西暦1867年(慶応三年)

オレンジ自由国キンバリーでダイアモンド鉱床が発見される
フランス領交趾支那成立
オーストリア・ハンガリー帝国成立。『資本論』第1巻刊行。
英領北アメリカ法。カナダが植民地からイギリス最初の自治領に。
この頃、土佐藩の後藤象二郎は、坂本龍馬(かつて勝海舟から教えを受けた)から大政奉還論を聞いて感銘を受ける。
坂本の船中八策にも影響され、在京土佐藩幹部に大政奉還論の採用を主張。これに薩摩藩の小松清廉・西郷隆盛・大久保利通も同意した。
坂本龍馬は土佐藩との関係を修復して海援隊を創設した。


1月8日、米国コロンビア特別区で黒人が選挙権を獲得
1月10日(慶応2年12月5日)、徳川慶喜が第15代征夷大将軍に就任
徳川慶喜が15代将軍となる。
これはいわば恩を売った形で将軍になることで、政治を有利に進めていく狙いがあったと言われるが、就任固辞が「政略」によるとみなせる根拠も「政略」説を否定する根拠もないのが事実である。 さらに、家茂が後継に指名した田安亀之助(のちの徳川家達)を推す大奥を中心とする反慶喜勢力や慶喜の将軍就任を強硬に反対する水戸藩の動きなど、慶喜自身に向けられた強い反感が将軍職固辞に大きく関わっていた。 慶喜はフランス公使・ロッシュを通じてフランスから240万ドルの援助を受け、横須賀製鉄所や造・修船所を設立し、ブリュネを始めとする軍事顧問団を招いて軍制改革を行った。 陸軍総裁・海軍総裁・会計総裁・国内事務総裁・外国事務総裁を設置し、老中の月番制を廃止した。
また、実弟・徳川昭武をパリ万国博覧会に派遣するなど幕臣子弟の欧州留学も奨励した。
兵庫開港問題では朝廷を執拗に説いて勅許を得て、勅許を得ずに兵庫開港を声明した慶喜を糾弾するはずだった薩摩・越前・土佐・宇和島の四侯会議を解散に追い込んだ。
1月15日(慶応2年12月11日)、風邪気味であった孝明天皇は、宮中で執り行なわれた神事に医師たちが止めるのを押して参加。
1月16日(慶応2年12月12日)、孝明天皇は発熱する。天皇の持病である痔を長年にわたって治療していた典薬寮の外科医・伊良子光順の日記よれば、孝明天皇が発熱した12日、天皇の執匙(日常の健康管理を行う主治医格)であった高階経由が拝診して投薬したが、翌日になっても病状が好転しなかった。
1月18日(慶応2年12月14日)、典医筆頭のひとりで、高階経由の前任で執匙を務めていた山本隨が治療に参加。
1月19日(慶応2年12月15日)、伊良子光順も召集される。昼夜詰めきりでの拝診が行われた。
1月20日(慶応2年12月16日)、山本隨・高階経由・伊良子光順と、高階経由の息子・高階経徳の計4名で改めて拝診した結果、天皇が痘瘡(天然痘)に罹患している可能性が浮上する。 執匙の高階経由は痘瘡の治療経験が乏しかったため、経験豊富な西尾兼道・久野恭(いずれも小児科医)を召集して拝診に参加させた結果、いよいよ痘瘡の疑いは強まり、17日に武家伝奏などへ天皇が痘瘡に罹ったことを正式に発表した。 これ以後、天脈拝診(実際に天皇の体に触れて診察すること)の資格を持つ13人に、西尾兼道と久野恭の2人を加えた15人の典医たちを下記の3班に分けて、24時間体制での治療が始まった。 孝明天皇の公式の伝記である『孝明天皇紀』においては、典医たちは、天皇の病状を「御容態書」として定期的に発表していた。これによれば、発症以降の天皇の病状は、一般的な痘瘡患者が回復に向かってたどるプロセスどおりに進行していることを示す「御順症」とされていた。 しかし、前述の伊良子光順の日記においては、翌25日の記録には、天皇が痰がひどく、藤木篤平と藤木静顕が体をさすり、伊良子光順が膏薬を貼り、班に関係なく昼夜寝所に詰めきりであったが、同日亥の刻(午後11時)過ぎに崩御された、と記されている。 中山忠能の日記にも、「御九穴より御脱血」などと壮絶な天皇の病状が記されている。それでも天皇の喪は秘され、実際には命日となった25日にも、福井登の名前で「益御機嫌能被成為候(ますますご機嫌がよくなられました)」という内容の報告書が提出されている。天皇の崩御が公にされたのは29日になってからのことだった。
1月30日(慶応2年12月25日)、孝明天皇崩御(発表12月29日)
義弟・家茂の後を追うように、在位21年にして崩御。享年37(満35歳没)。死因は天然痘と診断された。
※孝明天皇の毒殺説
