西暦1864年(元治元年)

ジェームズ・クラーク・マクスウェルが電磁波の存在を予言。
ラ・フランスが発見される。
第二次シュレースヴィヒ・ホルシュタイン戦争。
幕末の京都は政局の中心地となり、尊皇攘夷や勤皇等の思想を持つ諸藩の浪士が潜伏して活動していた。
長州藩は会津藩と薩摩藩による宮中クーデターである八月十八日の政変で失脚し、朝廷では公武合体派が主流となっていた。尊皇攘夷派は勢力挽回を試みており、京都守護職は新撰組を用いて市内の警備や探索を行わせる。
孝明天皇を再び長州陣営のものとする為、京都に乗り込もうとする積極策が長州で論じられた(この時の積極的に上洛を説いたのが、来島又兵衛、久坂玄瑞。反対、慎重派が桂小五郎と高杉晋作)。


1月11日、ロンドンでチャリング・クロス駅開業。

2月1日、第二次シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争(、10月30日)
2月7日(文久3年12月30日)、朝廷が幕府の諮問機関として参預会議設置。

3月10日、南北戦争:レッド川方面作戦。
3月12日(元治元年2月5日)、神戸海軍操練所が創設。勝海舟は摂海警衛及び神戸操練所運営を委任される。
後に神戸は東洋最大の港湾へと発展していくが、それを見越していた勝は付近の住民に土地の買占めを勧めたりもしている。勝自身も土地を買っていたが、後に幕府に取り上げられてしまっている。 坂本龍馬はこの頃、弾圧が激しさを増していた京の尊攘過激派を救うべく蝦夷地への移住計画を開始するが、池田屋事件によって頓挫した。
3月26日(元治元年2月19日)、朝廷が出した横浜港の鎖港と海防軍備に関する勅愉に対しても幕府は無策を続けるつもりだと判断した藤田小四郎は自ら攘夷実行の先駆けとなるため挙兵の意を固め、北関東各地を遊説して同志を募り、軍用金を集めた。
3月27日(元治元年2月20日)、元号が文久から元治に改元。

4月22日、米国で貨幣鋳造法成立(In God We Trustの刻印が義務化)。
4月27日(元治元年3月22日)、新任のロッシュ駐日仏公使が横浜に来日。
4月30日(元治元年3月25日)、一橋慶喜、将軍後見職辞任。同日、禁裏御守衛総督・摂海防禦指揮転職。

5月2日(元治元年3月27日)、天狗党の乱が起こる。
筑波山に集結した62人の同志たちと共に気勢を上げ、遂に挙兵に至る。藤田は23歳と若輩であったため、藤田らに理解のある水戸町奉行田丸稲之衛門を説いて主将とした。 小四郎挙兵の報を聞いた水戸藩目付役の山国兵部は、弟の田丸稲之衛門が主将に担がれていることを知り、藩主慶篤の命を受けて説得に赴くも、逆に諭されて天狗党に加担することになってしまう。 この時、兵部は71歳であったと言われ、23歳の小四郎の若さに任せた勢いに飲み込まれたものと推測される。 挙兵後、各地から続々と浪士、町民、農民らが集結し、数日後には150人、その後、最も勢いのあった時期で約1,000人という大規模な集団に膨れ上がった。 筑波山で挙兵したことから筑波勢、波山勢などと称された天狗党には、藤田小四郎の勧誘に同調した浪士、藩士はもとより、町民、農民や神官なども多く加わっていた。 5月4日(元治元年3月29日)、高杉晋作が萩藩で野山獄に投獄される。
5月5日、南北戦争:荒野の戦い。
5月8日、南北戦争:スポットシルバニア・コートハウスの戦い。
5月9日(元治元年4月3日)、天狗党は下野国日光(栃木県日光市)へと進み、日光東照宮へ参拝しようとしたが、途中日光奉行に妨げられた為、一部の者が参拝したに止まった。 日光を出発した天狗党は常陸へと向かっていたが、水戸藩内で保守派の市川三左衛門が弘道館の反藤田派を巻き込んで諸生党を結成し、藩内での激派排撃を始めたことを知り、筑波山へと引き返す。 途中、田中愿蔵が別働隊を組織して栃木、真鍋などに送り、資金調達を図るも失敗。このとき断られた腹いせに町へ放火するなどした為、天狗党は「暴徒」として認知されることとなってしまった。 幕府は天狗党追討令を出し、常陸、下野の諸藩に出兵を命じる。

