西暦761年〜770年

761年(天平宝字五年) : 辛丑
鑑真の指示のもと、日本の東西で登壇授戒が可能となるよう、大宰府観世音寺および下野国薬師寺に戒壇が設置され、戒律制度が急速に整備される。 平城宮改修のため都を一時近江国保良宮に移した際、病に伏せった孝謙上皇は、看病に当たった弓削氏の僧道鏡を寵愛するようになり、それを批判した淳仁天皇と対立、孝謙上皇は淳仁天皇から天皇としての権限を取り上げると宣言した。
2月、唐/史思明が不和により、長男の史朝義に殺害される。
11月、日本/東海・南海・西海3道に節度使を置き、兵船・兵士を動員する。
スペイン、オビエド開基される。 カウィール・チャン・キニチがドス・ピラスを放棄し、アグアテカに遷都する。
762年(天平宝字六年) : 壬寅
藤原仲麻呂の横暴が激しくなる。これを期に淳仁天皇と孝謙上皇に対立関係が生じる。ここで孝謙上皇は、策を考えるために道鏡を抜擢する。
五月、淳仁天皇と孝謙上皇の間に、決定的な亀裂が生じる。両者はそれぞれ中宮院と法華寺に陣取りにらみ合う(恵美押勝の乱)。
六月、孝謙上皇は朝堂にて官位五位以上の役人を集め、淳仁天皇を弾劾する宣命を読み上げる。これにより、淳仁天皇、藤原仲麻呂ともに、朝廷を独占しようとした事が公になり、他の藤原氏すべてを的に回す事になる。
六月、この頃、勅旨田を置く。 回鶻(ウイグル)の牟羽可汗がマニ教を受容する。
アッバース朝のカリフ・マンスールがハーシミーヤからバグダードを開基。
唐の代宗即位、宦官の程元振を使って李輔国を殺させる。 唐で、五紀暦が使われ始める
4月、唐/玄宗が逝去。続いて、粛宗も逝去し、代宗が即位する。
8月、唐/唐の代宗は安政権の残党史朝義を討伐するためにウイグルのブグ・カガン(牟羽可汗)に再度援軍を要請するために使者を派遣していたが、同じ頃、先に史朝義が「粛宗崩御に乗じて唐へ侵攻すべし」とブグを誘い、ブグ・カガンは唐軍を裏切り、ウイグル軍10万を率いてゴビ砂漠の南下を始めていた。 唐の使節劉清潭はそれに遭遇したので、唐への侵攻を踏みとどまるようブグを説得したが聞き入れられず、ウイグル軍は南下を進めた。 劉清潭からの密使による報告で唐朝廷内は震撼した。僕固懐恩の娘のカトゥン(可敦)がブグの皇后であったことから、僕固懐恩が娘婿であるブグを説得したとされる。 説得に応じたウイグル軍は寝返り、あらためて唐側に付いて史朝義討伐に参加した。
10月、唐・ウイグル連合軍は、洛陽の奪回に成功。史朝義は敗走し、范陽に逃れんとしていた。
10月22日、唐の詩人、詩仙と称される李白が死去。
11月8日、 聖武天皇の夫人、県犬養広刀自が死去。
763年(天平宝字七年) : 癸卯
唐にいる藤原清河を在唐大使のまま、常陸守に任じる。 三論宗の僧、安澄が死去。 道鏡が少僧都に任じられる。
鑑真が唐招提寺で死去(遷化)。76歳。死去を惜しんだ弟子の忍基は鑑真の彫像(脱活乾漆 彩色 麻布を漆で張り合わせて骨格を作る手法 両手先は木彫)を造り、現代まで唐招提寺に伝わっている(国宝唐招提寺鑑真像)が、これが日本最古の肖像彫刻とされている。
1月、唐/史朝義が追撃され自殺する。こうして8年に及ぶ安史の乱は終結。
