西暦1868年(慶応四年/明治元年)

日本の歴史においては、トレーダーポイントとなる年。
朝廷(明治天皇)、王政復古を宣言。明治維新。鳥羽伏見の戦い(戊辰戦争起こる)。新政府は王政復古を各国公使に通告。江戸を東京と改称する。天皇即位式を上げる。明治と改元し、一世一代の制を定める。会津藩降伏。江戸城を皇居とし東京城と改称。榎本武揚ら蝦夷地を占領、五稜郭を本営とする。
王政復古から明治天皇即位までは約10ヶ月もの期間があいており、元号の改定に関しては、結果的に王政復古の宣言から換算された。現在のグレゴリオ暦である1868年1月1日を旧暦(太陰太陽暦)当てはめると、慶応3年12月8日となる。
ちなみに元号の候補には、この当時において「平成」が候補に上がっていた。「明治」が採用されなかった場合は、「平成」となっていた可能性があると言われている。


1月2日(慶応3年12月8日)夜、岩倉は自邸に薩摩・土佐・安芸・尾張・越前各藩の重臣を集め、王政復古の断行を宣言、協力を求めた。 また、二条摂政によって翌日朝にかけて行われた朝議では、毛利父子の官位復帰と入京の許可、岩倉具視ら勅勘の堂上公卿の蟄居赦免と還俗、九州にある五卿の赦免などが決められた。 これが旧体制における最後の朝議となった。
1月3日(慶応3年12月9日)、朝議が終わり公家衆が退出した後、待機していた薩摩藩兵ら5藩の軍が京都御所9門を固めた。 御所への立ち入りは藩兵が厳しく制限し、驚いた二条摂政や朝彦親王などにも参内を禁止した。 そうした中、赦免されたばかりの岩倉具視らが参内し、御所内学問所において明治天皇が「王政復古の大号令」を発令した。
内容は
1. (慶応3年10月24日に徳川慶喜が申し出た)将軍職辞職を勅許。
2. 京都守護職・京都所司代の廃止。
3. 江戸幕府の廃止。
4. 摂政・関白の廃止。
5. 新たに総裁、議定、参与の三職をおく。
というものである。王政に「復古」するといいながらも伝統的な摂政・関白以下の朝廷の秩序を一新することで上級公家を排除し、徳川が新政府の主体となる芽をつみ、 天皇親政の名の下、岩倉ら一部の公家と薩長が主導する新政府を成立・宣言する内容であった。
1月3日(慶応3年12月9日)18時頃、王政復古の大号令、小御所会議
御所内・小御所にて明治天皇臨席のもと、新体制として最初の三職会議が開かれた。 山内豊信ら公議政体派は、徳川慶喜の出席が許されていないことを非難し、慶喜を議長とする諸侯会議の政体を主張した。 これに対し岩倉、大原らははじめ押されていたが、山内が「そもそも今日の事は一体何であるか。二、三の公家が幼沖なる天子を擁して陰謀を企てたものではないか」と詰問すると、 岩倉が「今日の挙はことごとく天子様のお考えの下に行われている。幼き天子とは何事か」と失言を責めたため、山内も沈黙したという。 この時点で辞官納地(慶喜の内大臣辞任と幕府領の放棄)は決まってはいなかったが、岩倉らは徳川政権の失政を並べ、「辞官納地をして誠意を見せることが先決である」と主張する。 山内らは慶喜の出席を強く主張して両者譲らず、遂に中山忠能が休憩を宣言した。 同会議に出席していた岩下方平は、西郷に助言を求めた。西郷は「短刀一本あれば事が足りる」旨を述べ、岩倉を勇気付ける。 このことは芸州藩を介して土佐藩に伝えられ、再開された会議では容堂はおとなしくなり、岩倉らのペースで会議は進められ辞官納地が決した。
