西暦751年〜760年

751年(天平勝宝三年):辛卯
懐風藻が完成。現存する日本最古の漢詩集。
鑑真は揚州に戻るため海南島を離れた。その途上、端州の地で栄叡が死去した事を知る。動揺した鑑真は広州から天竺へ向かおうとしたが、周囲に慰留された。この揚州までの帰上の間、鑑真は南方の気候や激しい疲労などにより、両眼を失明してしまう。
唐/安禄山、誕生日に玄宗と楊貴妃から多くの贈り物を贈られる。 安禄山が入朝した時、安禄山を大きなおしめで包んだ上で女官に輿に担がせて、「安禄山と湯船で洗う」と述べて玄宗を喜ばせた。安禄山は宮中に自由に出入りするようになる。その後も、安禄山と食事をともにして夜通し宮中に入れたため、醜聞が流れたという。 その後、安禄山は河東節度使を兼任し、長男の安慶宗は郡主と婚姻し、太僕卿に任じられ、その弟の安慶緒は鴻臚卿に任じられた。これにより、范陽、平盧、河東の3つの節度使を兼ねることとなった。部下の劉駱谷を長安にとどめて情報を収集させ、毎月、献上品を都にとどけた。 同年、兵5、6万を率いて契丹と交戦したが、長雨によって弓矢が濡れて兵士が困窮しているところに、契丹と奚に挟み討たれ、武将の何思徳は捕らえられてほぼ全滅させられた。 安禄山はその髪飾りを射られ、旗下の20数名と逃亡して穴に落下したが、次男の安慶緒に救われて平盧城まで逃走している。またこの頃から、宰相の楊国忠が、安禄山が必ず反乱を起こすという上奏を、何度もおこなっている。
唐の高仙芝(こうせんし)中央アジアに遠征し、タラス河畔でアッバース朝に敗れる。
新羅で仏国寺が建立される 製紙法がイスラムに伝わる。
フランク王国のピピン3世(小ピピン)がメロヴィング朝のキルデリク3世を廃して王となり、カロリング朝が成立する。
ランゴバルド王国アイストゥルフがラヴェンナ総督府を攻略。東ローマの北イタリア支配が終わる。
752年(天平勝宝四年):壬辰
東大寺大仏開眼供養が執り行われる。
淡海三船(三舩)、淡海真人の姓を賜る。卒伝に「性識聡敏にして群書を渉覧しもっとも筆札を好む」と見え、大学頭・文章博士(もんじょはかせ)として石上宅嗣(いそのかみのやかつぐ)と並ぶ文人の首と称された。
閏3月、藤原清河、吉備真備らを遣唐使に派遣。 出発にあたり清河は節刀を拝し、正四位下に叙される。遣唐使一行は唐に到着して長安に入り、玄宗に謁し、君子人なりと称賛された。
東大寺正倉院が創建。
再び佐渡国を建てる。
唐/安禄山、正月に長安に入朝した時に、高力士が間に入って王忠嗣の後任である哥舒翰と開いた宴の席で、口論となり不仲となる。 李林甫の死後、楊国忠は唐の大権を握った。この頃、楊銛と秦国夫人は死去するが、韓国夫人・虢国夫人を含めた楊一族の横暴は激しくなっていった。 また、楊国忠は専横を行った上で外征に失敗して大勢の死者を出し、安禄山との対立を深めたため、楊一族は多くの恨みを買うこととなった。 安禄山、20万と号する兵を集め、契丹を討とうとした。玄宗に朔方節度使の阿布思の援助を求めたが、阿布思は安禄山の襲撃を怖れて、唐に反して漠北に帰ってしまった。
753年(天平勝宝五年):癸巳
1月、藤原清河ら遣唐使一行は、諸藩の朝賀に出席。その席上、日本の席次は西畔(西側)第二席で吐蕃の次であるはずなのに、新羅が東畔第一席で日本より上席だったことに抗議、新羅と席を替わらせて日本の面目を保っている。
