西暦771年〜780年

771年(宝亀二年) : 辛亥
天台宗の僧、円澄が生まれる。
法相宗の僧、修円が生まれる。
6月、渤海使、出羽に来着する。
9月、左右平準所を廃止する。
10月27日(現12月7日)、東山道の武蔵国を東海道に編入。
フランク王カールマンが死亡。共同統治をしていたカール1世がフランク王国の単独の国王となる。
772年(宝亀三年): 壬子
宮中内において、天智天皇派(仏教支持派)と天武天皇派(神道(=古神道)支持派)による権力争いが続く。
2月、内賢省を廃止する。
3月2日、井上内親王を呪詛による大逆を図ったとして罪し皇后を廃し、皇太子の他戸親王も廃する。事によると、井上内親王は、難波内親王を呪ったとして幽閉され、連座して王に落とされた他戸親王もともに幽閉されてやがて二人とも変死したという。これによって天武天皇の皇統は完全に絶える。
5月13日、弓削道鏡が死去。
5月23日、豊後国速見郡敵見の郷(現在の別府市に相当)で、山崩れが発生。土砂は天然ダムを形成し、十数日後に崩壊。47人死亡、43軒埋没(続日本紀巻三二)。
5月27日、皇太子の他戸親王、皇太子を廃される。
8月、新旧両銭を等価にし、新銭のみを行う。
10月、寺院以外の開墾の禁を解除する(加墾禁止令の撤廃する)。
773年(宝亀四年): 癸丑
高野新笠から生まれた山部親王を立てて皇太子とした(のちの桓武天皇)。 この背景には山部親王とそれを擁立する藤原家の陰謀があったと考えられる。
1月29日(宝亀4年1月2日)、山部王(後の第50代天皇・桓武天皇)が立太子。その影には式家の藤原百川による擁立があったとされる。
3月、常平(物価調整)の法を定める。
6月、渤海使、能登に来着する。
774年(宝亀五年): 甲寅
この年から翌年にかけての1年間、原因は不明だが、宇宙から飛来する宇宙線の量が急増して平常時の20倍に達したことが、樹齢1900年など2種類の屋久杉に取り込まれた放射性炭素(炭素14)の濃度から判明した。 世界各地で火山活動が活発化し、洪水が発生したものと推測される。
奥州動乱が勃発。
四国のある豪商にて、佐伯真魚が生まれる。後の弘法大師空海上人。 真言宗の伝承では空海の誕生日を6月15日とするが、これは中国密教の大成者である不空三蔵の入滅の日であり、空海が不空の生まれ変わりとする伝承によるもので、正確な誕生日は不明である。
3月、歴任5年以上の員外国司を停廃する。
10月14日、天皇の同母姉・難波内親王が薨去。
10月19日、難波内親王を呪詛し殺害した巫蠱・厭魅の罪で、井上内親王と連座した他戸親王は庶人に落とされ、大和国宇智郡の没官の邸に幽閉された。
フランク王カールがランゴバルド王国を滅ぼす。都パヴィアを制圧し「ランゴバルドの鉄王冠」を取得。
775年(宝亀六年): 乙卯
宇宙から大量の宇宙線が地球に降り注いだ。
想定できる事象としては、集中豪雨に伴う洪水といった、世界規模の異常気象が考えられる。2012年6月4日の日本経済新聞にて、名古屋大学の増田公明准教授らが屋久杉の年輪の研究から、この件を解明した事が記載された。
英王立天文学会の発表によれば、この時、地球はガンマ線バーストにさらされたとの事。 西暦775年に形成された屋久杉の年輪に炭素14とベリリウム10が急増していることを発表し、774年か775年に地球が宇宙放射線の直撃を受けたことを示唆した。炭素14とベリリウム10は、宇宙線が窒素原子と衝突してできる、通常の炭素やベリリウムよりも重い原。 放射線直撃の原因としては比較的近傍での超新星爆発があるが、目撃記録も跡に残るはずの超新星残骸も見られないため、その可能性はないとする研究結果が発表されている。 太陽フレアが原因ではないかとも考えたが、検出されたほどの炭素14の要因としては威力が足りない。また巨大なフレアはコロナからの質量放出を伴うことが多く、それによって地球では活発なオーロラが見られるが、そのような記録も見当たらない。
