西暦1866年(慶応二年)

アルフレッド・ノーベルがダイナマイトを発明
福澤諭吉「西洋事情(巻之一)」刊行
普墺戦争、ドイツ連邦崩壊。
白河は奥州街道沿いの要地であった。ここは白河藩の領地に当たるのだが、藩主が転封され二本松藩預かりの地となっていて藩主不在の状態となる。 白河小峰城は1627年に丹羽長重によって改築された城で、仙台藩をはじめとする東北諸藩を仮想敵として設計されていたため、南方は比較的手薄となっていた。 1月、坂本龍馬の斡旋により、京都で長州の桂小五郎(木戸孝允)と薩摩の西郷隆盛が会見し、長年の骨肉の争いを捨て薩長同盟(薩長盟約)が結ばれた。 このとき龍馬は桂に求められて盟約書の裏書を行っている。
天下の大藩同士の同盟に一介の素浪人が保証を与えたものであって、彼がいかに信を得ていたかがわかる。裏書を行う直前に寺田屋で幕吏に襲撃されたが、一命を取り留める。その傷を癒すため、妻おりょうと共に鹿児島を旅行する。


1月12日、英国で王立航空協会、設立。
1月12日、ドストエフスキー「罪と罰」連載開始

2月4日、メリー・ベーカー・エディが聖書で大怪我から回復
2月13日、ジェシー・ジェイムズが最初の銀行強盗に成功(銀行強盗の日)

3月7日(慶応2年1月21日)、薩長同盟成立
3月8日、丙寅教獄/李氏朝鮮でフランス人宣教師他カトリック教徒の虐殺が始る
3月9日(慶応2年1月23日)、坂本龍馬襲撃事件(寺田屋事件)

4月4日、アレクサンドル2世暗殺未遂(キエフ)
4月8日、イタリア王国とプロイセン王国がオーストリア帝国に対抗する同盟を結成
4月9日、米国で公民権法、成立。
4月10日、米国動物虐待防止協会設立

5月2日、チンチャ諸島戦争: カヤオの戦い。
5月16日、米国でルートビアが商品化
5月16日、米国議会が5セント硬貨発行を決定
5月17日(慶応2年4月5日)夜、奇兵隊130人を率いた立石孫一郎は、制止する仲間を斬り捨て、山口の岩城山の陣地を脱走。
5月22日(慶応2年4月10日)未明、立石孫一郎らは、岡山の倉敷代官所を襲撃しました。これを倉敷騒動という。
5月24日(慶応2年4月12日)、立石孫一郎らは、禁門の変の功で、大名に取り立てられた岡山総社の蒔田藩(1万石)の陣屋を襲撃。
5月28日、初めての病院用救急車が運用開始(米国シンシナティ)
5月30日、ベドルジハ・スメタナ歌劇「売られた花嫁」初演(プラハ)

6月5日、冥王星が遠日点に到達(次回は2113年)
6月8日(慶応2年4月26日)、岡山藩が3500の兵を出したことを知り、立石孫一郎らは、山口の浅江に帰ってきたところを、脱藩の罪で捕らえられ処刑。これを備中騒動という。
6月8日、自治領カナダ議会が初会合
6月13日、米国で憲法修正第14条が提案(批准成立1868年)
6月15日、普墺戦争: プロイセン王国がオーストリア帝国およびドイツ連邦諸国に宣戦布告
6月20日、普墺戦争: イタリア王国がオーストリア帝国に宣戦布告
6月25日(慶応2年5月13日)、幕府が英米仏蘭との改税約書(江戸条約)に調印(7月1日実施)
6月28日、英国でスタンリー第3次内閣成立

7月1日、ルーマニアで最初の憲法施行
7月3日、普墺戦争: ケーニヒグレーツの戦い: プロイセン軍がオーストリア軍に大勝
7月10日(慶応2年5月28日、勝海舟、町奉行次席軍艦奉行に復職。徳川慶喜に第二次長州征伐の停戦交渉を任される。
勝は単身宮島の談判に臨み長州の説得に成功したが、慶喜は停戦の勅命引き出しに成功し、勝がまとめた和議を台無しにしてしまった。
勝は時間稼ぎに利用され、主君に裏切られたのである。憤慨した勝は御役御免を願い出て江戸に帰ってしまう。
7月18日(慶応2年6月7日)、第二次長州征伐: 幕府軍と長州軍の戦闘開始
幕府の軍艦が下関の陸地を砲撃。第二次長州征伐を開始される。
7月20日、普墺戦争: リッサ海戦
7月21日(慶応2年6月10日)夜、海軍総督を命じられた高杉晋作は、第二奇兵隊と浩武隊を出動。坂本龍馬は亀山社中の船・ユニオン号(グラバー商会から薩摩藩名義で買い入れ「桜島丸」となり、長州藩に引き渡され「乙丑丸」となる)で長州藩海軍を支援。
7月23日(慶応2年6月12日)夜、丙寅丸に搭乗した高杉晋作は、久賀沖に停泊中の幕府の軍艦4隻の間を縦横に航行して、砲撃を繰り返す。幕府軍艦は、予期せぬ出来事に一発の砲弾も発射できなかった。 これで、幕府海軍の作戦である長州藩の布陣の背後を攻撃し、岩国藩の内応を待つという作戦が失敗。
7月25日、米国議会が陸軍元帥を認可: ユリシーズ・グラントが初の元帥となる
7月25日、デヴィッド・ファラガットが初の海軍大将(Full Admiral)となる
7月27日(慶応2年6月16日)、第二奇兵隊の攻撃に安下庄の幕軍は久賀に退き、久賀も耐えられなくなると、幕軍は前島に遁走。これで、幕府陸軍の作戦である彦根・高田両藩兵が小瀬川に進撃するという作戦が失敗。
7月27日、大西洋横断電信ケーブル完成。
7月28日、米国でメートル法が合法化
7月29日(慶応2年6月18日)、第二次長州征伐: 長州軍が浜田城を占領