12月、清河ら遣唐使一行は、在唐が35年にもおよび唐の高官になっていた阿倍仲麻呂を伴って帰国の途につく。日本への渡航を望む鑑真一行も乗船を希望。しかし、明州当局の知るところとなり、唐が鑑真の出国を禁じたため清河は乗船を拒否した。しかし副使の大伴古麻呂が独断で鑑真を自身の船に乗せる。
11月16日(12月15日)、遣唐船(全三船)は楊州を出航。
11月21日(12月20日)、遣唐使第三船が阿児奈波嶋(沖縄)に到着。
11月22日(12月21日)、遣唐使第一船第/二船、藤原清河、大伴古麻呂、唐僧の鑑真が法進ら8人を伴い阿児奈波嶋(沖縄)に到着。3船は約半月間、沖縄に滞在する。
12月6日(754年1月3日)、南風を得て、第一船・第二船・第三船は同時に沖縄を発して多禰嶋(国)、現在の種子島に向けて就航する。 出港直後に大使・藤原清河と阿倍仲麻呂の乗った第一船は岩に乗り上げ座礁したが、第二船・第三船はそのまま日本(多禰嶋)を目指した。 遣唐使第一船、清河と仲麻呂の乗る第一船は逆風に遭い唐南方の驩州(かんしゅう、現在のベトナム北部)に漂着。土人に襲われて船員の多くが殺害されるが、清河と仲麻呂は僅に身をもって免がれた。この後に、第一船の一行は唐に戻ることとなる。
12月12日(754年1月9日)、遣唐使第二船・第三船は、益救嶋(現在の屋久島)に到着。一旦、朝廷や大宰府の受け入れ態勢を待つ。
12月18日(754年1月15日)、遣唐使第二船・第三船は、大宰府を目指し出港する。
12月19日(754年1月16日)、遣唐使第二船・第三船が遭難する。
12月20日(754年1月17日)、古麻呂と鑑真の乗った第二船は、秋目(秋妻屋浦。鹿児島県坊津)に漂着。後に吉備真備の乗った第三船は紀州(和歌山県太地)に漂着し帰朝に成功。
12月26日(754年1月23日)、大安寺の延慶に迎えられながら大宰府に到着。鑑真は大宰府観世音寺に隣接する戒壇院で初の授戒を行う。
唐/阿布思がウイグルに攻撃され、逃亡したので、安禄山はその配下の九姓鉄勒を降伏させ、その軍を手にいれた。皇太子の李亨が再度安禄山の危険性を伝えるが、玄宗は聞き入れなかった。 また、安禄山の従兄弟である安思順も安禄山と不仲であり、必ず謀反すると訴えていたと伝えられる。 玄宗は宦官の輔璆琳に調査させたが、彼は賄賂をもらって安禄山の忠誠を盛んに伝えた。楊国忠は「安禄山を召しても来ないでしょう」と玄宗に告げたが、安禄山は玄宗の招集に応じて上京している。
ダンティドゥルガがラーシュトラクータ朝を興す。
754年(天平勝宝六年):甲午
2月4日(754年3月2日)、奈良の朝廷(平城京)へ到着。
遣唐使大伴古麻呂、唐僧鑑真・法進ら8人を伴い、帰国。
鑑真は、平城京に到着して聖武上皇以下の歓待を受け、孝謙天皇の勅により戒壇の設立と授戒について全面的に一任され、東大寺に住することとなった。
4月、鑑真は東大寺大仏殿に戒壇を築き、上皇から僧尼まで400名に菩薩戒を授けた。これが日本の登壇授戒の嚆矢。併せて、常設の東大寺戒壇院が建立。
10月、双六を堅く禁断する。 日本にはじめて唐から砂糖(赤糖)が伝来する。
唐/安禄山が正月に華清宮にて謁見。玄宗に、楊国忠から迫害されていることを訴え、左僕射・隴右群牧等都使に就任し、吉温を副官として武部侍郎・御史中丞に就任させる。