孝明天皇は前述の通り長年のあいだ悪性の痔(脱肛)に悩まされていたが、それ以外では至って壮健であり、前出の中山忠能日記にも「近年御風邪抔一向御用心モ不被為遊御壮健ニ被任趣存外之儀恐驚」(近年御風邪の心配など一向にないほどご壮健であらせられたので、痘瘡などと存外の病名を聞いて大変驚いた)との感想が記されている。その天皇が数えで36歳の若さにしてあえなく崩御してしまったことから、直後からその死因に対する不審説が漏れ広がっていた。 その後明治維新を過ぎると、世の中には皇国史観が形成され、皇室に関する疑惑やスキャンダルを公言する事はタブーとなり、学術的に孝明天皇の暗殺説を論ずる事は長く封印された。しかし1909年(明治42年)に伊藤博文を暗殺した安重根が伊藤の罪として孝明天皇毒殺をあげるなど、巷間での噂は消えずに流れ続けていた。また、1940年(昭和15年)7月、日本医史学会関西支部大会の席上において、京都の産婦人科医兼医史学者・佐伯理一郎が「天皇が痘瘡に罹患した機会を捉え、岩倉具視がその妹の女官・堀河紀子を操り、天皇に毒を盛った」という旨の論説を発表している。 そして、第二次世界大戦に日本が敗北し言論に対するタブーが霧散すると、俄然変死説が論壇をにぎわすようになる。まず最初に学問的に暗殺説を論じたのは、『孝明天皇は病死か毒殺か』『孝明天皇と中川宮』などの論文を発表したねずまさしである。ねずは、典医たちが発表した「御容態書」のとおり天皇が順調に回復の道をたどっていたところが、一転急変して苦悶の果てに崩御したことを鑑み、その最期の病状からヒ素による毒殺の可能性を推定。また犯人も前述の佐伯と同様に、岩倉具視首謀・堀河紀子実行説を唱えた。 1975年(昭和50年)から1977年(同 52年)にかけ、前述の伊良子光順の拝診日記が、滋賀県で開業医を営む親族の伊良子光孝によって『滋賀県医師会報』に連載された。この日記の内容そのものはほとんどが客観的な記述で構成され、天皇の死因を特定できるような内容が記されているわけでもなく、光順自身が天皇の死因について私見を述べているようなものでもない。だがこれを発表した光孝は、断定こそ避けているものの、ねずと同じく毒物による中毒死を推察させるコメントを解説文の中に残した。 これらのほかにも、学界において毒殺説を唱える研究者は少なからずおり、1980年代の半ばまでは孝明天皇の死因について、これが多数説というべき勢力を保っていた。 しかし、1989年(平成元年)から1990年(同2年)にかけ、当時名城大学商学部教授であった原口清が、これに真っ向から反論する2つの論文を発表する。 『孝明天皇の死因について』『孝明天皇は暗殺されたのか』というタイトルが付けられたこれらの論文の中で原口は、 * 12月19日までは紫斑や痘疱が現れていく様子を比較的正確にスケッチしていた「御容態書」が、それ以降はなぜか抽象的表現をもって順調に回復しているかのような記載に変わってゆくこと * 12月19日までの「御容態書」や、当時天皇の側近くにあった中山慶子の19日付け書簡に記された天皇の症状が、悪性の紫斑性痘瘡のそれと符合すること * 中山慶子の12月23日付け書簡では、楽観的な内容の「御容態書」を発表する典医たちが、実は天皇が予断を許さない病状にあり、数日中が山場である旨を内々に慶子へ説明していること などから、典医たちの「御容態書」の、特に20日以降に発表されたものの内容についてその信憑性を否定し、これまでの毒殺説の中において根拠とされていた「順調な回復の途上での急変」という構図は成立しないことを説明。その上で、孝明天皇は紫斑性痘瘡によって崩御したものだと断定的に結論付けた。 また原口は、諸史料の分析から岩倉が慶應2年12月の段階では「倒幕」の意思を持っていなかったことを指摘し、岩倉が天皇暗殺を企てていたとする説についても否定した。 原口説が発表された後、毒殺説を唱える歴史学者の石井孝がこれに反論を加え、原口と石井の間で激しい論争が展開されたが、両者とも「物的証拠」がなく、結論を見るには至っていない。 しかし原口説の発表以降、毒殺説から病死説に転向する研究者が相次ぎ、多数説が後者へと逆転する大きなきっかけとなった。現在のところ原口説を全面的に覆すほどの新事実は発見されておらず、大掛かりな反証もほとんど試みられていない。これにより、原口説はほぼ通説としての地位を確立しつつある。 ただ、前述の通り毒殺説・病死説ともに「状況証拠」による推定の域を出ることはできず、物理的に証明するものが存在しないのも事実である。物理的な証明とは後月輪東山陵の発掘、すなわち孝明天皇の遺骸の法医学的な調査をもってするほかはないが、宮内庁による管理のもと、天皇陵への学術調査が事実上禁じられている現在では、このような調査が実現する可能性はきわめて低い。 毒殺以外では、天皇が宮中で何者かに刺殺あるいは斬殺されたという説もみられ、「宮家の侍医が深夜呼び出されて御所に上がり、腹部を刺され血まみれになった孝明天皇と思われる貴人を手当てしたが甲斐無く絶命した」という類の話が数種流布している。しかし、原因不明の難病ならばまだしも、刺された事が明らかな状況でわざわざ典医以外の医者を呼ぶことは不自然であるなど、毒殺説に比してあまりに荒唐無稽でオカルト的内容であり、歴史研究者の間ではほとんど相手にされていない。

