西暦1011年〜1020年


寛弘八年(1011年)
6月13日。一条天皇、崩御。 鎌倉時代初期に書かれた道長の6代目の子孫にあたる慈円の著した『愚管抄』によれば、天皇の死後道長は天皇の遺品の中に一通の手紙を発見した。その中には「三光明ならんと欲し、重雲を覆ひて大精暗し」と書かれていた。これを「道長の専横によって国は乱れている」という意味に解した道長はその文を焼き捨てたという。慈円は事実関係を否定せずに、天皇の認識不足を責めて道長の忠節を称えている事やこれと似たような話は同時期に書かれた『古事談』にも記載されていることから、この話は実話かそれに近い出来事があり、天皇と道長の関係が順調に言っていなかったのではと見る説もある。 三条天皇、即位。 外孫の早期即位を図る道長と親政を望む三条天皇との関係は円滑を欠き、かつ三条天皇が納れた道長の次女・中宮妍子が両者の期待を裏切って女児を生んだこともあり、道長は天皇の眼病を理由にしきりに譲位を迫った。病状の悪化もあり、三条天皇は第一皇子敦明親王の立太子を条件に、道長の勧めに従い長和五年に退位した。 紫式部の『源氏物語』完成
長和元年(1012年)
元号を長和(ちょうわ)と改める。 大和・加賀両国百姓の訴えのことを議する。 加賀国の百姓より国守源政職の非法32ヵ条の訴えを退ける。 尾張国の民が、国守藤原知光の善状(善政を讃える文書)を提出する。
長和二年(1013年)
※調査中。
長和三年(1014年)
※調査中。
長和四年(1015年)
※調査中。
長和五年(1016年)
三条天皇が譲位し、敦成親王が後一条天皇として即位する。8歳で即位したため、藤原道長が摂政となり権勢を振るった。道長の娘で叔母にあたる威子を中宮とし、この時代には珍しく他の妃を持たなかったが、皇子女は内親王二人のみで世継ぎの皇子にはついに恵まれぬまま、29歳の若さで崩御した。 尾張国郡司・百姓ら、国守藤原経国を訴える。 京で大火有り藤原道長の土御門邸も焼ける 1月、後一条天皇即位  藤原道長、摂政となる
寛仁元年(1017年)
元号を寛仁(かんにん)と改める。 三条天皇、4月に出家するが、程なく42歳で没した。 越中国の百姓、国司の善状を提出する。伊勢国の百姓国守藤原孝忠の重任を申請する。 敦明親王が皇太子を辞退する。その後を受けて、敦良(あつなが)親王(後朱雀天皇)が皇太子となる。 12月、藤原道長が太政大臣、子の頼道が摂政になり、藤原氏全盛となる 寛仁二年(1018年)
ダンカン1世がストラスクライド王国の王位を継承し、スコットランドのほぼ全域を支配。バシレイオス2世が第1次ブルガリア帝国を滅ぼし、東ローマ帝国がバルカン半島のほぼ全域を奪回。 2月、道長、太政大臣を辞任。道長の女・中宮妍子、皇太后に、女御の威子、中宮となる
寛仁三年(1019年)
3月、藤原道長出家 4刀伊の入寇が起こる。 刀伊の国の賊徒五十余船、壱岐島、筑前を襲う、太宰権帥・藤原隆家らによって撃退するも、太宰府管内に甚大な被害を受ける
寛仁四年(1020年)
※調査中。