西暦1061年〜1070年


康平四年(1061年)
※調査中。
康平五年(1062年)
前九年の役が終わる。 春、苦戦を強いられた源頼義は中立を保っていた出羽国仙北(秋田県)の俘囚の豪族清原氏の族長清原光頼に臣下の礼の形を取り参戦を依頼した。これを聞き入れた光頼が7月に弟武則を総大将とした大軍を派遣した。陣は七陣であり、構成は、
第一陣、武則の子である荒川太郎武貞率いる総大将軍。
第二陣、武則の甥で秋田郡男鹿(現男鹿市)の豪族志万太郎橘貞頼率いる軍。
第三陣、武則の甥で娘婿である山本郡荒川(現大仙市協和)の豪族荒川太郎吉彦秀武率いる軍。
第四陣、貞頼の弟志万二郎橘頼貞率いる軍。
第五陣、将軍頼義率いる軍、陸奥官人率いる軍、総大将武則率いる軍。
第六陣、吉彦秀武の弟といわれる斑目四郎吉美候武忠率いる軍。
第七陣、雄勝郡貝沢(現羽後町)の豪族貝沢三郎清原武道率いる軍。
以上1万人で、うち源頼義率いる朝廷軍は3千人であった。 形勢は逆転し、安倍氏の拠点である厨川柵(岩手県盛岡市天昌寺町)、嫗戸柵(盛岡市安倍館町)が陥落。貞任は戦死、経清は処刑され、安倍氏は滅亡し同年9月17日に戦役は終結した。 (『奥州後三年記』(『続群書類従』収録)には清原家衡の乳母の千任に、「なんぢが父頼義、貞任、宗任をうちえずして、名簿をさヽげて故清将軍(鎮守府将軍・清原武則)をかたらひたてまつれり。ひとへにそのちからにてたまたま貞任らをうちえたり。」といわれて激怒したことが載っているが、「名簿」(みょうぶ)を差しだし、臣下の礼をとったかどうかはともかく、それに近い平身低頭で参戦を頼みこんだことが判る。)
前九年の役後、貞任の弟安倍宗任らは伊予国のちに筑前国の宗像に流され、このことは平家物語にも記述が見える。清原武則はこの戦功により朝廷から従五位下鎮守府将軍に補任され、奥六郡を与えられ、清原氏が奥羽の覇者となった。藤原経清の妻であった安倍氏の女は敵の清原武貞の妻となり、藤原経清の遺児(後の藤原清衡。奥州藤原氏の祖)共々清原氏に引き取られたが、このことが、後の後三年の役の伏線となる。
康平六年(1063年)
2月25日、義家はその勲功を賞され従五位下出羽守に叙任される。 しかし出羽国はその清原氏の本拠地である。清原武則には前九年の役で頭を下げた経緯もあり受領としての任国経営が思うに任せなかったのか、『朝野群載』には、翌年朝廷に越中守への転任を希望したことが記されている。ただしそれが承認されたかどうかは不明である。尚、この年、義家は在京しており美濃において美濃源氏の祖源国房と合戦している。 源頼義、鎌倉に八幡宮を立てる。鶴岡八幡宮が創建される。
康平七年(1064年)
※調査中。
治暦元年(1065年)
元号を治暦(じりゃく)と改める。
治暦二年(1066年)
ノルマンディー公ギヨームがイングランドを制圧し、ウィリアム1世として即位(ノルマン・コンクエスト)。ハレー彗星接近。
治暦三年(1067年)
※調査中。
治暦四年(1068年) 
後冷泉天皇、崩御。
後三条天皇、即位。
宇多天皇以来170年ぶりの藤原氏を外戚としない天皇となった(ただし、禎子内親王は藤原道長の外孫である)。頼通の弟藤原教通を関白にしたが、大江匡房など下級役人などを登用し積極的に親政を行った。 栄西禅師、重源らが宋から帰国する。
延久元年(1069年)
元号を延久(えんきゅう)と改める。 中国の北宋王朝で王安石の改革が始まる。 延久の荘園整理令を発布して記録荘園券契所を設置。(延久の荘園整理令)
延久二年(1070年)
絹布の制を発布する。
源義家は下野守となっており、陸奥国で印と国庫の鍵を盗んだ藤原基通を捕らえたことが『扶養略記』8月1日条に見える。当時の陸奥守は大和源氏の源頼俊で、即位間もない後三条天皇が源頼俊らに北陸奥の征服を命じており、北陸奥の征服自体は成功したが、この藤原基通の件の為か大和源氏源頼俊には恩賞はなく、その後の受領任官も記録には見えない。この件に関して野口実氏は義家陰謀説も出されている。