西暦801年〜810年

801年(延暦二〇年):辛巳
藤原種継の娘であり中納言藤原縄主の妻である藤原薬子の長女が安殿親王の宮女となり、東宮宣旨(高級女官)として仕えるようになる。 しかし、父である桓武天皇とも反りがあわず微妙な関係にあった安殿親王は、その反抗心か后となる筈であった藤原薬子の娘も相手にしなかった。そして妃の母である藤原薬子を寵愛して、不倫の仲となり醜聞を招いた。 薬子は藤原葛野麻呂とも通じていたとされる。桓武天皇は怒り、薬子を東宮から追放する。この件以降、桓武天皇と安殿親王の溝はいっそう深くなる。 桓武天皇は、今回の事件や早良親王の件を含め、心が疲弊するも、状況の新心を願い、最澄を招聘した。
坂上田村麻呂、遠征に出て成功を収め、桓武天皇に夷賊(蝦夷)の討伏を報じた。
最澄、比叡山一乗止観院にて法華十講奉修。南都六宗の高僧10名に講師を依頼する(請十大徳書)。天台宗から最澄、三論宗から勤操が講師を務める。 この法華十講は「南都六宗の国家宗教としての権力と因果関係からの清算・離脱」という桓武天皇の想いがあった。 この時の記録に、最澄の法華一乗で「三車火宅の誓」を例に挙げ、法相宗の徳一と論争を交わした事が記される。南都六宗の僧院たちは、最澄を論破できなかった。 宮中では非常に高い評価を得た。この件より、桓武天皇は最澄を側においておくべく、最澄からの入唐要請を拒むようになった。 これを知った安殿親王は、桓武天皇に最澄の申し出受け入れを進言した。
日本/征夷大将軍の坂上田村麻呂が陸奥へ向かう。
日本/畿内の班田を12年に一度とする。
シャルルマーニュ、バルセロナを征服。
唐の杜佑、『通典』を撰述使、上進する。
畿内の班田を12年に一度とする。 『宝林伝』の成立。
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『宝林伝』は、正しくは大唐韶州雙峰山曹侯渓寶林傳(だいとう しょうしゅう そうほうざん そうこうけい ほうりんでん)を書名とする禅の灯史。 本来は全10巻であるが、現行テキストは、巻2は『聖冑集』によって補われたものであり、巻7、巻9、巻10の3巻を欠いている。作者は智炬(或いは慧炬)。 古くは、円仁将来の記録もあり、唐代には広範に流布していたとされるが、宋代になると、『景徳伝灯録』などの新出の灯史が出現し、またそれらが、大蔵経に入蔵されたことによって、急速に存在の意義を失ってしまい、やがて散佚することとなってしまった。 現行本は、山西省趙城県で発見された金蔵所収本(巻1 - 巻5, 巻8)、京都の青蓮院蔵本(巻6)の合本である。また、佚書ではあるが、唐末の南嶽惟勁によって、『続宝林伝』が編纂されたことが知られる。
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2月、征夷将軍坂上田村麻呂、陸奥国へ向かう。
8月、藤原葛野麻呂らを遣唐使に任命する。
802年(延暦二一年):壬午
大墓公阿弖利爲と盤具公母礼(もれ)、大伴弟麻呂と坂上田村麻呂の遠征軍との交戦の上、五百余人を率いて降伏した。結果として蝦夷勢力は敗れ、胆沢と志波(後の胆沢郡、紫波郡の周辺)の地から一掃された。田村麻呂は、胆沢の地に胆沢城を築いた。 二人は田村麻呂に従って7月10日に平安京に入った。田村麻呂は、願いに任せて2人を返し、仲間を降伏させるようと提言した。しかし、平安京の貴族は「野性獣心、反復して定まりなし」と反対し、殺害を決めた。阿弖利爲と母礼は、8月13日に河内国杜山で斬り殺された。(『日本紀略』伝)
尚、田村麻呂伝説に現れる悪路王=アテルイと目する説があり、賛否両論がある。
最澄、高雄山寺(神護寺)法華会(ほっけえ)講師を務める。桓武天皇より入唐求法(にっとうぐほう)の還学生(げんがくしょう、短期留学生)に選ばれる。
小野岑守に長男、小野篁(おののたかむら)が生まれる。
