西暦811年〜820年

811年(弘仁二年):辛卯
空海、乙訓寺の別当を務める。 唐/ウイグル・唐軍による2度目の北庭都護府奪還とジュンガル盆地制圧によりカルルクがウイグルに服属、次第に旗色が悪くなる。840年頃には河西・隴右・西域の全域を奪還され、ウイグルと講和した。 東ローマ皇帝ニケフォロス1世がプリスカの戦いでブルガリアのクルムに敗北し戦死。 1月、陸奥に和我・斯波・稗縫の3郡を置く。 5月23日、坂上田村麻呂が54才で病死した。嵯峨天皇は哀んで一日政務をとらず、田村麻呂をたたえる漢詩を作った。死後従二位を贈られた。 10月、征夷将軍 文室綿麻呂ら戦果を報じ、蝦夷の移配を要請する。
812年(弘仁三年):壬辰
5月、「薬子の変」の際、朝原内親王と大宅内親王は平城上皇に同行せず、 揃って妃の位を辞した。 冬、最澄の弟子の泰範、円澄、光定らと高雄山寺におもむき、空海から灌頂を受ける。 嵯峨天皇、坂上田村麻呂を甲可(滋賀県甲賀市土山)にある田村神社(元伊勢宮)に祀る。 東ローマ皇帝ミカエル1世ランガベーがカール大帝を「フランク族の皇帝」として承認。 ヴェネツィア共和国が中心地をトルチェッロ島からリアルト島(現・リアルト地区)へ移す。 ヴェネツィア共和国元首アンジェロ・パルテチパツィオ 治世下の移民。 第二次ロンスヴォーの戦いが勃発。フランク王国のカール大帝がバスコニアに侵攻したロンスヴォーの戦いの一局面。 ハーフェル川流域にてポラビア・スラブ人の一派ヴェレティが反乱を起こすも、失敗。 1月13日、アーヘンの和約(en/de、cf. アーヘンの和約、en:Treaty of Aix-la-Chapelle)。 フランク王国のカール大帝の帝位を「僭称である」として認めなかった東ローマ帝国が、第二次ブルガリア帝国の台頭などによる脅威の増したミカエル1世ランガベーの代で、ようやくこれを容認し、アーヘンにて講和条約を締結する。 ただし、ローマ皇帝(ローマ人の皇帝)はコンスタンティノポリスのローマ皇帝(東ローマ皇帝)のみで、カールはフランクの皇帝であるとした。 また、カールは交換条件して、南イタリアの一部とヴェネツィア共和国およびダルマチアが東ローマ帝国の傘下にあることを認めた。 3月28日、桜の花見の宴が日本で初めて公式行事として催される。 神泉苑にて嵯峨天皇が日本の記録上初めての花宴之節を開く。『日本後紀』に「幸神泉苑 覧花樹 命文人賦詩 賜綿有差 花宴之節始於此矣」とあり、これ以降、貴族の間にも桜の花見が急速に普及してゆくこととなる。 少し後の時代に著された『作庭記』には「東ニハ花の木をうへ 西ニハ...」[意訳:〈庭を造るにあたっては、〉東には桜の木を植え、西には...]とあり、桜の木が造園に欠かせないものとなっている。 ここでいう「花宴」とは「桜の花見の宴」であり、日本の朝廷においての公式初は、記録に残る日本初・世界初もである。 6月(弘仁3年5月)、国司が公廨田の外に水陸田を営むことを禁止する。 6月、クルム・ハーン率いる第一次ブルガリア帝国軍がトラキア(東ローマ帝国領内)に侵攻。8月まで続いた。 7月(弘仁3年6月)、大輪田泊が修築される。 10月15日、クルム率いる第一次ブルガリア帝国軍が、メセンブリア(Mesembria。現・ネセバル。東ローマ帝国領内)を攻撃し、占領する。 10月31日、東ローマ帝国軍が包囲戦によってクルム軍を撤退させる。 11月15日、空海、高雄山寺にて金剛界結縁灌頂を開壇した。入壇者には、最澄も含まれていた。 12月14日、空海、胎蔵灌頂を開壇。入壇者は最澄やその弟子円澄、光定、泰範のほか190名にのぼった。
