西暦841年〜850年

841年(承和八年):辛酉
伊豆地震が起こる。
フォントノワの戦いが起こる。
アイルランド、ヴァイキングによりダブリンが創設される。
3月、ベルナール=ド=セプティマニーの次男としてベルナール2世が生まれる。
5月、「続日本後紀」によれば、伊豆でM7の地震が発生する。死者多数。
6月25日、オセール近郊のフォントノワで兄弟間の本格的な衝突が起こる。
皇帝ロタール1世は、ルートヴィヒ1世が治めていたザクセン人の反乱を支援したり、ノルマン人とも連携を模索するが、結果には結びつかなかった。ヨーロッパにおいてフランク史上初めての国家規模の戦争で、死者4万人以上という兵士の犠牲をもって、最終的にはルートヴィヒとシャルルが勝利。
しかし、この戦争によりフランク王国自体が疲弊したため、各地でノルマン人の侵攻が発生する事になった。
ベルナールは、西フランク王シャルル2世に息子ギヨームを使者して送り、シャルルに臣下の礼を捧げた。そして約束としてピピン2世を降伏させることを伝えた。しかし、実際のところ、ベルナール本人は、アキテーヌ王位を主張するピピン2世を降伏させる気はなかった。
8月、大宰府の曹140人を対馬の防人に宛てる。
12月、長門国、渤海使の来着を報じる。
842年(承和九年):壬戌
嵯峨上皇、重い病に伏し、忠実な側近藤原吉野に親王の後事を託す。
嵯峨上皇の病に危機感を持ったのが皇太子に仕える春宮坊帯刀舎人伴健岑とその盟友但馬権守橘逸勢である。彼らは皇太子の身に危険が迫っていると察し、皇太子を東国へ移すことを画策し、その計画を阿保親王(平城天皇の皇子)に相談した。阿保親王はこれに組みさず、檀林太皇太后に健岑らの策謀を密告の上書をした。太皇太后は事の重大さに驚き中納言良房に相談した。
ストラスブールの誓い。
フランク第2代皇帝ルートヴィヒ1世(フランスではルイ敬虔王)没後、東フランク王国のルートヴィヒ2世と西フランク王国のシャルル2世が同盟してロタール1世と対抗するという誓約。古高ドイツ語と古フランス語で書かれているが、古フランス語の文献としては最古の文献。
フォントノワの戦いで敗北した皇帝ロタール1世は、フランク国王位は剥奪されるものの神聖ローマ皇帝としての地位は維持された。父王ルートヴィヒ1世が残したフランク国の領土は、ローマ帝国を含めた三権分立を為すべく2つに分割し、西フランク国(=フランス)シャルル2世と、東フランク国(=ドイツ)ルートヴィヒ2世で王位についた。
ストラスブールの誓いで、三国による三権分立はなされたものの、そのあと領土分割に対しての協議が何度もなされた。
吐蕃のランダルマ王が暗殺され、後継者争いから吐蕃は分裂する。
西フランク国王シャルル2世がアキテーヌ制圧のために遠征。この時、ベルナールを処罰する事を決める。
ベルナールがピピン2世と同盟を結び、アクフレをトゥールーズ伯領から追い出すと画策。
この動向を知った西フランク国王シャルル2世が、プロヴァンス公ゲランをアキテーヌに向かわせる。
フランク王国の各地で、ヴァイキングの侵攻やブルトン人の襲撃などが多く発生する。
6月、西フランク国王シャルル2世がベルナールからゥールーズ伯領を没収し、臣下のアクフレに与える。ベルナールはこれを拒否。
6月15日、皇帝ロタール1世はルートヴィヒ、シャルルとの妥協を余儀なくされ、ブルグント(ブルゴーニュ)のマコンでストラスブールの宣誓が成され、和平が成立。
7月15日、嵯峨上皇が崩御。その2日後の17日、承和の変が起こる。
仁明天皇は伴健岑と橘逸勢、その一味とみなされるものを逮捕し、六衛府に命じて京の警備を厳戒させた。皇太子は直ちに辞表を天皇に奉ったが、皇太子には罪はないものとして一旦は慰留される。しかし、23日になり政局は大きく変わり、左近衛少将藤原良相が近衛府の兵を率いて皇太子の座所を包囲。出仕していた大納言藤原愛発、中納言藤原吉野、参議文室秋津を捕らえた。仁明天皇は詔を発して伴健岑、橘逸勢らを謀反人と断じ、皇太子を廃した。藤原愛発は京外追放、藤原吉野は大宰員外権帥、文室秋津は出雲員外守にそれぞれ左遷、伴健岑は隠岐(その後出雲国へ左遷)、橘逸勢は伊豆に流罪(護送途中、遠江国板築にて没)となった。 事件後、藤原良房は大納言に昇進し、道康親王が皇太子に立てられた(後の文徳天皇)。
承和の変は藤原氏による他氏排斥事件の初めで、良房の望みどおり道康親王が皇太子に立てられたばかりでなく、名族伴氏(大伴氏)と橘氏に打撃を与え、また同じ藤原氏の競争相手であった藤原愛発、藤原吉野をも失脚させた。 この後、良房は昇進を重ね、ついに人臣最初の摂政・太政大臣にのぼり、藤原氏繁栄の基礎を築く。
8月、前豊後介中井王、私田を営み、百姓を苦しめたため、、本郷に送還される。
9月、中国/会昌の廃仏が始まる。
9月11日(承和9年8月4日)、道康王(後の第55代天皇・文徳天皇)が立太子。
843年(承和十年):癸亥
ベルナールとピピン2世の同盟軍が、トゥールーズ伯領からアクフレを追放する。