3月には、范陽に向かって、日々、3、4百里の速度で帰還し、帰り着いた。その後宰相となるように運動するが、楊国忠に阻まれ、吉温も汚職の罪で左遷させられる。この時、安禄山は反乱を決意したと伝えられる。安禄山の反状を訴えるものは、玄宗の怒りを買い、縛り上げられて安禄山の元に搬送された。 楊貴妃の父の楊玄淡に、太尉、斉国公、母の李氏に梁国夫人が追贈され、楊玄珪は、工部尚書に任命される。 楊一族は、唐の皇室と数々の縁戚関係を結ぶが、安禄山との亀裂は決定的になってきた。
755年(天平勝宝七年):乙未
遣唐使/藤原清河と仲麻呂は長安に帰着。清河は河清と名を改めて唐朝に出仕することになり、秘書監になった。
唐/安禄山は腹心の何千年を都に派遣して漢人の将軍を胡人に代える許可をもらう。玄宗が再び召すが、病と称して赴かなかった。安慶宗の婚礼も辞した。楊国忠は安禄山の秘密を暴こうと京兆尹・李峴を動かし、長安の安禄山の邸宅を囲ませて家人を捕らえた。 安禄山はこれに抗議し、李峴は零陵太守に左遷させられた。 馬3千頭を献上する名目で6、7千の兵を都に入れようとしたが、達奚珣の反対にあい、玄宗から却下された。その後、玄宗からの使者に対しても尊大な態度をふるまい、監禁も行った。
唐/6月の彼女の誕生日に玄宗は華清宮に赴き、長生殿において新曲を演奏し、ちょうど南海からライチが届いたため「茘枝香」と名付けた。この時、随従の臣下からの歓喜の声が山々に響いたと伝えられる。
11月、唐で安史の乱が起こる。(- 763年) 安禄山が宰相・楊国忠(楊貴妃の従兄)の打倒と政治体制の粛正を訴えて幽州にて挙兵。盟友である史思明、参謀の次男安慶緒、漢人官僚の厳荘(げんそう)や高尚、突厥王族出身の蕃将の阿史那承慶、契丹人の孫孝哲らとが参画した。 当時、安禄山は唐の国軍の内のかなりの割合の兵力を玄宗から委ねられていた。親衛隊8000騎、藩漢10万〜15万の軍団で構成された。 唐政府軍は平和に慣れきっていたことから、全く役に立たず、安禄山軍は挙兵からわずか1ヶ月で、唐の副都というべき洛陽を陥落させた。
唐軍は洛陽から撤退。
756年(天平勝宝八年):丙申
日本/正倉院の始まり(聖武太上天皇の77回忌に当たり、遺品を東大寺に施入する)。
2月、左大臣橘諸兄が失脚。
唐/安禄山が唐を大燕国として建国を宣言。大燕聖武皇帝を称する。 唐軍は潼関まで退いた。この時、長安の玄宗は親征を決意し、太子・李亨に国を任せることを画策したが、楊国忠・韓国夫人・虢国夫人の説得を受けた楊貴妃は、土を口に含んで、自らの死を請い、玄宗を思いとどまらせたと伝えられる。 司令官封常清は敗戦の罪で、高仙芝は退却と着服(これは冤罪であった)の罪で処刑された。新たに哥舒翰(かじょかん)が兵馬元帥に任じられ、潼関に赴任した。哥舒翰は病気をもって固辞しようとしたが玄宗に拒絶されたと伝えられる。 哥舒翰は御史中丞の田良丘に指揮をゆだねたが統率がとれず、また騎兵を率いる王思礼と歩兵を率いる李承光が対立しており、軍の統制は低かった。
5月、ムサラの戦い(スペイン語版、カタロニア語版)(14日 - 15日)でアブド・アッラフマーン1世が勝利。
6月、日本/筑前の怡土城を築く。
6月、唐/蕃将の哥舒翰に命じ潼関から東に出撃させた。哥舒翰は安禄山軍に大敗し捕らえられ、潼関も陥落した。
