西暦1031年〜1040年


長元四年(1031年)
平忠常の乱/長期に及ぶ戦いで忠常の軍は疲弊しており、頼信が上総国へ出立しようとした。 春に忠常は出家して子と従者をしたがえて頼信に降伏した。頼信は忠常を連れて帰還の途につくが、同年6月、美濃国野上で忠常は病死した。頼信は忠常の首をはねて帰京した。忠常の首はいったん梟首とされたが、降人の首をさらすべきではないとして従者へ返され、また忠常の子の常将と常近も罪を許された。 コルドバのカリフイサム3世が死亡し、後ウマイヤ朝滅亡
長元五年(1032年)
平忠常の乱鎮静への功により頼信は美濃守に任じられた。平直方の征伐にも屈しなかった忠常が、頼信の出陣によりあっけなく降伏したのは、忠常が頼信の家人であった(『今昔物語集』)ためであるともいわれている。この乱の主戦場になった房総三カ国(下総国、上総国、安房国)は大きな被害を受け、上総守辰重の報告によると本来、上総国の作田は2万2千町あったが、僅かに18町に減ってしまったという。 この乱を平定することにより坂東平氏の多くが頼信の配下に入り、清和源氏が東国で勢力を広げる契機となった。 源頼義、平直方の娘を娶り、鎌倉の直方の屋敷を譲り受け、以後その屋敷が河内源氏の東国支配の拠点となる。 後、義家/義綱/義光の3子を生む。斎藤宗助の子、貞宗が源頼義に仕え、林氏の祖となる。以後、これより様々なところで武将に仕える事となる。三河林氏と加賀林氏に別れる。 モンゴル系のタングート族が西夏を建国。帝位に李元昊がつく。
長元六年(1033年)
※調査中。
長元七年(1034年)
※調査中。
長元八年(1035年)
※調査中。
長元九年(1036年)
5月15日。後一条天皇、崩御。 後朱雀天皇、即位。 関白藤原頼通が養女?子を入内させて中宮に立てたのを始め、その弟藤原教通が娘生子を、同じく藤原頼宗が娘延子を相次いで入内させたが、いずれも皇子を出産することはなかった。その間皇后禎子内親王とその皇子尊仁親王は関白らに冷遇されていたが、後朱雀天皇が病に倒れて譲位を決断した際、皇后を支援していた藤原能信の働きで尊仁親王を次期皇太子にするよう遺詔を発したと言われる。
長暦元年(1037年)
元号を長暦(ちょうりゃく)と改める。 トルコ人トゥグリル・ベク、セルジューク朝を興す。
長暦二年(1038年)
延暦寺僧徒の強訴、これ以後強訴盛んとなる
長暦三年(1039年)
源 義家、生まれる。 源頼義の長男として、河内源氏の本拠地である河内国石川郡壷井(現大阪府羽曳野市壷井)の香炉峰の館に生まれたという説、鎌倉で生まれたとの説もあるが、いずれも伝承の域を出ない。幼名は不動丸、または源太丸。七歳の春に、京都郊外の石清水八幡宮で元服したことから八幡太郎義家と称す。
長久元年(1040年)
元号を長久(ちょうきゅう)と改める。