10月、吐蕃のティソン・デツェン王が唐の混乱に乗じて侵攻し、長安を一時占領。半月後には撤退する。 この10年近く続いた反乱により、唐王朝の国威は大きく傷ついた。また、唐王朝は反乱軍を内部分裂させるために反乱軍の有力な将軍に対して節度使職を濫発した。これが、地方に有力な小軍事政権(藩鎮)を割拠させる原因となった(河朔三鎮)。 以降の唐の政治は地方に割拠した節度使との間で妥協と対立とを繰り返しながら徐々に衰退していった。 唐が弱体化していくとともに、ウイグル帝国とチベット(吐蕃)、契丹が台頭する。 この後も、安禄山の旧領はその配下であった3人が節度使として任命され、「河北三鎮」として唐に反抗的な態度を続けることになる。 河朔三鎮は、河北に設置された3つの藩鎮、即ち、幽州節度使と成徳節度使、魏博節度使のことであり、安禄山及び史思明の部下であった軍人が節度使を務めた。これらの藩鎮は、管轄地域の戸籍を唐王朝に報告せず、徴収した税を自分のものにし、配下の役人や軍人の人事も勝手に行った。 この地域の歴代の節度使は、ソグド系突厥や契丹、奚の末裔であった。彼らは、藩鎮における統治や、唐王朝との折衝を行うために、科挙には及第したが任用試験を通らなかった者を登用した。 幽州節度使は、後に契丹が建国した遼へと継承され、成徳節度使と魏博節度使は、五代十国の国家のうち、突厥の沙陀族が支配者となった後唐・後晋・後漢の母体となった。
6月25日、唐の渡来僧で日本における律宗の開祖である鑑真が死去。
8月、山陽・南海2道の節度使を廃止する。
9月、この頃、各地に正倉火災しばしば起こる。
764年(天平宝字八年) : 甲辰
藤原清河を在唐大使のまま、従三位に昇叙。以降は、清河は帰国できないまま在唐十余年に及ぶ。この間、唐の婦人と結婚して喜娘という娘を儲ける。 唐/僕固懐恩の乱が起こる。娘がブグ・カガンの后になっていたことや出身がウイグルと同じ九姓鉄勒 の僕固部であったことから宦官などから謀反の疑いをかけられた僕固懐恩が吐蕃の衆数万人を招き寄せて奉天県に至ったが、朔方節度の郭子儀によって防がれた。
7月、東海道節度使を廃止する。 藤原仲麻呂の乱(恵美押勝の乱)が起こる。
9月、追い詰められた藤原仲麻呂、兵を起こす(恵美押勝の乱)が、吉備真備に捕らえられ、近江の地にて敗戦。白壁王(後の光仁天皇)が鎮圧に功績を挙げ、称徳天皇(孝謙天皇が重祚)の信任を得る。 乱を平定した孝謙上皇は、淳仁天皇のもとに兵数百を差し向けて、宣命を読み上げさせる。後、孝謙天皇は淳仁天皇を淡路国に流してしまう。
11月6日、淳仁天皇を追放して孝謙上皇が重祚し、称徳天皇となった。 即位後、藤原仲麻呂の乱で太政大臣の藤原仲麻呂が誅されたため、道鏡を太政大臣禅師とするなど重用し、専制政治を行った。また下級貴族ながら実力のある吉備真備を右大臣に用いて、左大臣の藤原永手とのバランスをとった。
765年(天平神護元年) : 乙巳
孝謙上皇、称徳天皇として即位。 唐/秋、僕固懐恩はウイグル,吐蕃,吐谷渾,党項,奴剌の衆20数万を招き寄せて、奉天,醴泉,鳳翔,同州に侵攻した。しかしこの時、僕固懐恩が死去。
3月、墾田永年私財法によって開墾が過熱したため、寺社を除いて一切の墾田私有を禁じた。
9月、神功開宝を鋳造し、旧銭と並行する。 称徳天皇の発願で大和西大寺が創建される。 淡海三船、朝廷を誹謗したとして大伴古慈斐(おおとものこしび)とともに禁固された。恵美押勝の乱の功によって東山道巡察使に任じられた。
