西暦1862年(文久二年)

日本では近代競馬が横浜で誕生。是が後の中央競馬へと成長して行く。
第三次コレラが日本にて大流行
徳川家茂、公武合体策の一環として和宮と結婚。
政略結婚ではあるが、和宮に対してたびたび贈り物をするなど細やかな気配りをし、2人の関係は良好であった。 徳川家歴代の将軍と正室の中で最も夫婦仲が良かったのは家茂・和宮といわれたほどである。
島津久光の政略によって一橋慶喜・松平春嶽の2人が幕政に復帰すると、春嶽によって「将軍家茂は上洛して帝にこれまでの失政を陳謝すべき」との進言が為され、また2度に渡る勅使下向によって幕府の勅命実行の確約(条約破棄+攘夷)は、もはや避けられないものとなっていた。


1月(文久元年12月)、坂本龍馬は萩で久坂玄瑞と面談。
1月6日、メキシコ出兵: フランス,スペインおよび英国軍がベラクルスに至る
1月24日、ブカレストがルーマニア公国の首都となる
1月30日、米海軍初の装甲艦「モニター」進水
1月31日、アルヴァン・グラハム・クラークがシリウス伴星(シリウスB)を発見(初の白色矮星)

2月(文久2年1月)末、坂本龍馬は土佐に帰国。
2月1日、軍歌「リパブリック讃歌」(The Battle Hymn of the Republic)発表
2月6日、南北戦争: ヘンリー砦の戦い
2月13日(文久2年1月15日)、坂下門外の変
2月20日、南北戦争: ヴァルヴァードの戦い
2月22日、南北戦争: ジェファーソン・デイヴィスが南部連合国大統領に就任
2月22日、イワン・ツルゲーネフ小説『父と子』発表

3月(文久2年2月)、坂本龍馬は沢村惣之丞とともに土佐藩を脱藩。 この頃、吉田東洋が門閥政治打破・流通機構の統制強化・洋式兵器の採用などの改革を行なうが、反対派の尊皇攘夷派の土佐勤王党の志士那須信吾・大石団蔵・安岡嘉助に暗殺される。 吉田東洋の暗殺事件は、当初は龍馬が実行犯として疑われた。龍馬は九州などを放浪した後、江戸へ入り千葉道場に身を寄せる。 その後、千葉重太郎の紹介で、幕府政事総裁職の松平春嶽に面会。

3月7日、南北戦争: ピーリッジの戦い
3月8日、南北戦争: ハンプトン・ローズ海戦
3月11日(文久2年2月11日)、徳川家茂と和宮親子内親王の婚儀
3月28日、南北戦争: グロリエタの戦い

