西暦1091年〜1100年


寛治五年(1091年)
正月、源義綱、藤原師実が節会に参内する際の行列の前駆を努めた。 6月、義家の郎党藤原実清と源義綱の郎党藤原則清が、河内国の所領の領有権を争い、義家・義綱兵を構える事件がおき、京を震撼させた。 白河上皇が、源義家の兵を率いての入京および諸国の百姓の義家への田畑寄進を禁止。
寛治六年(1092年)
若狭国の申請により、新立荘園を制止。 源義綱、2月に藤原忠実が春日祭使となって奈良に赴く際の警衛。
寛治七年(1093年)
白河上皇、諸国に濫立する荘園の制止について、内大臣藤原師通に諮問する。 皇女の病没を機に出家し法名を融観とし、法皇となった。 また法勝寺等の多くの寺院や仏像をつくらせたが、その経済力は受領の経済力を活用した。 出羽守信明(姓不詳とされてきたが『後二条師通記』に同年の出羽守源信明とある)が平師妙と子の平師季に襲撃され殺害された。隣国陸奥守を務めていた義綱に追討が命ぜられた。遙任をしていた義綱は自ら下向する前に郎党を派遣した。その郎党は師妙を斬り、乱を鎮圧した。 10月の除目で、義綱は陸奥守にに就任。 12月、源義綱、源俊房の慶賀の参内の際に前駆を努める。
嘉保元年(1094年)
元号を嘉保(かほう)と改める。 美作国の申請により、新立荘園の制止を議定する。 源義綱、出羽守を襲撃した在地の開拓領主・平師妙(もろたえ)を郎党に追捕させ、従四位上に叙されて官位は兄義家と並ぶ。
嘉保二年(1095年)
源義綱、正月の除目で、事実上陸奥よりも格の高い美濃守に就任する。 その美濃における比叡山領荘園との争いで僧侶が死亡したことから、 (美濃国の延暦寺荘園領を宣旨によって収公した際、寺側と小競り合いになり、一人の僧が矢に当たって死んだ。延暦寺・日吉神社はこれに怒り、強訴を行った。関白藤原師通は、義綱のほか、源頼治を派遣してこれを撃退したが、その際、矢が神輿や神人に当たり、それが仏罰となって、数年後の師通の若死にをもたらしたとも言われている。) 比叡山側は義綱の配流を要求して強訴に及ぶが、関白藤原師通は大和源氏の源頼治と義綱に命じてそれを実力で撃退する。このときも比叡山延暦寺・日吉神社側の神人・大衆に死傷者が出、比叡山側は朝廷を呪詛した。比叡山は天台密教の総本山であり、呪詛の最大の権威であって、朝廷にとっては最大の精神的脅威であったと思われる。 セルジューク朝の攻撃を受けていた東ローマ皇帝アレクシオス1世コムネノスの救援要請を受け、ローマ教皇ウルバヌス2世がクレルモン教会会議において対イスラム教徒戦への参加を呼びかける。
永長元年(1096年)
元号を永長(えいちょう)と改める。 第1回十字軍出発。
承徳元年(1097年)
元号を承徳(じょうとく)と改める。
承徳二年(1098年)
源義家、「今日左府候官奏給云々、是前陸奥守義家朝臣依済舊國公事、除目以前被・(そう)行也(件事依有院御気色也)、左大史廣親候奏」(『中右記』正月23日条)と白河法皇の意向もあり、やっと受領功過定を通って、4月の小除目で正四位下に昇進し、10月には院昇殿を許された。しかし、その白河法皇の強引な引き上げに、当時既に形成されつつあった家格に拘る公卿は反発し、中御門右大臣・藤原宗忠はその日記『中右記』承徳2年10月23日条の裏書きに「義家朝臣は天下第一武勇の士なり。昇殿をゆるさるるに、世人甘心せざるの気あるか。但し言うなかれ」と書く。
康和元年(1099年)
元号を康和(こうわ)と改める。 宣旨を下して新立の荘園を停止させる(康和の荘園停止令) 6月に、当事者の関白藤原師通が38歳で世を去ったことで、朝廷は比叡山の呪詛の恐怖におののいた。この件の影響か、このあと源義綱が受領に任じられることはなかった。
康和二年(1100年)
太陽活動の極大期にはいる。1250年まで続く。 地球全体の気温が高くなり、日照りは起きやすく、台風などの影響は強くなる。また、この期間は積雪も少なくなる。 ただし、10万年規模で切り替わる温暖期と寒冷期の規模からすると、規模としては小さいものであり、2018年現在ほど影響の大きなものではない。 この時、日本は亜熱帯に近い気温であったが、1180年まで気温が下がり始める。