10月、唐/吐蕃の馬重英らは月の初めに撤退し、ウイグル首領の羅達干(ラ・タルカン)らも2千余騎を率いて涇陽の郭子儀もとへ請降しに来た。 これ以降、ウイグルと唐の和平が保たれたが、唐国内で安史の乱鎮圧の功を鼻にかけた回紇人の暴行事件が相次ぎ、大暦年間(766年 - 779年)において社会問題となった。
12月、道鏡は大政大臣禅師に任じられ、事実上の最高権力を握る事となる。 この年の年号(神護元年)の木簡で式部省大学寮のペルシア人官僚破斯清通の名が記されていたものが平城宮跡から出土している。
766年(天平神護二年) : 丙午
道鏡、法王に任じられる。法王とは、天皇に準じる地位である。 道鏡は、仏教の理念に基づいた政策を推進した。関与した政策は仏教関係の政策が中心であったとされている。道鏡の後ろ盾を受け、弟の浄人が8年間で従二位大納言にまで昇進するなど、一門で五位以上の者は10人に達した。これに加えて道鏡が僧侶でありながら政務に参加することに対する反感もあり、藤原氏らの不満が高まった。 当時、奈良の平城京にあった日本仏教は権力を掌握し、政務に絡む各宗派僧院上層部による堕落が推測される。 白壁王(後の光仁天皇)は、大納言に昇進した。だが度重なる政変で多くの親王・王が粛清されていく中、白壁王は専ら酒を飲んで日々を過ごす事により凡庸・暗愚を装って難を逃れたと言われている。
767年(天平神護三年/神護景雲元年) : 丁未
3月、道鏡が法王宮職を置く。
7月、内賢省を置く。
9月15日、後の天台宗の開祖、最澄が誕生する。
10月、陸奥国に伊治城を築く。 淡海三船、苛政のため東山道巡察使を解任される。 ブルガリア、空位時代始まる。 シャイレーンドラ朝軍が北ベトナムの安南都護府を攻撃する。
6月28日、ローマ教皇パウルス1世が死去。
768年(神護景雲二年) : 戊申
藤原永手が鹿島・香取・枚岡各社の祭神を勧請し春日大社を創建。春日大明神として開幕。
2月、筑前の怡土城完成する。 続日本紀に全国から9人が朝廷の褒美を得た記述がある。
対立教皇コンスタンティヌス2世即位、カールがフランク王に即位する。
9月28日、カロリング朝フランク王国の国王ピピン3世が死去。
769年(神護景雲三年) : 己酉
宇佐八幡宮神託事件が起こる。
太宰主神(だざいのかんあずさ)・習宣阿會麻呂(すげのあそまろ)が、宇佐八幡宮の「神託」を上奏する。内容は「道鏡をして皇位につかしめば、天下大平ならむ」というもの。この事が、天平宝字元年(757年)に寝殿に現れた「天下太平」の4文字と関わりあるものかどうかは不明である。 称徳天皇は、和気浄麻呂(わけのきよまろ)に、この神託が「たしかに下ったものか」事の真偽を確かめるべく、宇佐八幡宮へと遣わす。ところが、帰ってきた和気浄麻呂は、最初の報告とは、まったく異なった神託をもたらした。内容は「道鏡ではなく、天皇家の末裔をたてよ」というもの。この後、清麻呂は称徳天皇の怒りを買って大隅国へ配流された。 結果として、称徳天皇は道鏡擁立に失敗する。 尚、道鏡は河内の弓削連の出身であり、和気浄麻呂は藤原氏の豪族とつながっていた可能性がある。この時、天皇が本当に道鏡に皇位を譲ろうとしたのか、また道鏡が本当に皇位を望んだのかは真相は不明である。 その後、道鏡の故郷である河内国に由義宮を造営して、自らの政権の強化を志す。
2月、陸奥国の伊治城・桃生城に坂東の民を移す。