6月(元治元年5月)、有栖川宮幟仁親王は、熾仁親王とともに、宮中に新設された役職である国事御用掛に任命。
6月(元治元年5月)下旬頃、諸士調役兼監察の山崎烝・島田魁らによって四条小橋上ル真町で炭薪商を経営する枡屋(古高俊太郎)の存在を突き止め会津藩に報告。 武器や長州藩との書簡等が発見される。古高を捕らえた新選組は、土方歳三の拷問により古高を自白させる。 計画は祇園祭の前の風の強い日を狙って京都御所に火を放ちその混乱に乗じて中川宮朝彦親王(後の久邇宮朝彦親王)を幽閉し、一橋慶喜(徳川慶喜)・会津の松平容保らを暗殺し孝明天皇を長州へ連れ去るというものであった。 さらに探索に於いて長州藩・土佐藩・肥後藩等の尊王派が古高逮捕をうけて襲撃計画の実行・中止について協議する会合が池田屋か四国屋に於いて行われる事を突き止める。
6月17日(元治元年5月14日)、勝海舟は作事奉行次席軍艦奉行に異動し、役高2000石。大身となり、武家官位の従五位下安房守に任官。
6月10日、南北戦争:ブライス交差点の戦い。
6月15日、米国アーリントン国立墓地設立。
6月15日、南北戦争:ピーターズバーグ包囲戦。
6月24日(元治元年5月21日)、幕府が神戸海軍操練所を設立(頭取勝海舟)。

7月8日(元治元年6月5日)、池田屋事件。
新選組は会津藩・桑名藩等に応援を要請するが、会津らの動きが遅く時刻になっても動かなかった。 このため事態は一刻を争うと見た局長の近藤は単独行動に踏み切り、近藤隊と土方隊の二手に分け捜索を開始する。 当時、新選組では病人が多い等の理由で人手が少なく実際に捜索に当たったのは近藤隊10人・土方隊24人の総数わずか34名だった。 新選組は八坂神社から縄手通を土方隊、三条大橋を渡って木屋町通を近藤隊が探索した。 亥の刻(22時ごろ)過ぎ、捜索の末に近藤隊は池田屋で謀議中の尊攘過激派志士を発見した。 近藤隊は数名で斬り込み、真夜中の戦闘となる。 20数名の尊攘過激派に対し当初踏み込んだのは近藤・沖田総司・永倉新八・藤堂平助の4名で、残りは屋外を固めた。 屋内に踏み込んだ沖田は奮戦したが、戦闘中に肺結核により喀血し倒れて戦線離脱する。また1階の藤堂は汗で鉢金がずれたところに太刀を浴びせられ、額を斬られ血液が目に入り戦線離脱した。 襲撃を受けた宮部鼎蔵ら志士達は応戦しつつ、現場からの脱出を図った。 裏口を守っていた安藤早太郎・奥沢栄助・新田革左衛門達のところに土佐藩脱藩望月亀弥太ら浪士が脱出しようと必死で斬りこみ逃亡。 これにより奥沢は死亡し、安藤・新田も1ヶ月後に死亡した。望月は負傷しつつも長州藩邸付近まで逃げ延びたが、追っ手に追いつかれ自刃した。 新撰組側は一時は近藤・永倉の2人となるが土方隊の到着により戦局は新選組に有利に傾き、9名討ち取り4名捕縛の戦果を上げる。 会津・桑名藩の応援は戦闘後に到着した。土方は手柄を横取りされぬように、一歩たりとも近づけさせなかったという。 この戦闘で数名の尊攘過激派は逃走したが、続く翌朝の市中掃討で会津・桑名藩らと連携し20余名を捕縛した。 なお市中掃討では激戦となり会津藩は5名、彦根藩は4名、桑名藩は2名の即死者を出した。 7月9日(元治元年6月6日)正午(夜のうちに帰ったのでは闇討ちの恐れがあるため夜が明けるまで休息をとっていた)、新選組は壬生村の屯所に帰還した。沿道は見物人であふれていたという。 桂小五郎(後の木戸孝允)は到着が早すぎたので一度本拠地にもどり時間を待っている間に事件が起こってしまい難を逃れたと言われているがそれは自叙に基づくもので、京都留守居役であった乃美織江は手記に「桂小五郎議は池田屋より屋根を伝い逃れ、対馬屋敷へ帰り候由...」と書き残している。 乃美の手記に基づくなら桂は池田屋事件当時池田屋にいて、逃げ延びたと言うことになる。

