西暦781年〜790年

781年(宝亀十二年/天応元年): 辛酉
1月1日、伊勢斎宮に現れた美雲の瑞祥により天応に改元する。元日の改元は現在のところ日本史上唯一の事例。
2月、光仁天皇は70歳を超えても政務に精励したが、第一皇女・能登内親王に先立たれてから心身ともに俄かに衰える。 光仁天皇、愛宕山(月輪寺)の勅命を発する。慶俊僧都(空海の師)が和気清麻呂と協力して愛宕山を中興し、唐の五台山に倣って、5箇所の峰に寺を置いた。 それらは、朝日峰の白雲寺、大鷲峰の月輪寺、高雄山の神願寺(神護寺)、龍上山(たつかみやま)の日輪寺、それに鎌倉山(賀魔蔵山とも)の伝法寺であったという。 以上のことから、月輪寺では泰澄を開基、慶俊を中興としている。
4月30日(天応元年4月3日)、光仁天皇が病気のため譲位し、山部親王が践祚(せんそ)する。
5月1日(天応元年4月4日)、山部親王、早くも同母弟の早良親王を皇太子と定める。
5月12日(天応元年4月15日)、桓武天皇が第50代天皇として即位。平城京における奈良仏教各寺の影響力の肥大化を厭い、山城国への遷都を行った。
5月23日(天応元年4月18日)、百川の兄の藤原良継の娘藤原乙牟漏を皇后とし、彼女との間に安殿親王(後の平城天皇)と神野親王(後の嵯峨天皇)を儲けた。また、百川の娘で良継の外孫でもある夫人藤原旅子との間には大伴親王(後の淳和天皇)がいる。 征東大使の藤原小黒麻呂、
5月24日の奏状で、一をもって千にあたる賊中の首として、伊佐西古、諸絞、八十島、乙代を挙げた。この頃、朝廷軍は幾度も蝦夷と交戦し、侵攻を試みては撃退されていた。
5月、中宮職を置く。
7月6日(天応元年7月6日)、富士山が噴火する。
8月、持節征東大使藤原小黒麻呂、蝦夷征討を終えて帰京する。
12月23日、光仁天皇が崩御。
アルクィン(アルクィヌス)、アーヘンのフランク王国宮廷学校に来る。この頃よりカロリング朝ルネサンスが興る。
唐の徳宗の抑圧策により河朔三鎮・河南二鎮の節度使(藩鎮)が反乱を起こす。 中央アジア出身の伊斯が長安の大秦寺に「大秦景教流行中国碑」を建立。
782年(天応二年、延暦元年): 壬戌
閏正月頃、天武天皇の曾孫・氷上川継によるクーデタ未遂事件が起きた(氷上川継の乱)。
川継の父は藤原仲麻呂の乱(恵美押勝の乱)で戦死した塩焼王、母は井上内親王の同母妹不破内親王であった。
4月、造宮・勅旨2者、銭鋳司を廃止する。
6月、大伴家持を陸奥守鎮守将軍として、蝦夷討伐を準備する。
6月14日、人臣の最頂点である左大臣・藤原魚名が氷上川継の乱に加担していたとして罷免され、その子の鷹取、末茂、真鷲もそれぞれ左遷された。
桓武天皇、元号を「延暦」に改める。 また、平城京における肥大化した奈良仏教各寺の影響力を厭い、天武天皇流が断絶し天智天皇流に皇統が戻ったこともあり、早急に別の場所に遷都する事を計画した。
783年(延暦二年): 癸亥
日本/奥州問題へ着手・坂東諸国に押領使・健児制を布く従来の徴兵制を改め郡司子弟による健児兵団創設、実質的軍事力の強化。
日本/呉原忌寸名妹丸(くれはらのいみきなにもまる)、大和国高市郡波多の人で漁師となった。
日本/この時期に何家村の宝物が埋蔵されたか(何家村唐代窖藏)。 延暦年間(783〜805)において、山背国東部の鳥辺野は、度重なる飢饉や災害、疫病の流行によって亡くなった非常に多くの遺体の山が、埋葬されず野ざらしのまま捨てられていた状態になっており、地獄のような景色であった。 そこで死者を弔うための供養寺としてか、慶俊僧都によって宝皇寺が建立される。古くは愛宕寺(おたぎでら)とも呼ばれた。(後の六道珍皇寺)