7月、7月頃、宇佐の神官を兼ねていた大宰府の主神(かんつかさ)、中臣習宜阿曾麻呂(なかとみのすげのあそまろ)が宇佐八幡神の神託として、天皇が寵愛を与えていた道鏡を皇位に就かせれば天下太平になる、と称徳天皇へ奏上する。 道鏡はこれを信じて、あるいは道鏡が習宜阿曾麻呂をそそのかせて託宣させたとも考えられているが、道鏡は自らが皇位に就くことを望む。 称徳天皇は側近の尼僧・和気広虫(法均尼)を召そうとしたが、虚弱な法均では長旅は堪えられぬため、弟の清麻呂を召し、姉に代わって宇佐八幡の神託を確認するよう、命じる。 和気清麻呂は天皇の使者(勅使)として八幡宮に参宮。宝物を奉り宣命の文を読もうとした時、神が禰宜の辛嶋勝与曽女(からしまのすぐりよそめ)に託宣、宣命を訊くことを拒む。 清麻呂は不審を抱き、改めて与曽女に宣命を訊くことを願い出て、与曽女が再び神に顕現を願うと、身の丈三丈、およそ9mの僧形の大神が出現し、大神は再度宣命を訊くことを拒むが、清麻呂は与曽女とともに大神の神託、「天の日継は必ず帝の氏を継がしめむ。無道の人(道鏡)は宜しく早く掃い除くべし」を朝廷に持ち帰り、称徳天皇へ報告した(宇佐八幡宮神託事件)。 清麻呂の報告を聞いた称徳天皇は怒り、清麻呂を因幡員外介にいったん左遷の上、さらに別部穢麻呂(わけべ の きたなまろ)と改名させて大隅国(現在の鹿児島県)に流罪とした。
10月、由義宮を西京、河内国を河内職と改める。 ローマ教皇ステファヌス3世、地方公会議を主宰。ローマ教皇の選出法を改定。聖像崇敬を確認。
770年(神護景雲四年/宝亀元年) : 庚戌
称徳天皇が天然痘で死去。 このとき、看病の為に近づけたのは吉備真備の娘だけで、道鏡は崩御まで会うことはなかった。また、病気回復を願う祈祷も行われなかったことから、十分な治療を施さずに見殺しにしたという説(さらに踏み込んで暗殺説)もある。 称徳天皇は生涯独身で子がなく、兄弟もなく、父聖武天皇にも兄弟がなく、他に適当な天武天皇の子孫たる親王、王が無かった。 そこで、左大臣藤原永手、右大臣吉備真備、参議藤原宿奈麻呂、同藤原縄麻呂、同石上宅嗣、近衛大将藤原蔵下麻呂らによる協議が行われた。白壁王と井上内親王の間には他戸王と酒人女王がいた。他戸王は女系ではあるものの天武天皇系皇族の最後の一人であるということから、その父親である白壁王が次期皇位継承者として推挙されたこれを受けて、62歳で即位することとなった。 称徳天皇の命で法隆寺など有力寺院に百万塔陀羅尼が奉納される。
8月、道鏡は失脚して下野国に配流され、彼が禁じた墾田私有は再開された。
9月、白壁王が和気清麻呂らを召還する。和気清麻呂は、その後、播磨・豊前の国司を歴任する。この時、清麻呂は自ら強く望んで、美作・備前両国の国造に任じられている。
10月1日(現10月23日)、白壁王(光仁天皇)が即位。
瑞亀献上により改元。井上内親王を皇后とし、他戸親王を皇太子とする。即位後においても、宮中においては、権力者の争いが絶えず、専ら酒を飲んで日々を過ごす事により凡庸・暗愚を装う日々は変わらなかった。
(光仁天皇は、宮中内での権力争いに生き残るため、愚帝を装っていた。後に山部親王を立太子した時にも、生き残るために愚帝を装う事を密かに忠言した。)
山部王には、親王宣下と共に四品が授けられ、後に中務卿に任じられたものの、生母の出自が低かったため立太子は予想されていなかった。
エリヤ、エルサレム総主教に就任(イリア2世。在位770-797年)。