西暦991年〜1000年


991年(正暦二年):辛未
出家していた円融上皇が崩御。
一条天皇が皇太后・詮子に東三条院の号を宣下。初の女院号。
イングランドにノルウェー王オーラフ1世来襲する。デーンゲルドの徴収始まる。
992年(正暦三年):壬申
※調査中。
993年(正暦四年):癸酉
この頃清少納言が枕草子を記す(成立年代については諸説あり)。
994年(正暦五年):甲戌
落雷により、金剛峰寺が炎上。
995年(長徳元年):乙亥
疫病が流行し、藤原兼家ら宮中8人の公卿が死亡。
藤原道隆、病没
元号を長徳(ちょうとく)と改める。
代わりに弟の藤原道兼が関白に就任するが、就任後12日で死亡し、七日関白と称される。 道隆の子伊周との争いに勝利した道隆・道兼の弟道長が内覧となって実権を掌握した。 道長は先に中宮であった定子を皇后とし、娘の彰子(しょうし)を中宮に立てて、一帝二后の先例を開いた。
ブリタニア/アルバ国王ケネス2世が死去。前王カリンの息子コンスタンティン3世が王位を継承。
5月、藤原道長、内覧の宣旨を受ける。
996年(長徳二年):丙子
長徳の変が起こる。
花山法皇が藤原忯子の妹と関係を持とうとしたところ、内大臣藤原伊周との間で揉め事(両者が交際していた妹はそれぞれ別の妹であったが、伊周が法皇に横恋慕されたと勘違いしたのだと言う)を起こして、遂には伊周と弟・藤原隆家が法皇に矢を射掛けて、矢が法皇の袖を突き通した上に別の矢によって法皇の従者を死亡させるという事件を起こした。 これにより、藤原隆家は出雲権守に左遷された。またその際、藤原伊周は勅命によるもの以外は禁止されている呪術である大元帥法をひそかに行ったとして、大宰権帥に左遷された。どちらも実質的な配流である。また姉弟であった一条天皇中宮定子の落飾という事態をも招いた。
997年(長徳三年):丁丑
奄美島人、対馬・壱岐に来襲。
イシュトヴァーン1世がハンガリー王国を興す。
ブリタニア/アルバ国王コンスタンティン3世が死去。前王ダフの息子ケネス3世が王位を継承。
998年(長徳四年):戊寅
※調査中。
999年(長保元年):己卯
元号を長保(ちょうほう)と改める。
ヨーロッパのローマ正教圏で千年王国思想による混乱が起こる。平安貴族社会が頂点に達した時代と言われている。
教皇シルヴェステルが枢機卿全員をバチカンに集め、祈りながら1000年を迎える。
藤原道長の娘彰子、一条天皇の女御になる。
1000年(長保二年):庚辰
この頃から150年間、日本は亜熱帯に近い気温となる。
2月25日。藤原定子と藤原彰子がそれぞれ皇后と中宮に冊立され、前代未聞の「一帝二后」が実現した。長保寺が創建された後、定子皇后が亡くなる。