西暦821年〜830年

821年(弘仁十二年):辛丑
空海が満濃池(まんのういけ、現在の香川県にある日本最大の農業用ため池)の改修を指揮して、アーチ型堤防など当時の最新工法を駆使し工事を成功に導いた。
藤原冬嗣が勧学院を創立する。
ホラサーンでターヒル朝が自立する。
唐/ウイグル、チベット、唐の間での三国会盟が締結された。(長慶会盟) この三国会盟については従来、チベットと唐の二国間での長慶会盟であることが通説であったが、近年、森安孝夫が敦煌文書の断片ペリオ3829番に「盟誓得使三国和好」という文言をパリで発見したり、中国の李正宇がサンクトペテルブルクで敦煌文書断片Dx.1462から同様の内容の記録を発見し、三国会盟が締結されていたことが明らかになってきている。
当時の唐・チベット・ウイグルの国境は、清水県の秦州や天水と、固原(原州)をむすぶ南北の線が、唐とチベットの国境線で、東西に走るゴビ砂漠が、ウイグルとチベットとの国境であった。 なお、ゴビ=アルタイ東南部のセブレイにあるセブレイ碑文が現存しているが、この碑はウイグル側が三国会盟を記念して建立したとされる。
5月、空海、讃岐の万濃池をつくる。
11月、渤海使来る。
822年(弘仁十三年):壬寅
空海、太政官符により東大寺に灌頂道場真言院建立。この年平城上皇に潅頂を授けた。
嵯峨天皇に嘆かれた小野篁は、恥じて悔い改めて学問を志し、文章生試に及第した。
現存最古の説話集『日本霊異記』を景戒が編集。
比叡山の大乗戒壇建立が勅許。
アブド・アッラフマーン2世が即位。(スペイン・後ウマイヤ朝)
唐と吐蕃が同盟を結ぶ。(唐蕃会盟)
金憲昌、長安国を開国。
6月26日(弘仁13年6月4日)、最澄、比叡山の中道院で没する。享年56(満54歳没)。没後7日目、大乗戒壇設立は、弟子・光定と、藤原冬嗣、良岑安世の斡旋により勅許。
7月、新羅人40人、帰化する。
823年(弘仁十四年):癸卯
嵯峨天皇が譲位し、第53代淳和天皇が即位。
「唐蕃会盟碑」が建てられる(チベットのトゥルナン寺(大昭寺)前の碑のみ現存)。
正月、空海、太政官符により東寺を賜り、真言密教の道場とした。後に天台宗の密教を台密、対して東寺の密教を東密と呼ぶようになる。東寺は教王護国寺の名を合わせ持つが、この名称は鎌倉時代以降に用いられる。
フランク国王シャルル1世の息子ドロゴがメッツ司教に就任する。
皇帝ルーヴィヒ1世と皇后ユーディトとの間に、末子にして四男シャルル2世が生まれる。
皇后ユーディトは、シャルルにも領土の一部を相続させる事を要望。しかし、817年の帝国整序令によって分配した後出会った事から、相続はなされなかった。
2月、大宰府管内諸国の公営田制を実施する。
4月16日、嵯峨天皇崩御。大伴親王が践祚し、第53代淳和天皇が即位する。名は大伴(おおとも)であったため、天皇の御名と同じ姓では畏れ多いからというのが理由から、大伴氏が伴氏と改姓している。
5月31日(同4月18日)、正良王(後の第54代天皇・仁明天皇)が立太子。
6月9日(同4月27日)、淳和天皇が即位。
11月 - 渤海使、加賀に来着する。
824年(天長元年):甲辰
元号を『天長』と改める。
唐/吐蕃と唐が停戦に至って以降は、専ら西部で戦闘が行われ、840年に和睦するまでの間に、漠南を奪還し河西地域を征服した。
多禰国が大隅国に編入
小野篁、巡察弾正に任ぜられた後、弾正少忠・大内記・蔵人に着任。
中世のイベリア半島北東部パンプローナ領で、フランク王国への反乱をきっかけにヒスパニカ(スペイン辺境)領から独立。ナバラ王国が興る。 バスク民族の狩猟アリスタが王として選出される。
2月、空海、勅により神泉苑で祈雨法を修した。
3月、空海が少僧都に任命され、僧綱入りする。
5月、新羅人54人を陸奥国に配し、口分田を与える。
6月、空海、造東寺別当。
6月、渤海使の来日を12年に一度とする。
9月、空海、高雄山寺が定額寺となり、真言僧14名を置き、毎年年分度者一名が許可となった。
825年(天長二年):乙巳
イングランドでウェセックス王国のエグバート王がマーシアをエランダンで破る