4月3日、ヴィクトル・ユゴー小説『レ・ミゼラブル』発表

5月、勅命を受け、一橋慶喜が将軍後見職に就任。松平春嶽が政事総裁職に就任。 島津久光率いる薩摩藩兵に護衛されて勅使・大原重徳が江戸に入り、「徳川慶喜を将軍後見職、松平春嶽(慶永)を大老に登用すべし」という孝明天皇の勅命が下される。 まず将軍上洛に先立ち、後見職にあった慶喜が先に入京することとなったが、まだ慶喜には幕府から与えられた家臣がいるのみで信頼委任できる腹心がいなかった。そこで実家である水戸藩へ命じ、上洛に追従させることにした。 慶喜と春嶽は、井伊直弼が行なった大獄は甚だ専断であったとして、
 1. 井伊家に対し10万石削減の追罰
 2. 弾圧の取調べをした者の処罰
 3. 大獄で幽閉されていた者の釈放
 4. 桜田門外の変・坂下門外の変における尊攘運動の遭難者を和宮降嫁の祝賀として大赦
を行なった。
幕閣では一橋派が復活し、文久の改革が行なわれ、将軍家茂と皇女・和宮の婚儀が成立して公武合体路線が進められた。 安政の大獄は幕府の規範意識の低下や人材の欠如を招き、反幕派による尊攘活動を激化させ、幕府滅亡の遠因になったとも言われる。 直弼の護衛に失敗した生存者に対しては、この時に処分が下された。草刈鍬五郎など重傷者は減知のうえ、藩領だった下野の佐野に流され揚屋に幽閉される。 軽傷者は全員切腹が命じられ、無疵の者は士分から駕篭かきにいたるまで全員が斬首、家名断絶となった。 処分は本人のみならず親族に及び、江戸定府の家臣を国許が抑制することとなった。
率兵上京した島津久光は、勅使大原重徳を擁して幕政の刷新を要求し、幕府は松平慶永の主導で井伊政権の清算を図った。その結果、直弼の側近だった老中安藤信正および久世広周を罷免するとともに、直弼の失政を理由に京都守護の家職を井伊家から剥奪し、松平容保を京都守護職に宛てた。 また、石高も35万石から25万石に減らされた。彦根藩では、これに先立って直弼の腹心だった長野主膳や宇津木景福を斬首・打ち捨てに処したが、減封は免れられなかった。 このことは、明治になってから思わぬ憶測を井伊家周辺に及ぼした。華族令施行に伴い井伊家は伯爵に叙されるが、この爵位は減封後の石高を基準としたものである。 草高35万石で、近江半国領主という国持大名に準ずる格式に沿うならば、一階級上の侯爵となるはずとの意向も、井伊家の周辺にあった。 しかし、減封後の現石は9万石程度で、仮に減封がなくても国持大名で現石15万石を基準とする侯爵の基準は満たしていない。 そもそも爵位の基準は版籍奉還の時点の現石が基準であり、「安政の大獄の恨みで新政府に冷遇され、伯爵に落とされた」などというのは全くの俗説である。 戊辰戦争の際には、すでに鳥羽伏見の戦いの時点で薩摩藩兵とともに東寺や大津を守備するなど、最初から勤王の姿勢を示しており、近藤勇を逮捕する手柄を立てるなど実戦での功績も評価され、賞典禄2万石を与えられている。 直弼の嫡男である井伊直憲は有栖川宮家から夫人を迎えており、井伊家は旧譜代大名のなかでは、むしろ厚遇されたと考えるべきである。 桜田門外の変で敵対した水戸と彦根が和解して親善都市提携を結んだ時期は、事件発生から110年後の1970年であった。 水戸からは偕楽園の梅、彦根からは堀の白鳥がそれぞれに送られた。水戸と彦根を和解させた都市は敦賀だが、敦賀は水戸天狗党が悉く殺された土地である。 水戸と敦賀が、天狗党の縁で姉妹都市提携を結んだ時期は1964年だった。 井伊大老が試みていた、幕政を雄藩との協調体制から幕閣主導型に回帰させ、朝廷の政治化を阻止する、という路線が破綻したばかりか、幕府の権威も失墜し、幕末の尊王攘夷運動が激化する端緒となる。 また、紀尾井坂の変に至るまでの、実力行使と武力による争乱の時代が幕を開けることとなった。

5月、祐宮睦仁親王、儲君(皇太子)となる。
5月5日、メキシコ出兵: プエブラの会戦
5月20日、米国でホームステッド法成立
5月21日、雑誌「ジャパン・パンチ」創刊(チャールズ・ワーグマン)
5月29日(文久2年4月23日)、寺田屋事件

6月5日、フランスが南ベトナム3省(交趾支那)を獲得(第一次サイゴン条約締結)
6月6日、南北戦争: メンフィスの戦い
6月25日(文久2年5月28日)、第二次東禅寺事件

7月1日、アレクサンドル2世がユダヤ人に出版を許可
7月1日、ロシア国立図書館設立
7月4日、ルイス・キャロルがアリス・リデルらに『不思議の国のアリス』を即興で語る
7月4日(文久2年6月8日)、幕政改革後、勝海舟は海軍に復帰。二の丸留守居格軍艦操練所頭取に異動。
7月6日(文久2年6月10日)、幕府は慶喜を将軍後見職、春嶽を政事総裁職に任命した。
慶喜と春嶽は文久の改革と呼ばれる幕政改革を行ない、京都守護職の設置、参勤交代の緩和などを行なった。
7月12日、米国で名誉勲章制定

