西暦911年〜920年

911年(延喜十一年)
ルイ=シャルル3世とノルマン人の長ロロとの間で、サン=クレール=シュール=エプト条約が結ばれる。 シャルル3世は、ノルマンディー地方を与えてロロをノルマンディー公に封じた。ロロは洗礼を受け、シャルルの娘ジゼルを妻とする。
東フランク王国のカロリング朝最後の王ルートヴィヒ4世が嫡子を残さずに死去する。これによりカロリング朝が断絶。
ロレーヌ(ロタリンギア)において親西フランク派閥が生まれ、シャルル3世がロタリンギア貴族の臣従を受けた。 これにより西フランク王国ルイ=シャルル3世がロタリンギア国王を兼任する。
フランケン公コンラート1世が王に選出(ドイツ王国ザクセン朝)。 ザクセン地方のリウドルフィング家のオットー貴顕公とその息子ハインリヒは、コンラート1世の即位には賛同するものの、服従する事は拒絶。 その後、ザクセン人とフランケン人の間で、テューリンゲン領の所有権争いが発生するなど、各地での武力衝突が続く。
ノルマン人の首長ロロがノルマンディー公国を樹立。
912年(延喜十二年)
醍醐天皇、 「延喜式」の編集を促進させる。
リウドルフィング家のオットー貴顕公が死去。 息子のハインリヒがリウドルフィング家を継承。しかし、東フランク王コンラート1世はこれを承認しなかった。 ザクセンと東フランク王国の間で衝突がさらに激化する。
913年(延喜十三年)
ブルガリア王シメオン1世、皇帝を称す。 菅原道真公を継いで右大臣となった、源光(みなもとのひかる)が、狩猟中に溺死する。菅原道真公の祟りとされた。
914年(延喜十四年)
三善清行が醍醐天皇に対して、意見封事十二箇条を提出する。 当時、土地の所有権において偽籍が横行し、結果として租の収入は減少する。さらに持主が不在となった土地については、寺社や有力貴族が荘園化したため、中央財源減少に拍車がかかる事となった。こうした土地の権利について三善清行は、醍醐天皇に自身の意見書を提出した。
915年(延喜十五年)
7月5日(現在の8月18日)の甲子の日において、十和田湖が噴火したとされている。日本史上最大の噴火と想定。一方で、この噴火はなかったともされる説も存在している。
ゲッティンゲン近郊のグローナ城において、ザクセンのハインリヒと東フランク王コンラート1世の間で和平協定が結ばれる。 ハインリヒは、国王から正式に公位継承を認められる。さらに、ザクセン(テューリンゲンを含む)における国王の権力行使が名目的なものに留まることの確約を得る。
916年(延喜十六年)
キタイ(モンゴル高原東部で活動していた遊牧狩猟民族)の族長である耶律阿保機が部族を統一。契丹国(遼)を建国し、その太祖となる。
917年(延喜十七年)
ハインリヒ1世により、ライン川の上流フランコニア地方に位置したシュヴァーベン公爵領が伯爵領となる。
918年(延喜十八年)
朝鮮半島で王建が泰封を滅ぼして高麗を建国。 東フランク王コンラート1世が死去。この時、コンラート1世は遺言を残しており、ハインリヒ大公を次の王に推薦するものであった。 コンラート1世の王弟エーバーハルト3世から、帝国権標を受け取る事となる。
919年(延喜十九年)
フランケンとザクセンの民が、フリッツラーに集まり、ドイツ王国が生まれる。ハインリヒ1世がドイツ国王に即位。
菅原道真公の鎮魂帰神を願い、墓所のあった地に、太宰府天満宮が創建される。
920年(延喜二〇年)
ルイ=シャルル4世が生まれる。