西暦901年〜910年

900年頃
アンデス各地に栄えていた、ナスカ文化、モチェ文化、ティワナク文化がワリ文化に継承・統合されていく。
この頃のティワナク文化は、世界でも類をみない非常に高度な石材削掘技術が存在していた。調査によれば、現在のダイヤモンド削掘技術と同等のレベルだと言われている。 この削掘技術はのちのインカ文明に継承されていく。
宗教・民話の伝承も他にないものであり、そもそもティワナクの民は、異なった世界(次元か?)から移動してきたのだと伝わっているらしい。残されている壁画も現在の人類とは別種の、明確に区別された人型の存在(頭がアンテナのような描写)が描き示されている。
901年(昌泰四年/延喜元年):辛酉
左大臣藤原時平のの讒言を聞き菅原道真を大宰権帥に貶める。 これを昌泰の変という。
左大臣藤原時平の讒言により醍醐天皇が右大臣菅原道真を大宰権帥として大宰府へ左遷した政変である。 その背景には時平と道真の確執の他に、宇多上皇と醍醐天皇との確執や道真の出世に対する上級貴族のみならず、中下級貴族を含めた激しい反発があったともいわれる。 この事が後に、聖代の瑕と評される。
元号を延喜(えんき)と改める。 藤原時平、荘園整理令を発布する。
同じく、国史『三代実録』を完成させる。 律令政治の基本法である「延喜格式」の撰修に取り掛かったりしたが、完成に至らぬまま早世する。 弟の藤原忠平らがその志を継ぐ。
902年(延喜二年):壬戌
延喜の荘園整理令院宮王臣家が荒田閉地を請占するを禁ずる。
903年(延喜三年):癸亥
菅原道真、太宰府にて
「東風吹かば にほひおこれよ 梅の花 あるじなしとて 春を忘るな」
という歌を残し、憤死する。59歳。
904年(延喜四年):甲子
朝鮮半島で弓裔が摩震(のち泰封)を建てる。
905年(延喜五年):乙丑
『古今和歌集』撰進を紀貫之らに命じる。
ちなみに、醍醐天皇は和歌に堪能で、勅撰集に四十三首入る。
家集『延喜御集』もある。20巻にわたる33年間の宸記『延喜御記』は諸書に引かれている逸文のほかは現存せず、
村上天皇の御記と併せて『延喜天暦御記抄』とよばれて伝わる。
906年(延喜六年):丙寅
マジャル人によりモラビア王国が滅亡。
モースルにハムダーン朝が興る。
907年(延喜七年):丁卯
節度使の朱全忠が唐を滅ぼし後梁を建国(五代十国)の始まり。
契丹(遼)の耶律阿保機が即位。日本では「延喜格」が完成。
908年(延喜八年):戊辰
宇多法皇を追い返した藤原菅根が、落雷によって命を落とす。
これをきっかけに菅原道真公が怨霊と化して、自分を陥れたものを祟ったとされるようになる。

祟りとは本来、人間よりも上位の存在(例えば神様等)が、当事者の枕元に現れるという事象を示している。人が何らかの事で悪行を為した、あるいは罪を意識した時、神様の御前ではそれが「汚れ」となり、障害もしくは災厄として表面化する。祟りであっても、逆にそれが善い行いであれば祝福となるが、多くの場合はその事が認識されないため、結局のところ、災厄の側面のみが「祟り」と同義語になっている。
また、人間で認知するところの「祟り」は、上位存在であっても比較的人間に近い領域にいる存在によるものが多いと考えられる。人間よりもはるか高みの領域にある存在が人間の目前に現れた場合、その対象がどれだけ高みにある人間であったとしても、肉体自体の固有周波数がそれに伴わず肉体崩壊を起こす事があると言われている。(聖書の一説には、天使が顕現した事により街が崩壊したという記録もあるらしい)
人間の領域に近いところでの神的存在あるいは上位存在がその場に顕現した場合、関係性(この場合は量子的関連性である。近年の量子テレポーテーション実験において、対象する関係性は物理世界に依存しない事が証明されている)にもよるが、軽い症状では風邪のような諸症状、大きな症状では火傷、思い症状では絶命(肉体と精神が分離)する等である。
909年(延喜九年):己巳
チュニジアにシーア派のファーティマ朝が成立。
藤原時平、「延喜格」を頒下する。
910年(延喜十年):庚午
フランス中東部にクリュニー修道院が設立される。
イベリア半島ではレオン王国のガルシア王が領土拡張を開始。
藤原時平、諸国に「延喜格」を写させる。
藤原時平が39際の若さにて病死。菅原道真公の祟りとされた。