12月10日、慶喜は自らの新たな呼称を「上様」とすると宣言して、征夷大将軍が廃止されても「上様」が江戸幕府の機構を生かしてそのまま全国支配を継続する意向を仄めかした。 また、薩長らの強硬な動きに在京の諸藩代表の動揺が広がった。そこへ土佐藩ら公議政体派が巻き返しを図る。
1月6日(慶応3年12月12日)、肥後藩・筑前藩・阿波藩などの代表が御所からの軍隊引揚を薩長側に要求する動きを見せる。
1月7日(慶応3年12月13日)、岩倉や西郷は妥協案として辞官納地に慶喜が応じれば、慶喜を議定に任命するとともに「前内大臣」としての待遇を認めるとする提案を行わざるを得なくなった。 これによって辞官納地も有名無実化される寸前になる。
一方、徳川家親族の新政府議定の松平春嶽と徳川慶勝が使者として慶喜のもとへ派遣され、この決定を慶喜に通告した。 慶喜は謹んで受けながらも配下の気持ちが落ち着くまでは不可能という返答をおこなった。 実際この通告を受けて旧幕府旗本や会津藩の過激勢力が暴走しそうになったため、慶喜は彼らに軽挙妄動を慎むように命じつつ、政府に恭順の意思を示すために京都の二条城を出て大坂城へ退去している。 春嶽はこれを見て「天地に誓って」慶喜は辞官と納地の返納を実行するだろうという見通しを総裁の有栖川宮熾仁親王に報告する。 しかし大坂城に入ったあと慶喜からの連絡が途絶えた。 1月10日(慶応3年12月16日)、徳川慶喜がパークス英公使・ロッシュ仏公使に王政復古を否定。アメリカ・イギリス・フランス・オランダ・イタリア・プロイセンの6ヶ国公使と大坂城で会談を行ない、内政不干渉と外交権の幕府の保持を承認させた。
1月13日(慶応3年12月19日)、慶喜は朝廷に対して王政復古の大号令の撤回を公然と要求するまでになった。
1月14日(慶応3年12月20日)、有栖川宮幟仁親王、一品に叙せられる。
1月16日(慶応3年12月22日)、朝廷は
「徳川内府宇内之形勢ヲ察シ政権ヲ奉帰候ニ付キ、朝廷ニ於テ万機御裁決候ニ付テハ、博ク天下之公儀ヲトリ偏党ノ私ナキヲ以テ衆心ト休威ヲ同フシ、 徳川祖先ノ制度美事良法ハ其侭被差置、御変更無之之候間、列藩此聖意ヲ体シ、心付候儀ハ不憚忌諱極言高論シテ救縄補正ニ力ヲ尽シ、 上勤王ノ実効ヲ顕シ下民人ノ心ヲ失ナハス、皇国ヲシテ一地球中ニ冠超セシムル様淬励可致旨御沙汰候事」
という告諭を出した。 これは事実上徳川幕藩体制による大政委任の継続を承認したと言えるもので、王政復古の大号令は取り消されなかったものの、慶喜の主張が完全に認められたものに他ならなかった。
1月16日、ウィリアム・デーヴィス(William Davis)が冷蔵車の米国特許を取得
1月17日(慶応3年12月23日)、江戸城二の丸が全焼(薩摩藩士による放火の噂)
1月17日(慶応3年12月23日)、佐土原藩士が江戸市中警護にあたる庄内藩詰所を銃撃
