西暦961年〜970年

961年(応和元年):辛酉
元号を応和(おうわ)と改める。
イベリア半島でカスティーリャ伯領成立。
962年(応和二年):壬戌
ドイツ王オットー1世、ローマ教皇から皇帝の冠を受け、神聖ローマ帝国が成立する。
アフガニスタンでトルコ系のガズナ朝が成立。
963年(応和三年):癸亥
※調査中。
964年(康保元年):甲子
元号を康保(こうほう)と改める。
965年(康保二年):乙丑
北欧でハラール青歯王が洗礼を受ける。
966年(康保三年):丙寅
ベトナムで丁朝が成立。
967年(康保四年):丁卯
5月25日、村上天皇が在位のまま42歳で崩御。 天皇号を持つ天皇は、村上天皇以後、江戸期の光格天皇まで900年近くの間なかった。
968年(安和元年):戊辰
冷泉天皇、即位。
母は母は藤原師輔の娘中宮安子である。18歳で即位するも、精神に病があり皇太子の時代から問題になっていたことから、関白太政大臣に藤原実頼、左大臣に源高明、右大臣には藤原師尹が就任した。冷泉天皇にはまだ子がなく、精神の病でもあったため早急に東宮を定めることになった。候補は村上天皇と皇后安子の間の皇子である冷泉天皇の同母弟の為平親王と守平親王であった。年長の為平親王が東宮となることが当然視されていたが、実際に東宮になったのは守平親王であった。 これは為平親王の妃の父が左大臣源高明であり、もしも、為平親王が東宮となり将来皇位につくことになれば源高明が外戚となり権勢を振るうことになりかねず、これを藤原氏が恐れたためであった。源高明は村上天皇からの信任篤く、また皇后安子の父で右大臣だった藤原師輔の娘を妻として親交があったが、両人とも既に亡く、宮中で孤立しつつあった。 元号を安和(あんな)と改める。
東ローマ帝国がアンティオキアを約330年ぶりにイスラム勢力から奪回する。
969年(安和二年):己巳
3月25日、左馬助源満仲と前武蔵介藤原善時が中務少輔橘繁延と左兵衛大尉源連の謀反を密告した。右大臣師尹以下の公卿は直ちに参内して諸門を閉じて会議に入り、密告文を関白実頼に送るとともに、検非違使に命じて橘繁延と僧・蓮茂を捕らえて訊問させた。さらに検非違使源満季(満仲の弟)が前相模介藤原千晴(藤原秀郷の息子)とその子久頼を一味として捕らえて禁獄した。固関使が派遣され関所が固められ、さながら承平・天慶の乱の時のようであったという。 事件はこれに留まらず、左大臣源高明が謀反に加担していたとされ、太宰員外権帥に左遷することが決定した。
高明は長男・忠賢とともに出家して京に留まるよう願うが許されず、26日、邸を検非違使に包囲されて捕らえられ、九州へ流された。 密告の功績により源満仲と藤原善時はそれぞれ位を進められた。また、左大臣には師尹が代わり、右大臣には大納言藤原在衡が昇任した。一方、橘繁延は土佐、蓮茂は佐渡、藤原千晴は隠岐にそれぞれ流され、さらに源連、平貞節の追討が諸国へ命じられた。 密告の内容がどのようなもので、源高明がどう関わっていたのかは不明である。後世の「源平盛衰記」には為平親王を東国に迎えて乱を起こし、帝につけようとしていたと書かれているが信用できない。ただ、この事件が初めから源高明の失脚を目指していたことは明白で、これが藤原氏による最後の他氏排斥事件となった。また、藤原氏の中でも実頼・師尹派と師輔派の確執があり、そのとばっちりを高明が受けたのではという説もある。その後、安和の変から僅か1年余りで高明は帰京を許されている。 また、京で源満仲と武士の勢力を競っていた藤原千晴もこの事件で流罪となり藤原秀郷の系統は中央政治から姿を消し、清和源氏が京での勢力を伸ばし、京武士として摂関家と強く結ぶようになった。 安和の変以降、藤原実頼が摂政に就任する。
高麗の使節が対馬にくる。
ファーティマ朝がエジプトに進出してイフシード朝を滅ぼす。
970年(天禄元年):庚午
冷泉天皇、譲位する。 円融天皇、即位。冷泉天皇は譲位後、冷泉院上皇と称される。 円融天皇は即位時11歳であったので、太政大臣藤原実頼(さねより)が摂政に就いたが、実頼が薨去すると、天皇の外舅伊尹(これまさ:藤原伊尹)が摂政を引き継いだ。 元号を天禄(てんろく)と改める。 京都祇園社の例祭「祇園会」が初めて行われる。
安倍晴明が天文博士を就任する。