2月13日(慶応3年1月9日)、睦仁親王践祚(明治天皇)
2月13日(慶応3年1月9日)、祐宮睦仁親王、満14歳で践祚した。明治天皇、即位。この頃、幕府と討幕派は、それぞれ朝廷への工作を強めていた。
2月13日(慶応3年1月9日)、ヨハン・シュトラウス2世ワルツ「美しく青きドナウ」初演(ウィーン)
2月15日(慶応3年1月11日)、徳川昭武・渋沢栄一ら幕府代表としてパリ万博視察のため渡仏
2月17日、最初の船がスエズ運河を通過

3月1日、米国でネブラスカが37番目に州となる
3月16日、ジョゼフ・リスターが消毒手術法を発表
3月29日、英国で英領北アメリカ法勅許(7月1日に自治領カナダ成立を承認)
3月29日、米国議会がリンカーン記念碑協会を承認
3月30日、米国がロシア帝国よりアラスカを購入

4月1日、パリ万国博覧会開幕(10月31日まで): 日本が初展示
4月1日、シンガポール等海峡植民地が英国植民地省の直轄となる
1月15日。有栖川宮幟仁親王は、明治天皇の践祚に伴い処分が解かれたが、幟仁親王はこれ以降政治的な表舞台には姿をあらわさず、打診された国事御用掛への復職も辞退している。
4月7日(慶応3年3月3日)、横須賀製鉄所ドック起工(1871年竣工)
4月9日(慶応3年3月5日)、勝海舟は海軍伝習掛を兼帯。
4月27日、シャルル・グノーオペラ「ロメオとジュリエット」初演(パリ)

5月6日(慶応3年4月-)、いろは丸沈没事件がおこり、坂本龍馬は御三家紀州藩に8万3526両198文の損害を賠償させる。
後藤象二郎とともに船中八策を策定し、後藤象二郎が山内容堂を説いて土佐藩の進言による大政奉還を実現させた。
5月7日、アルフレッド・ノーベルがダイナマイトの初特許を英国で取得(1866年発明)
5月11日、ロンドン条約締結: ルクセンブルクが独立を獲得
5月20日、英国議会がジョン・スチュアート・ミル提議の婦人参政権案を否決
5月20日、ロイヤル・アルバート・ホール起工式(ヴィクトリア女王)
5月29日、オーストリア・ハンガリー帝国成立(アウスグライヒ)

6月8日、オーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ1世がハンガリー王としても戴冠
6月19日、メキシコ帝国皇帝マクシミリアンが銃殺刑に処される
6月20日、ジョンソン米大統領がアラスカ購入を公表