プロヴァンス公ゲランが、ベルナールとピピン2世の同盟軍からトゥールーズ伯領を奪還。
西フランク国王シャルル2世は、各地で発生する他民族からの侵攻に対処すべく、まずは国内での内乱鎮圧のため、シャルル、ルートヴィヒおよびロタールの3兄弟の間でヴェルダン条約を結ぶ。
ヴェルダン条約でフランク王国が3つに分裂。領土分割の問題が解決に至る。フランク王国が西フランク王国・中フランク王国・東フランク王国に分裂し、のちのフランス・イタリア・ドイツの原形が形成された。
セプティマニアおよびゴティア領は西フランク国領に収まり、ベルナールが支配していたユゼス伯領は中フランク国領に配される。ベルナールとその息子たちが所有していたオータン伯領は、プロヴァンス公ゲランに与えられた。
コンスタンティノポリス教会会議で聖像崇敬派の最終的な勝利が確定し、イコノクラスムが終結する。
主催者は東ローマ皇帝ミカエル3世の母テオドラと総主教メトディオス1世。このことを記念して「正教勝利の主日」が制定される。
ノルウェーのオーセベリ墳丘墓に船葬用の船体(オスロのヴァイキング船博物館蔵)が埋められる。
11月、畿内校田使を任命する。
12月、前筑前守文室宮田麻呂の謀反発覚して、伊豆に配流される。
844年(承和十一年):甲子
クラビホの戦いでアストゥリアス王ラミロ1世がイスラム教徒に勝利。
ローマ帝国書記長ユーグが死去。
サン・リキエ修道院長リチボドが死去。
ベルナールとピピン2世の同盟軍が、アキテーヌ領に侵攻。トゥールーズの戦いが起こる。
5月、トゥールーズの戦いはフランス国軍の勝利となり、敗北したベルナールはシャルル2世の目前で処刑される。
6月、ベルナールの息子ギヨームが、シャルル2世率いる西フランク国軍に対して反乱を起こす。
7月、在唐の円仁・円載らに黄金を与える。
10月、畿内斑田使を任命する。
845年(承和十二年):乙丑
唐の武宗による、会昌の廃仏が断行される(三武一宗の廃仏の第3回目)
ハンブルクがデンマーク王ホリック率いるヴァイキングに襲撃される。
8月1日(承和12年6月25日)、菅原道真が生まれる。(後の平安時代の学者、漢詩人、政治家)
12月、大宰府、新羅人の来着を報ずる。
846年(承和十三年):丙寅
ブハーリーがハディース『真正集(サヒーフ・アル=ブハーリー)』を完成させる。
唐の詩人、白居易が死去。
リタリア領南部バーリにあるイスラム教国がローマに侵攻と略奪を起こす。中フランク国王ロドヴィコが防衛戦を張りこれに対応。イスラム教国によるローマの侵攻は幾度となく行われた。
3月、畿内諸国に諸家の氏姓の出自と皇胤を調査させる。
12月、西大寺講堂が焼失する。
847年(承和十四年):丁卯
中フランク国王ロドヴィコが、ベネヴェント侯国からイスラム教徒追放に成功する。
ローマで「ボルゴの火災」。
10月、円仁、唐人を連れて帰国する。
この頃、橘嘉智子・橘氏公姉弟、学館院を創設する。
848年(嘉祥元年):戊辰
元号を嘉祥(かしょう)と改める。
中フランク国領ベネヴェント侯国で、継承争いが起こる。
2月、山城・河内・和泉等の斑田使を任命する。
8月、大洪水により河陽橋・宇治橋・茨田堤らが損壊する。
9月、長年大宝を鋳造し、旧銭と併用する。
849年(嘉祥二年):己巳
イタリアのナポリ・アマルフィ・ガエタの艦隊がイスラム艦隊に勝利(オスティアの海戦)。
東ローマ皇帝ミカエル3世の叔父バルダスによりコンスタンティノポリス大学(マグナウラ宮殿大学)が再興される。
中フランク国領ベネヴェント侯国での継承問題が、中フランク国王ロドヴィコの調停により領土を分割する事で解決される。しかしこれ以降、中フランク国南部では、バーリかから中フランク国領に幾度となく侵攻するイスラム軍との領土争いが続くことになる。
ベルナールの息子ギヨームが、スペイン辺境伯領を横領しようとした罪で斬首される。
4月、諸国の米価を改める。
12月、大宰府、豊後権守登美直名の謀反を報ずる。
850年(嘉祥三年):庚午
出羽国地震が起こる。山形・秋田で地震と津波が発生。出羽国国府(現、山形県にあったとされている)で地震による河川決壊に伴う大きな被害があった事が記録されている。
ロタール1世の長男ロドヴィコが、皇帝ロタール1世と教皇レオ4世によって戴冠を受け、フランク国共同皇帝を就任。
『偽イシドルス法令集』が北フランスで編纂される。
3月19日、仁明天皇が病にかかり譲位。第55代文徳天皇が即位。
4月、富豪の山野占有を禁止する。
5月6日(嘉祥3年3月21日)、仁明天皇が崩御。道康親王が践祚し、第55代天皇・文徳天皇となる。
5月31日(嘉祥3年4月17日)、文徳天皇が即位。
7月、天皇の外祖父故左大臣藤原冬嗣に太政大臣を追贈する。
10月、「文徳実録」「日本三代実録」によれば、M7級の地震が出羽国で発生。死者多数。
12月31日(嘉祥3年11月25日) - 惟仁王(後の第56代天皇・清和天皇)が立太子。