西暦701年〜710年

701年(大宝元年):辛丑
「大宝律令」が発布される。
ただし、この律令制そのものには諸説あり、もっとも有力なものが、「大宝律令」とは大化改新以降の律令制がここで完成した、というもの。 また混乱していた冠位制を改め、新たに官位制を設けた。 今まで散発的にしか記録されていない元号制度の形が整うのもこの大宝年間である。
刑部皇子・藤原不比等らに禄を賜う。 役小角、疑いが晴れて恩赦にて茅原に帰される。
大宝年間において、役小角(役行者)と雲遍上人という2人の人物が愛宕山麓の清滝に来ると、雷が鳴り、激しい雨が車軸のように降って、先へ進めなくなった。2人が祈祷を行うと、天は晴れ、大杉の上に天竺(インド)の日良、唐(中国)の善界、日本の太郎房という天狗の統領たちがそれぞれの眷属数万を率いて出現した。 天狗たちは、「我々は2千年も昔に仏の命を受けてこの地を領し、人々を利益する者だ」と告げると、姿を消してしまった。雲遍はその大杉を「清滝四所明神」と称し、朝廷の命によって朝日峰(今の愛宕神社の地)に神廟を営んだ。これが愛宕権現の始まりであるという。
役小角は修験道の開祖とされる人物であり、雲遍は後に泰澄上人と称され、加賀の霊場白山を開いたとされる人物で、両名ともに伝説的色彩の濃い人物である。
1月23日 (旧暦) - 遣唐使を任官。遣唐執節使は粟田真人(続日本紀)
1月 - 伊豆大島に流されていた役小角が赦される(『日本現報善悪霊異記』)
3月27日(文武天皇5年2月14日)、釈奠の初見(続日本紀)
4月13日(文武天皇5年3月1日)、大宝令の官位が施行される。中納言は廃止(続日本紀)
5月3日(文武天皇5年3月21日)、改元して年号を大宝とする。
5月19日(大宝元年4月7日)、下毛野古麻呂ら3人が親王・諸臣・百官人に大宝令の講義を始める(続日本紀)
6月17日(大宝元年5月7日)、遣唐使の粟田真人が節刀を授かる(続日本紀)
7月10日(大宝元年6月1日)、道首名が僧尼令を大安寺で説く(続日本紀)
7月11日(大宝元年6月2日)、はじめて内舎人を任じる(続日本紀)
7月17日(大宝元年6月8日)、大宝令を施行(続日本紀)
9月9日(大宝元年8月3日)、大宝律令が完成(続日本紀)
9月14日(大宝元年8月8日)、明法博士を西海道を除く六道に遣わして、大宝令を講義させる(続日本紀)
8月26日 (旧暦) - 大和王朝、高安城を廃城(続日本紀)
12月11日(大宝元年11月8日)、初めて造大幣司を任じ、弥努王と引田尓閇を長官とする(続日本紀)
12月12日(大宝元年11月9日)、弾正台に畿内を巡察させる(続日本紀)
則天武后の命により中宗の嫡男李重潤(懿徳太子)・七女永泰公主らを処刑する。
5月、新羅、霊巌郡太守の諸逸を流島に処す(『三国史記』)
西ゴート王ウィティザが祖父のエルギカから王位を継承する
ランゴバルド王リウトペルトが父のペルクタリトから王位を継承する
ラジンペルトがリウトペルトを暗殺し、ランゴバルド王の座を奪ったが直後に死去し、息子のアリペルト2世が王位を継承する
702年(大宝二年):壬寅
大宝律を全国に頒布 度器、量器を初めて全国に頒布 薩摩の隼人征討 粟田真人、山上憶良を遣唐使に派遣 第八次遣唐使が派遣され、執節使粟田真人が則天武后に謁見する。約40年ぶりになる遣唐使派遣は、「倭」に代わる国名「日本」を承認させる目的もあった。断絶していた唐との国交を回復させる。 文武天皇によって遣唐使が再開され、粟田真人を派遣して唐との国交を回復した。
ユスティニアノス2世がビザンチン皇帝に復位
フランコニア公ヘタン2世がヴュルツブルク近郊のマリーエンベルク要塞に聖マリー教会を完成させる
