西暦791年〜800年

791年(延暦十年):辛未
平安京の諸門の造営。平城宮の諸門を解体して長岡宮に運ばせたものの、実際には平安宮にそのまま転用されていた。この事から延暦10年の段階で既に長岡京の廃止決定と新たな都の計画が進められていたと考えられている。
唐/ウイグルは北庭を奪還、また唐軍と共に塩,霊州へ攻撃を掛けて陥落させ吐蕃の首領を捕えた。この後の、タリム盆地~河西地域~隴右~漠南一帯を巡る戦争は50年に渡る。
フランク王カールがアバール人を征討
3月、吉備真備らの制定した律令24条を施行する。
7月、大伴弟麻呂を征夷大使に、坂上田村麻呂らを副使に任ずる。
792年(延暦十一年):壬申
坂上田村麻呂、大伴弟麻呂を補佐する征東副使に任じられる。 坂上田村麿は「大和阿耶(やまとのあや)」という別名で知られている。この「阿耶」とは阿羅の事である。
佐伯真魚、18歳で京の大学寮に入った。大学での専攻は明経道で、春秋左氏伝、毛詩、尚書などを学んだと伝えられる。
6月、陸奥国・出羽国・大宰府管内等を除く全国の兵士を廃し、健児を置く。
10月、京畿に斑田(口分田)を行う。
793年(延暦十二年):癸酉
春宮坊帯刀舎人が殺害される事件が発生する。この時、その事件の背景に皇太子(安殿親王)がいたと噂された。 大伴弟麻呂の征東軍を発進させる。この戦役については『類聚国史』に「征東副将軍坂上大宿禰田村麿已下蝦夷を征す」とだけあり、田村麻呂は四人の副使(副将軍)の一人ながら中心的な役割を果たしたらしい。
佐伯真魚、大学での勉学に飽き足らず、19歳を過ぎた頃から私度僧として、山林での修行に入ったと伝える。
製紙工場がバグダードに設立される
イングランド北部のリンデスファーン修道院がヴァイキングに襲撃され、ヴァイキング時代の幕開けとなる。
3月、平安京の建設、大規模に始まる。
794年(延暦十三年):甲戌
都を京都に遷都する。名を平安京とする。山背国を山城国へ改称。
平安京はこれ以後、明治二年(1869年)まで、ほぼ首都としての機能を担っていた。この期間、内裏(宮城)は、各種地域を転々としているが、いずれにしても遷都される事がなかったためである。したがって、現在では少なくともこの期間までは「日本の首都」であったと言える。
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平安京(へいあんきょう)は、平安城ともいい、桓武天皇によって長岡京からの遷都地に選ばれ、唐の首都長安城にならって計画都市として建設された。現在の京都府京都市・京都市街であり、当時の街路をほぼそのままに主要都市として現存している。明治2年(1869年)に政府が東京(旧江戸)に移転して首都機能を失った。 平安京が置かれてから鎌倉幕府が成立するまでの約400年間を日本史では「平安時代」と言う。 平安京は現在の京都市街にあたる山背国葛野・愛宕両郡にまたがる地に建設され東西4.5km、南北5.2kmの長方形に区画された都城であった。 都の北端中央に大内裏を設け、そこから市街の中心に朱雀大路を通して左右に左京・右京(内裏側からみての左右になる)を置くという平面計画は基本的に平城京を踏襲し、隋・唐の長安城に倣うものであるが、羅城(都市を囲む城壁)は羅城門の左右を除き造られなかったと考えられている。
内裏には、律令制度「格式」の法令にも基づき、宮城門には、14の門が設けられた。東から時計回りに12門(陽明門/待賢門/郁芳門/美福門/朱雀門/皇嘉門/談天門/藻壁門/殷富門/安嘉門/偉鑒門/達智門)に、「土の門=土御門」となる2門(上東門/上西門)を加え、14門とされている。

日本での密教伝来期を考慮しても、この当時はまだ、密教自体が伝来しておらず、秘密九字結界説に由来するものではない事の説明がつく。「京都御所の結界」という逸話は仮に真実であったとしても、後世においてすでに条件がそろっていた結果から、改めて呪術式を執り行っている経緯をとる事になる。しかし、都全体の設計自体は、先にもあげた通り、唐の長安城に倣っているため、長安城自体に設計されている呪術式は継承されている可能性がある。それについては以下の通りである。
