西暦1101年〜1110年


康和三年(1101年)
大地震、興福寺金堂・大門倒壊する。
興福寺と金峰山の僧徒争う。
7月7日、次男対馬守源義親が、鎮西に於い太宰大弐大江匡房に告発され、朝廷は義家に義親召還の命を下す(『殿暦』)。義家が首藤資通を派遣した。
康和四年(1102年)
村上源氏が公卿の過半数を占める。
2月20日、義家がそのために派遣した郎党の首藤資通(山内首藤氏の祖)は、義親とともに義親召問の官吏を殺害してしまう。 12月28日ついに朝廷は源義親の隠岐配流を決定する。
長治元年(1104年)
元号を長治(ちょうじ)と改める。
10月30日、義家・義綱はそろって延暦寺の悪僧追捕を行っているが、これが義家の最後の公的な活躍となる。
嘉承元年(1106年)
元号を嘉承(かしょう)と改める。
堀河天皇、29歳で崩御。
別の子の源義国(足利氏の祖)が、叔父の新羅三郎源義光等と常陸国において合戦。
6月10日、常陸合戦で源義家に実子義国を召し進ぜよとの命が下される。義国と争っていた源義光、平重幹等にも捕縛命令が出る。 源義家、7月15日に68歳で没する。 義家は四男の義忠を後継者に指名していた。 その翌日、藤原宗忠はその日記『中右記』に、「武威天下に満つ、誠に是れ大将軍に足る者なり」と追悼する。 
長治二年(1107年)
鳥羽天皇、5歳で即位。政務は白河法皇が執る。
12月19日、隠岐に配流されていた源義親が、出雲国目代を殺害、その周辺諸国に義親に同心する動きも現れたため、白河法皇は隣国因幡国の国守であり院近臣でもあった平正盛に義親の追討を命じる。
英国での叙任権闘争の終わりを意味するウェストミンスター合意なる。
天仁元年(1108年)
元号を天仁(てんにん)と改める。
1月29日に平正盛は源義親の首級を持って京に凱旋、大々的な凱旋パレードが行われ、平正盛が白河院の爪牙として脚光を浴びる。このパレードに対して、藤原宗忠は『中右記』に「故義家朝臣は年来武者の長者として多く無罪の人を殺すと云々。積悪の余り、遂に子孫に及ぶか」と記す。
天仁二年(1109年)
2月3日夜、義忠が斬りつけられ、5日後に死亡する事件が発生した。
義光は藤原季方に義明の刀を奪うように命じ、その刀を成幹に与え、義忠暗殺の密命を下したのである。その結果、義忠は闘死(いわゆる「源義忠暗殺事件」)。 その現場に残された刀が源義明のものであることから、義忠暗殺の嫌疑は義明とその父である義綱に向けられる。そして、義綱一族は、義光の勢力圏である甲賀山で義忠の養子である源為義によって討たれるのである。だが、実際に若年の為義が指揮をとっていたわけではなく、その背後には義光がいた(いわゆる「源義綱冤罪事件」)。 また、義綱の郎党の藤原季方、鹿島三郎も義光(及びその指示を受けた園城寺の僧で義光の実弟の快誉)らの手によって殺害され、事件の真相は闇の中へ消え行くはずであったが、その真相が発覚し、義光は勢力の強い常陸国に逃亡せざるを得なくなり、源氏の棟梁への野望は潰えた。 義綱父子は義忠を殺害したとして疑いをかけられて逃亡したが近江の山中で源為義に捕縛され、降伏して出家後、佐渡に流罪となる。この時、六人の息子が不幸な最期を遂げている。長男義弘・次男義俊は谷に身を投げて投身自殺し、三男義明は義忠殺害の張本人とされて追っ手に追われて戦死、四男義仲は火に飛び込んで焼身自殺、五男義範は切腹、六男義公は自害、という様相であった。
天永元年(1110年)
元号を天永(てんえい)と改める。