アングロサクソン年代記(古事記や日本書紀に相当する英国最古の歴史書)」にある、日没後に見える「赤い十字架」の記述についても指摘があったが、776年では時期が遅すぎるし、やはり超新星残骸も見つかっていない。 高濃度の炭素14は検出された、しかし現象の記録はない。これらを両立する説として、独・イエナ大学宇宙物理学研究所のValeri Hambaryan博士とNeuhäuser博士は、2つのコンパクトな天体同士(ブラックホールや中性子星、白色矮星)が衝突合体して発生したガンマ線バースト説を提案した。こうした現象で発生したガンマ線バーストは強力だが短く、たいていは2秒以下しか続かない。 この説なら現象の記録がないのもつじつまが合うが、こうした短いガンマ線バーストは可視光も発するという別の研究もある。見えたとしてもわずか数日間なので見逃す可能性が高いが、当時の記録を再度調査してみる価値はあるかもしれない。
炭素14の計測から、ガンマ線バーストは3000光年~1万2000光年の距離で発生したとみられる。 (Neuhäuser博士)「もっと近かったなら、生物圏に甚大な被害がもたらされていたでしょう。現在なら、数千光年離れた場所で起こったとしても、先進社会が依存する電子機器等などへの影響があるかもしれません。課題は、そのような現象がどれくらいの頻度で地球を襲うかを探ることです。今は、過去(地球上で最長老の樹木の年齢である)3000年の間に1度だけ起こったようだ、としか言えないのです」との見解。
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佐伯今毛人(さえきのいまえみし)を大使、大伴益立(おおとものましたち)を副使に任命。節刀を授けられ出発するに際しては、とくに藤原清河に対して帰国を勧める勅書が托された。羽栗吉麻呂の子翼同行。
5月4日、続日本紀卷三十三によれば、この日は地震があった旨の記述が存在する。
4月27日(5月30日)、井上内親王・他戸親王母子が幽閉先で急死。この同じ日に二人が亡くなるという不自然な死には暗殺説も根強い。これによって天武天皇の皇統は完全に絶えた。 この事件後、光仁天皇の即位について藤原百川とともに便宜を謀った藤原蔵下麻呂が急死。
6月、佐伯今毛人らを遣唐使に任ずる。
東ローマ帝国でコンスタンティノス5世・コプロニュモスに替わり、レオ‐ン4世・ハザロスが皇帝に即位(在位775年-780年)。
吐蕃王ティソン・デツェンがサムイェー寺を建設する。
776年(宝亀七閏年): 丙辰
記録によれば、この年も天変地異が続いたとある。774年頃からの気象の急変による影響か。
遣唐使一行は、南路をとるべく肥前国松浦郡合蚕田浦(あいこのたうら)(五島列島久賀島田の浦)まで行ったが、結局順風をえずこのころ博多大津に引き返す。 佐伯今毛人が病気のため、大使はこれも大伴益立に代わった副使小野石根(おののいわね)が代行することとなる。 祟りを恐れた光仁天皇より秋篠寺建立の勅願が発せられる。開基は善珠僧正。
5月、出羽国、志波村の蝦夷と戦うことを報ずる。
11月、陸奥国、胆沢の蝦夷と戦う。
唐の張参が『五経文字』を著す。
渤海使・史都蒙の船団が遭難。120余名の死者を出す。
マヤ王朝でヤシュ・パサフが祭壇Qに16代にわたる王の肖像を刻む。 ムカンナーの反乱( - 783年)。
777年(宝亀八年): 丁巳
蝦夷の反乱を討伐するために大伴駿河麿が派遣された。駿河麿は苦戦しながらも宇佐八幡に念じ、ついに勝利した。 この宇佐八幡に恩赦の心をもって、成島八幡宮が創建される。 令外官として内大臣を新設。
5月、高麗殿継らを遣渤海使に任ずる。
6月24日(8月6日)、佐伯今毛人らを遣唐使に派遣。一行は風向きをうかがって、博多大津を再出発する。 藤原清河、揚州海陵県(江蘇省蘇州)に安着。揚州都督府(江蘇省揚州)に至る。
10月15日か16日、揚州を出発。安史の乱後の混乱を理由に入京人数が著しく制限される。
11月1日には光仁天皇が不豫(病)となる。
12月、山部親王も死の淵をさまよう大病を得た。 この年の冬、雨が降らず井戸や河川が涸れ果てたと『水鏡』は記している。これらの事が井上内親王の怨霊によるものと考えられた。
12月、陸奥国・出羽国の軍、出羽の蝦夷に破れる。
12月28日、皇太子不例(病)の3日後、井上内親王の遺骨を改葬し墓を御墓と追称、墓守一戸を置くことが決定した。
778年(宝亀九年): 戊午
後の真言宗の僧、泰範が生まれる。
平安時代の公家、文人である小野岑守が生まれる。
唐で藤原清河が客死する。唐からは路州大都督の官が贈られた。なお、清河は唐の婦人と結婚して喜娘という娘を儲けており、喜娘は宝亀の遣唐使に伴われて来日した。