羅城(都を取り囲む防壁)については、羅城門は建立されたものの、羅城も建立された記録はない。 一般的には、この地の選定は中国から伝わった陰陽道(風水)に基づく四神相応の考え方を元に行われたという説がある。 中国において、陰陽道は、諸子百家の一つにある六家の一つに数えられる思想集団「陰陽家(いんようか)」に由来している。世界の万物の生成と変化は陰と陽の二種類に分類されると言う陰陽思想を説いた。代表的な思想家として騶衍(すうえん、(鄒衍と表記する場合もある)や、公孫発などが挙げられる。 上記については、三国時代において、大賢良師張角による黄巾党の思想において、仙道、儒教、道教、仏教が取り入れられた内容で気脈の学問があった事が明らかにされている。
ちなみに日本においては、陰陽家が日本に伝来させた経緯がない事と、天武天皇が陰陽五行に精通していた事から、陰陽道という思想の定義には至らず、天文学、易学、建築学、医学などの様々な分野を統括する陰陽寮(おんみょうりょう)という組織を形成した。陰陽寮に属する陰陽師と陰陽道は、扱う「式」は同じであっても思想はまるで違うものである。
また、中国での都造営にあたっては、紀元前より気脈に基づいた思想で都の造営がなされていた。(その気脈に関しての学問が後に風水や五行説に確立されていくので、通説では内容が前後してしまう) この点については、長岡京時代より、平行して和気清麻呂が運河治水工事に当たった際、すくなくとも和気清麻呂によって意図的に整備された可能性がある。

中国の都造営において主として建設されてきた羅城方式は紀元前より代々用いられてきた方式であるが、その起源はエジプトの王墓やギリシア文明の神殿、メソポタミアのジグラットにあるという説がある。
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勤操和尚、同門であった栄好の追善のために高円山(たかまどやま)の麓の石淵寺で法華八講を創始。 真魚、出家して教海と名乗る。
令外官として征夷大将軍を新設。 大伴弟麻呂、征夷大将軍に就任。
フランク国王カールの招集によるフランクフルト教会会議が開催される。
6月28日(延暦13年5月27日)、安殿親王(後の平城天皇)の妃である藤原帯子(藤原良継の娘)が病死。
7月14日(延暦13年6月13日)、桓武天皇の命を受けた坂上田村麻呂が蝦夷征討に出発。
7月31日(延暦13年7月1日)、藤原小黒麻呂が死去。
11月18日 (延暦13年10月22日)、桓武天皇が長岡京から平安京へ遷都。
12月4日(延暦13年11月8日)、平安京が新都となり、同時に山背国が山城国、近江国古津を旧名の大津と改められる。
795年(延暦十四年):乙亥
フランク王国がスペイン辺境領を設置。
1月、征夷大将軍大伴弟麻呂ら凱旋する。
5月、この頃、大極殿落成する。
796年(延暦十五年):丙子
陸奥按察使、陸奥守、鎮守将軍を兼任して戦争正面を指揮する官職をすべてあわせる。
東寺・西寺・鞍馬寺が創建される。
地震により、世界の七不思議の1つ「アレクサンドリアの大灯台」が半壊。
アッバース朝カリフのハールーン・アッ=ラシードがラッカに宮廷を遷す( - 809年)。
11月、隆平永宝を鋳造する。
797年(延暦十六年):丁丑
坂上田村麻呂、征夷大将軍に就任。
桓武天皇、地方行政の遂行徹底を狙い、地方官(国司)の行政実績を監査する勘解由使を設置。勘解由使は国司行政を厳正に監査し、地方行政の向上に一定の効果を上げていた。
最澄、桓武天皇の内供奉十禅師を就任する。
唐僧摩訶衍がインド僧カマラシーラに敗北しチベットから退去。サムイェー寺の宗論が終わる。
ゲオルギオス、エルサレム総主教に就任(ゲオルギイ。在位797-807年)。
東ローマ皇帝コンスタンティノス6世が母エイレーネーによって廃位され、エイレーネーがローマ帝国初の女帝として即位。
フランク国王カールがアッバース朝のハールーン・アッ=ラシードに使節を送る。
2月、続日本紀を完成させ撰進する。
5月4日 (延暦16年4月4日)、紀古佐美が死去。
9月、令外官として勘解由使を置く。