ちなみに五条通を挟んで、南側一帯は鳥戸野(とりべの)と言われている。鳥辺野は一般庶民の葬地であったが、こちらは高貴な身分にあたる家の葬地であった。この両方を合わせて鳥部野といった。北の蓮台野、西の化野、東の鳥部野が京都の三大墳墓地。
※鳥戸野より東の阿弥陀ヶ峰から泉涌寺(せんにゅうじ)、東福寺あたりは、天皇や貴族といった上流階級の墓所。
唐/朱泚の乱が起こり、皇帝徳宗が長安から逃亡。
1月20日、最澄、17歳のときに正式な僧侶の証明である度縁の交付を受ける。
6月、田宅寄進売買による寺領の拡大を禁止する。
7月25日、藤原魚名が頓死。
12月、京内諸寺に銭財出挙の際の利息の取り過ぎを禁止する。
784年(延暦三年): 甲子
日本、長岡京に遷都。
この頃、大和の平城京は、飢饉に相次いだ事と、肥大化した奈良仏教各寺の影響力による過大な税収により、民は貧困の一途を辿った。加えて、天然痘の流行が猛威をふるう。 桓武天皇は人心の一新をはかるため、藤原小黒麻呂・種継に命じて山背国乙訓郡長岡村を調査。
一方で和気清麻呂の推薦、その一方で相良親王の反対の声があがる、という経緯を経て奈良の平城京から京都盆地の南西、長岡京に遷都した。
長岡京は東西4.3km、南北5.3kmと平城京に匹敵する広大な都で向日市、長岡京市、大山崎町、京都市の一部にまたがっていた。政治の中心である長岡宮は現在の向日市に置かれ、大極殿も大規模なものであった。
5月、遷都のため、藤原種継等を山背国長岡村に派遣する。 一方、和気清麻呂が山背国を流れる秦氏が収める地において、桂川上流の治水工事および運河造営に着工する。その目的は長岡京と嵐山・蔵馬山を結ぶ流通・運輸の活性化である。これが現在の京都を流れる桂川と鴨川(加茂川)になる。
6月、長岡宮造営着工する。
11月、長岡京に遷都する。 この時、天災や後述する近親者の不幸・祟りが起こった。桓武天皇は友愛を旨としていた人物であった。そのためか、その原因を天皇の徳がなく天子の資格がない事にあると民衆に判断されるのを恐れた。 長安を追われていた徳宗が、『己罪詔』を発して事態を収束する
785年(延暦四年): 乙丑
長岡京時代は洪水が相次ぎ、長岡京造営の中心人物だった藤原種継も暗殺された。 この事件に関係したとして天皇の弟・早良(さわら)親王(崇道天皇)が幽閉された。親王は断食をして無実を主張し、淡路島に流される途中で餓死する非業の死を遂げた。 その後朝廷を始め、都の内外に不吉な事故と奇妙な異変が続発した。これらの怪異天災は親王の怨念の祟りがあると占に出たために、御霊神となった親王の鎮魂の行事が盛んに行われた。 桓武天皇は親王に崇道天皇の追号を送り、墓を山陵とする等した。相次ぐ不祥事と早良親王の祟りを恐れて、都は10年間で平安京へと遷された。 最澄、東大寺で具足戒を受ける。 和気清麻呂、神崎川と淀川を直結させる工事を行い平安京方面への物流路を確保。
7月、最澄、比叡山に登り山林修行に入り大蔵経を読破。
旧暦7月、長岡宮の造宮に延べ31万4千人の役夫を雇う。
10月30日(延暦4年9月23日)、夜、藤原種継が暗殺される。
10月31日(延暦4年9月24日)、種継暗殺の犯人とされる者が逮捕される。首謀者の中には、平城京の仏教勢力である東大寺に関わる役人も複数いた。そして桓武天皇の皇太弟早良親王もこの叛逆に与していたとされた。
11月4日(延暦4年9月28日)、皇太弟早良親王が逮捕される。
旧暦9月、早良親王が皇太弟を廃され、乙訓寺に幽閉された。
