西暦1860年(安政七年/万延元年)

サルデーニャ王国国王ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世、ローマを除く教皇領およびオーストリア領ヴェネト地方を除き、イタリアを支配下に収める。


2月4日(安政7年1月13日)、勝海舟は咸臨丸で太平洋を横断しアメリカ・サンフランシスコへ渡航。旅程は37日。 この米国渡航の計画を起こしたのは岩瀬忠震ら一橋派の幕臣である。しかし彼らは安政の大獄で引退を余儀なくされたため、木村摂津守が軍艦奉行並となり、勝は遣米使節の補充員として乗船した。 米海軍からは測量船フェニモア・クーパー号船長のジョン・ブルック大尉が同乗した。通訳ジョン万次郎、木村の従者福澤諭吉も乗り込んだ。
咸臨丸の航海を勝も福澤も「日本人の手で成し遂げた壮挙」と自讃しているが、実際には日本人乗組員は船酔いのためにほとんど役に立たず、ブルックらがいなければ渡米できなかったという説がある。 福澤の『福翁自伝』には木村が「艦長」、勝は「指揮官」と書かれているが、実際にそのような役職はなく、木村は「軍艦奉行並」、勝は「教授方取り扱い」という立場であった。 アメリカ側は木村をアドミラル(提督)、勝をキャプテン(艦長)と呼んでいた。アメリカから日本へ帰国する際は、勝ら日本人の手だけで帰国することができた。
水戸藩を脱出した水戸浪士らは数日後、薩摩藩士と共謀して井伊直弼の暗殺を図る。
桜田門外の変が起こる。
孝明天皇から勅許が得られないまま独断で安政の五ヶ国条約に調印し、一橋派・南紀派の将軍継嗣問題を裁決したうえ、安政の大獄で反対勢力を弾圧していた井伊直弼に対し、藩主の父・徳川斉昭への謹慎処分などで特に反発の大きかった水戸藩では、高橋多一郎や金子孫二郎などの過激浪士が脱藩して薩摩藩の有村次左衛門などと連絡し、薩摩の率兵上京による義軍及び孝明天皇の勅書をもっての謀反を企てていたが、薩摩藩内の情勢の変化などにより、両藩士合同の計画は頓挫。已む無く水戸の激派が独自に大老襲撃を断行することとし、薩摩からは有村が一人加勢した。
2月10日、咸臨丸、太平洋横断航行。37日後の3月17日、サンフランシスコへ到着。
2月26日(安政7年2月5日)、午後7、8時頃 横浜の本町通り(現在の中区本町)で、オランダ人船長のW・デ・フォス(Wessel de Vos)と、N・デッケル(Jasper Nanning Dekker)が攘夷派により斬殺される。