御所焼き討ちの計画を未然に防ぐ事に成功した新選組の名は天下に轟いた。逆に尊攘派は吉田稔麿・北添佶摩・宮部鼎蔵・大高又次郎・石川潤次郎・杉山松助・松田重助らの実力者が戦死し、大打撃を受ける(彼らは後の新政府により俗に「殉難七士」と呼ばれる)。落命した志士達は三条大橋東の三縁寺に運ばれて葬られた。 のち、長州藩はこの事件をきっかけに激高した強硬派に引きずられる形で挙兵・上洛し、7月19日(8月20日)の禁門の変を引き起こす。 池田屋事件により明治維新が1年遅れたとも、尊攘派を刺激してしまい維新を早めてしまったともいわれる。作家の司馬遼太郎は「この事件がなかったら薩長主力の明治維新は永遠にこなかったであろう」と解釈している。

長州に、新選組に藩士を殺された変報がもたらされる。 慎重派の周布政之助、高杉晋作や宍戸左馬之助らは藩論の沈静化に努めるが、福原越後や益田右衛門介、国司信濃の三家老等の積極派は、「藩主の冤罪を帝に訴える」などと称して挙兵し、益田、久坂玄瑞らは山崎天王山、宝山に、国司、来島又兵衛らは嵯峨天龍寺に、福原越後は伏見長州屋敷に兵を集めて陣営を構える。
7月13日(元治元年6月10日)、明保野亭事件。
7月18日(元治元年6月15日)、五稜郭完成。
7月19日、太平天国の乱終結。
7月20日、南北戦争:ピーチツリークリークの戦い。
7月22日、南北戦争:アトランタの戦い。
7月30日、南北戦争:クレーターの戦い。