旧暦10月、早良親王は無実を訴えるため絶食した。淡路国に配流される途中に河内国高瀬橋付近(現・大阪府守口市の高瀬神社付近)で憤死した。巷説では、両の手の指の爪は完全に剥がれ、いくつかの指がなくなっていたとの事。 種継暗殺に早良親王が関与していたかどうかは不明である。だが、東大寺の開山である良弁が死の間際に、当時僧侶として東大寺にいた親王禅師(早良親王)に後事を託したとされること(『東大寺華厳別供縁起』)、また東大寺が親王の還俗後も寺の大事に関しては必ず親王に相談してから行っていたこと(実忠『東大寺権別当実忠二十九ヶ条』)などが伝えられている。 種継が中心として行っていた長岡京造営の目的の1つには、東大寺や大安寺などの南都寺院の影響力排除があったために、南都寺院とつながりが深い早良親王が遷都の阻止を目的として種継暗殺を企てたという疑いをかけられたとする見方もある。 数日後、日照りによる飢饉・疫病の大流行が発生。 皇太子に立てられた安殿親王が発病する。(安殿親王は病弱であったと伝えられている。) 桓武天皇妃藤原旅子・藤原乙牟漏・坂上又子の病死、桓武天皇・早良親王生母の高野新笠の病死が相次ぐ。 伊勢神宮正殿が放火する。 桓武天皇、度重なる原因を陰陽師に占わせたところ、早良親王の怨霊に因るものとの結果が出て親王の御霊を鎮める儀式を行う。
12月31日(延暦4年11月25日)、桓武天皇の皇子・安殿親王(後の第51代天皇・平城天皇)が立太子する。
786年(延暦五年): 丙寅
日本/2度の大雨によって都の中を流れる川が氾濫し、長岡京は大きな被害を蒙った。この氾濫によって、多くの死者を出し疫病が蔓延した。桓武天皇は和気清麻呂の建議(山背国葛野郡宇太村を選んで平安遷都の建設に進言した)もあり、都をさらに東へと移す事にした。巷説では、和気清麻呂は河川が氾濫する事を見越した上で、桂川・加茂川の運河造営にあたったのではないか、という見方がる。
日本/和気清麻呂、民部卿として民部大輔・菅野真道とともに庶政の刷新にあたった。桓武天皇の勅命により天皇の母・高野新笠の出身氏族和氏の系譜を編纂し、和氏譜として撰上した。 ※後の子の和気広世・和気真綱らは、父の没後に官人として活躍した。和気広世は最澄を招聘して高雄(たかお)の法華会(ほっけえ)を開き、天皇へ最澄を斡旋して勅を蒙り、唐へ留学させ、五男・真綱と六男・仲世は高雄山で最澄と共に空海から密教の灌頂を受けて仏法に帰依し、新仏教興隆に一役買っている。また、姉の和気広虫(法均尼)は夫・葛城戸主(かつらぎのへぬし)とともに、孤児救済事業で知られる。
吐蕃・南詔連合軍が敦煌を占領し、河西回廊を掌握。以後、タリム盆地南縁部へ進出する。
アッバース朝で、ハールーン・アッラシードがカリフとなる(-809年)。(アッバース朝の最盛期)
フランク王カールがアーヘン大聖堂の建設に着手。
4月、国司・郡司に地方行政の引き締めを命ずる。
8月、東海・東山2道に軍備を点検させて、蝦夷討伐を準備する。
10月3日、神野親王(後の嵯峨天皇)が産まれる。
787年(延暦六年): 丁卯
第2ニカイア公会議(第七全地公会)でキリスト教が聖像使用の教義を確認。
1月、王臣家・国司等に蝦夷との交易を禁ずる。 和気清麻呂、のべ23万人を投じて上町台地を開削して大和川を直接大阪湾に流して、水害を防ごうと工事を行ったが費用がかさんで失敗。 この工事の名残として、自然地形を利用しつつ、堀越神社前の谷町筋がくぼんでいるところと、大阪市天王寺区の茶臼山にある河底池はその名残りとされ、「和気橋」という名の橋がある。さらに東へ河堀稲生神社から寺田町駅付近へ続いていたらしい。 この時、和気清麻呂は桓武朝で実務官僚として重用されて高官となる。
788年(延暦七年): 戊辰