11月、桓武天皇、坂上田村麻呂を征夷大将軍に任命する。
798年(延暦十七年):戊寅
鳥辺山にお堂(後の清水寺)が造営される。
田村麻呂は延鎮(もとの賢心)と協力して本堂を大規模に改築し、観音像の脇侍として地蔵菩薩と毘沙門天の像を造り、ともに祀った、という。以上の縁起により、清水寺では行叡を元祖、延鎮を開山、田村麻呂を本願と位置づけている。
佐伯真魚、儒教・道教・仏教の比較思想論でもある『聾瞽指帰』を著して俗世の教えが真実でないことを示した。 この時期より入唐までの空海の足取りは資料が少なく、断片的で不明な点が多い。しかし吉野の金峰山や四国の石鎚山などで山林修行を重ねると共に、幅広く仏教思想を学んだことは想像に難くない。 『大日経』を初めとする密教経典に出会ったのもこの頃と考えられている。さらに中国語や梵字・悉曇などにも手を伸ばした形跡もある。
ところでこの時期、一沙門より「虚空蔵求聞持法」を授かったことはよく知られるところである。 『三教指帰』の序文には、空海が阿波の大瀧岳(現在の太竜寺山付近)や土佐の室戸岬などで求聞持法を修ましたことが記され、とくに室戸岬の御厨人窟で修行をしているとき、口に明星(虚空蔵菩薩の化身)が飛び込んできたと記されている。 このとき空海は悟りを開いたといわれ、当時の御厨人窟は海岸線が今よりも上にあり、洞窟の中で空海が目にしていたのは空と海だけであったため、空海と名乗ったと伝わっている。
求聞持法を空海に伝えた一沙門とは、旧来の通説では勤操とされていたが、現在では大安寺の戒明ではないかといわれている。戒明は空海と同じ讃岐の出身で、その後空海が重要視した『釈摩訶衍論』の請来者である。
4月、内蔵賀茂麻呂らを遣渤海使に任命する。
799年(延暦十八年):己卯
4月、大伴麻呂を遣新羅使に任命する。
5月、渤海使の来日を6年に一度とする。
800年(延暦一九年):庚辰
ヨーロッパの暗黒時代。
早良親王を尊道天皇と追号し、井上内親王の墓を山陵と追称し、皇后の位を復した。 同時に早良親王の霊を慰めるため、御霊神社が建立された。 この背景には、数々の業績の一方で、井上内親王と他戸親王の不自然な死、治世のはじめに、皇太子とした弟早良親王を藤原種継暗殺の廉で785年流罪とし配所で死なしめたという暗い面も持ち合わせた。この事は、また後宮の紊乱ぶりも言われており、後の「薬子の変」へとつながる温床となった。 尊道天皇は大和国に移葬された。その場所は奈良市八島町の崇道天皇陵に比定されている。またこの近くには親王を祀る社である嶋田神社があり、さらに北に数キロ離れた奈良町にある崇道天皇社、御霊神社などでも親王は祭神として祀られている。 近辺にも親王を祀る寺社が点在しているほか、京の鬼門に位置する高野村(現:左京区上高野)には、京都で唯一早良親王のみを祭神とする崇道神社がある。
スウェーデン・フィンランド・ノルウェー/スカンディナヴィア半島での商業が発展し、ヨーロッパ全域では、この頃よりスカンディナヴィア半島での商業を生業とする人々を「ヴァイキング」と呼ぶようになる。 おもに、オーディンを主神とする北欧神話体系(ケルト神話)が浸透していたため、様々な儀式が盛んに行なわれていた。 特に、主神オーディンに捧げるための「血のワシ」と呼ばれる生け贄の儀式(背中側から背骨に沿って肋骨・筋肉をすべて切り離し、そこから肺を引き出して肩に乗せて広げる、というもの。)は、残酷な儀式であったとされ、ヨーロッパ全土で非常に恐れられる。 1100年頃になり、キリスト教の介入によって北欧のこうした風習は衰退した。
シャルルマーニュ、神聖ローマ皇帝として戴冠(カールの戴冠)。
西ヨーロッパ、東ローマ帝国から政治的に完全独立。
インドのラージャスターン州ジャイプル近郊にあるチャンド・バオリの階段井戸が建設される。
北アフリカにアグラブ朝が成立
新羅の第39代の王、昭聖王が死去。
チチカカ湖周辺のティワナク文化(ティワナクV期前半)が最盛期を迎える。
4月、王臣家等の山林独占を禁止する。
4月11日(延暦19年3月14日)、富士山が噴火(延暦噴火)。
7月、故早良親王を崇道天皇と追称する。