西暦741年〜750年

741年(天平十三年):辛巳
聖武天皇、国分寺建立の詔。
行基は、重い税や労役にあえぎ、また苦しみながらも税を運ぶ人々のために、各地に橋を架け、架け布施屋と呼ばれる救護所をつくり、布教に努めた。民衆の指示は高まり、ついには行基の集団は、朝廷たちにとって無視できぬ存在へとなっていく。律令国歌の貴重な資源であるはずの良民たちは、勝手に優婆塞となり、農地を捨て漂泊するようになったからである。つまりは行基の活動は、律令制に反していた。 しかし、奈良の北方木津に橋を架けるのに、機内の諸国の優婆塞たちを召集し使役したとあり、そこで彼ら七百五人をすべて正式に僧として認めた。
1月、天皇、恭仁宮で朝賀を受ける。
12月、安房国を上総国に、能登国を越中国に併合する。
菅野真道が生まれる。
唐/安禄山が、営州都督、平盧軍使に昇進する。この時も、採訪使として張利貞が監督に来るたびに賄賂を渡していたと伝えられる。
東ローマ皇帝レオーン3世により「ローマ法大全」を改訂した「エクロゲー(ギリシア語法選集)」が出される(726年説もある)。
742年(天平十四年):壬午
1月、大宰府を廃止する。
8月、近江国の紫香楽村に離宮を造立する。
唐/安禄山が平盧節度使、左羽林大将軍に任じられる。
743年(天平十五年):癸未
墾田永年私財法を施行。
大仏建立の詔。
聖武天皇は、大仏を建立するために紫香楽宮に土地を用意し、行基は弟子たちを率いて、人々にすすめ導いた。 また、度重なる飢饉や疫病による農民の逃亡問題の対策として、朝廷は土地の開墾を奨励し、それまで国歌の統治が及ばなかった未墾地も規制するために、「墾田永年私財法」を発布する。 唐にとどまっていた榮叡が、揚州大明寺の鑑眞に拝謁し、改めて日本へ渡ることを要請した。鑑眞は渡航することを決意。 しかし、渡海を嫌った弟子が、港の役人へ「日本僧は実は海賊だ」と偽の密告をしたため、このとき揚州大明寺にあった日本僧は追放された。鑑真は留め置かれる事となる。
2月、佐渡国を越後国に併合する。
5月、墾田を私財とし、位階に応じた面積の所有を認める(墾田永年私財法)。
10月、盧舎那仏金銅像の造立を発願する(大仏造立の詔)。
唐/安禄山が長安に入朝し驃騎大将軍に任じられる。 この時、「昨年、営州で蝗害が起きたので、『私の心が不正で不忠なら、蝗にはらわたを食い尽くさせて下さい。もし、神に背いてないのなら、蝗を全て散らさせてください』と願い、香を焚いて天へ祈りました。すると、北から鳥の群れが飛んできて、蝗を食べ尽くしてしまいました。史書にお書き下さいますように」 と上奏して玄宗に大変喜ばれた。 また、科挙の不正があったことを告発し、それが事実であったため、試験官の吏部侍郎・苗晋卿と宋遙、不正受験者の父であった張倚が左遷されている。
744年(天平十六年):甲申
恭仁京から難波宮、続いて紫香楽宮に遷都。
1月、鑑真は、周到な準備の上で二度目の出航したが激しい暴風に遭い、一旦、明州の余姚へ戻らざるを得なくなってしまった。 鑑真は再度出航を企てる。しかし、鑑真の渡日を惜しむ者の密告により栄叡が逮捕され、3回目も失敗に終わる。その後、栄叡は病死を装って出獄に成功し、江蘇・浙江からの出航は困難だとして、鑑真一行は福州から出発する計画を立て、福州へ向かった。 しかし、この時も鑑真弟子の霊佑が鑑真の安否を気遣って渡航阻止を役人へ訴えた。そのため、官吏に出航を差し止めされ、4回目も失敗する。
1月13日、安積親王が脚気のため急死。これは藤原仲麻呂による毒殺だという説がある。
2月、難波宮を皇都とする。
4月、造兵・鍛冶2司を廃止する。
東突厥滅亡。
