西暦1051年〜1060年


永承六年(1051年)
前九年の役が起こる。
平安時代後期の奥州(東北地方)を舞台とした戦役。源頼義の奥州赴任(1051年)から安倍氏滅亡(1062年)までに要した年数から奥州十二年合戦と呼ばれていたが、後に、後三年の役と合わせた名称と誤解され、前九年の役と呼ばれるようになった。源頼義の嫡子義家が活躍した戦いとしても知られる。 東北地方から北海道にかけて存在した蝦夷のうち朝廷に帰服した陸奥俘囚の長であった安倍頼時は、陸奥国の奥六郡(岩手県北上川流域)に柵(城砦)を築いて独立的な族長勢力を形成していたが、安倍頼良が陸奥国司藤原登任と玉造郡鬼切部で対立し戦闘が始まる。秋田城介平重成も国司軍に応援をしたが、安倍軍を鎮圧できなかった。朝廷は源氏の一族の源頼義を陸奥守として赴任させ、事態の収拾を図るが、朝廷は後冷泉天皇生母(藤原道長息女中宮藤原彰子)の病気祈願のために安倍氏に対しても恩赦をだし、頼良は頼義と同音を遠慮して名を頼時と改めるなど従順な態度をとり帰服する。頼義方の武将である藤原経清は頼時の女婿となる。
永承七年(1052年)
※調査中。
天喜元年(1053年)
元号を天喜(てんき)と改める。 鎮守府将軍となった頼義は安倍氏に対して挑発を行う。 藤原頼通、平等院鳳凰堂を建立。 ヨーロッパ/東西教会分裂する。
天喜二年(1054年)
キリスト教会がコンスタンティノポリス教会とローマ教会に分裂。 7月4日超新星爆発。後のおうし座の「かに星雲(M1)」 これは世界中で目撃され、多くの史書に記録されている。日中でも観測できるほどの明るさに輝いたとされる。 夜もまた、白夜のように光続ける。この現象は6週間ほど続いたと記録されている。
天喜三年(1055年)
セルジューク朝軍がブワイフ朝を滅ぼし、バグダッドに入城。
天喜四年(1056年)
頼時の子である貞任(さだとう)が頼義方の陣営を襲撃した容疑がかかると安倍氏は蜂起し、胆沢城に赴いた鎮守府将軍・頼義を攻め、戦いを優位に進める。藤原経清も安倍氏に加勢。頼義は安倍氏を挟撃するため、配下の気仙郡司金為時を使者として、安倍富忠ら津軽の俘囚を調略し、味方に引き入れることに成功する。これに慌てた頼時は、富忠らを思いとどまらせようと自ら津軽に向かうが、富忠の伏兵に攻撃を受け、横死してしまう。
天喜五年(1057年)
11月、安倍富忠の事について好機と見た頼義は一気に安倍氏を滅ぼそうと、黄海(きふみ)で決戦を挑むが、逆に頼時の遺児で跡を継いだ貞任らに大敗してしまう。またこの時、長男義家を含むわずか七騎でからくも戦線を離脱する、という有様であった(黄海の戦い)。この敗戦が影響し、頼義が自軍の勢力回復を待つ間、安倍氏はさらに専横の度を深め、その勢いは衰えなかった。
康平元年(1058年)
元号を天喜(てんき)と改める。 源義綱、2月25日に右衛門尉へと任ぜられる。兄の義家とは不仲。 トゥグリル・ベク、スルタンを称す。
康平二年(1059年)
※調査中。
康平三年(1060年)
※調査中。