日本/坂上田村麻呂に胆沢城築かせる。後に鎮守府を置く。
蝦夷の大墓公阿弖流為ら降伏する。
ジャヤバルマン2世がカンボジアを統一。アンコール朝の成立。
東ローマ帝国で女帝エイレーネーが政変で廃位され、皇帝ニケフォロス1世が即位。
1月、坂上田村麻呂に陸奥国・胆沢城を築かせる。後に鎮守府を置く。
4月、蝦夷の首長大墓公阿弖流為ら降伏する。
9月17日(延暦21年8月13日)、平安時代初期の蝦夷の軍事指導者、阿弖流為が死去。
803年(延暦二二年):癸未
坂上田村麻呂、志波城を造営。
日本/佐伯真魚、遣唐使が遭難し来年も遣唐使が派遣されることを知った。空海の性霊集に留求の二字初見。
カール大帝がアッバース朝のハールーン・アッ=ラシードに派遣していた使節がアーヘン宮廷に戻る。ハールーン・アッ=ラシードから贈られた象「アブル=アッバース」を伴っての帰国となる。 ハールーン・アッ=ラシードがジャアファルを処刑。バルマク家一族を粛清。
東ローマ皇帝ニケフォロス1世との和約によりヴェネツィアが事実上の独立を勝ち取る。
3月、坂上田村麻呂、陸奥国に志波城を築く。
4月、遣唐使船、暴風のため破損し、渡海不能となり、派遣を延期する。
804年(延暦二三年):甲申
坂上田村麻呂、再び征夷大将軍に任命され、三度めの遠征を期した。しかし、藤原緒嗣が軍事と造作が民の負担になっていると論じ、桓武天皇がこの意見を認めたため、征夷は中止になった。(徳政相論)田村麻呂は活躍の機会を失ったが、本来は臨時職である征夷大将軍の称号をこの後も身に帯び続けた。
シャルルマーニュ、サクソニア遠征を終える。
アヴァール人、カール大帝及びブルガール人に敗北(のちに衰退)
佐伯真魚、遣唐使船が太宰府に向けて出向した入唐直前、31歳の年に東大寺戒壇院で得度受戒したという説が有力視されている。空海という名をいつから名乗っていたのかは定かではない。無空や教海と名乗った時期があるとする文献もある。これ以降、真魚は空海として記録されている。
1月、坂上田村麻呂を再び征夷大将軍に任命する。
7月、最澄と門弟の義真ら、霊仙、橘逸勢、遣唐使船にて出発。ところが瀬戸内海で船が座礁し太宰府で修理。この時、空海が合流し九州を出発。 これより、正規の遣唐使の留学僧(留学期間20年の予定)として唐に渡る。
入唐(にっとう)直前まで一私度僧であった空海が突然留学僧として浮上する過程は、今日なお謎を残している。
伊予親王や奈良仏教界との関係を指摘するむきもあるが定説はない。
第16次(20回説では18次)遣唐使一行には、最澄や橘逸勢、後に中国で三蔵法師の称号を贈られる霊仙がいた。最澄はこの時期すでに天皇の護持僧である内供奉十禅師の一人に任命されており、当時の仏教界に確固たる地位を築いていたが、空海はまったく無名の一沙門だった。
7月6日、肥前国松浦郡田浦、五島市三井楽町から入唐の途についた。出向したのは4船。
8月、遣唐使船が遭難する。空海、霊仙、橘逸勢らが搭乗した第一船と、最澄らが搭乗した第二船が逸れる事となる。入唐船団の第3船、第4船は遭難して行方不明に。
9月、最澄らが搭乗した第二船が明州に到着。しかしこの時、最澄は病に伏す。
9月(8月10日、)、空海、霊仙、橘逸勢らが搭乗した第一船は福州長渓県赤岸鎮に漂着。 安史の乱の影響と海賊の嫌疑をかけられ、疑いが晴れるまで約50日間待機させられる。このとき遣唐大使に代わり、空海が福州の長官へ嘆願書を代筆している。
9月、最澄は天台山に登り、湛然の弟子の道邃と行満(ぎょうまん)について天台教学を学ぶ。さらに道邃に大乗菩薩戒を受け、翛然(しゅくねん)から禅、順暁から密教を相承する。
11月3日、空海一行は長安入りを許される。
12月23日、空海一行は長安に入った。
805年(延暦二四年):乙酉
太政官符により坂上田村麻呂が寺地(鳥辺山/清見寺)を賜る。