6月4日、大和/聖武天皇が崩御。
6月13日、唐/唐朝廷は哥舒翰大敗と潼関陥落の報において。パニックに陥る。玄宗は、楊国忠の進言により長安の宮廷を脱出し、蜀(現在の四川省)へと敗走する。楊貴妃、楊国忠、高力士、李亨らが同行することになった。
7月15日、唐/楊貴妃(唐/玄宗の妃)が死去。 馬嵬(陝西省興平市)に至ると、乱の原因となった楊国忠を強く憎んでいた陳玄礼と兵士達は、楊国忠を安禄山の挙兵を招いた責任者として断罪したあげく、楊国忠と韓国夫人たち、息子の楊暄・楊昢・楊曉・楊晞兄弟を殺害した。 さらに陳玄礼らは玄宗に対して、皇帝を惑わせた楊貴妃もまた楊国忠と同罪であるとして「賊の本」として楊貴妃を殺害することを要求した。 玄宗は「楊貴妃は深宮にいて、楊国忠の謀反とは関係がない」と言ってかばったが、高力士の進言によりやむなく、楊貴妃に自殺を命ずることを決意した。 『楊太真外伝』によると、楊貴妃は「国の恩に確かにそむいたので、死んでも恨まない。最後に仏を拝ませて欲しい」と言い残し、高力士によって縊死(首吊り)させられた。この時、南方から献上のライチが届いたので、玄宗はこれを見て改めて嘆いたと伝えられる。 陳玄礼らによって、その死は確認され、死体は郊外に埋められた。(馬嵬駅の悲劇)
安禄山は楊貴妃の死を聞き、数日も泣いたと伝えられる。その後、馬嵬に住む女性が楊貴妃の靴の片方を手に入れ、旅人に見物料を取って見せて大金持ちになったと伝えられる。 玄宗は後に彼女の霊を祀り、長安に帰った後、改葬を命じたが、礼部侍郎・李揆からの反対意見により中止となった。しかし、玄宗は密かに宦官に命じて改葬させた。この時、残っていた錦の香袋を宦官は献上したという。また、玄宗は画工に彼女の絵を描かせ、それを朝夕眺めていたという。 失意の中、玄宗は退位した。皇太子の李亨が霊武で粛宗として即位し、反乱鎮圧の指揮を執ることとなる。
9月、唐/粛宗は、ウイグル帝国に援軍を求めるため、モンゴリアに使者として敦煌郡主の承宷(じょうしん)と、テュルク系の九姓鉄勒僕固部出身の僕固懐恩、ソグド系蕃将の石定番らを派遣する。
10月、唐/オルドバリクの会見でウイグル帝国第二代ハーンの葛勒可汗は要請に応じる。
11月、唐/安禄山軍の蕃将阿史那承慶は自身が突厥王族出身でもあったことから、突厥・トングラ(同羅)・僕骨軍の5000騎を率いて、長安から北へ進軍し、粛宗のいた霊武を襲撃する。葛勒可汗率いるウイグル軍と唐の郭子儀軍は合流し、阿史那承慶軍を撃破する。
日本では、安禄山は大燕聖武皇帝(だいえんせいぶこうてい、聖武は安禄山が立てた元号)を名乗ったと伝えられた。 ほぼ同時期の日本では、官職名等を唐風に変更しようとする動きがあり、天皇の称号も皇帝に変えようとする動きがあった。 しかし、聖武天皇の諡を皇帝にした場合、「聖武皇帝」となり、安禄山と同じものとなる。そこで、反乱軍の総帥と同じ諡にするのは如何なものかとの声が上がり、沙汰止みになったといわれる。
フランク王小ピピンが北イタリアをランゴバルドから奪い、ローマ教皇に寄進する。教皇領の起源。(754年ないし755年とも言われる)
ウマイヤ家のアブドゥル・ラフマーンがイベリア半島で独立しコルドバに後ウマイヤ朝を興す。
イスラム帝国は分裂する。
