西暦831年〜840年

831年(天長八年):辛亥
5月末、空海、病(悪瘡といわれている)を得る。
6月、空海、大僧都を辞する旨上表するが、天皇に慰留された。
8月、山城・河内両国に氷室を増置する。
9月、大宰府に新羅人の交易物を監督させる。
832年(天長九年):壬子
小野篁、従五位下・大宰少弐に叙任。
ハッラーンに続きバグダードでのギリシア語文献からアラビア語への翻訳が盛んになる。
カリフのマアムーンがクフ王のピラミッドの内部に調査隊を潜入させる。
5月、播磨の明石魚住泊を造る。
7月、伊予の守護河野息利(かわのやすとし)に子、息方(やすかた)が生まれる。(石手寺)
8月22日、高野山において最初の万燈万華会が修された。 空海は、願文に「虚空盡き、衆生盡き、涅槃盡きなば、我が願いも盡きなん」と想いを表している。 その後、秋より高野山に隠棲し、穀物を断ち禅定を好む日々であったと伝えられている。
12月、正税の欠負未納を公廨利稲の1割で毎年国司に補填させる。
833年(天長十年):癸丑
淳和天皇、に譲位による退位。 第54代仁明天皇が即位する。 仁明天皇の皇太子には淳和天皇の皇子恒貞親王(母は嵯峨天皇の皇女正子内親王)が立てられた。嵯峨上皇による大家父長的支配のもと30年近く政治は安定し、皇位継承に関する紛争は起こらなかった。 この間に藤原北家の藤原良房が嵯峨上皇と太皇太后橘嘉智子(檀林皇太后)の信任を得て急速に台頭し始めていた。良房の妹順子が仁明天皇の中宮となり、その間に道康親王が生まれた。良房は道康親王の皇位継承を望んだ。道康親王を皇太子に擁立する動きがあることに不安を感じた恒貞親王と父親の淳和上皇は、しばしば皇太子辞退を奏請するが、その都度、嵯峨上皇に慰留されていた。この時の不安は「承和の変」へとつながる。
小野篁が、皇太子・恒貞親王の東宮学士に任ぜられ、弾正少弼を兼ねる。また、同年完成した『令義解』の編纂にも参画して、その序文を執筆している。
アッバース朝でムータシムがカリフに就任。トルコ人奴隷(マムルーク)で親衛隊を組織。
2月、清原夏野ら「令義解」を作る。
3月22日(天長10年2月28日)、淳和天皇が譲位。正良親王が践祚し、第54代天皇・仁明天皇となる。
3月30日(天長10年3月6日)、仁明天皇が即位。
8月26日 (天長10年7月4日) 、平安時代の天台宗の僧、義真が死去。
12月、諸国に米穀の売買を行わせる。
834年(承和元年):甲寅
元号を「承和」に改める。
1月、 藤原常嗣、小野篁が、遣唐副使に任ぜられる。
まだ日本に『白氏文集』が一冊しか渡来していない頃、天皇が戯れに白居易の詩の一文字を変えて篁に示したところ、篁は改変したその一文字のみを添削して返したという。 白居易は、篁が遣唐使に任ぜられたと聞き、彼に会うのを楽しみしていたという。
2月、東大寺真言院で『法華経』、『般若心経秘鍵』を講じた。
2月、畿内の斑田を12年に1度に改める。
12月19日、毎年正月宮中において真言の修法(後七日御修法)を行いたい旨を奏上。
12月24日、太政官符では東寺に三綱を置くことが許される。
12月29日、太政官符で真言の修法が許可される。
835年(承和二年):乙卯
小野篁、従五位上に昇叙。 唐で甘露の変が起こる。
1月、承和昌宝を鋳造する。
1月8日より宮中で後七日御修法を修す。宮中での御修法は、明治維新による神仏分離による短期の中断をはさみ、東寺に場所を移し勅使を迎え毎年行われている。
1月22日には、真言宗の年分度者3人を申請して許可されている。
2月30日、金剛峯寺が定額寺となった。
3月15日、高野山で弟子達に遺告を与え、
3月21日に入滅した。享年62(満60歳没)。
伝真済撰『空海僧都伝』によると死因は病死で、『続日本後紀』によると遺体は荼毘に付された(火葬された)ようである。 しかし後代には、入定した(即身仏となった)とする文献が現れる。
----
高野山の人々や真言宗の僧侶の多くにとっては、高野山奥の院の霊廟において現在も空海が禅定を続けているとされており、そのように信じられている。奥の院の維那(ゆいな)と呼ばれる仕侍僧が衣服と二時の食事を給仕している。 霊廟内の模様は維那以外が窺う事はできず、維那を務めた者も他言しないため部外者には不明のままである。 現存する資料で空海の入定に関する初出のものは、入寂後100年以上を経た康保5年(968年)に仁海が著した『金剛峰寺建立修行縁起』で、入定した空海は四十九日を過ぎても容色に変化がなく髪や髭が伸び続けていたとされる。