エチオピアのアクスム王国の征服者が、現在のサウジアラビアにあるジッダの港を占拠
武周が北庭都護府を庭州に設置
ダマスカスのウマイヤド・モスクが完成
703年(大宝三年):癸卯
遣新羅使派遣(大使:波多広足)
704年(慶雲元年):甲辰
元号が「慶雲(けいうん)」に変わる。
遣唐使帰還(大使:粟田真人)
遣新羅使帰還(大使:波多広足)
遣新羅使派遣(大使:幡文通)
705年(慶雲二年):乙巳
則天武后が死去。
2月、張柬之らのクーデターによって中宗が復位し唐朝が復活する。 復位した中宗により唐が再興される(神龍革命)。
遣新羅使帰還(大使:幡文通)
新羅貢調使来朝(大使:金儒吉・副使:金今古) 令外官として中納言を新設
ウマイヤ朝カリフのワリード1世によりダマスクスのウマイヤド・モスクが完成する。
東ローマ皇帝ユスティニアノス2世がティベリオス3世を打倒し復位を果たす。
706年(慶雲三年):丙午
新羅貢調使帰国(大使:金儒吉・副使:金今古)
遣新羅使派遣(大使:美努浄麻呂・副使:対馬堅石)
慶雲の改革(文武天皇朝における律令制改革)
役小角、68歳で箕面の天井ヶ岳にて入寂したと言われる。 後の平安時代に山岳信仰の隆盛と共に、「役行者」と呼ばれるようになった。
真臘が北部の陸真臘と、南部の水真臘とに分離する。
イオアンネース、エルサレム総主教に就任(イオアン5世。在位 706年 - 735年)。
707年(慶雲四年):丁未
文武天皇が病没される。
遺体は火葬され、遺骨は檜隈安古岡上陵(ひのくまのあこのおかのえのみささぎ。奈良県明日香村)に葬られたという。
第43代元明天皇即位する。
7月18日(慶雲4年6月15日)、第42代天皇・文武天皇が崩御し、阿閇皇女が称制
8月18日(慶雲4年7月17日)、第43代天皇・元明天皇が即位
遣新羅使帰国(大使:美努浄麻呂・副使:対馬堅石)
708年(和銅元年):戊申
元明天皇が、首(おびと)皇子(聖武天皇)への中継ぎとして即位する。
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天智天皇の第四皇女、阿閉皇女(あへのみこ)。草壁皇子の正妃で、文武天皇と元正天皇の母。 日本根子天津御代豊国成姫天皇(やまとみこあまつみしろとよくになりひめのすめらみこと)とも言う。
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武蔵国秩父より和銅が献じられたので、和銅に改元し、和同開珎を鋳造させた。この時期は701年に作られた大宝律令を整備し、運用していく時代であった、その為実務に長けていた藤原不比等を重用した。
和同開珎鋳造。(皇朝十二銭の最初。富本銭をのぞく日本最古の貨幣) 出羽に出羽柵を築く
709年(和銅二年):己酉
11月18日(和銅2年10月13日) - 光仁天皇、第49代天皇が生まれる。
顔真卿、唐の政治家、書家が生まれる。
許遠、唐の政治家が生まれる。
高倉福信、奈良時代の貴族 が生まれる。
張巡、唐の武将が生まれる。
馬祖道一、唐の洪州宗の僧が生まれる。
法進、奈良時代の渡来僧が生まれる。
710年(和銅三年):庚戌
朝廷は蘇我氏の地盤である飛鳥を捨てて、平城京に遷都する。左大臣石上麻呂を藤原京の管理者として残したため、右大臣藤原不比等が事実上の最高権力者になった。同年古事記が撰上された。
奈良時代はじまる。
唐で韋后排斥の政変により睿宗が復位。この功績で李隆基が皇太子となる。
涼州に最初の節度使である河西節度使が設置される。
ブルガリアのマダラの騎士像が作られる。
4月13日(和銅3年3月10日)、元明天皇が藤原京から平城京に遷都する
劉知幾、『史通』を撰述