唐/安禄山が裴寛に代わり、范陽節度使、河北採訪使に任じられ、平盧節度使を留任したままで節度使職を兼ねることになる。黜陟使の席予は、安禄山は『公直無私』とし、李林甫と裴寛からも誉めあげられた。このまま、玄宗からの信任はますます厚くなる。
745年(天平十七年):乙酉
唐の玄宗が楊太真を貴妃とする(楊貴妃)。
『楊太真外伝』によると、初めての玄宗との謁見の際、霓裳羽衣の曲が演奏され、玄宗は「得宝子」という新曲を作曲したと伝えられる。 父の楊玄淡は、兵部尚書、母の李氏は、涼国夫人に追贈され、また、叔父の楊玄珪は、光祿卿、兄の楊銛は殿中少監、従兄の楊錡は駙馬都尉に封じられる。 さらに、楊錡は玄宗の愛娘である太華公主と婚姻を結ぶこととなった。 楊銛、楊錡と3人の姉の五家は権勢を振るい、楊一族の依頼への官庁の応対は、詔に対するもののようであり、四方から来る珍物を贈る使者は、門を並ぶほどであったと伝えられる。 安禄山が、奚と契丹を攻撃して打ち破った。この帰路に、「李靖、李勣(唐建国時における名将)が自分に食事を求める夢を見た」という上奏を行っている。
回鶻(ウイグル)の懐仁可汗が東突厥を滅ぼす。
テオドロス、エルサレム総主教に就任(フェオドル。在位745 - 770年)。
4月、紫香楽宮の周辺に火事が多発する。
5月、聖武天皇、紫香楽宮から平城京に遷都する。
6月、大宰府を復活する。
746年(天平十八年):丙戌
藤原清河が聖武朝で順調に昇進して従四位下に昇叙。
3月、寺家が土地を買うことを禁止する。
5月、諸寺が百姓墾田・園地を買うことを禁止する。 石上乙麻呂を遣唐使に派遣 楊貴妃、嫉妬により玄宗の意に逆らい、楊銛の屋敷に送り届けられた。しかし、玄宗はその日のうちに機嫌が悪くなり、側近をむちで叩き始めるほどであった。 この時、高力士はとりなして、楊家に贈り物を届けてきたため、楊貴妃は、太華公主の家を通じて、夜間に後宮に戻ってきた。玄宗は楊貴妃が戻り、その罪をわびる姿に喜び、多くの芸人をよんだと伝えられる。 それから、楊貴妃はさらに玄宗の寵愛を独占するようになった。その後、范楊・平盧節度使安禄山の請願により、安禄山を養子にして玄宗より先に拝礼を受けた逸話や、安禄山と彼女の一族が義兄弟姉妹になった話が残っている。
747年(天平十九年):丁亥
5月、封戸から徴収する租庸調などの数量の基準を定める。
6月9日、アブー・ムスリムがホラーサーンのメルヴ近郊で挙兵。
唐/安禄山が御史大夫を兼任し、妻の康氏と段氏が国夫人に封じられた。配下の劉駱谷を長安へ留めておき、朝廷の動きを全て報告させ、上奏文は代作させていた。また、多くの献上物をしばしば長安に贈った。そのため、通過点にあたる州県はその運搬に疲弊するほどだった。 玄宗は、勤政楼の祝宴において玉座の東隣に安禄山を特別に座らせるほどの寵愛ぶりであった。また、楊貴妃の養子になることを請い、それが実現すると入朝して玄宗より先に楊貴妃に拝礼した。 理由を問われると、「私は胡人なので、礼は母を先、父を後にします」と答えた。玄宗は大いに喜び、楊貴妃の兄弟姉妹(楊銛、楊錡、楊貴妃の3人の姉)に義兄弟となるように命じ、これも実現している。皇太子の李亨が余りの寵愛はかえって驕りを生むだろうと玄宗に忠告したが、聴かれることはなかった。 この頃、安禄山は范陽の北に雄武城を築き、同羅(鉄勒の一部)、契丹、奚の騎馬民族出身の曳落河(胡語で勇士の意味)を集め、軍馬や家畜を集めていた。 また、胡人の商人を各地に派遣して、毎年、大量の品や衣を納付させていた。商人たちに引見した時には、生け贄の儀式を行い、女巫に舞わせ、自分を神になぞらえさせていた。 これを知った隴右、朔方、河西、河東節度使の王忠嗣が、何度も「安禄山は必ず謀反するでしょう」と上奏するが、同年、王忠嗣は失脚した。