8月1日、エルジン設立。
8月2日、南北戦争:モービル湾の海戦。
8月8日(元治元年7月7日)、諸藩連合軍と天狗党との戦闘が始まる。
下妻近くの多宝院で天狗党の夜襲を受けるなどして諸藩軍は敗走。市川らは水戸へ逃げ帰ると水戸城を占拠し、天狗党に加わっている者の一族の屋敷に放火、家人を投獄するなど(銃殺したという話も残っている)の報復を行なった。 挙兵時は尊皇攘夷の旗印の下に集った志士達であったが、身内虐待の情報による動揺は藤田らも抑えることができなかった。 他藩の志士たちは天狗党の目的が水戸藩内の対立優先に傾いて来た頃から次第に離れ始め、約500名が天狗党と決別した。 彼らは当初筑波山周辺に留まっていたが、後に横浜港鎖港の実力行使を行なうべく江戸へ向かって進撃するものの、鹿島付近において幕府軍に包囲され、交戦し敗散している。(田中愿蔵の別働隊も後に八溝山に至って解隊、ほとんどが捕われ処刑される。) 水戸藩士民を中心とする天狗党の主体は水戸城へ向かい市川一派と交戦するがこちらも敗退し、那珂湊の近くまで退却する。 一方、京都にいる藩主慶篤の名代として宍戸藩主松平頼徳が幕命により内乱鎮静のため水戸へ下向するも、一行の中に武田耕雲斎や榊原新左衛門ら激派の要人が加わっており、尊攘派の士民が多く同行していた為、市川らは戦備を整えて一行の入城を拒絶する。 頼徳は入城させるよう市川と交渉するが、水戸郊外で対峙した両勢力は戦闘状態に陥る。頼徳らは仕方なく退いて、水戸に近い那珂湊を占拠して布陣した。 この那珂湊攻略の際に天狗党の一隊が駆けつけ頼徳方に加勢した。 頼徳は水戸城下の神勢館に進んで更に入城の交渉を行うが市川は拒絶し、戦闘は拡大した。頼徳勢は善戦するが、補給と戦闘の終息を考慮し再び那珂湊へ後退する。 天狗党の加勢を受けた頼徳は、市川らの工作もあり幕府によって天狗党と同一視され討伐の対象にされてしまう。 幕府の討伐軍に包囲されつつあった天狗党は、頼徳勢と合流すべく那珂湊へ向った。 頼徳勢では当初、暴徒とされていた天狗党と行動を共にする事に抵抗があったが、この頃には天狗党に対する賛同論が広がっており、劣勢に立たされていた頼徳勢は天狗党と合流し共に市川勢と戦うことになるのであった。 この合流によって、天狗党挙兵には反対であった武田耕雲斎が天狗党と行動を共にする事になる。 一度は敗戦した市川ら諸生党は幕府に応援を要請し、那珂湊を包囲する。幕府は田沼意尊を将とする部隊を派遣。共に那珂湊を包囲する。
8月18日(元治元年7月17日)、禁門の変が起こる。
三家老等の積極派の不穏な動きを察知して、薩摩藩士吉井幸輔友実、土佐藩士乾市郎平正厚、久留米藩士大塚敬介らは議して、長州兵の入京を阻止せんとの連署の意見書を朝廷に建白。 朝廷内部では長州勢の駆逐を求める強硬派と宥和派が対立し、禁裏御守衛総督を勤める一橋慶喜(徳川慶喜)は退兵を呼びかけるが、京都蛤御門(京都市上京区)付近で長州藩兵が、会津・桑名藩兵と衝突した。 一時長州勢は筑前藩が守る中立売門を突破して禁裏(京都御所内)に侵入するも、乾門を守る薩摩藩兵が援軍に駆けつけると形勢が逆転して敗退した。 尊皇攘夷を唱える長州勢は壊滅、禁裏内で来島又兵衛、久坂玄瑞、寺島忠三郎らは戦死した。 戦闘の後、落ち延びる長州勢は長州藩屋敷に火を放ち逃走、会津勢も長州藩士の隠れているとされた中立売御門付近の家屋を攻撃した。 この二箇所から上がった火で京都市街は「どんどん焼け」と呼ばれる大火に見舞われ、北は一条通から南は七条の東本願寺に至る広い範囲の街区や社寺が焼失した。 長州側は、この惨敗から「討薩賊会奸」などと称して後々まで恨みを抱き続けた。 有栖川宮幟仁親王は、長州藩と姻戚関係にある上、八月十八日の政変以後長州藩士の接触が多かった有栖川宮家は通謀疑惑をかけられ、幟仁親王・熾仁親王父子は孝明天皇によって国事御用掛を罷免された上、謹慎・蟄居を命じられた。 この期間中、猿ヶ辻の邸宅は京都御所拡張のために召し上げられ、幟仁親王は現在の京都市立銅駝美術工芸高等学校の場所にあった宮家の夷川別邸に転居した。 当時、京都守護職であった会津藩主・松平容保は、これにより長州の尊攘急進派を弾圧する体制を整えることになる。
第一次長州征伐が起こる。
8月20日(元治元年7月19日)、禁門の変(蛤御門の変)。
禁門の変に於いて長州藩兵が内裏や禁裏に向けて発砲した事等を理由に幕府は長州藩を朝敵として、第一次長州征伐を行う事を決定。 8月22日、第1回ジュネーヴ条約締結(赤十字国際委員会設立)。
8月24日(元治元年7月23日)、長州藩追討の命を受けた幕府は、中国・四国・九州の21藩に出兵の準備を命じる。