菅野真道と藤原緒嗣との間で「徳政論争」が行われる。
唐の第12代皇帝、徳宗が死去。 順宗が即位し政治改革を志す(永貞の革新)が、大病で退位し憲宗が即位。
2月、西明寺に入り滞在し、空海の長安での住居となった。 長安で空海が師事したのは、まず醴泉寺の印度僧般若三蔵。密教を学ぶために必須の梵語に磨きをかけたものと考えられている。空海はこの般若三蔵から梵語の経本や新訳経典を与えられている。
5月、最澄らの載せた遣唐使船が帰路の途中和田岬(神戸市)に上陸し、最初の密教教化霊場である能福護国密寺を開創する。
5月、空海は、密教の第七祖である唐長安青龍寺の恵果和尚を訪ね、以降約半年にわたって師事することになる。恵果は空海が過酷な修行をすでに十分積んでいたことを初対面の際見抜いて、即座に密教の奥義伝授を開始。
6月13日、空海、大悲胎蔵の学法灌頂を受ける。
7月、最澄が上洛、滞在中に書写した経典類は230部460巻。帰国当時、桓武天皇は病床にあり、宮中で天皇の病気平癒を祈る。
7月、空海、金剛界の灌頂を受ける。ちなみに胎蔵界・金剛界のいずれの灌頂においても彼の投じた花は敷き曼荼羅の大日如来の上へ落ち、両部(両界)の大日如来と結縁した、と伝えられている。
8月10日、空海、伝法阿闍梨位の灌頂を受け、「この世の一切を遍く照らす最上の者」(=大日如来)を意味する遍照金剛(へんじょうこんごう)の灌頂名を与えられた。この名は後世、空海を尊崇するご宝号として唱えられるようになる。このとき空海は、青龍寺や不空三蔵ゆかりの大興善寺から500人にものぼる人々を招いて食事の接待をし、感謝の気持ちを表している。 (※金剛薩埵の得度式授与のあとは必ず経典伝授のために行われる行事。)
8月中旬、空海の下、大勢の人たちが関わって曼荼羅や密教法具の製作、経典の書写が行われた。それは寺院周辺の写経所や多数の鍛冶場などが一斉に動く大規模な事業である。この経典の書写の最中に空海は、要点をまとめた数点の綴冊子を作成した。いつでも携帯し研鑽するためのものである。これが、現在日本で扱われている経典の形式となったという説がある。また現在日常生活で利用しているノートの原型ともなっている。恵果和尚からは阿闍梨付嘱物を授けられた。伝法の印信である。阿闍梨付嘱物とは、金剛智 - 不空金剛 - 恵果と伝えられてきた仏舎利、刻白檀仏菩薩金剛尊像(高野山に現存)など8点、恵果和尚から与えられた健陀穀糸袈裟(東寺に現存)や供養具など5点の計13点である。対して空海は伝法への感謝を込め、恵果和尚に袈裟と柄香炉を献上している。
9月、一時重態であった桓武天皇が、一時的に回復。安殿親王に対して参内を命じたが、安殿親王は参内せず、藤原緒嗣に催促されて漸く参内したことなどが記されている。
9月、桓武天皇の要請で高雄山神護寺にて日本最初の公式な灌頂が最澄により行われる。
10月、坂上田村麻呂、清水寺を建立する。社殿は、自主神社と本堂が一体化した構造となっている。(当時の造営方法に宗教的な区別はなく、むしろ神仏一体の思想が強かったので、全く普遍的な造りであった)。
12月15日、空海の師匠、恵果和尚が60歳で入寂。
806年(延暦二五年/大同元年):丙戌
1月17日、空海は全弟子を代表して恵果和尚を顕彰する碑文を起草。
1月26日、最澄の上表により、天台業2人(止観業1人、遮那(しゃな)業1人)が年分度者となる。これは南都六宗に準じる。これが日本の天台宗の開宗である。 日本で最澄が天台宗を興す。
3月、空海が長安を出発。
4月9日(3月17日)、桓武天皇が崩御。宝算70歳。
4月、空海は越州に到り、4か月滞在した。ここでも土木技術や薬学をはじめ多分野を学び、経典などを収集した。折しも遭難した第4船に巡り合う。乗船し生還。