3月、フランスへのサヴォイア・ニース割譲と引き換えに、中部イタリア諸国(パルマ・モデナ・トスカーナ・ロマーニャ)を併合。
3月24日(安政7年3月3日)早朝、一行は決行前の宴を催し一晩過ごした東海道品川宿(東京都品川区)の旅籠を出発し、東海道(現在の国道15号)に沿って進み、大木戸を経て札ノ辻を曲がり、網坂(東京都港区、慶應義塾大学付近)、神明坂、中之橋(現在の首都高速都心環状線を過ぎる)を過ぎて桜田通りへ抜け、愛宕神社(港区)で待ち合わせたうえで、外桜田門へ向かう。 そして、藩邸上屋敷(現在憲政記念館の地)から内堀通り沿いに登城途中の直弼を江戸城外桜田門外(現在の桜田門交差点)で襲撃した。
井伊家には警告が届いていたが、直弼はあえて護衛を強化しなかった。 当日は季節外れの雪で視界は悪く、護衛の供侍たちは雨合羽を羽織り、刀の柄に袋をかけていたので、襲撃側には有利な状況だった。 江戸幕府が開かれて以来、幕府には江戸市中で大名駕籠を襲うなどという発想そのものがなく、彦根藩側の油断を誘った。 襲撃者たちは『武鑑』を手にして大名駕籠見物を装い、直弼の駕籠を待っていた。 駕籠が近づくと、まず前衛を任された森五六郎が駕籠訴を装って行列の供頭に近づき、取り押さえにきた日下部三郎右衛門をやにわに斬り捨てた。 こうして護衛の注意を前方に引きつけておいたうえで、黒澤忠三郎(関鉄之介という説あり)が合図のピストルを駕籠にめがけて発射し、本隊による駕籠への襲撃が開始された。 発射された弾丸によって直弼は腰部から太腿にかけて銃創を負い、動けなくなってしまった。 襲撃に驚いた駕籠かきは遁走し、数名の供侍たちが駕籠を動かそうと試みたものの斬り付けられ、駕籠は雪の上に放置される。 彦根藩士たちは柄袋が邪魔して咄嗟に抜刀できなかったため、鞘で抵抗したり、素手で刀を掴んで指を切り落とされるなど不利な形勢だったが、二刀流の使い手として藩外にも知られていた河西忠左衛門だけは冷静に合羽を脱ぎ捨てて柄袋を外し、襷をかけて刀を抜き、駕籠脇を守って稲田重蔵を倒すなど襲撃者たちをてこずらせた。 しかし、一人では抵抗しきれず、遂に斬り伏せられる(河西の刃こぼれした刀は彦根城博物館に保存されている)。 もはや護る者のいなくなった駕籠に、次々に刀が突き立てられた。 さらに有村次左衛門が扉を開け放ち、虫の息となっていた直弼の髷を掴んで駕籠から引きずり出した。 直弼は地面を這おうとしたが、有村が発した薬丸自顕流の「猿叫」とともに、首は鞠のように飛んだ。 襲撃開始から直弼殺害まで、わずか数分の出来事だったという。
一連の事件の経過と克明な様子は、伝狩野芳崖作『桜田事変絵巻』(彦根城博物館蔵)に鮮やかに描かれている。 有村らは勝鬨をあげ、刀の切先に直弼の首級を突きたてて引き上げにかかったが、昏倒していた小河原秀之丞が鬨の声を聞いて蘇生し、主君の首を奪い返そうと有村に追いすがって後頭部に切りつけた。 小河原は広岡小之次郎らによって斬り倒されたが、有村も重傷を負って歩行困難となり、若年寄遠藤胤統邸の門前で自決する。 襲撃を聞いた彦根藩邸からは直ちに人数が送られたが後の祭りで、やむなく死傷者や駕籠、さらには鮮血にまみれ多くの指や耳たぶが落ちた雪まで回収した。
直弼の首は遠藤邸に置かれていたが、所在をつきとめた彦根藩側が、闘死した藩士のうち年齢と体格が直弼に似た加田九郎太の首と偽ってもらい受け、藩邸で典医により胴体と縫い合わされた。
襲撃側のうち、最初に駕籠目掛けて斬り込んだ稲田重蔵は河西に斬り倒され即死。有村次左衛門のほか広岡小之次郎、山口辰之介、鯉渕要人は彦根藩士たちの必死の反撃で重傷を負い、他の藩邸に自首したのち自刃した。 他の者も多くは自首したり捕縛された後に殺害されたり、獄死している。増子金八と海後磋磯之介は潜伏して明治期まで生き延びた。
井伊家の側は直弼以外に8人が死亡(即死者4人、後に死亡した者4人)し、13人が負傷した。死亡者の家には跡目相続が認められた。 当時の公式記録としては、「井伊直弼は急病を発し暫く闘病、急遽相続願いを提出、受理されたのちに病死した」となっている。 これは譜代筆頭井伊家の御家断絶と、それによる水戸藩への敵討ちといった争乱の激化を防ぐための、幕府による破格の配慮である。井伊家の菩提寺・豪徳寺にある墓碑に命日が「三月二十八日」と刻まれているのはそのためである。
直弼の死を秘匿するため、存命を装って直弼の名で桜田門外で負傷した旨の届けが幕府へ提出され、将軍家からは直弼への見舞品が藩邸に届けられている。 これにならい、諸大名からも続々と見舞いの使者が訪れたが、その中には当の水戸藩の者もおり、彦根藩士たちの憎悪に満ちた視線のなかで重役の応接を受けたと言う。 井伊家の飛び地であった世田谷領の代官をつとめた大場家の記録によると、表向きは闘病中とされていた直弼のために、大場家では家人が病気平癒祈願を行なっている。 しかし、襲撃後の現場には尾張徳川家など後続の大名駕籠が続々と通りかかり、鮮血にまみれた雪は多くの人に目撃され、大老暗殺は瞬時に江戸市中に知れ渡った。

4月8日(万延元年3月18日)、元号が安政から万延に改元

6月24日(万延元年5月6日)、勝海舟が帰国。品川沖に入航。
6月25日(万延元年5月7日)、勝海舟が江戸に帰府。

8月10日(万延元年6月24日)、勝海舟は天守番頭過人・蕃書調所頭取助となる。石高400石取りとなる。

9月7日、ジュゼッペ・ガリバルディ、両シチリア王国の首都、ナポリに入城。翌10月両シチリア王国の版図であるシチリアを含む南イタリアをサルデーニャ王国国王ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世に献上。
9月29日(万延元年8月15日)、斉昭が病死。水戸浪士の行動は更に活発となる。

10月11日(万延元年8月27日)、竹内百太郎ら浪士37人が江戸(芝)薩摩藩邸に駆け込み攘夷の先鋒ならんとする意見書を提出したことを皮切りに、玉造勢騒動、英国仮公使館襲撃事件、坂下門外の変などを起こし、ここ完全に過激派と化すに至った。
10月17日(万延元年9月4日)、徳川慶喜は3月3日の桜田門外の変における大老・井伊直弼の死を受け、謹慎を解除される。

11月6日、エイブラハム・リンカーンがアメリカ合衆国大統領に当選。
11月10日(万延元年9月28日)、孝明天皇から親王宣下を受け、「睦仁」の名を賜る(=睦仁親王となる)。

12月よりアメリカ南部諸州が合衆国からの離脱を宣言。