西暦1863年(文久三年)

ジュール・ベルヌ「気球に乗って五週間」刊行 一橋慶喜、将軍・徳川家茂の先駆けとして上洛、攘夷を迫る朝廷との交渉に手を尽くした。 孝明天皇が石清水八幡宮へ行幸しての攘夷祈願において、将軍(家茂)が天皇から節刀を受けてしまえば攘夷を決行せざるを得なくなるので、「風邪発熱」(仮病)と称して家茂に拝謁を急遽取りやめさせた。 徳川家茂、将軍としては229年振りとなる上洛を果たし、義兄に当たる孝明天皇に攘夷を誓った。 坂本龍馬、勝が進める神戸海軍操練所の設立に尽力し、操練所よりも先に開設された神戸海軍塾の塾頭をつとめる。 勝・松平春嶽の運動で土佐藩主山内容堂から脱藩の罪を許される。この頃、龍馬は勝の護衛に勤王党の人斬り・岡田以蔵をつけている。


1月1日、リンカーン米大統領が奴隷解放宣言 1月1日、米国でホームステッド法による初めての払下げ申請 1月8日、米国で大陸横断鉄道着工 1月9日、世界初の地下鉄がロンドンで開業 1月21日、オペル社創立 1月22日、現在のポーランド、リトアニア、ベラルーシでロシア帝国の支配に対する一月蜂起が勃発

2月16日、カンザス農科大学(後のカンザス州立大学)創立(初のランドグラント大学) 2月17日、国際負傷軍人救護常置委員会(五人委員会)発足(後の赤十字国際委員会)

3月3日、米国(北軍)初の徴兵法成立(実施4月1日) 3月10日、英王子アルバート(後のエドワード7世)がデンマーク王女アレクサンドラと結婚 3月13日、米国(北軍)初の黒人部隊創設(マサチューセッツ第54連隊 (54th Massachusetts Volunteer Infantry)) 3月25日、米国初の名誉勲章授与 (Jacob Parrott) 3月30日、デンマーク王子ゲオルクがギリシャ国王ゲオルギオス1世として即位

4月21日(文久3年3月4日)、徳川家茂が上洛(将軍の上洛は229年ぶり) 4月28日(文久3年3月11日)、孝明天皇が賀茂神社へ行幸 4月30日(文久3年3月13日)新撰組結成。 4月30日、南北戦争: チャンセラーズヴィルの戦い(-5月6日)

5月18日、南北戦争: ビックスバーグの包囲戦(、7月4日) 5月21日、南北戦争: ポートハドソンの包囲戦(、7月9日) 5月28日(文久3年4月11日)、孝明天皇が石清水八幡宮へ行幸

6月9日、南北戦争: ブランディ・ステーションの戦い 6月13日、南北戦争: 第二次ウィンチェスターの戦い(、6月15日) 6月20日、米国でウェストバージニアが35番目に州となる 6月25日(文久3年5月10日)、馬関戦争: 長州藩が米商船ペンブローグ号を砲撃

7月5日(文久3年5月20日)、朔平門外の変(姉小路公知暗殺事件)。猿ヶ辻(禁裏の北東)にあった有栖川宮邸前で、姉小路公知が殺害される事件が発生している。 7月8日(文久3年5月23日)、馬関戦争: 長州藩が仏軍艦キンシャン号を砲撃 7月11日(文久3年5月26日)、馬関戦争: 長州藩が蘭軍艦メデューサ号を砲撃 7月13日、南北戦争: ニューヨーク徴兵暴動 7月16日(文久3年6月1日)、馬関戦争: 米艦ワイオミング号が報復砲撃 7月18日(文久3年6月3日)、江戸で大火、江戸城類焼 7月20日(文久3年6月5日)、馬関戦争: 仏艦隊が報復砲撃 7月22日(文久3年6月7日)、長州藩で奇兵隊編成さる(高杉晋作ら)

8月11日、カンボジアがフランスの保護国となる 8月15日(文久3年7月2日)、薩英戦争(、8月17日(7月4日))