イニゴ・アリスタがフランク王国に反乱を起こしナバラ王国を建国。
7月、葛原親王の子高棟王に平姓を与える。
12月、渤海使、隠岐に来着する。
826年(天長三年):丙午
ギヨームの子ベルナールが、バルセロナ伯を就任する。
これに対し、バルセロナ伯ベラの副官でありゴート貴族のアイッソが反乱を起こす。バルセロナの駐屯軍はアイッソに味方をした。
ウゾーナ伯領のロダ・デ・テル城は、反乱に抵抗したためにアイッソによって陥落。城は破壊され、アイッソの領土となる。アイッソは引き続き、サルダーニャ伯領および都市バリェスに侵攻する。
1月、和泉に池5カ所を築く。
9月、上総・常陸・上野を親王任国とし、国守を太守と称する。
827年(天長四年):丁未
京都で大地震が起こる。
空海が大僧都に任命される。
菅原清公・良岑安世らが『経国集』を編纂。
チュニジアのアグラブ朝がシチリア島征服に着手
フランク国/アイッソの反乱を鎮圧するため、ベルナールはフランク王国本国から支援を求め、軍を増強する。これに対し、アイッソもコルドバを治めていた実弟エミールを、アブド・アッラフマーン2世のもとに送り加勢を求めた。
5月、延暦寺戒壇院設立を認める。
5月、フランク国/アアブド・アッラフマーン2世がウバイドゥッラー・アブー・マルワーン将軍をサラゴサに派遣し、バルセロナ侵攻の拠点とした。ウバイドゥッラー将軍は夏にバルセロナへ達すると街を包囲して周辺を破壊、しかしベルナールの迎撃により、街を占領するまでには至らなかった。 バルセロナの情勢をしった皇帝ルートヴィヒ1世は、次男アキテーヌ王ピピン、トゥール伯ユーグおよびオルレアン伯マトフリードに対して、ムスリム軍を迎撃するために招集をかけるが、軍は思うようには集まない。
その間に、ウバイドゥッラー将軍はアイッソとともに、後ウマイヤ朝領分に撤退。
8月、「類聚国史」によれば、京都でM6〜7級の大地震がおこる。空海、大僧都に任じられる。実恵、観心寺造営に着手。
9月、京中の空閑地・荒廃地を払い下げる。
12月、フランク国軍がバルセロナに到着。この時すでにムスリム軍は撤退した後であった。
828年(天長五年):戊申
空海が『綜藝種智院式并序』を著すとともに、東寺の東にあった藤原三守の私邸を譲り受けて私立の教育施設「綜芸種智院」を創設。
当時の教育は、貴族や郡司の子弟を対象にするなど、一部の人々にしか門戸を開いていなかったが、綜芸種智院は庶民にも教育の門戸を開いた画期的な学校であった。 綜芸種智院の名に表されるように、儒教・仏教・道教などあらゆる思想・学芸を網羅する総合的教育機関でもある。 『綜藝種智院式并序』において「物の興廃は必ず人に由る。 人の昇沈は定んで道にあり」と、学校の存続が運営に携わる人の命運に左右される不安定なものであることを認めたうえで、「一人恩を降し、三公力をあわせ、諸氏の英貴諸宗の大徳、我と志を同じうせば、百世継ぐを成さん」と、天皇、大臣諸侯や仏教諸宗の支持・協力のもとに運営することで恒久的な存続を図る方針を示している。 ただし、これは実現しなかったらしく、綜芸種智院は空海入滅後10年ほどで廃絶した。
現在は種智院大学および高野山大学がその流れを受け継いでいる。
エジプトのアレクサンドリアから聖マルコの遺骸がヴェネツィアに運ばれる(サン・マルコ大聖堂の起こり)。
フランク国/後ウマイヤ朝によるムスリム軍のバルセロナ徹底に対して、ベルナールの迎撃成功によるものと報告が伝わり、これがベルナールの名声を上げる事になる。しかし、バルセロナ属領のウゾーナ伯領は破壊によって荒廃してしまう。
この年に行われたアーヘン議会では、ウゾーナ伯領の原因は、フランク国軍の増援遅れの原因は太守ユーグとマトフリードに責任があるとして、オルレアン領と、コンフラン領、ラゼース領を返還する事となった。代わりにオルレアン領にはウードが太守に任ぜられ、コンフラン領とラゼース領は、ベルナールの実弟ゴーセムが太守に任ぜられた。
また、プロヴァンス公レビュルフが死去したため、ベルナールがプロヴァンス地方の広大な領土(ナルボンヌ、ベジエ、アグド、メルグイユ、ニーム、ユゼス)を継承した。
1月、渤海人100人余が但馬に来着する。