8月9日、南北戦争: シーダー山の戦い
8月17日(文久2年7月22日)、勝海舟は軍艦奉行並に異動。役高1000石。
神戸は碇が砂に噛みやすく水深も比較的深く大きな船も入れる天然の良港であるので神戸港を日本の中枢港湾(欧米との貿易拠点)にすべしとの提案を、大阪湾巡回を案内しつつ14代将軍徳川家茂にしている。 神戸に海軍塾を作り、薩摩や土佐の荒くれ者や脱藩者が塾生となり出入りしたが、勝は官僚らしくない闊達さで彼らを受け容れた。
川面凡児が生まれる。 川面凡児は、後に、日本史上、全てに秀でた学者として有名。 明治末期から昭和初期にかけての神道家。豊前国宇佐郡小坂村(大分県宇佐郡院内町)に生まれ,熱心な神仏信仰者の母八津の素質を受け継いで育つ。15歳のとき,宇佐神宮の神体山である大元山に籠り修行,神伝を受けたという。御祓(禊:みそぎ)の手法を大成させた。
8月17日、ダコタ戦争: スー族と白人の間に紛争が生じる
8月21日、ウィーン市民公園(Wiener Stadtpark)開園

9月14日(文久2年8月21日)、生麦事件
9月17日、南北戦争: アンティータムの戦い
9月22日、リンカーンが奴隷解放を宣言
9月22日、ビスマルクがプロイセン王国宰相に就任
9月30日、ビスマルクが鉄血演説を行う

10月8日、南北戦争: ペリービルの戦い
10月30日、リチャード・ジョーダン・ガトリング(Richard Jordan Gatling)がガトリング砲の米国特許を取得

11月2日(文久2年9月11日)、幕府が派遣する第1回留学生が長崎を出帆(榎本武揚、赤松則良、西周ら15名)

12月(文久2年10月)、坂本龍馬は松平春嶽の紹介状を携え、勝海舟に面会して弟子となる。 坂本龍馬の姉(乙女)宛ての手紙には「今にては日ノ本第一の人物勝麟太郎という人に弟子になり」とあり、西郷隆盛も大久保利通宛ての手紙で「勝氏へ初めて面会し候ところ実に驚き入り候人物にて、どれだけ知略これあるやら知れぬ塩梅に見受け申し候」、「英雄肌で、佐久間象山よりもより一層、有能であり、ひどく惚れ申し候」と書いている等、龍馬や西郷のような無私の人物からは高く評価されていたことがわかる。
12月15日(文久2年10月24日)、一橋慶喜が江戸を出立。
12月24日(文久2年11月4日)、水戸藩主徳川慶篤らが追従し江戸を出立する。その中には武田耕雲斎、山国兵部、藤田小四郎など、後に乱を主導することになる面々が連なっていた。 彼らは京都において、長州藩士桂小五郎、久坂玄瑞、その他京都に集う志士達と交流を重ねるうちに尊皇攘夷の志をますます堅固なものとして行ったのである。 更に藤田は長州藩と図り、東西で一斉に挙兵して幕府に攘夷を迫る計画を立てるが、これは時期尚早であると耕雲斎に諌められ失敗に終わっている。 一方、慶喜は既に攘夷の実行は不能と悟っており、しかし将軍上洛までに何らかの行動を起こさなければ将軍が矢面に立たされることとなってしまう。 そこで攘夷実行の期日を将軍帰京後より1月後という短期間に設定することで逆に実行不能の口実を作ろうと画策したのであるが、これが後に激派の不満を爆発させる一因となってしまう。
11月5日、南北戦争: リンカーンがジョージ・マクレラン総司令官を解任
11月10日、ヴェルディ歌劇「運命の力」初演(マリインスキー劇場)
12月6日、ダコタ戦争: リンカーンがスー族39名の処刑を命ず
12月11日、南北戦争: フレデリックスバーグの戦い
12月6日、ダコタ戦争: スー族38名が絞首刑となる(米国史上最多の同時処刑)