西暦691年〜700年

691年:辛卯
1月23日(持統天皇4年12月19日)、持統天皇、藤原新都予定地を自ら視察 3月5日(持統天皇5年2月1日)、公卿らに対し、仏法に精励するよう命じる詔
12月19日(持統天皇5年11月24日)、大嘗祭を執り行う 則天武后が「仏先道後」の国是を定め、仏教保護政策を進める。
692年:壬辰
1月27日(持統天皇6年1月4日)、高市皇子、封2000戸の加増を受ける
3月4日(持統天皇6年2月11日)、持統天皇、伊勢に行幸することを群臣に伝える。中納言大三輪朝臣高市麻呂がこれを諫める
3月25日(持統天皇6年3月3日)、伊勢行幸にあたり、広瀬王らを留守官とする。大三輪朝臣高市麻呂、再度これを諫めるが、持統天皇これを聞き入れず
3月28日(持統天皇6年3月6日)、持統天皇、伊勢へ向け出発 第1回外宮式年遷宮
4月11日(持統天皇6年3月20日)、持統天皇、帰京
6月23日(持統天皇6年閏5月4日)、持統天皇、僧観成の造った白粉を褒め、褒賞
8月19日(持統天皇6年7月2日)、大赦令
10月2日(持統天皇6年8月17日)、持統天皇、病を得た明日香皇女の別邸に日帰りで出かける
ウマイヤ朝カリフのアブドゥルマリクによりエルサレムの岩のドームが完成する。
693年:癸巳
2月12日(持統天皇7年1月2日)、高市皇子、浄広壱に、長皇子・弓削皇子、浄広弐にそれぞれ叙せられる
4月21日(持統天皇7年3月11日)、持統天皇、藤原朝臣大嶋に品を下賜
4月27日(持統天皇7年3月17日)、全国に対し、桑・梨・栗などの植物を植えることを奨励
6月1日(持統天皇7年4月22日)、官人の間で汚職事件発生。関与した者を解任・降格の処分
6月23日(持統天皇7年5月15日)、内裏にて大法会
10月14日(持統天皇7年9月10日)、内裏にて亡き天武天皇のための大法会
12月16日(持統天皇7年11月14日)、近江野洲郡で鉱泉が湧く ウマイヤ朝カリフのアブドゥルマリクがダマスカスでイスラーム王朝初の金貨(ディナール)を打刻させる。
694年(朱鳥九年):甲午
4月1日(持統天皇8年3月2日)、大宅朝臣麻呂らを鋳銭司に任命
4月15日(持統天皇8年3月16日)、近江・野洲郡で湧いた鉱泉の薬効を称え、野洲郡の今年の調役を免除
5月4日(持統天皇8年4月5日)、大宰率・河内王に浄大肆
6月8日(持統天皇8年5月11日) 、金光明経100部を諸国に配布
9月11日(持統天皇8年8月17日)、病を得た明日香皇女のため沙門104人を出家
10月16日(持統天皇8年9月22日)、三野王、大宰率に任命
12月27日(持統天皇8年12月6日)、かねてから造営していた藤原宮に遷都した。
695年:乙未
1月25日(持統天皇9年1月5日)、舎人親王、浄広弐に叙せられる
8月1日(持統天皇9年6月16日)、持統天皇、老人・重病者に見舞品を下賜
レオンティオスの政変で東ローマ皇帝ユスティニアノス2世が捕縛され、鼻を削がれてクリミア半島ケルソンへ追放される。
696年:丙申
9月26日(持統天皇10年8月25日)、多品治、壬申の乱の功績により直広壱の位を授与される
11月16日(持統天皇10年10月17日)、右大臣丹比真人が職務を退くこととなり、持統天皇から輿と杖を賜わる
11月21日(持統天皇10年10月22日)、藤原不比等、舎人50人を、丹比真人は120人を賜わる
バヴァリアのテオド大公、司教ルペルトを招聘し、ザルツブルク周辺を領地として与える(ザルツブルク大司教領の起原)。ルペルト、聖ピーター聖堂を司教座聖堂として創設。
697年(朱鳥十二年/文武天皇元年):丁酉
草壁皇子の遺児、軽皇子を15歳で立太子させた。
同年譲位し、自らは天皇を後見した。 初めて、譲位後に太上天皇を名乗った。 文武天皇、即位する。
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名は珂瑠(かる)。諱は軽皇子(かるのみこ)。天武天皇の子・草壁皇子の第二子で長男。 母は、天智天皇の皇女・阿閉(あへ)皇女(後の元明天皇)。藤原不比等の娘・宮子を妃とし、首(おびと)皇子(のちの聖武天皇)を儲けた。
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1月28日(持統天皇10年12月30日) 、僧10人を出家させる
