西暦1853年(嘉永六年) - 歴史    歴史|EL XIII   

歴史

西暦1853年(嘉永六年)

坂本龍馬、剣術修行のため江戸(東京都)に出て、北辰一刀流剣術開祖千葉周作の弟の千葉定吉の桶町千葉道場(通称:小千葉道場)(東京都千代田区)に入門した。
ペリーが来航。それまでは長崎の出島が主な貿易処であったが、この年以降より、海外からたくさんの使節団が日本を訪れる。
各国で残されている当時の使節団の記録から、日本は当時の世界においても非常に特異な文化を持っていた事が見受けられ、ある者は「地上にある天国」と記し、ある者は「貧しい文化の国」と記した。
一部の使節団からは、この先に起こる日本の激変を憂いた記録までが残っている。
クリミア戦争(1853年 - 1856年)。


1月12日、太平天国の乱: 太平軍が武昌を占領
1月19日、ヴェルディ「イル・トロヴァトーレ」初演

2月22日、ワシントン大学創立

3月4日、フランクリン・ピアースがアメリカ合衆国14代大統領に就任
3月20日、太平天国の乱: 太平軍が南京を占領

5月26日(嘉永6年4月19日)、ペリー那覇来航。

6月3日、アメリカのペリーが4隻の軍艦を率いて浦賀沖に現れる(黒船来航)。
ペリー艦隊が来航(いわゆる黒船来航)し開国を要求されると、老中首座の阿部正弘は幕府の決断のみで鎖国を破ることに慎重になり、海防に関する意見書を幕臣はもとより諸大名から町人に至るまで広く募集した。 これに勝海舟も海防意見書を提出した。勝の意見書は阿部正弘の目にとまることとなる。そして幕府海防掛だった大久保忠寛(一翁)の知遇を得たことから念願の役入りを果たし、勝は自ら人生の運を掴むことができた。
6月22日、幕閣がその対策に追われる中、家慶は病のため薨去。 子女は家定・慶昌ら14男13女がいるが、20歳を超えて生きたのは家定だけであった。
家慶が黒船来航の後に病死したことを受け、徳川家定が江戸幕府第13代征夷大将軍となる。ところが徳川家定は、病弱で男子を儲ける見込みが無かったので将軍継嗣問題が起こった。 慶喜を推す斉昭や阿部正弘、薩摩藩主・島津斉彬ら一橋派と、紀州藩主徳川慶福を推す彦根藩主・井伊直弼や家定の生母・本寿院を初めとする大奥の南紀派が対立した。 その頃、米国総領事タウンゼント・ハリスが、通商条約への調印を江戸幕府に迫っていた。この時、江戸幕府は諸大名に条約締結・調印をどうしたらよいか意見を聞いていた。 そして、条約締結はやむなし、しかし調印には朝廷の勅許が必要ということになり、幕府も承認した。このため、勅許を受けに老中・堀田正睦が京に上った。 当初、幕府は簡単に勅許を得られると考えていたが、梅田雲浜ら在京の尊攘派の工作もあり、元々攘夷論者の孝明天皇から勅許を得ることは出来なかった。 ここで幕府に誤算が生じ、家定は老中首座の堀田正睦を罷免、将軍継嗣には家茂を内定し、大老に井伊直弼、老中に間部詮勝らを任命した。 これは井伊直弼の策略であり、こうして井伊体制が確立した。
前水戸藩主徳川斉昭の七男・一橋慶喜は英明との評判が高く、これを支持し諸藩との協調体制を望む一橋派と、血統を重視し、現将軍に血筋の近い紀州藩主徳川慶福(後の徳川家茂)を推す保守路線の南紀派とに分裂し、激しく対立した。 孝明天皇は、ペリー来航以来、幕府政治に発言力を持ち、江戸幕府大老井伊直弼が諸外国と独断で条約を結ぶとこれに不信を示し、一時は攘夷勅命を下したこともあった(文久3年(1863年)3月の攘夷勅命)。 これを受けて下関戦争や薩英戦争が起き、日本国内では外国人襲撃など攘夷運動が荒れ狂う事になる。孝明天皇は攘夷の意思が激しく、異母妹・和宮親子内親王を第14代征夷大将軍・徳川家茂に降嫁させるなど、公武合体運動を推進し、あくまで幕府の力による鎖国維持を望んだ。 家茂が上洛してきたときは、攘夷祈願のために賀茂神社や石清水八幡宮に行幸している。京都守護職であった会津藩主松平容保への信任は特に厚かったと言われる。
吉田松陰、マシュー・ペリーが浦賀に来航すると、師の佐久間象山と黒船を視察し、西洋の先進文明に心を打たれた。 米国のペリー艦隊の来航を見て、外国留学の意志を固め、同じ長州藩出身の金子重輔と長崎に寄港していたプチャーチンのロシア軍艦に乗り込もうとするが、ヨーロッパで勃発したクリミア戦争にイギリスが参戦した事から同艦が予定を繰り上げて出航した為に失敗。

7月8日(嘉永6年6月3日)、ペリー提督らの黒船、浦賀へ来航
7月11日(嘉永6年6月6日)、蒸気船ミシシッピーが江戸湾深部に進航したため、幕府は国書の受領を決定
7月14日(嘉永6年6月9日)、ペリーら久里浜に上陸、親書・信任状などを手交
7月17日(嘉永6年6月12日)、ペリー率いるアメリカ艦隊が江戸幕府からの国書回答猶予要請を受けて浦賀を出港。

8月22日(嘉永6年7月18日)、プチャーチンが軍艦四隻を率いて長崎に入港

10月4日、オスマン帝国がロシアに宣戦布告
10月12日、プチャーチンがペリーに同盟を書翰で打診、ペリーは拒絶

11月23日、プチャーチンが長崎を出港(翌1月3日再入港)
11月30日、シノープの海戦

12月、坂本龍馬は佐久間象山の私塾にも通う。
勝海舟、長崎の海軍伝習所に入門。伝習所ではオランダ語がよくできたため教監も兼ね、伝習生と教官の連絡役も果たした。 このときの伝習生には矢田堀景蔵、永持亨次郎らがいる。長崎に赴任してから数週間で聴き取りもできるようになったと本人が語っている。 そのためか、引継ぎの役割から第一期から三期まで足掛け5年間を長崎で過ごす。 この時期に当時の薩摩藩主島津斉彬の知遇をも得ており、後の海舟の行動に大きな影響を与えることとなる。
12月30日、米墨間で国境条約調印。