の山前にて縊死
10月8日(天武天皇元年9月12日)、大海人皇子、飛鳥へ凱旋 天武天皇、『日本書紀』の編纂を命じる。
673年(天武天皇二年/白鳳元年):癸酉
3月20日(天武天皇2年2月27日)、天武天皇が即位
5月5日(天武天皇2年4月14日)、大来皇女、天皇の命により泊瀬の斎宮に入る
5月21日(天武天皇2年5月1日)、官僚登用の制度に関する詔。才能のある者を適所に配置するよう命じたもの イスラム帝国海軍、東ローマ帝国の首都コンスタンティノポリスを678年まで毎年包囲。
674年(天武天皇三年/白鳳二年):甲戌
1月29日(天武天皇2年12月17日)、美濃王らを高市大寺(大官大寺)造営の司に任命
2月8日(天武天皇2年12月27日)、僧・義成を小僧都とする
4月17日(天武天皇3年3月7日)、対馬国にて初めて銀が発掘
9月8日(天武天皇3年8月3日)、忍壁皇子、石上神宮に赴き武器庫の整理
11月12日(天武天皇3年10月9日)、大来皇女、伊勢の斎宮へ群行
675年(天武天皇四年/白鳳三年):乙亥
2月1日(天武天皇4年1月1日)、大学寮の学生、陰陽寮・外薬寮・舎衛の女性、吐火羅列島の女性、百済・新羅人などが薬や珍宝を献上
3月10日(天武天皇4年2月9日)、畿内の農民のうち歌手、芸能人、道化者を募る詔
3月14日(天武天皇4年2月13日)、十市皇女・阿閇皇女、伊勢神宮に参詣
3月16日(天武天皇4年2月15日)、諸氏の部曲を廃止
5月4日(天武天皇4年4月5日)、僧尼2400人以上を召して法会
5月7日(天武天皇4年4月8日)、小錦下・久努臣麻呂ら、出仕差し止めを命じられる
5月8日(天武天皇4年4月9日)、公出挙の制度に関する詔
5月13日(天武天皇4年4月14日)、久努臣麻呂、官位剥奪
5月16日(天武天皇4年4月17日)、狩猟の規制、牛・馬・犬・猿・鶏の肉食を禁止する詔
5月17日(天武天皇4年4月18日)、三位・麻績王(麻続王)とその子を流刑
8月3日(天武天皇4年7月7日)、大伴国麻呂らを遣新羅使として派遣
9月16日(天武天皇4年8月22日)、台風による被害発生
11月2日(天武天皇4年10月10日)、宮中に保管していた神酒を群臣に振る舞い宴会を催す
11月12日(天武天皇4年10月20日)、相模国にて三つ子誕生
11月25日(天武天皇4年11月3日)、宮殿の東の丘の上で天武天皇を呪う言葉を残して自殺した者が発生
676年(天武天皇五年):丙子
新羅、朝鮮半島を統一する。都を慶州に置く。
677年(天武天皇六年):丁丑
唐が安東都護府を平壌から遼東に移転。
678年(天武天皇七年):戊寅
官人の勤務評定や官位の昇進に関して考選法を定める。
4月27日(天武天皇7年4月1日)、天武天皇、倉梯斎宮への行幸の日を占い、4月7日と出る
5月3日(天武天皇7年4月7日)、早朝、天武天皇の行幸の一行が出発しようとするとき、十市皇女が突然発病し、宮中にて死亡したため、倉梯斎宮への行幸が不可能となり、結局、天神地祇を祭ることを断念
5月10日(天武天皇7年4月14日)、十市皇女を赤穂に葬。天武天皇大いに発哀 天神地祇を大規模に祭るため、全国的に大祓の儀式。斎宮が倉梯川の川上に建てる
679年(天武天皇八年):己卯
吉野に行幸する。
5月31日(天武天皇8年5月6日)、皇后、草壁皇子・大津皇子・高市皇子・川島皇子・忍壁皇子・志貴皇子の6皇子らに皇位継承争いを起こさないよう誓わせる。(吉野の盟約)
唐が交州に安南都護府を設置
680年(天武天皇九年):庚辰
薬師寺が創建される。
カルバラーでイマームのフサインがウマイヤ朝軍に包囲されて戦死する(カルバラーの戦い)