813年(弘仁四年):癸巳
勤操和尚、三論宗の代表として大極殿最勝講で法相宗義を論破。律師に任じられた。 唐/ウイグルが漠南で吐蕃軍を撃ち破ると勝ちに乗じて河西まで追撃したが、816年には吐蕃軍が牙帳から3日の距離まで進軍し周辺も制圧された。821年、連合を図るため唐から公主が降嫁。 ガリシアのサンティアゴ・デ・コンポステーラで聖ヤコブの墓が発見されたという。 アッバース朝6代カリフのアミーンが異母兄マアムーンに暗殺される。マアムーンが第7代カリフに即位。 1月、泰範、円澄、光定を高雄山寺の空海のもとに派遣して、空海から密教を学ばせることを申し入れ、3月まで弟子たちは高雄山寺に留まった。しかし、このうち泰範は空海に師事したままで、最澄の再三再四にわたる帰山勧告にも応ぜず、ついに比叡山に帰ることはなかった。 4月3日(弘仁4年2月29日)、弘仁の韓寇。新羅人110人が肥前小値賀島に来着し、島民と戦う。 6月、万多親王らが『新撰姓氏録』を撰上する。 6月22日、ヴェルシニキアの戦いが起こる。東ローマ帝国の都市アドリアノープル(現・エディルネ)の北に所在するヴェルシニキアの小要塞に布陣したクルム・ハーン率いる第一次ブルガリア帝国軍を、東ローマ皇帝ミカエル1世ランガベーの軍が攻めるも、大敗を喫す。 6月22日以降、アドリアノープルの戦いが起こる。ヴェルシニキアの戦いの後、クルム軍はただちに都市アドリアノープルや東ローマ帝国首都コンスタンティノポリスの包囲戦を開始。結果、補給を絶たれたアドリアノープルは降伏する(月日不明)。 7月11日、イサウリア朝(シリア朝)東ローマ帝国第9代皇帝レオーン5世の即位。先帝ミカエル1世ランガベーは修道院送りとなる。 9月11日、カロリング朝フランク王国カール大帝が、アーヘンにて、アキテーヌ王(cf. アキテーヌ公)であった第3子ルートヴィヒ(ルートヴィヒ1世)を共同統治者に即位させる。 アッバース朝イスラム帝国第6代カリフであったアミーンが暗殺され、マアムーンが第7代カリフに即位する。 11月23日、最澄が「理趣釈経」の借用を申し出たが、空海は「文章修行ではなく実践修行によって得られる」との見解を示して拒絶、以後交流は相容れなかった。
814年(弘仁五年):甲午
日本最初の勅撰漢詩集『凌雲集』が成立。 嵯峨天皇がその子女8人に源姓を賜い臣籍降下させる(嵯峨源氏。賜姓源氏の始まり)。 カール大帝死亡。領土はルートヴィヒ敬虔王(ルイ1世)が継承。 ブルガール人、コンスタンティノポリスを占領(817年まで)。 2月、この頃、出雲に俘囚荒橿の乱起きる。 7月、斑田(口分田)を督励する。 7月23日(弘仁5年6月29日)、菅野真道が死去。
815年(弘仁六年):乙未
和気氏の要請で大安寺で講説、南都の学僧と論争。その後東国へ旅立つ。関東で鑑真ゆかりの上野の緑野(みとの)寺(現在の群馬県浄法寺に位置する)や下野の小野寺を拠点に伝道を展開する。 春、会津の徳一菩薩、下野の広智禅師、萬徳菩薩(基徳の誤記か?)などの東国有力僧侶の元へ弟子康守らを派遣し密教経典の書写を依頼した。時を同じくして西国筑紫へも勧進をおこなった。この頃『弁顕密二教論』を著している。 法相宗の学僧会津徳一との間に、三一権実の論争。徳一が『仏性抄』(ぶっしょうしょう)を著して最澄を論難し、最澄は『照権実鏡』(しょうごんじっきょう)で反駁。 