最澄が比叡山延暦寺を造る。当時の最澄は、比叡山中で瞑想を主とした修行をおこない、寺院も経典を収蔵し、同じくして集まった僧侶とともに経典を解読するためが目的として庵として建造された。後に道を求める僧侶が増え、少しずつ規模が大きくなる。薬師如来を本尊とする草庵、一乗止観院を建立する。
真魚、平城京に上る。上京後は、中央佐伯氏の佐伯今毛人が建てた氏寺の佐伯院に滞在した。(真魚は讃岐佐伯氏)
フランク国王カールがバイエルン部族公タッシロ3世を追放する。 マグリブ西部のモロッコにイドリース朝が興る。
3月、東海・東山二道・坂東諸国より歩騎5万人余を動員し、多賀城に集める。
12月、征東大使(将軍)紀古佐美、征夷のため出発する。 イドリース朝が開かれる(モロッコ、-985年)
789(年延暦八年): 己巳
佐伯真魚、15歳で桓武天皇の皇子伊予親王の家庭教師であった母方の舅である阿刀大足について論語、孝経、史伝、文章などを学んだ。
阿弖流為(アテルイ)、征東将軍紀古佐美遠征の際に言及される。この時胆沢に侵攻した朝廷軍が通過した地が、「賊帥夷、阿弖流爲居」であった。
紀古佐美はこの進軍まで胆沢の入り口にあたる衣川に軍を駐屯させて日を重ねていたが、5月末に桓武天皇の叱責を受けて行動を起こした。 北上川の西に3箇所に分かれて駐屯していた朝廷軍のうち、中軍と後軍の4000が川を渡って東岸を進んだ。この主力軍は、阿弖流爲の居のあたりで前方に蝦夷軍約 300を見て交戦した。当初は優勢で、朝廷軍は敵を追って巣伏村に至った。そこで前軍と合流しようと考えたが、前軍は蝦夷軍に阻まれて渡河できなかった。
その時、蝦夷側に約800が加わって反撃に転じ、更に東山から蝦夷軍約400が現れて後方を塞いだ。朝廷軍は壊走し、別将の丈部善理ら戦死者25人、矢にあたる者245人、川で溺死する者1036人、裸身で泳ぎ来る者1257人の損害を出した。
この敗戦で、紀古佐美の遠征は失敗に終わった。
長岡京の造営大工への叙位記事を最後に長岡京の工事に関する記録は発見されていない。
唐/チベット軍が、それまでウイグルに服属していた白服突厥やカルルクと連合し、北庭大都護府のあったビシュバリク(北庭)を襲撃し、現地のウイグル・唐軍に勝利する。 ウイグル軍はモンゴリア地方まで撤退し、ウイグル側にいた沙陀部もチベットに降る。この北庭争奪戦は792年まで続くが、最終的にウイグルが勝利し、トルファン盆地を含む東部天山地方全域がウイグル帝国の領域となり、タリム盆地北辺がウイグル領、タリム盆地南辺がチベット領となった。
唐/東方で奚,契丹の反乱が発生。
忠貞可汗(在位:789年 - 790年)は頡干迦斯(イル・オゲシ)を派遣するが回鶻軍は勝てず、北庭大都護府が陥落し、北庭大都護の楊襲古は兵と共に西州に奔走した。 その後、頡干迦斯は楊襲古と連合して北庭を取り返すべく5,6万の兵で攻めたが、大敗する。一方で葛禄(カルルク)が勝ちに乗じて浮図川を奪ったので、回鶻は大いに恐れ、北西にある部落の羊馬を牙帳の南へ遷してこれを避けた。
モロッコにイドリース朝が興る。
フランク国王カールがアヴァールを征討。
旧暦3月4日 - 霧島山噴火(続日本紀巻三九)。
6月、征夷将軍、政府軍の退廃を報告する。
7月、伊勢・美濃・越前の三関を廃止する。
790年(延暦九年):庚午
インドネシアのシャイレーンドラ朝がボロブドゥールの建設を始める。
1月21日(延暦8年12月28日)、桓武天皇の生母である高野新笠が病死。
3月、日本/蝦夷征伐のため、諸国に武具・軍糧を備えさせる。
3月12日(延暦9年2月18日)、藤原浜成が病死
4月28日(閏3月10日)、桓武天皇の皇后、藤原乙牟漏が病死
11月17日(延暦9年10月3日)、佐伯今毛人が病死