8月20日、南北戦争: ジョンソン大統領が終結を公式に宣言
8月23日、普墺戦争: プラハ条約: ドイツ連邦解体
8月24日(慶応2年7月15日)、大村益次郎が指揮する奇兵隊は、山陰の浜田にある幕府軍の本営に接近。総督府は、岡山藩・鳥取藩に出動を命令したが、両藩は既に「征長の中止」を幕府に建議していたので出兵を拒否。この結果、石見口は長州藩に解放。
8月25日(慶応2年7月16日)、九州の最高司令官である老中小笠原長行は、小倉藩兵を先鋒として海から長州に攻め込む作戦をとる。
8月26日(慶応2年7月17日)早朝、これを察知した長州藩は、軍艦3隻を田ノ浦に、軍艦2隻を門司浦に出撃させ、その援護の下に奇兵隊以下の藩兵が小倉の上陸。
山県有朋は軍艦、高杉晋作は参謀というそうそうたるメンバーで戦いに臨んだ。三者一隊の攻撃に幕府軍は、反撃もできず敗走。
徳川家茂、第2次長州征伐の途上大坂城で病に倒れた。 この知らせを聞いた孝明天皇は、典薬寮の医師である高階経由と福井登の2人を大坂へ派遣し、その治療に当たらせた。 江戸城からは、天璋院や和宮の侍医として留守をまもっていた大膳亮弘玄院、多紀養春院(多紀安琢)、遠田澄庵、高島祐庵、浅田宗伯らが大坂へ急派された。
8月29日(慶応2年7月20日)、典薬寮の医師の甲斐もなく、徳川家茂は大坂城にて薨去した。 家茂はわずか20年の生涯であったが、幕末の動乱期の中をその若さで潜り抜けていることは高く評価されている。 勝海舟からは、「若さゆえに時代に翻弄されたが、もう少し長く生きていれば、英邁な君主として名を残したかもしれない。武勇にも優れていた人物であった」と評価されている。 また、幕臣からも信望が厚かったと言われ、家臣や女性や動物たちに至るまで非常に優しい態度で接する一方、剛毅な一面を持つ人柄が明治以後に旧幕臣たちなどから様々な逸話で伝えられている。
将軍家茂は英明さと真摯さで幕臣達に慕われており、勝海舟などは「家茂さまの御薨去をもって徳川幕府は滅んだ」と嘆息したと伝えられる。 家茂は死に際し、徳川家達(田安家の徳川亀之助)を徳川宗家の後継者・次期将軍として指名し、遺言とした。 家茂は、慶喜は優秀ではあるが、それゆえに自策に溺れる可能性が高いのに対し、亀之助は幼少であるがゆえに幕閣の合議により最上の幕府の運営が出来ると考えていたとされている。 また亀之助は、血統の上でも自分や義父である徳川家定と最近親の徳川家の家族であり、初代徳川家康まで遡らなければ、歴代将軍達と血が繋がらないような慶喜よりも旗本および譜代大名の忠誠心を引き出せると考えていたようである。 家茂の後継に一橋慶喜が推されたが、慶喜はこれを固辞。
8月29日(慶応2年7月20日)、幕府軍は、宮内砲台と串戸砲台を放棄して撤退。長州藩に休戦条約を申し込んでいた広島藩兵が引き上げたので、安芸口は長州藩に解放。
8月29日(慶応2年7月20日)、第二次長州征伐: 徳川家茂が出陣中に病死

9月6日(慶応2年7月29日)、最高司令官の小笠原長行が将軍徳川家茂の急死を知る。小笠原長行は、諸口の征長軍の不振もあって、諸藩に小倉への総退却を命じる。 9月6日(慶応2年7月29日)夜、最高司令官の小笠原長行は、海路、長崎に撤退。
9月9日(慶応2年8月1日)、第二次長州征伐: 長州軍が小倉城を占領。熊本・久留米などの諸藩は、相次いで帰藩。小倉藩は、藩庁を香春に移し小倉城に火を放って敗走。
9月28日(慶応2年8月20日)、徳川宗家は相続はするものの、将軍職就任は拒み続けた。老中らが慶喜に将軍就任を懇請したが受諾はしなかった。

10月4日(慶応2年8月27日)、ようやくこ一橋慶喜が将軍継嗣を承諾。徳川慶喜となる。
10月5日(慶応2年8月28日)、幕府の休戦申し出に対し、孝明天皇はこれを勅許。
10月10日(慶応2年9月2日)、幕府は海軍奉行の勝海舟を広島に派遣し、長州藩との休戦を協議させる。勝海舟は、長州藩代表の奇兵隊幹部である井上馨や広沢真臣らと交渉し、幕府軍の撤兵にあたり、長州軍が追撃しないということを内容として休戦協定が成立。
10月12日、ウィーン条約: オーストリア帝国がヴェネツィアをイタリア王国に割譲
10月14日、丙寅洋擾: フランスが丙寅教獄の報復として朝鮮を攻撃し江華島を占拠
10月31日(慶応2年9月23日)、徳川家茂葬儀(増上寺)

11月17日、アンブロワーズ・トマ歌劇「ミニョン」初演(オペラ=コミック座)

12月12日、英国オーク炭坑で爆発事故。(死者338名、英国第二の炭坑事故)
12月21日、世界初の魚雷が完成