西暦731年〜740年

731年(天平三年):辛未
令外官として参議を新設
732年(天平四年):壬申
遣唐使の玄昉、吉備真備らが出発。 出羽に秋田城を築く。
唐/安禄山が、幽州節度使・張守珪に取り立てられる。勇猛さと地理を熟知していたことにより、同郷の史思明とともに数騎で出ていき、必ず数十人を捕らえてきた。その後も勝利を重ね、そのため偏将に任じられた。この頃、張守珪の養子となる。
安 禄山(あん ろくざん)は、本姓は康で、康国(サマルカンド)出身のソグド人と突厥系の混血。その出自から6ヶ国の言葉を話せたという。
トゥール・ポワティエ間の戦いで、カール・マルテル率いるフランク王国軍がウマイヤ朝軍を破る。これによって、718年の東ローマ帝国の勝利に続いてイスラム帝国の進撃を止めることに成功。
733年(天平五年):癸酉
聖武天皇が、興福寺に住して法相教学を学んだ榮叡(ようえい)に対し、出家者に正式な戒を授けるための伝戒師を唐より招請する事を命じる。当時、奈良には私度僧(自分で出家を宣言した僧侶)が多かったため、伝戒師(僧侶に位を与える人)制度を普及させよう聖武天皇は適当な僧侶を捜していた。
榮叡は、伝戒師を招請するため、普照とともに唐へ渡った。
唐では洛陽大福先寺で具足戒を受け、道璿に来日を要請。
734年(天平六年):甲戌
遣唐使吉備真備・玄昉らの帰国
遣唐使留学生井真成(せいしんせい)36歳で長安で没する。
その墓誌が2005年4月に発見される。
玄宗皇帝から官位を授かったことや「国号日本」と記されている。
2005年4月当時は、「日本」表記の現存資料としては最古であったが、最近の研究では702年ではないかという説がある。
735年(天平七年):乙亥
5月26日、イングランドのキリスト教聖職者・歴史家・聖人・教会博士の称号を持つ、ベーダ・ヴェネラビリスが死去。
10月24日(天平7年9月30日)、新田部親王(奈良時代の皇族・天武天皇の第十皇子)が死去。
12月6日(天平7年11月14日)、舎人親王(奈良時代の皇族・淳仁天皇の父)が死去。 楊玉環(後の楊貴妃)、玄宗と武恵妃の間の息子(寿王李瑁、第十八子)の妃となる。李瑁は武恵妃と宰相・李林甫の後押しにより皇太子に推される。
唐の道士、司馬承禎が死去。
インドの烏荼国の国王であり僧でもある、善無畏が死去。
736年(天平八年):丙子
三十六歌仙の一人である山部赤人が死去。
『史記正義』の成立。
唐/平盧討撃使、左驍衞将軍に昇進していた安禄山は、張守珪の命令で奚・契丹の反乱者を討伐した。 しかし、勇に任せて進軍したために敗北してしまう。張守珪は軍法により死刑にしようとしたが、安禄山が「大夫は奚と契丹を滅ぼしたくないのか。なぜ、自分を殺すのだ」と訴えた。そのため、長安に彼を送り、朝廷に判断を任せることにした。 張九齢は、軍法と司馬穰苴や孫武の典拠、さらに反骨の相があるとして安禄山の死刑を主張したが、玄宗は受け入れず、許された。
737年(天平九年):丁丑
九州北部にて天然痘が流行し、またたく間に平城京にも広がる。
藤原四兄弟全員が病死。
ただし、藤原不比等の娘、光明子のみが無事。 白壁王(後の光仁天皇)の第1王子として、山部王(後の桓武天皇)が産まれる。生母は百済系渡来人氏族の和氏の出身である高野新笠。当初は皇族としてではなく官僚としての出世が望まれて大学頭や侍従に任じられた。
陸奥国に牝鹿柵を築く 横浜に弘明寺が創建される。 玄宗の后である、武恵妃が死去。
738年(天平十年):戊寅
2月6日(天平10年1月13日):阿倍内親王(後の孝謙天皇)が父聖武天皇の皇太子となる。
橘諸兄が右大臣となる。
箱根温泉が掘り当てられる
コパン王ワシャクラフン・ウバフ・カウィール(「18ウサギ」)がキリグア王カック・ティリウ(「カウアク空」)のために殺害される。
宦官・高力士の薦めで李璵が皇太子に冊立された。
739年(天平十一年):己卯
西突厥が滅亡する。 庚辰
740年(天平十二年):庚辰
聖武天皇、東大寺大仏建立を発願。 藤原広嗣の乱が起こる。
この年より聖武天皇は、反藤原を表明し、実権を握る。
またそれまでに弾圧していた行基らに対して、一切の行動を認める。 聖武天皇が山城国相楽郡玉井にある橘諸兄(右大臣)の別荘へ行幸し、宴会で上機嫌になって諸兄の息子・橘奈良麻呂に従五位下を授ける。
藤原清河(藤原不比等の息子)が正六位上から従五位下に叙せられる。
9月15日(天平12年8月20日)、和泉監を河内国に併合する。
9月24日(天平12年8月29日)、大宰少弐藤原広嗣が吉備真備と玄昉を除くよう上表する。
9月28日(天平12年9月3日)、広嗣が挙兵したとの報を受け、天皇は大野東人を大将軍とし広嗣征討を命じる(=藤原広嗣の乱)。
11月12日(天平12年10月19日)、天皇が「旅行するから伊勢に仮宮をつくれ」と命じる。
11月16日(天平12年10月23日)、肥前国松浦郡値嘉嶋(五島列島)に潜んでいた広嗣が安倍黒麻呂に捕まる。
11月19日(天平12年10月26日)、天皇が九州の大野東人へ「思うところあって東へ行く。乱の最中だが仕方の無いことなので、聞いても驚くな」という勅を送る。
11月22日(天平12年10月29日)、九州の大野東人が広嗣が既に逮捕されていることを知る。天皇が光明皇后・橘諸兄ら群臣とともに平城京を離れ、伊賀・伊勢へ巡幸する。
11月24日(天平12年11月1日)、広嗣が斬首される。
11月25日(天平12年11月2日)、天皇一行が関宮(松阪の北西)に到着する。
11月26日(天平12年11月3日)、天皇の元へ広嗣逮捕の報が届き、天皇は広嗣を斬首するよう命じる。
12月5日(天平12年11月12日)、天皇一行が関宮を出発し、美濃・近江へ北上する。
唐/安禄山、平盧兵馬使に昇進する。往来するものに多額の賄賂を贈り、誉めあげるように求めた。その甲斐あって玄宗は彼を信用した。
唐/楊玉環、玄宗に見初められ、長安の東にある温泉宮にて、一時的に女冠となった(このときの道号を太真という)。
これは息子から妻を奪う形になるのを避けるためであり、実質は内縁関係にあったと言われる。その後、宮中の太真宮に移り住み、玄宗の後宮に入って皇后と同じ扱いをうけた。
楊玉環は容貌が美しく、唐代で理想とされた豊満な姿態を持ち、音楽・楽曲、歌舞に優れて利発であったため、玄宗の意にかない、後宮の人間からは「娘子」と呼ばれた。『長恨歌伝』によれば、髪はつややか、肌はきめ細やかで、体型はほどよく、物腰が柔らかであったと伝えられる。
クーファのシーア派によるザイド・ブン・アリーの乱。