西暦931年〜940年

931年(承平元年)
元号を承平(じょうへい)に改める。
932年(承平二年)
イラン系シーア派のブワイフ朝が興る。
933年(承平三年)
この頃、空也が愛宕山月輪寺に来山?
934年(承平四年)
※調査中。
935年(承平五年)
平将門・藤原純友による承平・天慶の乱が始まる(- 941年)。
『将門記』などによれば、平氏一族の親族争いは、常陸国(茨城県)前国司の源護の娘、或いは良兼の娘を巡る争いとも伝えられている。 平将門は源護の子・扶に常陸国真壁郡野本(筑西市)で襲撃されるが、これを撃退した将門は大串・取手(下妻)から護の本拠である真壁郡へ進み、護の一族を伐ち、更に護の援軍として駆けつけた伯父の平国香も伐つ。一族の平良正は軍勢を集め、鬼怒川沿いの新治郷川曲(八千代町)に陣を構えて将門と対峙するが、将門は良正の軍も撃破する。反将門軍は平良兼を盟主に、国香の嫡子の平貞盛などの兵を加えて将門と戦うが、将門の奇襲を受けて下野国(栃木県)の国衙に保護を求める。将門は下野国国府を包囲し、一部の包囲は解いて良兼を逃亡させ、国衙と交渉して自らの正当性を認めさせる。
後、将門に対して朝廷から平一族の私闘についての釈明を求める召喚命令が出て、将門は平安京に赴いて検非違使庁で訊問を受ける
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平将門の父の平良将は、下総国佐倉が領地と伝えられ、佐倉市将門と地名も残るが、根拠となる史料は無い。将門は地方より平安京へ出て、藤原北家の氏長者であった藤原忠平と主従関係を結ぶが、父良将が急死したために領国へ戻る。長子相続制度の確立していない当時、良将の遺領は伯父の平国香(平國香)や叔父の平良兼に独断で分割されていた。
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高麗が新羅を滅ぼす 紀貫之が最初の仮名日記である『土佐日記』を著す。 エジプトにイフシード朝興る。
936年(承平六年)
藤原純友、当初は伊予掾として、瀬戸内に跋扈する海賊を鎮圧する側にあったが、長い任期の中で、いつしか海賊の棟梁となり伊予(愛媛県)の日振島を根城として周辺の海域を荒らしやがて内海全域に勢力をのばした。関東で平将門が乱を起こした頃とほぼ時を同じくして瀬戸内の海賊を率いて乱を起こす。 朝廷は純友追討のために追捕使長官小野好古、追捕使主典大蔵春実による兵を向ける。大宰府をめぐる戦いで弟の藤原純乗が筑後国蒲池で大宰権帥の橘公頼に敗れる。藤原時平の長男である藤原保忠が病死する。これも菅原道真公の祟りとされた。
高麗が後百済を滅ぼして朝鮮半島を統一する。
中華諸王朝の冊封を受けていたが、北方のモンゴル系遊牧民や契丹などの強大化した諸民族が高麗へ侵攻するなど、辺境防備に悩まされていた。高麗は侵攻を撃退するものの、契丹や女真族の金王朝に対しては入朝を行う。
高麗では科挙制度の導入など国家体制を確立させての対抗を図る。
以後、1200年代まで、体制は続く。 契丹(遼)が後晋から燕雲十六州を獲得する。
オットー1世がドイツ王に即位する。
937年(承平七年)
中国の雲南地方でタイ系の段氏が大理国を建国する。
4月、将門は帰国を赦される。帰国後も、将門は良兼を初め一族の大半と対立し、良兼は将門の父良将や高望王など父祖の肖像を掲げて将門の常羽御厩を攻めた。これにより、多くの軍馬を喪失すると将門は退却し、更に妻子も捕らえられた。将門は朝廷に対して自らの正当性を訴えるという行動に出るが、朝廷は平良兼、平貞盛、源護らに対して将門追討令を出す。将門は良兼らの兵を筑波山に駆逐し、それから3年の間に良兼は病死し、将門の威勢と名声は関東一円に鳴り響いた。
この頃、朝廷への租税を滞納していた事により追捕令が出ていた常陸国の藤原玄明が将門に庇護を求めると、将門は玄明を匿う。
938年(天慶元年)
元号を天慶(てんぎょう)に改める。
939年(天慶二年)
平将門、常陸府中(石岡)へ赴いて追捕撤回を求めるが、ここで将門軍は突如攻撃を受ける。将門は止む無く反撃して常陸介藤原維幾を捕らえ国衙を陥落させ、結果的に朝廷に対して反旗を翻すことになってしまう。将門の側近となっていた桓武天皇の子孫と言われる興世王の進言に従う。 12月に下野、上野の国府を落とし、関東一円を手中に収めて「新皇」を名乗り、岩井(茨城県坂東市)に政庁を置いた。 これに危機感を抱いた朝廷は、全国の民に将門の首を取った者は貴族とする旨の通達を出した。
ベトナムで呉朝が成立。
940年(天慶三年)
平将門、仇敵国香の息子、平貞盛と藤原秀郷との会戦中に、流れ矢に当たって死んだとされる。その首は平安京へ運ばれ、晒し首となる。この将門の首に関連して、各地に首塚伝承が出来上がった。最も著名なのは、後述の東京・大手町の首塚である。
平将門の乱が終わる。討ち取られた首は、京都の七条河原にさらされたが、何ヶ月たっても眼を見開き、歯ぎしりしてるかのようだったといわれている。あるとき歌人の藤六左近がそれを見、歌を詠んだ。すると、将門の首は笑い、突然、地面が轟き、稲妻が鳴り始め、首が「躯つけて一戦させん。俺の胴はどこだ。」と言った。それが、毎夜、声が響いたという。するとある日首が突然無くなり、関東へ胴体を求め、飛んでいき、江戸に落ちたと言われている。その落ちた所が今の、将門の首塚だと言われている。(伝説)