9月29日(文久3年8月17日)、天誅組の変 9月30日(文久3年8月18日)、「八月十八日の政変」が起こる。 尊攘派の長州藩と公家は、大和行幸の機会に攘夷の実行を幕府将軍及び諸大名に命ずる事を孝明天皇に献策しようとした。 徳川幕府がこれに従わなければ長州藩は錦の御旗を関東に進めて徳川政権を一挙に葬ることも視野に入れたものだった。 しかし、事前に薩摩藩(当時は長州藩と対立)に察知され、薩摩藩や藩主松平容保が京都守護職を務める会津藩、尊攘派の振る舞いを快く思っていなかった孝明天皇や公武合体派の公家は連帯してこの計画を潰し、朝廷における尊攘派一掃を画策した。 会津・薩摩などの藩兵が御所九門の警護を行う中、公武合体派の中川宮朝彦親王や近衛忠熙・近衛忠房父子らを参内させ、尊攘派公家や長州藩主毛利敬親・定広父子の処罰等を決議。 長州藩兵は、堺町御門の警備を免ぜられ京都を追われた。またこの時、朝廷を追放された攘夷派の三条実美・沢宣嘉ら公家7人も長州藩兵と共に落ち延びた(七卿落ち)。 これを「八月十八日の政変」といい、京から尊攘派が駆逐される。これにより幕府は猶予を得たものの、天皇の攘夷の意思は変わらない。 土佐勤王党も藩によって壊滅状態となる。藩の弾圧は江戸の龍馬にも伸び、坂本龍馬は再脱藩する。 尊皇攘夷論を掲げて京都での政局に関わっていた長州藩も京都を追放。 藩主の毛利敬親と子の毛利定広は国許へ謹慎を命じられて政治主導権を失っており、京や大坂に密かに潜伏した数名の長州尊攘派は、その後もにわかに行動を続けていた。 一橋慶喜は、公武合体・佐幕両派による参与会議に参加すべく再び上洛。 しかし会議がまとまらないと見るや、故意に中川宮朝彦親王らとの酒席で泥酔し、居合わせた伊達宗城、松平春嶽、島津久光を罵倒、さらに中川宮に対し「島津からいくらもらっているんだ」などと暴言を吐いて体制を崩壊させるなど、手段を選ばないとも言える交渉を行なった。 以後は京都に留まり朝廷から禁裏御守衛総督に任じられ、守護職・松平容保(会津藩主)、所司代・松平定敬(桑名藩主)と共に勤皇の志士や公家の取り締まりにあたる(一会桑体制)。 翌年の天狗党の乱では慶喜を支持していた武田耕雲斎ら実家・水戸藩の家臣たちを切り捨てる冷徹さも見せた。 9月30日、ビゼー歌劇「真珠採り」初演(パリ) 

10月3日、リンカーン米大統領が感謝祭を休日にすると宣言 10月13日(文久3年9月1日)、一橋慶喜に対して横浜港鎖港督促の沙汰が行われる。 10月14日(文久3年9月2日)、井土ヶ谷事件 10月26日、イングランドサッカー協会創立 10月26日(文久3年9月14日)、朝廷に参内した首席老中酒井忠績に対して横浜港鎖港督促の沙汰が行われる。 引き伸ばし工作も限界となり、2回目督促と同日、ようやく横浜港鎖港交渉を開始する。 交渉相手となった米蘭公使には事前に「朝廷をなだめる為に仕方なくやっている」と通告していた為、交渉は穏やかに進んだと言われている。 が、結局は、米蘭との交渉では鎖港を拒否される。 10月29日、赤十字国際委員会設立 10月31日(文久3年9月19日)、米・英・仏・露の4カ国公使と会見しての説得を試みたが、今度は会見そのものを拒絶されてしまう。 松平容保による朝廷工作もあって、巧みに攘夷実行を遅らせることに成功した幕府であったが、攘夷派の不満は増す一方であった。

11月15日、デンマーク王フレデリク7世が死去しクリスチャン9世が即位 11月19日、リンカーン米大統領がゲティスバーグで演説(人民の人民による人民のための政治)

12月16日、ハイネケン設立