748年(天平二〇年):戊子
栄叡が再び大明寺の鑑真を訪れた。懇願すると、鑑真は5回目の渡日を決意する。 6月に出航し、舟山諸島で数ヶ月風待ちする。 11月に日本へ向かい出航したが、激しい暴風に遭い、14日間の漂流の末、遥か南方の海南島へ漂着した。鑑真は当地の大雲寺に1年滞留し、海南島に数々の医薬の知識を伝えた。そのため、現代でも鑑真を顕彰する遺跡が残されている。
唐/安禄山、玄宗より武勲を賞する鉄券を与えられる。 楊貴妃の3人の姉に国夫人が授けられる。毎月10万銭を化粧代として与えられた。楊銛は上柱国に、またいとこの楊国忠も御史中丞に昇進し、外戚としての地位を固めてきている。 玄宗が遊幸する時は、楊貴妃が付いていかない日はなく、彼女が馬に乗ろうとする時には、高力士が手綱をとり、鞭を渡した。彼女の院には絹織りの工人が700名もおり、他に装飾品を作成する工人が別に数百人いた。 権勢にあやかろうと様々な献上物を争って贈られ、特に珍しいものを贈った地方官はそのために昇進した。
749年(天平感宝元年/天平勝宝元年):己丑
陸奥国司百済王敬福が朝廷に黄金を献上(日本での産金の最古の記録)。
東大寺大仏造営にあたり宇佐八幡宮より八幡神が勧請され手向山八幡宮が創建される。
聖武天皇が譲位し、第46代孝謙天皇即位する。
初の男性の太上天皇となる。黄金の献上を祥瑞とし、元号を「天平勝宝」と改める。
皇太后となった母・光明子(光明皇后)が後見し、皇太后のために紫微中台が新設された。長官には皇太后の甥の藤原仲麻呂(後に恵美押勝に改名)が任命され、皇太后を後盾にした仲麻呂の勢力が急速に拡大する。 藤原清河が、孝謙天皇即位に伴い参議に任じられ、兄・永手に先んじて公卿に列した。
鑑真を説得した榮叡は、病を得て端州龍興寺で死去。親友同士であり苦楽を共にした普照が、榮叡の最期を看取った。
2月、陸奥国、黄金を献上する。
4月14日、元号を、「天平感宝」と改める。
5月、大安寺など12寺に地・稲などを寄進する。
5月4日(天平21年4月14日)、天平感宝に改元。
7月2日、娘の阿倍内親王(孝謙天皇)に譲位(一説には天皇が独断で出家してしまい、それを受けた朝廷が慌てて退位の手続を取ったともいわれる)。
8月19日(天平感宝元年7月2日)、聖武天皇が譲位し、阿倍内親王が即位し、第46代天皇・孝謙天皇となる。
天平勝宝に改元。
アブー・アル=アッバース(サッファーフ)がイラクのクーファでアッバース朝を建てる。
750年(天平勝宝二年):庚寅
9月、藤原清河が遣唐大使に任じられる。副使には大伴古麻呂と吉備真備が任じられた。
唐/安禄山、東平郡王に任じられる。同年に、河北道采処置使も兼ねることとなった。奚・契丹に酋長を宴会に呼び、毒酒で酔わせ、数千人を穴埋めとした。酋長の首を献上しており、このようなことが四回もあったと伝えられる。 入朝すると、玄宗は楊国忠や楊貴妃の兄弟姉妹に、途上で迎えさせた。奚の捕虜8千人と私鋳した銭を献上した。 楊貴妃は、また玄宗の機嫌を損ね、宮中を出され屋敷まで送り返される。(『楊太真外伝』によると、楊貴妃が寧王の笛を使って吹いたからと伝えられる)。 しかし、吉温が楊国忠と相談の上で取りなしの上奏を行い、楊貴妃も髪の毛を切って玄宗に贈った。玄宗はこれを見て驚き、高力士に楊貴妃を呼び返させた。『楊太真外伝』によると、その以降、さらに愛情は深まったとされる。
アブー・アルアッバースがウマイヤ朝を倒してアッバース朝を起こし、バグダッドを首都に定める。
アッバース朝初代宰相(ワズィール)アブー・サラマが暗殺され、以後シーア派の粛清が続く。
ベンガル地方にパーラ朝が成立。