西暦1081年〜1090年


永保元年(1081年)
元号を永保(えいほ)と改める。
源義家、9月14日に検非違使とともに園城寺の悪僧を追補(『扶桑略記』)。 10月14日、白河天皇の石清水八幡宮行幸に際し、その園城寺の悪僧(僧兵)の襲撃を防ぐために、弟・源義綱と二人でそれぞれの郎党を率いてを護衛したが、このとき本官(官職)が無かったため関白・藤原師実の前駆の名目で護衛を行った。さらに帰りが夜となったので義家は束帯(朝廷での正式な装束)から非常時に戦いやすい布衣(ほい:常服)に着替え、弓箭(きゅうせん)を帯して白河天皇の乗輿の側らで警護にあたり、藤原為房の『為房卿記』には、「布衣の武士、鳳輦(ほうれん)に扈従(こしゅう)す。未だかつて聞かざる事也」と書かれている。 12月4日、白河天皇の春日社行幸に際しては義家は甲冑をつけ、弓箭を帯した100名の兵を率いて白河天皇を警護する。この段階では公卿達の日記『水左記』などにも「近日の例」と書かれるようになり、官職によらず天皇を警護することが普通のことと思われはじめる。のちの「北面の武士」の下地にもなった出来事である。この頃から義家・義綱兄弟は白河帝に近侍している。
永保二年(1082年)
※調査中
永保三年(1083年)
後三年の役が起こる(ただしこの合戦は朝廷の追討官符による公戦ではない)。
前九年の役から約20年、清原氏の勢力は順調に伸張し、武則の子 武貞たけさだ、そしてその嫡子 真衡さねひらの頃には、清原氏の名族性も確立し、それまでの清原一門の同属支配体制から嫡宗単独支配体制に大きく変容していく過程にあったものとされている。そして清原真衡によって次第に強化されつつあった嫡宗単独支配体制への反発として起こった、清原氏一族間における内部抗争に対して、頼義の子で当時の陸奥の国守 源義家みなもとのよしいえ(八幡太郎義家)の干渉が加わって発展した争乱が後三年の役である。 争乱の発端は以下の通り。 嫡子に恵まれなかった真衡の養子 海道小太郎成衡かいどうのこたろうしげひらへの嫁取りの時の祝賀の為に、はるばる出羽国より訪れた一門の長老 吉彦秀武きみこのひでたけに対する真衡の取ったごう慢な態度が直接の原因となって起こる。真衡の態度に反発した吉彦秀武は急いで出羽に引き揚げ、合戦の準備にとりかかった。一方、秀武のこの無礼な振舞いに激怒した真衡は、秀武追討の大軍を出羽に進めることとなり、出羽国の天地はたちまちにして平和が破られることとなる。出羽における単独戦の不利を感じた秀武は、陸奥の二人の甥を見方につけて、出羽に遠征した真衡の後背部を攪乱する事に成功したのであった。 秀武の陸奥における二人の甥とは、清原氏の嫡宗 真衡にとっては義弟の立場にある清原清衡きよはらのきよひらと清原家衡きよはらのいえひらのことである。清衡は前九年の役で憤死した安倍軍の猛将、亘理権太夫藤原経清わたりのごんだゆうふじわらのつねきよと安倍頼時あべのよりときの娘 有加御前ゆかごぜんとの子であり、母とともに清原に引き取られていた。また家衡とは有加御前が前九年の役の後、清原武貞きよはらのたけさだの後妻になって生んだいわゆる清原清衡の異父同母の弟のことであり、嫡宗 清原真衡にとっては同父異母の弟である。 陸奥における二人の義弟の突如の反逆に対して、真衡は急遽出羽への遠征を中止し、陸奥に引き返して応戦態勢を固めたが、清衡と家衡は正面交戦を避けて兵を引いたため、結局真衡は秀武そして清衡家衡とも直接の戦火を交えるには至らずに済んだことになる。たまたま永保(えいほう)三年(1083年)9月国守として陸奥の国に入国した源義家を大いに歓待した真衡は、多くの貢物を送って親密の度を深め、国守義家との提携に成功する。そして真衡は、養子 成衡を将とした一部の本拠守備軍を残して、再び出羽に遠征した。これに対して清衡と家衡は、真衡の再度の留守を好機として、直ちに真衡の本拠を襲撃したが、成衡を支援して参戦した義家の軍勢に討たれて敗走することとなった。 一方出羽に向かった真衡は遠征の途中、にわかに病に倒れて秀武の追討は事ならずして終わってしまった。清衡と家衡は、真衡亡き後、敢えてこれと戦う意味がなくなったので源義家に投降した。また義家もこれを許して真衡の遺領である陸奥の六軍を二分して清衡と家衡に別ち委ね、二人の均衡の上に自分が君臨しようとする仲介処置をとった。しかし豊かな南三郡を与えられた清衡に対し、寒冷地である北三郡を与えられた家衡は、この土地の分け方に不満をもっていた。 この間に家衡は、叔父 清原武衡きよはらのたけひらの助言を得て、沼柵よりさらに堅固をもって誇る金沢柵に武衡とともに立て籠ることになる。一方、苦戦している義家を助けようとして左兵衛尉さひょうえのじょうを辞任し、急ぎ下向して来た弟 新羅三郎義光(しんらさぶろうよしみつ)、さらに家衡よりも清衡に己の将来を賭けるのが得策と考えて、義家に服従した吉彦秀武の兵力を併せて自信を持った義家と清衡は、再度大軍を率いて出羽に進軍した。