5月、平城天皇(安殿親王)が即位。即位当初は政治に意欲的に取り組み、官司の統廃号などの政治・経済の立て直しを行う。 平城天皇が、藤原薬子を再び召し尚侍となる。夫の縄主は大宰帥として九州へ遠ざけられる。天皇の寵愛を一身に受けた薬子は政治に介入するようになる。兄の藤原仲成とともに専横を極め、兄妹は人々から深く怨まれた。
空海が帰朝し、大宰府に滞在する。
このころ、最澄は、空海からより真言、悉曇(梵字)、華厳の典籍を借り、研究する。これ以降、真言密教(後の真言宗)を広める。 坂上田村麻呂、中納言位となる。
楊貴妃死後50年経った頃、玄宗と楊貴妃の物語を題材にして白居易が長編の漢詩である『長恨歌』を、陳鴻が小説の『長恨歌伝』を制作している。 きっかけは、王質夫を加えた3人で仙遊寺に見学に赴き、その時に楊貴妃が話題にのぼり、感動した王質夫が白居易に後世に残すために詠み上げることを勧めたためであるという。また、白居易も陳鴻に物語として伝えるように勧めたと伝わっている。 内容は、以下のようである。 楊貴妃の栄華と最期について語った上で、楊貴妃の死後のこととして、玄宗が道士に楊貴妃の魂を求めさせる。道士は魂となり、方々を探し、海上の山に太真という仙女がいるのをつきとめ会いに行く。それこそが楊貴妃であり、道士に小箱とかんざしを二つに分けて片方を託し、伝言を伝えた。玄宗と楊貴妃が7月7日、長生殿で、「二人で比翼の鳥、連理の枝になりたい」と誓ったことと、この恨み(思い)は永遠に尽きないだろうということであった(比翼連理の故事)。 平等な一対としての男女の永遠の愛の誓いを謳い上げた『長恨歌』は、広く世間に流布した。このため、楊貴妃の物語は後世にまで広く伝わり、多くの文学作品に影響を与えた。
5月、六道観察使を置く。後継した平城天皇は政治の刷新を掲げ、その一環として勘解由使を廃止し、新たに観察使を置いた。観察使は当初、東山道を除く六道(東海道・北陸道・山陰道・山陽道・南海道・西海道)ごとに設置され、六道観察使とも呼ばれた。また、観察使は議政官の一員である参議が兼任することとされていた。観察使は、参議に比肩しうる重要な官職だった。
6月8日(大同元年5月18日)、平城天皇が即位。
6月9日(大同元年5月19日)、神野親王(後の第52代天皇・嵯峨天皇)が立太子。 唐で天台教学を授かり日本に帰国した最澄が天台宗を開く(1月に天台法華宗が公認された)。また空海も同じく唐から帰国し、これ以降、真言密教が日本に広められた(高野山金剛峯寺を修禅の道場として開創したのは816年のことで、真言宗の開宗はその頃とされる)。
8月、空海は、遅れて唐に再渡海していた遣唐使判官の高階遠成の帰国に便乗する形で、明州を出航して、帰国の途についた。 途中、空海の乗船した遣唐使船は、暴風雨に遭遇し、五島列島福江島玉之浦の大宝港に寄港、そこで真言密教を開いたため、後に大宝寺は西の高野山と呼ばれるようになった。 福江の地に本尊・虚空蔵菩薩が安置されていると知った空海が参籠し、満願の朝には明星の奇光と瑞兆を拝し、異国で修行し真言密教が日本の鎮護に効果をもたらす証しであると信じ、寺の名を明星院と名づけたという。
10月、空海は無事、博多津に帰着。呉服町に東長寺を開基し、大宰府に滞在する。
空海は、10月22日付で朝廷に『請来目録』を提出。唐から空海が持ち帰ったものは『請来目録』によれば、多数の経典類(新訳の経論など216部461巻)、両部大曼荼羅、祖師図、密教法具、阿闍梨付属物など膨大なものである。 当然、この目録に載っていない私的なものも別に数多くあったと考えられている。「未だ学ばざるを学び、〜聞かざるを聞く」(『請来目録』)、空海が請来したのは密教を含めた最新の文化体系であった。 空海は、20年の留学期間を2年で切り上げ帰国したため、当時の規定ではそれは闕期(けつご)の罪にあたるとされた。このためか(不明だが)、空海は入京の許しを待って数年間大宰府に滞在することを余儀なくされた。大同2年より2年ほどは大宰府・観世音寺に止住している。 この時期空海は、個人の法要を引き受け、その法要のために密教図像を制作するなどをしていた。