7月1日、自治領カナダ成立
7月14日(慶応3年6月13日)、浦上四番崩れ
7月15日、ベニート・フアレスがメキシコの共和制への復帰を宣言
7月16日、ジョゼフ・モニエール(Joseph Monier) が鉄筋コンクリートの特許を取得
7月17日、ハーバード大学歯学部創立(米国初の歯学部)
7月23日(慶応3年6月22日)、薩土盟約が締結。
これは慶喜に大政奉還を迫り、もし拒否された場合には武力による圧迫で政変を起こすというものであった。 後藤はすぐに帰国して土佐藩兵を引率してくる予定であったが、武力の発動を拒否する山内容堂(前土佐藩主)の反対にあい頓挫。
7月25日、ルシアン・スミス(Lucien B. Smith)が有刺鉄線の米国特許を取得
7月29日(慶応3年6月28日)、一條美子(後の昭憲皇太后)が明治天皇の女御に決定

8月、(慶応3年7月)、ええじゃないか騒動が始まる
8月4日(慶応3年7月5日)、築地外国人居留地着工
8月28日(慶應3年7月29日)、中岡慎太郎が陸援隊を組織
8月28日(慶應3年7月29日)、米国がミッドウェー島領有を宣言

10月1日、カール・マルクス『資本論』第1部刊行
10月4日(慶応3年9月7日)、薩摩側は長州・芸州との間で武力倒幕路線も進めていたため、薩土盟約は解消。
10月9日(慶応3年9月12日)、江戸・大坂間に蒸気飛脚船開設
10月16日、アラスカでグレゴリオ暦導入
10月18日、アラスカの所有権が公式に米国に変更(Alaska Day)
10月19日、アルフレッド・ノーベルがダイナマイトの特許をスウェーデンでも取得(英国特許取得は5月7日)
10月29日(慶応3年10月3日)、大政奉還: 土佐藩が徳川慶喜へ建白書を提出。土佐藩は単独で大政奉還の建白書を山内豊範を通じ将軍・徳川慶喜に提出した。

11月8日(慶応3年10月13日)、慶喜はこれを受け、京都・二条城に上洛中の40藩の重臣を招集し、大政奉還を諮問。
11月9日(慶応3年10月14日)、大政奉還: 徳川慶喜が明治天皇へ上奏文を提出。慶喜は「大政奉還上表」を朝廷に提出すると共に、上表の受理を強く求めた。
11月10日(慶応3年10月15日)、大政奉還: 明治天皇が勅許し大政奉還成立。
摂政・二条斉敬ら朝廷の上層部はこれを受け入れるつもりはなかったが、慶喜の意を受けた薩摩藩城代家老の小松帯刀、土佐の後藤象二郎らの強い働きかけにより、慶喜を加えて開催された朝議で勅許が決定。
天皇から慶喜への大政奉還勅許の沙汰書が授けられたことで、大政奉還が成立する。
当時の朝廷に行政能力が無いと判断し、列侯会議を主導する形での徳川政権存続を模索していたと言われる。 折しも、倒幕派公家の岩倉具視らの画策によって討幕の密勅が下されようとしていたときであった。慶喜は先手を打って大政を奉還することで、討幕の名分を失わせた。 朝廷(明治天皇)は、将軍・徳川慶喜からの大政奉還の上表を勅許し、政権を朝廷に戻した。
11月16日(慶応3年10月21日)、大政奉還: 徳川慶喜が大政奉還を布告
11月18日(慶応3年10月23日)、外交については引き続き幕府が中心となって行なうことを認める通知を出した。 実際に朝廷は外交に関しては全く為す術が無いためである。11月19日の江戸開市と新潟開港の延期通告、28日のロシアとの改税約書締結を行ったのは幕府であった。
11月19日(慶応3年10月24日)、大政奉還: 徳川慶喜が征夷大将軍を辞す。
慶喜は征夷大将軍辞職を朝廷に申し出る。
当時の朝廷には政権を運営する能力も体制もなく、一旦形式的に政権を返上しても、公家衆や諸藩を圧倒する勢力を有する徳川家が天皇の下の新政府に参画すれば実質的に政権を握り続けられると考えてのことである。 上表の勅許にあわせて、国是決定のための諸侯会同召集までとの条件付ながら緊急政務の処理が引き続き慶喜に委任され、将軍職も暫時従来通りとした。 つまり実質的に慶喜による政権掌握が続くことになる。 この時点では倒幕派公家は朝廷内の主導権を掌握していなかった。
明治天皇は満15歳と若年で、やはり親徳川派である関白・二条斉敬(慶喜の従兄)が約80年ぶりとなる摂政に就任した。
朝廷は新たな公議政体を創設するため、徳川家一門の徳川慶勝と松平慶永、薩摩藩の島津久光、土佐藩の山内豊信、宇和島藩の伊達宗城、広島藩(安芸)の浅野長訓、肥前藩の鍋島直正、岡山藩の池田茂政(慶喜の実弟)ら諸藩に上洛を命じた。 朝廷内では二条家を含む五摂家には他の公家衆に対しての支配力があり、一時期は近衛家が親薩摩、鷹司家が親長州となっていたものの、この頃には徳川家支持に傾いていた。 一方三条実美ら長州過激派の公家は文久3年8月18日の政変以来、京から追放されたままであり、岩倉ら少数の倒幕派公家は家柄が低かったため影響力はあっても朝廷内の主導権を握れてはいなかった。 つまりこの時期の朝廷は、二条摂政や賀陽宮朝彦親王(中川宮、維新後久邇宮)ら親徳川派上級公家によってなお主導されていたのであり、さきの討幕の密勅は、慶喜の大政奉還を想定した上で、主導権を持たない岩倉具視ら倒幕派の中下級公家と薩長側の非常手段として画策したものである。 このような朝廷の下では、大政奉還後の新政権も徳川慶喜が主導するものになることが当然予想された。
一方、公家の岩倉具視や薩摩藩の大久保利通ら討幕派は、親徳川派の摂政・二条斉敬や賀陽宮朝彦親王(維新後久邇宮)が主催する下で徳川中心の朝廷政府が成立することを阻止するため、満15歳の明治天皇を手中にして二条摂政や朝彦親王を排除し、朝廷を掌握するためのクーデター計画を進めた。 大久保らは大政奉還により大義名分が失われたとして討幕の密勅を猶予する沙汰書を黙殺し、藩論を率兵上洛(藩兵を率いて上洛する)へとりまとめ、武力討幕を目的とした薩摩・長州・安芸3藩による出兵同盟を締結する。 他方では、会津藩・桑名藩・紀州藩や幕臣らに大政奉還が薩・土両藩の画策により行われたものとの反発が広がり、大政再委任を要求する運動が展開された。