出羽山北でわせんぼくの地 横手盆地は戦乱の巷と化し、特に現在の横手市や仙南村の地域にその修羅場が展開された。金沢柵の守りはすこぶる堅く、義家が陣中に剛臆の座ごうおくのざを設けて将兵の奮起をうながし、あるいは十六歳の若武者、鎌倉権五郎景正かまくらごんごろうかげまさの奮戦などの物語が今に語り伝えられているのは、難攻不落をもって誇るこの金沢柵の攻防作戦の時のことである。 しかし、さすがに頑強なこの柵も、秀武の献言を受け入れた義家の包囲持久作戦(兵糧攻め)に抗することができず、糧道はことごとく絶たれ、柵の中の食料は尽き果てていった。ついに柵は戦火の中に落ち、雑兵に身をやつして逃れようとした家衡は「武者隠しの森」で討ちとられ、さらに蛭藻沼ひるもぬまの水草の中に隠れ忍んでいた武衡は捕らえられ首を斬られ、清原一族は滅ぶことになるのである。永保3年(1083年)以来五年の長期に亘って陰惨を極めた後三年の役も寛治かんじ元年(1087年)11月14日ついにその終末を告げることとなった。 後三年の役のその後、源義家は、大和朝廷に逆賊鎮圧の恩賞を求めたが、朝廷は義家の私戦とみなして恩賞はなく、さらに寛治2年(1088年)国司の任も解かれて空しく京に帰ることになる。やむなく義家は私財を家来に分け与えたと伝えられている。 後三年の役で示された武士団の力は、やがて朝廷の公家たちの存在を脅かし、平家と源氏に代表される武士の世になっていった。 清原清衡は寛治2年(1088年)奥六郡を与えられて姓を藤原に戻し、衣川ころもがわのほとりに拠点を移し、後の平泉藤原三代の基礎を築いた。
※後三年の役と仙南村
仙南村飯詰いいづめ字東西法寺という地に「天陪あまべの一本杉」という樹齢数百年の大杉がある。この老杉がそびえ立つ地は、後三年の役の時、源義家が天陪原あまべがはらの大湿原に雁が乱れ飛ぶのを見て(雁行の乱れがんこうのみだれ)敵の伏兵を発見し、討ち取った三十余騎の屍を埋めた塚の跡と伝えられている所である。 また村内を東西に流れる厨川くりやがわという川がある。若干十六歳の若武者 鎌倉権五郎景正は敵の矢に右目を射抜かれてもなお怯まず、滴り落ちる血潮をこの厨川の流れで洗い奮戦しつづけたと伝えられている。それ以来この川には右目が見えない「片目鰍めっこかじか」が住むと言われている。
応徳元年(1084年)
元号を応徳(おうとく)と改める。
応徳二年(1085年)
実仁親王が病没する。
応徳三年(1086年)
実仁親王の病没により、白河天皇は輔仁親王ではなく、8歳のわが子の善仁親王(第73代堀河天皇)を皇太子に立て、即日譲位した。 太上天皇となった白河は、幼帝を後見するために白河院として自ら政務を執り、いわゆる院政が出現した。引き続き摂政関白は置かれたものの、これにより名目上の存在に近いものとなる。 白河上皇は堀河天皇の成人後も政権を返すことなく、受領階級や武家出身の近臣を用いて専制的な政治を行った。武士は、院の警護役として創設した北面の武士になどにあてた。熱心に仏教を信じた。
寛治元年(1087年)
堀河天皇、即位。 関白藤原師実が摂政となるが、上皇となった白河院が院政を敷き、全権を掌握した。堀河天皇は政治に携わることなく、学問と和歌、管弦に情熱を注いだ。贈皇太后藤原苡子との間に生まれた皇子宗仁親王(鳥羽天皇)を皇太子としたが、苡子が没すると宗仁親王は白河法皇に引き取られ、法皇の下で養育された。叔母にあたる中宮篤子内親王の薫陶を受け、廷臣らに慕われた賢帝であったが病弱で、帝位にあるまま29歳で亡くなった。なお、臨終の様子は愛人の一人であったとされる典侍藤原長子の「讃岐典侍日記」に詳しい。 元号を寛治(かんじ)と改める。 7月9日に「奥州合戦停止」の官使の派遣を決定。 以後11月、源義家は出羽国金沢柵にて清原武衡、清原家衡を破る。 しかし12月、これを報告する「国解」の中で「わたくしの力をもって、たまたまうちたいらぐる事をえたり。早く追討の官符を給わりて」と後付けの追討官符を要請するが、『後二条師通記』にはこの戦争は「義家合戦」と私戦を臭わせる書き方がされている。 したがって、「私戦」としたため恩賞はなかったとする。 何よりも陸奥国の兵(つわもの)を動員しての戦闘であり、義家自身が国解の中で「政事をとどめてひとえにつわもの(兵)をととの」、と述べているように、その間の陸奥国に定められた官物の貢納は滞ったと思われ、その後何年もの間催促されていることが、当時の記録に残る(『中右記』1096年(永長1)12月15日条、1097年(永長2) 2月25日条)。当時の法制度からは、定められた官物を収めて、受領功過定に合格しなければ、新たな官職に就くことができず、義家は官位もそのままに据え置かれた。 後三年の役が終わる。
寛治二年(1088年)
源義家、正月に陸奥守を罷免される。
寛治三年(1089年)
※調査中
寛治四年(1090年)
※調査中