11月、空海、綜芸種智院を創設する。
829年(天長六年):己酉
ウェセックス王国のエグバートがイングランドを統一。マーシア人のほとんどは、ウェールズに移動した。
フランス領ヴォルムスでの帝国会議にてルートヴィヒ1世とイタリア国王ロタール1世の合意のもと、イタリア領アレマニア、アルザス、ラエティアおよびブルグントの一部を、カール2世に分与。幼いカール2世の元には、ベルナール・ド・ジェロームの子であるベルナール・ド・セプティマニーが後見人として就任。この話には、皇后ユーディトの働きかけがあったとされている。
1月23日(天長5年12月15日)、空海が綜芸種智院の設立を宣言する。
5月、諸国に灌漑用水車を作らせる。
6月、校斑田(口分田を調査すること)のために国司の下に書生等を雇い宛てる。
8月、皇帝ルートヴィヒ1世が、息子ロタール1世を正式にイタリア王に就任させるため、パヴィーアに送る。そして、ロタール1世の代わりにベルナールを宮廷に召喚し、侍従の位を与えた。
ロタール1世がローマ帝国の首都パヴィーアにおいて、イタリア王への戴冠式を受け、正式にイタリア王を就任する。
ヴォルムスでの帝国会議にてルートヴィヒ1世は、シャルル(カール2世)を西フランク国の王として育てるために、ロタール1世の合意を得てイタリアの一部分の領土をに与え、ベルナールをその後見人とした。ベルナールはこれを受け、プロヴァンス地方の統治を実弟ゴーセムに継承する。以後、ゴーセムは辺境伯を名乗る事になる。
イタリア王ロタール1世は合意はしたものの、この件については快く思っていなかった。
830年(天長七年):庚戌
出羽国で大規模な地震が発生する。
空海、淳和天皇の勅に答え『秘密曼荼羅十住心論』十巻(天長六本宗書の一)を著し、後に本書を要約した『秘蔵宝鑰』三巻を著した。
小野岑守が死去。この時小野篁は、哀悼や謹慎生活が度を過ぎて、身体容貌がひどく衰えてしまうほどであったという。
唐で牛僧儒と李徳裕が争う(牛・李の党争)。(- 844年)
アッバース朝がバグダードにバイト・アルヒクマ(知恵の館)を建設する。以後、ギリシア語文献のアラビア語翻訳が盛んになる。 カリフのマアムーンがバグダードに「知恵の館(バイト・アルヒクマ)」を建設する。ハッラーンに続きバグダードでのギリシア語文献からアラビア語への翻訳が盛んになる。
チェック人(西スラブ族)がモラビア王国建設
1月3日、出羽国秋田で大規模な地震が発生。(日本後紀巻第卅八)
1〜3月(推定)、皇帝ルートヴィヒ1世はロタール1世にブルターニュ遠征を命じる。一方でベルナールと皇后ユーディトとの間で姦通の噂が立つ。
4月、ベルナールと皇后ユーディトとの関係が告発される。後において、この噂は真実ではなかったとの事。(テガン著『皇帝ルートヴィヒの事績』) 
4月14日、この告発をきっかけとし、ブルターニュ遠征への不満からロタールを中心としたクーデターが決行。もともとブルターニュ制圧のために駐屯していたレンヌのフランク軍が反乱をおこす。ロタール1世は、父ルートヴィヒを廃位し、自らが単独の皇帝ロタール1世として帝位についた。
さらにアクイタニア王ピピン、バイエルン王ルートヴィヒも反乱軍を支援した。このロタールの反乱により、ベルナールは宮廷を退きバルセロナへ身を引いた。ベルナールの実弟エリベールも宮廷を追放される。皇妃ユーディトはポワチエの修道院に追放。この件から、ベルナールはオータン伯領を没収される。
このあと、ロタール1世は皇帝という地位より独裁制に傾倒していく。この流れを恐れた副帝アクイタニア王ピピン、バイエルン王ルートヴィヒは、同盟を結んでルートヴィヒ1世を皇帝へと復権させた。
9月、薬師寺、最勝会始まる。
10月、藤原三守ら格式を撰上する(弘仁格式)。
10月、皇帝ルートヴィヒ1世、ナイメーヘンの会議において、ベルナールの地位を回復。皇妃ユーディトもルートヴィヒ1世の許に戻る事になる。皇妃ユーディトはその後も、なんとかシャルル2世に相続分を獲得させたいがために画策する。
11月、新撰の神祇・八省・弾正・左右京・春宮・勘解由・六衛・左右兵庫格式を施行する。