9月5日(元治元年8月5日)、将軍徳川家茂自ら出陣することを布告し、幕府は前尾張藩主徳川慶勝を総督、越前藩主松平茂昭を副総督、薩摩藩士西郷隆盛を参謀に任じ、広島へ36藩15万の兵を集結させて長州へ進軍させる。
9月5日(元治元年8月5日)、四国艦隊下関砲撃事件。
9月13日(元治元年8月13日)、幕府は、征長軍の部署を決め、陸路は安芸・石見から、海路は徳山・下関・萩から進軍することを決定。
9月7日、南北戦争:北軍がアトランタを陥落させる。

10月(元治元年9月)頃-、勝は「一大共有の海局」を掲げ、幕府の海軍ではない「日本の海軍」建設を目指すが、保守派から睨まれて軍艦奉行を罷免され、約2年の蟄居生活を送る。勝はこうした蟄居生活の際に多くの書物を読んだという。 勝が西郷隆盛と初めて会ったのはこの時期、大阪においてである。神戸港開港延期を西郷はしきりに心配し、それに対する策を勝が語ったという。西郷は勝を賞賛する書状を大久保利通宛に送っている。

10月1日、サイクロンがカルカッタを襲う(死者7万名)。

11月4日(元治元年10月5日)、松平頼徳が「幕府に真意を訴える」として幕軍に誘き出されて水戸城下へ移され切腹、頼徳の家臣ら千人余りが投降し、後に佐倉藩や古河藩などに預けられた(このとき降伏した榊原新左衛門ら43名は数ヶ月後に切腹を命じられたり処刑されたりしている)。 天狗党は大混乱に陥るが、何とか脱出に成功した千人余りが水戸藩領北部の大子村(茨城県大子町)に集結する。 ここでの会議で武田耕雲斎が一行の総大将となり、幕軍の追っ手から逃れると共に、京都に上り一橋慶喜を通じて朝廷へ尊皇攘夷の志を訴えることを決した。 『明治維新水戸風雲録』によるとこの軍議の際に、武田耕雲斎は最期の一戦を仕掛け討ち死にする事を主張したが、藤田小四郎が反対し上洛する事に決まったという。 以前、町に放火するなどして民衆の反感を買ったことを反省した天狗党は、略奪・殺戮を堅く禁じるなどの軍規を定めた。 道中この軍規がほぼ守られたため通過地の領民は安堵し、好意的に迎え入れる町も少なくなかった。 天狗党が諸費用をきちんと宿場に支払うなど規律厳守に努めたことは、島崎藤村の代表作『夜明け前』にも記述されている。 天狗党は武田耕雲斎を総大将とし、大軍師に山国兵部、本陣に田丸稲之衛門、輔翼に藤田小四郎と竹内百太郎を中心として天勇隊・虎勇隊・竜勇隊、正武隊・義勇隊、奇兵隊を編成する。
11月15日、南北戦争:海への進軍始まる。
11月21日(元治元年10月22日)、鎌倉見物中の英国士官2名が浪士に斬殺される(鎌倉事件)。
11月21日(元治元年10月22日)、幕府は、大坂城で軍議を開き、「11月18日を総攻撃の日」と定め、諸藩にこの日に間に合うよう命じました。
11月29日、インディアン戦争:サンドクリークの虐殺。
11月30日(元治元年11月1日)、天狗党は大子を出発し、京都を目標に下野、上野、信濃、美濃と約2ヶ月の間、主として中山道を通って進軍を続けた。 当然、諸藩には幕府から天狗党追討の命令が出ていた。 しかし、天狗党は数々の戦闘を経験した精鋭であり、一説には数十門とも言われる大砲を所持しており、また通過地には小藩が多かったため臆して手が出せず、天狗党と幕軍が逃追しながら通過して行くのを見守るしかなかったようである。 諸藩の中には密かに天狗党と交渉し、城下の通行を避けてもらう代わりに軍用金を献納した藩もあった。
11月30日、南北戦争:第二次フランクリンの戦い。

