西暦1857年(安政四年)

渋染一揆が起こる。


3月6日、合衆国最高裁判所がドレッド・スコット対サンフォード事件の判決を下す。

5月10日、インドでセポイの乱起こる。

8月6日(安政4年6月17日)、阿部正弘が死去すると、その後は老中・堀田正睦によって主導された。

9月11日、モルモン教徒とアメリカ陸軍によるユタ戦争が起こる。
9月11日、秋ごろ、赤松宗旦が『利根川図志』を刊行する。

12月7日(安政4年10月21日)、徳川家定は米国総領事タウンゼント・ハリスを江戸城で引見している。
家定は正室として鷹司政煕の娘・任子(天親院有君)や一条忠良の娘・秀子(澄心院寿明君)を迎えたが、いずれも早世し、近衛忠煕の養女・敬子(天璋院)との間にも実子は生まれなかった。 このため、将軍在位中から後継者争いはすでに起こっていたが、家定の病気が悪化したこの頃より、それが激化する。 家定の後継者候補として、井伊直弼らが推薦する紀州藩主の徳川慶福(のちの徳川家茂)を将軍継嗣に推す南紀派と、島津斉彬や徳川斉昭が推す一橋慶喜(徳川慶喜)支持の一橋派が上がり、この両派が互いに将軍継嗣をめぐって争う。
吉田松陰、叔父が主宰していた松下村塾の名を引き継ぎ、杉家の敷地に松下村塾を開塾する。 この松下村塾において松陰は長州藩の下級武士である久坂玄瑞や伊藤博文などの面々を教育していった。 なお、松陰の松下村塾は一方的に師匠が弟子に教えるものではなく、松陰が弟子と一緒に意見を交わしたり、文学だけでなく登山や水泳なども行なうという「生きた学問」だったといわれる。
坂本龍馬、盗みを働き切腹沙汰となった仲間の山本琢磨を逃がす。