757年(天平宝字元年):丁酉
統一新羅の景徳王による地名の中国化・漢字2文字化
1月、唐/決起以来、長安を制圧した安禄山は、次第に目が悪くなっていたが、この時に病に倒れ失明(糖尿病性網膜症とも言われる)し、悪性のできものもできていたので、その影響から周りの人間に対し粗暴になっていた。 皇帝を称して以来、重んじていた厳荘もまた、宦官の李猪児とともに、鞭打たれていた。 この時、安禄山は、太子に任じていた安慶緒を廃して、妾の段氏の生んだ三男の安慶恩に後を継がせようとしていた。これを知った厳荘が、安慶緒と李猪児と共謀し、李猪児が安禄山の腹を刺して暗殺した。 箝口令がひかれ、安禄山は重病であるとされ、安慶緒が後を嗣ぎ、安禄山は太上皇とされた後、喪をなされた。安禄山が皇帝を名乗って1年、55歳であった。 安慶緒が父の後を継いで皇帝となる。安禄山の盟友であった史思明はこれに反発し、范陽(北京)に帰って自立してしまう。
1月30日(天平勝宝9歳1月6日)、日本/奈良時代の政治家・歌人である橘諸兄が死去。
2月、唐/安慶緒は、鳳翔(陝西省鳳翔県)にまで南進する。
3月、日本/平城京の孝謙天皇の寝殿より「天下大平」の4文字が現れるという事が起きる。その後、聖武天皇の遺詔によって立太子していた道祖王(ふなどおう)を廃し、藤原仲麻呂(恵美押勝)の息のかかった大炊王(おおいおう)を皇太子にする。
4月、日本/18〜21歳を中男に、22歳以上を正丁(成人)に改める。
4月26日(天平勝宝9歳4月4日)、日本/大炊王(後の第47代天皇・淳仁天皇)が立太子
5月、日本/能登・安房・和泉国を再び分立する。
7月、日本/藤原氏と朝廷を二分していた橘氏(橘奈良麻呂ら)を、道祖王と共に謀反(光明子の暗殺)を企てたとして捕らえる。しかし、光明子が「この人たちが私を殺すような計画を立てるはずがない」として全員を釈放する。予期せぬ事に慌てた仲麻呂が、再び捕らえ直して処刑。約四百人にのぼる人々が処罰された(道祖王の変)。
7月、日本/右大臣藤原豊成を大宰員外帥に左遷。
9月、唐/葛勒可汗は太子葉護と将軍帝徳ら3000〜4000騎を唐援軍として出兵する。粛宗は喜び、元帥の広平王(のちの代宗)に命じて葉護太子と兄弟の契りを交わした。 唐・ウイグル帝国連合軍は15万の軍勢となり、広平王を総帥とし僕固懐恩、郭子儀らを司令官として大挙して長安に迫った。
10月、唐/広平王及び副元帥の郭子儀は唐・ウイグル連合軍を率いて燕軍と陝州の西で戦った。この戦いでは、郭子儀軍は最初は曲沃に駐屯した。 葉護太子は車鼻施吐撥裴羅将軍らを率いて南山に沿って東へ進み、谷の中で賊軍の伏兵と遭遇したが、全滅させた。 郭子儀は新店で賊軍に遭遇して戦ったが、賊軍の勢いが強く、郭子儀の軍隊は数里退却したが、ウイグル軍が背後より襲撃して安軍は敗走した。郭子儀と葉護太子の軍は賊軍を20里あまり追撃した。 賊軍の死者は数えきれぬほどで、郭子儀と葉護太子の軍は敵の首を十余万も斬り、地上に倒れ伏した屍体は30里も続いたという。 燕軍の武将の厳荘が大敗したことを安慶緒に報告すると、安慶緒は東京(洛陽)を後にして敗走し、黄河を渡った。
11月、広平王、僕射郭子儀、葉護太子らが長安に凱旋する。葉護太子は司空忠義王に封じられ、金銀を送られ、さらに唐は毎年、絹2万匹を支給することを約束した。