ちなみに大政奉還上表を勅許された「10月15日」は、グレゴリオ暦11月10日である。 戦前には、天皇に関する行事は11月10日に実施される事が多かった。 例えば、昭和天皇の即位の礼(西暦1928年)や皇紀2600年式典(西暦1940年)は、いずれも11月10日に実施された。 これは、大政奉還を勅許して政権が天皇に復した日が11月10日だった事に因んでいる。

12月10日(慶応3年11月15日)、坂本龍馬・中岡慎太郎暗殺される(近江屋事件)
坂本龍馬は京都の旅寓・近江屋(京都市中京区)で何者かに中岡慎太郎と共に暗殺。
旧暦の誕生日と命日は同じ。暗殺犯は京都見廻組という説が有力である。
暗殺当日には風邪を引いて河原町の蛸薬師で醤油商を営む近江屋新助宅母屋の二階にいたとされる。当日は陸援隊の中岡慎太郎や土佐藩士の岡本健三郎、画家の淡海槐堂などに訪問されている。 中岡はそのまま龍馬と話していたところ、十津川郷士と名乗る男達数人に切られた。龍馬達は近江屋の人間が入ってきたものと油断しており、帯刀していなかった。 龍馬はまず額を深く斬られ、奮戦するもののそれが原因ですぐに死亡。中岡も重傷を負うが、数日間は生存して意識もあり、事件の証言を残した。 坂本龍馬は生前よりも死後に有名になった人物である。
その最初は明治16年(1883年)、高知の『土陽新聞』に坂崎紫瀾が書いた「汗血千里の駒(かんけつせんりのこま)」が掲載され、大評判となった事である。 次に龍馬ブームが起きるのは日露戦争時である。日本海海戦の直前に、龍馬が皇后の夢枕に立ち、「日本海軍は絶対勝てます」と語ったという話である。 皇后はこの人物を知らなかったが、宮内大臣の田中光顕が、龍馬の写真を見せたところ、間違いなくこの人物だということになったと言われる。 真偽のほどは定かではないが、この話が全国紙に掲載されたため、坂本龍馬の評判が全国に広まる事となる。
12月13日(慶応3年11月18日)、伊東甲子太郎暗殺される(油小路事件)