西暦981年〜990年


981年(天元四年):辛巳
※調査中。
982年(天元五年):壬午
※調査中。
983年(永観元年):癸未
元号を永観(えいかん)と改める。
984年(永観二年):甲子
円融天皇、花山天皇に譲位。一条朝には幼帝を指導して強い発言権を持ち、院政の意図があったともいうが不詳。
花山(かざん)天皇、即位。17歳で即位した時には有力な外戚を持たなかった。 関白には先代に引き続いて藤原頼忠が着任したが、実権を握ったのは、帝の外舅義懐と乳母子藤原惟成であった。義懐と惟成は荘園整理令の発布、貨幣流通の活性化など、革新的な政治を行ったが、程なくして天皇が退位したのに殉じて遁世した。 花山天皇は当世から「内劣りの外めでた」等と評され、乱心の振る舞いを記した説話は『大鏡』『古事談』に多い。その一方で、彼は絵画・建築・和歌など多岐にわたる芸術的才能に恵まれ、ユニークな発想に基づく創造はたびたび人の意表を突いた。『拾遺和歌集』を親撰したともいわれる。 花山天皇が懐仁親王を立太子。
985年(寛和元年):乙丑
元号を寛和(かんな)と改める。
986年(寛和二年):丙寅
花山天皇、19歳で宮中を出て、剃髪して仏門に入り退位した。
突然の出家について、『栄花物語』『大鏡』などは寵愛した女御藤原?子(?はりっしんべんに氏)が妊娠中に死亡したことを素因とするが、『大鏡』では更に、藤原兼家が、外孫の懐仁(やすひと)親王(一条天皇)を即位させるために陰謀を巡らしたことを伝えている。兼家の三男道兼は、悲しみにくれる天皇と一緒に出家するとそそのかし、内裏から元慶寺(花山寺)に導いて出家させた。ところが天皇落飾の後、道兼はそのまま逃げてしまい、天皇は欺かれた事を知って歯ぎしりをしたと言われている。 出家後は比叡山・熊野・播磨書写山を転々とし、厳しい修行に勤めたあげく、大変な法力を身につけたという。 一条天皇、7歳で即位。孫の早期即位を狙った兼家の陰謀と言われる。 皇太子には冷泉天皇の皇子居貞親王(三条天皇)を立て、摂政に藤原兼家が就任した。 一条天皇の時代は道隆・道長兄弟のもとで藤原氏の権勢が最盛に達し、皇后定子に仕える清少納言、中宮彰子に仕える紫式部・和泉式部らによって平安女流文学が花開いた。天皇自身、文芸に深い関心を示し、『本朝文粋』などに詩文を残している。音楽にも堪能で、笛を能くしたという。また、人柄は温和で好学だったといい、多くの人に慕われた。 この頃、源信、「往生要集」を著す。 遼が宋に侵入する(岐溝の戦い)。
987年(永延元年):丁卯
元号を永延(えいかん)と改める。
西フランク王国でカロリング朝が断絶し、ユーグ・カペーがカペー朝を開く(フランス王国のはじまり)。
988年(永延二年):戊辰
尾張国の郡司・百姓ら、国司の非法を訴える
キエフ大公国のウラディミル1世が東方正教会に改宗する。 これにより、ロシア正教会が成立する。
989年年(永祚元):己巳
元号を永祚(えいそ)と改める。
990年(正暦元年):庚午
元号を正暦(しょうりゃく)と改める。
藤原兼家、関白就任。藤原道隆、摂政・関白就任。 兼家の死後は長男の道隆が引き続き外戚として摂政・関白を務め、一条天皇の中宮に娘の定子(ていし)を入れる。 藤原兼家の孫・定子が入内し、宮廷女流文学が盛んになる契機を作った。
花山上皇、正暦の頃、帰京し、近衛南・東洞院東にある邸に住んだ。この邸はのちに花山院と呼ばれ、「花山天皇」の追号の由来となった。 10月、藤原道隆の娘定子、中宮になる