唐/ウイグルのブグ・カガン(牟羽可汗)自身が唐に侵攻。
大和国興福寺の僧で子島寺で修行していた賢心(後に延鎮と改名)は、夢のお告げで北へ向かい、山城国愛宕郡八坂郷の東山、今の清水寺の地である音羽山に至った。 金色の水流を見出した賢心がその源をたどっていくと、そこにはこの山に篭って滝行を行い、千手観音を念じ続けている行叡居士(ぎょうえいこじ)という白衣の修行者がいた。 年齢200歳になるという行叡居士は賢心に「私はあなたが来るのを長年待っていた。自分はこれから東国へ旅立つので、後を頼む」と言い残し、去っていった。 行叡は観音の化身であったと悟った賢心は、行叡が残していった霊木に千手観音像を刻み、行叡の旧庵に安置した。これが清水寺の始まりであるという。
三津首広野(後の最澄)、12歳のとき近江国分寺に入り、出家して行表の弟子となる。
1月13日(2月18日)、遣唐使一行、佐伯今毛人ら小野石根ら43人だけが長安に入り代宗に対見を許される。
8月、ロンスヴォーの戦いが起きる。スペイン遠征中のフランク王国軍がバスク人とのロンスヴォーの戦いで敗退する。この事件がもととなり後に『ローランの歌』が作られる。
9月、渤海使、遣渤海使と越前に着く。
10月、遣唐使が日本へ帰航する。この時、藤原喜娘(きじょう:藤原清河の娘。藤原不比等の孫に当たる)が遣唐使に同行し、大使代行・小野石根、唐使・趙宝英、判官・大伴継人とともに第1船に乗り、日本を目指した。
11月、遣唐使、途中で風難に遭い、石根・趙宝英らは遭難した。喜娘は継人らとともに舳に乗り、肥前国天草郡の西仲嶋(現在の鹿児島県出水郡長島町)に漂流、ようやく来日を果たした。藤原喜娘はこの時、右足を失う重症を負った。 藤原喜娘のその後の消息において公式見解はいまだ発表されてはいないが、巷説によれば、遭難にあったものの、神仏に命を救われたとして、その莫大な資産を以って仏法興隆を支援したとの事。
779年(宝亀十年): 己未
淡海三船により鑑真の伝記『唐大和上東征伝』が記され、鑑真の事績を知る貴重な史料となっている。
渤海人ら359名が出羽国に漂着(渤海使ではない)。
唐/代宗が崩御して徳宗が即位すると、ソグド人官僚の進言でブグは唐に侵攻しようとするが、宰相のトン・バガ・タルカン(頓莫賀達干)がブグとソグド人官僚を殺害し、アルプ・クトゥルグ・ビルゲ・カガン(合骨咄禄毘伽可汗)として即位した。 アルプ・クトゥルグ・ビルゲは対唐関係を修復した。またアルプ・クトゥルグ・ビルゲは先代のブグが信仰していたマニ教を弾圧し、ソグド人にも圧力をかけ、また国号を回紇から回鶻に変える。
唐/吐蕃・南詔連合軍が20万の大軍をもって成都占領を目指したが、国力を回復していた唐軍に撃退された。
8月、新旧両銭の等価並行を許す。
11月、国司の出挙利稲着服を禁止する。 布勢清直らを遣唐使に派遣。
780年(宝亀十一年): 庚申
鹿を捕えようとして音羽山に入り込んだ坂上田村麻呂は、修行中の賢心に出会った。田村麻呂は妻の高子の病気平癒のため、薬になる鹿の生き血を求めてこの山に来たのであるが、延鎮より殺生の罪を説かれ、観音に帰依して観音像を祀るために自邸を本堂として寄進したという。 後に征夷大将軍となり、東国の蝦夷平定を命じられた田村麻呂は、若武者と老僧(観音の使者である毘沙門天と地蔵菩薩の化身)の加勢を得て戦いに勝利し、無事に都に帰ることができた。
唐、宰相の楊炎の建議により租庸調制から両税法へ税制を移行。
東ローマ帝国でレオ‐ン4世・ハザロスに替わり、コンスタンティノス6世が皇帝に即位(在位780年-797年)。
インドネシアのシャイレーンドラ朝がボロブドゥールの建設を始める。
3月(旧暦2月)、日本でヤマト王権が蝦夷征討の布石として城柵の一つ・覚鱉城(かくべつじょう)を陸奥国内に築く。
5月1日(宝亀11年3月22日)、日本で、宝亀の乱(伊治呰麻呂の乱)が勃発。 元・夷俘で陸奥国伊治郡の大領を務める伊治呰麻呂が伊治城でヤマト王権に反旗を翻し、夷俘軍を率いて按察使・紀広純らを殺害。伊治城は焼失する。 ※伊治郡(これはりこおり、これはるこおり)は、のちの栗原郡(現・宮城県栗原市等にあたる地域)とおおよそ同定される。
11月12日、三津首広野、14歳のとき国分寺僧補欠として得度し名を最澄と改めた。