カール大帝による「国王分割令」(ディヴィシオ・レグノールム)。
アッバース朝が東ローマ帝国から小アジアのヘラクレアとティアナを奪う。
ラーフィー・イブヌル・ライスの反乱。
807年(大同二年):丁亥
「大同」については、円仁や空海、坂上田村麻呂に関連した伝承で、この年号がよく使われる。空海が日本に帰国した年がこの年と言われることも多いが、史実としてはっきりとしない。 東北各地の神社の創建に関する年号はこの年とされる。茨城県の雨引千勝神社の創建はこの年である。早池峰神社、赤城神社なども同様である。 また福島県いわき市の湯の嶽観音も、この年の3月21日に開基されたとある。清水寺、長谷寺などの寺院までこの年に建てられたとされ、富士山本宮浅間大社も、大鳥居の前に堂々と大同元年縁起が記載されている。香川県の善通寺をはじめとする四国遍路八十八ヵ所の1割以上がこの年である。 各地の小さい神社仏閣にいたるまで枚挙にいとまがないほど、大同2年及び大同年間はそれらの創建にかかわる年号である。 阿仁鉱山や尾太鉱山が発見された年号にも使われている。高根金山、吹屋銀山をはじめとする各地の鉱山の開坑も、大同年間や大同2年とするものが多い。 那須連峰の茶臼岳旧火山の噴火、尾瀬ケ原の燧ヶ岳の噴火、蔵王刈田岳の噴火、秋田駒ヶ岳の噴火もこの年である。会津磐梯山の噴火は大同元年だが、その噴火を鎮めるために、大同2年に山麓に恵月守が建てられたといわれる。 日光の男体山で旱魃を静めるために勝道上人が祈祷したのもこの年である。三湖伝説で八郎太郎が大災害を起こすのもこの年である。 八溝山や森吉山、気仙郡などの鬼退治もこの年と伝えられている。 山形県の肘折温泉に伝わる「温泉之縁起」史料の中に、大同2年あるいは大同年間に温泉が開かれたという記述がある。 「何らかの物事が起きた年」という意味合いがあるという人もいる。
斎部広成が『古語拾遺』を献上する。この文献は、大化改新以後において、神道祭祀を中臣氏が独占してしまった事に抗議するものである。
坂上田村麻呂、右近衛大将に任じられた。また、田村麻呂は京都の清水寺を創建したと伝えられる。史実と考えられているが、詳しい事情は様々な伝説があってはっきりしない。
平城天皇、東山道および畿内にも観察使が置かれた。併せて、参議を廃止して観察使のみとした。観察使による地方行政の監察は、精力的に実施されていたようで、『日本後紀』には、各観察使が民衆の負担を軽減するため、様々な措置を執っていたことが記録されている。
平城上皇と嵯峨天皇が対立する。
空海、大宰府・観世音寺に止住。この時期空海は、個人の法要を引き受け、その法要のために密教図像を制作するなどしたことが確かめられる。 日本で、生野銀山が開坑された。
4月、参議の号を廃止する。近衛府を左近衛府、中衛府を右近衛府とする。
5月、諸国の采女貢上を停止する。
12月18日 (大同2年11月12日)、桓武天皇の夫人、藤原吉子が死去。
808年(大同三年):戊子
日本/空海(弘法大師)が現在の山梨県にある湯村温泉を発見したと伝えられるが、温泉発見の経緯については諸説ある。
5月、筑前に国司を復帰する。
7月、畿内の斑田(口分田)6年に一度に復す。
809年(大同四年):己丑
藤原薬子が、亡き父の藤原種継に太政大臣を追贈させる。 平城天皇は病気のため同母弟の神野親王(嵯峨天皇)に譲位する。
嵯峨天皇が即位。(崇文の治) 退位した平城上皇は平城京へ移る。このため平安京と平城京に二所の朝廷が並ぶようになり、薬子と仲成が平城上皇の復位を目的に平城京への遷都を図ったため二朝の対立は決定的になった。