論争は、以降の比叡山へ帰った後も続き、『法華去惑』(こわく)『守護国界章』『決権実論』『法華秀句』などを著したが、決着が付く前に最澄も徳一も死んでしまったので、最澄の弟子たちが徳一の主張はことごとく論破したと宣言して論争を打ち切った。 小野篁、陸奥守に任ぜられた父・岑守に従って陸奥国へ赴き、弓馬をよくした。しかし、帰京後も学問に取り組まなかったことから、漢詩に優れ侍読を務めるほどであった岑守の子であるのになぜ弓馬の士になってしまったのか、と嵯峨天皇に嘆かれた。 3月、平安京の客館が荒廃。調停はこれを調査する。 7月、国司の任期を4年に改める。
816年(弘仁七年):丙申
空海と最澄が訣別するに至る。2人の訣別に関しては、古くから最澄からの理趣釈経(「理趣経」の注釈書)の借覧要請を空海が拒絶したことや、最澄の弟子泰範が空海の下へ走った問題があげられる。だが、近年その通説には疑義が提出されている。 令外官として検非違使を新設。 東ローマ皇帝レオーン5世が再び聖像破壊令を出す(第二次イコノクラスム - 843年)。 アゼルバイジャンでホッラム教徒バーバクの反乱( - 837年)。 5月、渤海使帰国する。 6月19日、空海、修禅の道場として高野山の下賜を請う。 7月、鋳銭司を廃止する。 7月8日、空海、高野山を下賜する旨勅許を賜る。高野山金剛峯寺を開基。これを以って真言宗の開宗とされる。
817年(弘仁八年):丁酉
唐の皇帝憲宗の命で淮西節度使の呉元済が討伐される(文恬武嬉)。 2月、新羅人33人、帰化する。 4月、新羅人144人、帰化する。
818年(弘仁九年):戊戌
菅原清公らが『文華秀麗集』を編纂。 嵯峨天皇が死刑停止の宣旨(弘仁格)を公布し死刑執行が停止される( - 1156年)。 最澄、みずから具足戒を破棄。『山家学生式』(さんげがくしょうしき)を定め、天台宗の年分度者は比叡山において大乗戒を受けて菩薩僧となり、12年間山中で修行することを義務づける。 最澄、南都の僧綱から反駁にこたえて『顕戒論』を執筆。『内証仏法血脈譜』を書いて正統性を説く。 唐の憲宗皇帝が、鳳翔法門寺の佛骨を長安に奉迎する。 東ローマ帝国で第二次聖像破壊運動。 3月、長門国司を鋳銭使とする。 4月、宮中の殿舎・諸門の名を唐風に改める。 11月、空海自身が勅許後はじめて高野山に登り翌年まで滞在。 11月、富寿神宝を鋳造する。
819年(弘仁十年):己亥
皇帝憲宗に献じた韓愈の『論仏骨表』が勅勘を被り、韓愈が潮州刺史に左遷される。 春、空海、七里四方に結界を結び、伽藍建立に着手した。この頃、『即身成仏義』『声字実相義』『吽字義』『文鏡秘府論』『篆隷万象名義』などを立て続けに執筆した。 2月、畿内の富豪の貯財を調査し、困窮者に貸し出させる。 7月、空海、嵯峨天皇の勅命によって宮中の中務省に居住した(『高野雑筆集』)。勅命の理由は不明であるが、中務省の役割から考えて詔勅などの文章作成の指導あるいは代筆を求められたと考えられる。 11月、渤海使来る。
820年(弘仁十一年):庚子
東ローマ帝国でレオーン5世が暗殺され、皇帝ミカエル2世が皇帝に即位しアモリア朝が成立。 ペルシアの数学者アル=フワーリズミー、『イルム・アルジャブル・ワル・ムカバラ』を刊行。「代数」(algebra)という言葉の原点とされる。 2月、遠江・駿河両国の新羅人700人が反乱を起こす(弘仁新羅の乱)。 4月、弘仁格式を施行する。 5月、空海が『文鏡秘府論』を要約した『文筆眼心抄』を著している。これは中務省など官人の文章作成能力の向上という天皇の依頼に応えるためだったとみられている。