2月7日(持統天皇11年1月11日)、持統天皇、貧者らに稲を下賜
3月13日(持統天皇11年2月16日)、珂瑠皇子、立太子
3月25日(持統天皇11年2月28日)、当麻真人国見、珂瑠皇太子の東宮大傅に任命
4月4日(持統天皇11年3月8日)、東宮御所にて大法会
7月 - 持統天皇、病を得る。畿内外にて奉幣、読経、大赦などが行われる
8月21日(持統天皇11年7月29日)、薬師寺にて開眼会
8月22日(持統天皇11年8月1日)、持統天皇、珂瑠皇子に譲位(第42代天皇・文武天皇践祚)
9月7日(文武天皇元年8月17日)、文武天皇即位
9月10日(文武天皇元年8月20日)、藤原宮子、文武天皇の夫人に、石川刀子娘は妃となる
9月29日(文武天皇元年9月9日)、和珥部君手、壬申の乱の功績により直広壱に叙せられる
イスラム帝国が北アフリカのほぼ全域を制圧。
ヴェネツィア、はじめてのドージェ(元首)を選任。
698年(文武天皇二年):戊戌
日本各地に疫病が流行。文武天皇、薬を支給し救援。
9月28日(文武天皇2年8月19日)、藤原姓を名乗れるのは藤原不比等に限られ、その他の藤原氏は旧姓である中臣姓に戻すよう詔
10月5日(文武天皇2年8月26日)、朝儀の礼が定められる
10月19日(文武天皇2年9月10日)、託基皇女、斎王として伊勢斎宮へ遣わされる
12月30日(文武天皇2年11月23日)、大嘗祭を執り行う
靺鞨人大祚栄が震国(後の渤海)を建国。
ウマイヤ朝のハサン・イブン・アル・ヌゥマーンがカルタゴの戦いで東ローマ帝国に勝利。北アフリカのほぼ全域を制圧。
699年(文武天皇三年):己亥
5月24日、役君小角が伊豆島に流される(『続日本紀』伝)。
実質、役小角(えんのおづぬ)が記録として記されたのは、この記事からである。 飛鳥時代から奈良時代の呪術者である。実在の人物だが、伝えられる人物像は後の伝説によるところが大きい。通称を役行者(えんのぎょうじゃ)と呼ばれ修験道の開祖とされている。 同書によれば、小角ははじめ葛木山に住み、呪術によって有名になった。弟子の韓国連広足が、小角が人々を言葉で惑わしていると讒言したため、小角は遠流になった。人々は、小角が鬼神を使役して水を汲み薪を採らせていると噂した。命令に従わないときには呪で鬼神を縛ったという。 『続日本紀』は、延暦16年(797年)に完成した史書で、創作された話が入る性質のものではない。事情の細部が説明通りかはともかく、葛木山から来た役小角という呪術者がいて韓国広足の告発で伊豆島に配流されたことは史実であろう。それから約百年後に、役小角は鬼神を使ったという話が広まっていたことも信じてよい。
6月26日(文武天皇3年5月24日)、役小角、伊豆に配流
9月6日(文武天皇3年8月8日)、夜久(現在の屋久島)、奄美(奄美大島)から来貢
越智崗上陵(斉明天皇陵)及び山科陵(天智天皇陵)造営
700年(文武天皇四年):庚子
2017年における米国ロチェスター大学による地球磁場の研究にて、西暦700年〜750年間に地球規模の地場反転が発生した可能性。
1月15日(文武天皇3年12月20日)、鋳銭司設置(中臣意美麻呂)
2月1日(文武天皇4年1月7日)、新田部皇子、浄広弐を授与 僧道昭の葬儀(記録に残る日本最古の火葬。道昭の遺言による)
カナダ、ブリティッシュコロンビア州のエジザ山火山複合体が噴火
アルジェリアでムーサ・ビン・ヌザイールがベルベル軍を打ち負かし、アラブ人に対する抵抗運動が収束する
スィースターンおよびバルチスタン地域で、アブドゥル・マリク・イブン・マーワンに対しモハンマド・イブン・アラシャトが蜂起を起こす
アイオナの聖アドムナンが、女性と聖職者の関係を説いた「カイン・アドムナイン」(アドムナン法典)を取り入れるよう51人の王に説得する
ペルー/モチェ文明が、エルニーニョ現象によって衰退、滅亡する。 同時に、現在のインカ文明へと変化。
道鏡が生まれる。法王になる前としては、 河内国若江郡(現在の大阪府八尾市)に生まれ、若年の頃、法相宗の高僧・義淵の弟子となり、良弁から梵語(サンスクリット語)を学んだ。禅に通じていたことで知られており、これにより内道場(宮中の仏殿)に入ることを許され、禅師に列せられた。