758年(天平宝字二年) : 戊戌
孝謙天皇は、大炊王に譲位する。よって淳仁天皇が即位する。 権力は仲麻呂と光明皇太后が握っている。 淳仁天皇の勅により、鑑真は大和上に任じられ、政治にとらわれる労苦から解放するため僧綱の任が解かれ、自由に戒律を伝えられる配慮がなされた。 渤海から帰国した小野田守が日本の朝廷に対して、反乱の発生と長安の陥落、渤海が唐から援軍要請を受けた事実を報告し、これを受けた当時の藤原仲麻呂政権は反乱軍が日本などの周辺諸国に派兵する可能性も考慮して大宰府に警戒態勢の強化を命じる。 更に唐の対外影響力の低下を見越して長年対立関係にあった新羅征討の準備を行った(後に仲麻呂が藤原仲麻呂の乱(恵美押勝の乱)で処刑されたために新羅征討は中止された)。
5月、唐/ウイグル側が唐に公主降嫁を要求する。粛宗はやむなく、実の王女を「寧国公主」に封じて降嫁させ、葛勒可汗を英武威遠毘伽可汗(えいぶいえんビルグカガン)に冊立する。
7月、日本/60歳以上を老丁、65歳以上を耆老と改める。
9月3日、日本/顔真卿が、顔杲卿らを追悼するために、祭姪文稿を記す
9月7日(天平宝字2年8月1日)、日本/孝謙天皇が譲位し、大炊王が即位して、第47代天皇・淳仁天皇となる。
9月7日、日本/陸奥に桃生城、出羽に雄勝城を築く
9月7日、日本/唐で、塩と鉄の専売制が施行される 9月7日、日本/東大寺大仏殿竣工
759年(天平宝字三年) : 己亥
鑑真、新田部親王の旧邸宅跡が与えられ唐招提寺を創建し、戒壇を設置した。戒律の他、彫刻や薬草の造詣も深く、日本にこれらの知識も伝えた。また、悲田院を作り貧民救済にも積極的に取り組んだ。 藤原清河を迎えるため高元度を大使とする迎入唐使が渤海国経由で入唐した。しかし当時の唐は安史の乱で争乱状態だったため、行路の危険を理由に唐朝は清河の帰国を許さなかった。
3月、唐/史思明が洛陽の安慶緒を攻め滅ぼし、ここで自ら大燕皇帝を名乗り自立する。
4月、唐/葛勒可汗が死去すると、すでに何らかの罪で殺害されていた長男の葉護太子でなく、末子の移地健が第三代ハーンとして即位する。これがブグ・カガン(牟羽可汗)である。
5月、日本/常平倉を置き、左右平準署に掌握させる。
9月、日本/新羅征伐のため、北陸・山陰・山陽・南海諸道に、船500艘を造らせる。
760年(天平宝字四年) : 庚子
1月、日本/恵美押勝(藤原仲麻呂)を太師(太政大臣)に任ずる。
3月、日本/神銭万年通宝・銀銭大平元宝・金銭開基勝宝を鋳造する。
5月7日(天平宝字4年4月18日)、日本/奈良時代の唐の渡来僧、道璿が死去。
6月9日(天平宝字4年閏4月18日)、日本/奈良時代の僧、隆尊が死去。
7月27日、日本/光明皇太后が死去。 中国の唐の詩人、儲光羲が死去。 奈良時代のインドの渡来僧、菩提僊那が死去。 揚州大虐殺が起こる。 『旧唐書』に曰く、「上元元年,為平盧節度都知兵馬使,兼鴻臚卿,於鄭州破賊四千余眾,生擒逆賊大將四人,牛馬器械不可勝數。尋為鄧景山所引,至揚州,大掠百姓商人資產,郡內比屋發掘略遍,商胡波斯被殺者數千人」(列伝第七十四、田神功伝)
安史の乱や李希烈の乱平定に参与した田神功(?-774年)が、揚州で掠奪し、胡人やペルシア人商人やイスラム教徒(大食)などの外国人を数千人虐殺した。