空海、まず和泉国槇尾山寺に滞在し、7月の太政官符をまって入京する。 変化法身にて、如来を形現させる。 和気氏の私寺であった高雄山寺(のちの神護寺)に入る。 嵯峨天皇との交流も含め、京を中心に求心力を発揮していく。これにより、密教が日本に伝わる。 唐/吐蕃が再度霊州から豊州の一帯を制圧して、回鶻-唐間の直道(参天可汗道)を遮断。 ハールーン・アッ=ラシードが死去。
4月、病気のため神野親王(嵯峨天皇)に譲位、嵯峨天皇は平城天皇の子の高岳親王を皇太子に立てた。
同年12月、平城上皇は旧都である平城京に移り住んだ。
7月、空海、和気氏の私寺であった高雄山寺(後の神護寺)に入る。 この空海の入京には、最澄の尽力や支援があった、といわれている。その後、2人は10年程交流関係を持った。密教の分野に限っては、最澄が空海に対して弟子としての礼を取っていた。しかし、法華一乗を掲げる最澄と密厳一乗を標榜する空海とは徐々に対立するようになる。
12月、平城上皇、平城旧京に向かう。
810年(弘仁元年):庚寅
3月 - 令外官として蔵人頭を新設し、藤原冬嗣・巨勢野足が頭に任命される。 薬子の変が起こる。
薬子やその兄の藤原仲成の介入により、平安京より遷都すべからずとの桓武天皇の勅を破って平安京にいる貴族たちに平城京への遷都を呼びかけ、政権の掌握を図った。
空海、薬子の変が起こったため、嵯峨天皇側につき鎮護国家のための大祈祷を行った。
6月、平城上皇と嵯峨天皇の関係が悪化していく中、嵯峨天皇は、観察使を廃止して参議を復活する詔を発令した。これにより観察使は4年間の歴史を終えた。
9月10日、嵯峨天皇は平安京にいた仲成を捕らえて、薬子の官位を剥奪して罪を鳴らす詔を発した。 坂上田村麻呂、大納言位となる。また、上皇によって平城遷都のための造宮使に任じられた。
9月11日、平城上皇は薬子とともに挙兵するため東国に向かったが、嵯峨天皇は先手をうって坂上田村麻呂を派遣して待ちかまえた。 遮られて翌日平城京に戻った。勝機のないことを知った平城上皇は平城京に戻って直ちに剃髮して仏門に入り、薬子は服毒自殺した。兄の藤原仲成も殺された(薬子の変)。 高岳親王を皇太子を廃され、大伴親王(後の淳和天皇)が立てられた。これを薬子の変と呼ぶ。 なお「薬子の変」の際、妃の朝原内親王と大宅内親王は平城上皇に同行せず、 弘仁三年(812年)の5月、揃って妃の位を辞した。 諡は平城京に因むものである。墓所は平城京のすぐ北の楊梅陵(やまもものみささぎ)と伝えられる。
坂上田村麻呂、嵯峨天皇につき、鎮圧に出撃した。 子の坂上広野は近江国の関を封鎖するために派遣され、田村麻呂は美濃道を通って上皇を邀撃する任を与えられた。このとき田村麻呂は、身柄を拘束されていた文室綿麻呂を伴うことを願い、許された。平城京から出発した上皇は東国に出て兵を募る予定だったが、大和国添上郡越田村で進路を遮られたことを知り、平城京に戻って出家した。
薬子の変以後、嵯峨天皇即位。(名は神野(かみの)という) 平穏な治世を送り宮廷の文化が盛んな時期を過ごした。漢詩、書をよくし、三筆の一人に数えられる。皇子皇女多数。皇族の整理を行い、多数に姓を賜り臣籍降下させた。嵯峨天皇の子で源姓を賜ったものとその子孫を嵯峨源氏という。 河原左大臣源融は嵯峨天皇の子の一人。 陵墓は京都の嵯峨山上陵(さがのやまのえのみささぎ)。 清水寺が嵯峨天皇の勅許を得て公認の寺院となり、「北観音寺」の寺号を賜ったとされる。『枕草子』は「さわがしきもの」の例として清水観音の縁日を挙げ、『源氏物語』「夕顔」の巻や『今昔物語集』にも清水観音への言及があるなど、平安時代中期には観音霊場として著名であったことがわかる。
弘仁の時世に、嵯峨天皇、大覚離宮(大覚寺)に宮殿を構え、横に位置する大沢池に出向かい、大沢池の花で生け花をした。これが華道嵯峨御流の発祥と伝わる。歴史書によると、その時に嵯峨天皇は「爾今、花を賞ずる者はこれを範とする」と言われ、華道の普及を進めたと記述が見える。
10月14日(大同5年9月13日)、大伴王(後の第53代天皇・淳和天皇)が立太子。