西暦921年〜930年

921年(延喜二一年)
安倍晴明生まれる(推定。はっきりとした記録なし)。
安倍氏の伝える系図によると、大膳大夫の官にある下級貴族安倍益材(あべのますき)(安倍保名)の子として摂津国阿倍野(現・大阪市阿倍野区)に生まれた。 阿部氏は日本書紀にも記載があるとおり、古代より現在に至る系譜を持っている。阿部晴明は天智天皇御代に分裂した布施臣勢の阿部兄雄の子孫にあたる。 幼少の頃については確かな記録がない。陰陽師賀茂忠行・保憲父子に陰陽道を学び、天文道を伝授されたということになっている。 母は葛葉と伝えられる。その後の阿部晴明の陰陽師としての活躍から、葛葉は九尾妖狐の類と謂われるようになるが、一方では賀茂家の娘(賀茂葛子)であるという説もある。
古来より日本においては、霊性を成す動物は数多くあり、狐もまたそのなかにあげられる存在のひとつである。鬼道の中でも使役する術式が見受けられる。 また一方で、日本では外来の神的存在も多く来訪しており、ダキニもまたそのなかのひとつに取り上げられる。葛葉を名乗る者は、そうした狐を使役する術に長けていたとも言われている。(ただし、どれも伝説として伝わるものであり、明確に記載があるものは今のところ見つからない。)
確かな記録に現れるのは960年で、当時天文得業生(陰陽寮に所属し天文博士から天文道を学ぶ学生の職)であった晴明は村上天皇に占いを命ぜられた。出世は遅れていたが占いの才能は既に貴族社会で認められていたことが伺われる。その後、天文博士の官に任ぜられる。 979年、59歳の晴明は皇太子(のちの花山天皇)の命で那智山 (山)の天狗を封ずる儀式を行う。このころから花山天皇の信頼を受けるようになったようで、記録にしばしば晴明が占いや陰陽道の儀式を行った様子が見られるようになる。花山天皇の退位後は、一条天皇や藤原道長の信頼を集めるようになったことが、道長の日記『御堂関白記』などの当時の貴族の日記から分かる。 陰陽師として名声を極めた晴明は、左京権大夫、穀倉院別当、播磨守などの官を歴任し、位は従四位下にのぼった。さらに天文博士や陰陽助(陰陽寮の次官)に晴明の二人の息子吉昌と吉平が任ぜられ、安倍氏は晴明一代の間に師忠行の賀茂氏と並ぶ陰陽道の家となっていった。
晴明が死んだ11世紀のうちに、早くも晴明は神秘化されていった。歴史物語の『大鏡』や説話集の『今昔物語』『宇治拾遺物語』はいくつかの晴明に関する神秘的な逸話を載せる。その容姿も美化されていく傾向にあった。 近世においては、人形浄瑠璃・歌舞伎 『蘆屋道満大内鑑』 (通称「葛の葉」)という作品にて、登場する。他、『蘆屋道満大内鑑』をはじめとして、葛の葉伝承を題材とする作品には、多くの場合安倍晴明が登場する。
922年(延喜二二年)
※調査中。
923年(延喜二三年/延長元年)
醍醐天皇、はじめ中宮藤原穏子との間にあげた長子保明親王を東宮の座に据えたが早世した。
藤原時平の娘と保明親王との子、慶頼王を立坊させた。 元号を延長(えんちょう)と改める。
924年(延長二年)
※調査中。
925年(延長三年)
慶頼王(やすよりおう)が死去。菅原道真公の祟りとされた。 一連の不幸は菅原道真の怨霊の仕業と噂され、道真を左遷した詔を破棄し、右大臣に復し贈位を行うなどその慰霊に努めた。
926年(延長四年)
契丹(遼)が渤海を滅ぼす。
927年(延長五年)
藤原忠平らの手で、「延喜格式」が完成する。
928年(延長六年)
ジャワ東部にクディリ朝が成立。
929年(延長七年)
後ウマイヤ朝のアブド・アッラフマーン3世がカリフを称し、東西にカリフが分立する。
930年(延長八年)
皇居に雷が落ちる事件が発生。菅原道真公の祟りとされた。これにより醍醐天皇が病となる。
9月22日、醍醐天皇が病篤きによって皇太子寛明親王に譲位し、その七日後に崩御。 朱雀天皇、8歳で即位。政治は、伯父忠平が摂関として取り仕切っていた。 藤原忠平が摂政就任。安倍晴明がこの頃、陰陽師賀茂忠行に才能を見出され、弟子入りしたと推定される。
アイスランドで世界最古の近代議会「アルシング」が創設。