『今昔物語』には高野山が東寺との争いで一時荒廃していた時期、東寺長者であった観賢が霊廟を開いたという記述がある。これによると霊廟の空海は石室と厨子で二重に守られ坐っていたという。 観賢は、一尺あまり伸びていた空海の蓬髪を剃り衣服や数珠の綻びを繕い整えた後、再び封印した。また、入定したあとも諸国を行脚している説もあり、その証拠として、毎年3月21日に空海の衣裳を改める儀式の際、衣裳に土がついていることをあげている。 以上のように肉身を留めて入定していると信じられている。 その一方で、歴史学的文献には『続日本後紀』に記された淳和上皇が高野山に下した院宣に空海の荼毘式に関する件が見えること、空海入定直後に東寺長者の実慧が青竜寺へ送った手紙の中に空海を荼毘に付したと取れる記述があることなど、火葬されたことが示唆されている。 桓武天皇の孫、高岳親王は、十大弟子のひとりとして、遺骸の埋葬に立ち会ったとされる。 後述のように空海に関しては史実に増して伝承が多く、開山伝説や開湯伝説に至っては無数にあるが、この入定伝説はその最たるもの。
836年(承和三年):丙辰
小野篁、正五位下に昇叙。
新羅の第42代王、興徳王が死去。
アッバース朝がバグダードからサマッラーに遷都
プラティーハーラ朝のボージャ1世が北インドの中心地カナウジを制圧。
5月、遣唐使、難波より出発する。
7月、遣唐使遭難して肥前・対馬に漂着する。
12月8日 (承和4年10月26日)、平安時代の天台宗の僧、円澄が死去。
837年(承和四年):丁巳
小野篁、遣唐使船にて、2回に亘り出帆するが、いずれも渡唐に失敗する。
3月、遣唐使、大宰府へ向かう。
7月、遣唐使再び遭難して壱岐島・値賀島に漂着する。
838年(承和五年):戊午
三度目の航海にあたって、遣唐大使・藤原常嗣の乗船する第一船が損傷して漏水したために、常嗣の上奏により、篁の乗る第二船を第一船とし常嗣が乗船した。 これに対して篁は、己の利得のために他人に損害を押し付けるような道理に逆らった方法がまかり通るなら、面目なくて部下を率いることなど到底できないと抗議し、さらに自身の病気や老母の世話が必要であることを理由に乗船を拒否した(遣唐使は篁を残して6月に渡海)。 のちに、篁は恨みの気持ちを含んだまま『西道謡』という遣唐使の事業を(ひいては朝廷を)風刺する漢詩を作るが、その内容は本来忌むべき表現を興に任せて多用したものであった。 そのため、この漢詩を読んだ嵯峨上皇は激怒して、篁の罪状を審議させた。
新羅の第43代王、僖康王が死去。
2月、畿内の群盗を左右衛門府の府生・看督らに逮捕させる。
4月、大和の富豪の資財を困窮者に貸し出させる。
7月29日、伊豆諸島神津島の天上山が噴火。
12月、嵯峨上皇は小野篁を官位剥奪の上で隠岐への流罪に処した。なお、配流の道中に篁が制作した『謫行吟』七言十韻は、文章が美しく、趣きが優美深遠で、漢詩に通じた者で吟誦しない者はいなかったという。
円仁が唐にわたる( - 847年)。
アモリオンの戦い。
839年(承和六年):己未
アマルフィ共和国が独立。
新羅の第44代の王、閔哀王が死去。
新羅の第45代の王、神武王が死去。
7月、諸国に庚午年籍を写させる。
8月、遣唐使藤原常嗣ら大宰府に帰着する。
840年(承和七年):庚申/皇紀1500年目
日本後紀が完成 淳和上皇、崩御。 良官の登用を積極的に行い、地方の政治の荒廃を正した。また土地対策を行い、税収の増加に努めた。また、『日本後紀』の編纂が行われた。比較的平穏な時代であった。だが、その即位は天皇個人が望んだ皇位継承ではなく(『日本後紀』によれば、806年5月1日に大伴親王(当時)が父帝の死を機会に臣籍降下を願い出て皇太子(平城天皇)に慰留されている)、更に有力貴族の後ろ盾のいない息子恒貞親王が仁明天皇の皇太子になったことに不安を抱いていたと言う。
ウイグルがキルギスの攻撃により王国は崩壊。 統一ウイグル国家の崩壊により、甘州ウイグル王国・天山ウイグル王国他の地域政権が成立。この一部がカラ・ハン朝成立に合流。
4月、改正した格式を施行する。
6月、初めて清涼殿で灌仏を行う。