12月8日(元治元年11月10日)、勝海舟は軍艦奉行を罷免され、寄合席となる。
池田屋事件への報復である禁門の変で、長州側に多数の海軍塾生が加わっていたため、海軍塾は幕府から弾圧され、勝も解任された。 勝の庇護を失った龍馬であるが、勝の紹介で西郷吉之助(西郷隆盛)を頼って大阪の薩摩藩邸に保護される。 一方、長州藩内部では下関戦争の後に藩論が分裂し、保守派(俗論派)が政権を握る。征長総督参謀の西郷隆盛は、禁門の変の責任者である三家老(国司信濃・益田右衛門介・福原越後)の切腹、三条実美ら五卿の他藩への移転、山口城の破却を撤兵の条件として伝える。
12月8日、教皇ピウス9世が誤謬表を公布。
12月12日(元治元年11月14日)、長州藩は、禁門の変の責任者である福原越後・益田右衛門介・国司信濃の3家老を自害させ、その首を持って、征長総督府に陳謝する。征長総督の徳川慶勝は、(1)藩主父子自筆の伏罪書の提出(2)三条実美ら5卿の他藩転出(3)山口城の破却の3条件を求めた。
12月14日(元治元年11月16日)、上州下仁田において、追撃して来た高崎藩兵と交戦。激戦の末、天狗党死者4名、高崎藩兵は死者36名を出して敗走(下仁田戦争)。 同じくして、長州討伐本隊は、広島に進軍。
12月15日、南北戦争:ナッシュビルの戦い
12月18日(元治元年11月20日)、信州諏訪湖近くの和田峠において高島藩・松本藩連合軍と交戦し、天狗党、連合軍とも10名前後の死者を出したが天狗党が勝利した(和田峠の戦)。 この時、天狗党の中に、その剛力から「今弁慶」の名で呼ばれていた常陸久慈の僧侶・不動院全海という人物がおり戦死したが、高島藩士北沢与三郎はその力にあやかろうと彼の死体から肉を切り取り、持ち帰って味噌漬けにして焙って食べたとの逸話が残されている。 高崎藩などに大勝した事が更に天狗党の武名を高め、その後の通過地でも戦闘を避ける藩が増える事に繋がり、後を追う幕府軍も一定間隔を置いて追尾するのみで簡単に戦闘を仕掛けようとはしなかった。 彦根藩士は「直弼公の敵討ち」と戦意を高揚させ、中仙道を封鎖して筑波山から京都に向かった水戸藩士を迎撃しようとした。
天狗党一行は中山道を進み美濃鵜沼宿付近まで到達するが、周辺には彦根藩、大垣藩、桑名藩、尾張藩、犬山藩の大軍が陣を敷き、天狗党を待ち受けていた。 これらの討伐軍を打ち破り中山道を進んで京都に至る事は困難と予想されたので、天狗党は中山道を外れ北方に迂回して京都へ向って進軍を続けた。 水戸藩出身の一橋慶喜は事態の収拾を図るため自ら天狗党追討を朝廷に願い出て、加賀藩、会津藩勢などを従えて討伐に向った。 これらを加えて幕府の討伐軍は更に強大な布陣を敷き天狗党の前に立ちはだかった。 揖斐宿に至った天狗勢は琵琶湖畔を通って京都に至る事は不可能と判断し、更に北上し蠅帽子峠を越えて越前に入り、大きく迂回して京都を目指す事とした。
12月27日(元治元年11月29日)、鎌倉事件の主犯・清水清次が暗闇坂刑場で斬首される。
12月29日(元治元年12月)-、寒気は厳しく積雪のある峻険な峠を越える事は不可能とも思われたが、一行は困難を乗り越え越前に入ることに成功した。