1月17-18日(慶応3年12月23-24日)、大坂城に入ったあと慶喜からの連絡が途絶えた件について、政府においてこの件について会議が行われた。 参与の大久保利通は慶喜の裏切りと主張し、ただちに「領地返上」を求めるべきだとしたが、春嶽は旧幕府内部の過激勢力が慶喜の妨害をしていると睨み、それでは説得が不可能として今は「徳川家の領地を取り調べ、政府の会議をもって確定する」という曖昧な命令にとどめるべきとした。 岩倉も春嶽の考えに賛成し、他の政府メンバーもおおむねこれが現実的と判断したため、この命令が出されることに決した。 再度松平春嶽と徳川慶勝が使者にたてられ慶喜に政府決定を通告し、慶喜もこれを受け入れたが、西郷は、幕府側を挑発するという非常手段(作略)に出る。 江戸薩摩藩邸の益満休之助・伊牟田尚平に命じ、相楽総三ら浪士を集めて江戸市中に放火・掠奪・暴行などを行わせる攪乱工作を開始。
1月19日(慶応3年12月25日)、小栗忠順の命により庄内藩主力の二千名が薩摩藩・佐土原藩江戸屋敷を焼討ち。 江戸市中警備の任にあった庄内藩がこれに怒り、薩摩藩および佐土原藩(薩摩支藩)邸を焼き討ちするという事件が発生した。
1月22日(慶応3年12月28日)、この報が12月28日大坂城にもたらされると、城内の強硬派が激昂。慶喜の周囲ではさらに薩摩を討つべしとの主戦論が沸騰し、「討薩表」を携えた幕府軍が上京を試みる。 慶喜は薩摩征伐を名目に事実上京都封鎖を目的とした出兵を開始した。 旧幕府軍主力の幕府歩兵隊は鳥羽街道を進み、会津藩、桑名藩の藩兵、新選組などは伏見市街へ進んだ。
1月25日(慶応4年1月1日)、戊辰戦争: 徳川慶喜が討薩表を朝廷に提出 慶喜出兵の報告を受けて政府に緊張が走り、緊急会議が招集された。政府参与の大久保利通は旧幕府軍の入京は政府の崩壊であり、錦旗と徳川征討の布告が必要と主張したが、政府議定の松平春嶽は薩摩藩と旧幕府勢力の勝手な私闘であり政府は無関係を決め込むべきと反対を主張。 会議は紛糾したが、政府議定岩倉具視が徳川征討に賛成したことで会議の大勢は決した。
1月27日(慶応4年1月3日)、夕方、戊辰戦争: 鳥羽・伏見の戦い
下鳥羽付近で街道を封鎖する薩摩藩兵と大目付の滝川具挙の問答から軍事的衝突が起こり、鳥羽での銃声が聞こえると伏見でも衝突、戦端が開かれた。 このときの京都周辺の兵力は新政府軍の5,000名に対して旧幕府軍は15,000名を擁していた。 しかし旧幕府軍は狭い街道での縦隊突破を図るのみで、優勢な兵力を生かしきれず、新政府軍の弾幕射撃によって前進を阻まれた。 鳥羽では総指揮官の竹中重固の不在や滝川具挙の逃亡などで混乱し、伏見では奉行所付近で佐久間近江守信久や窪田備前守鎮章ら幕将の率いる幕府歩兵隊、会津藩兵、土方歳三率いる新選組の兵が新政府軍(薩摩小銃隊)の大隊規模(約800名)に敗れた。 兵庫では、薩摩藩軍艦春日丸、同藩運送船翔凰丸、平運丸が兵庫港に停泊し、鹿児島への帰帆準備を進めていた。一方、榎本武揚率いる旧幕府海軍の開陽丸は、大阪湾に停泊して海上より鳥羽・伏見の戦いを見守っていた。
1月28日(慶応4年1月4日)、鳥羽・伏見の戦いの一進一退の戦闘が続く。戊辰戦争: 阿波沖海戦
阿波沖海戦が起こる。
早朝、平運丸は明石海峡に、春日丸と翔凰丸は紀淡海峡に向けて出港した。 これを開陽丸が発見、停船命令として空砲を撃つが無視したため、すぐさま臨戦態勢に入る。 開陽丸は春日丸と翔凰丸を追撃し、敵艦に計25発の砲撃を加え、応戦した春日丸は計18発の砲撃を開陽丸に向けて放ったが、どちらも大きな損害には至らなかった。 しかし春日丸は、さほど戦意が無かったため敗走し、開陽丸よりも速力が高かったので鹿児島へ無事逃げのびた。逃げ切れずに由岐浦の岸に乗り上げた翔凰丸は拿捕される事を恐れて自焼した。 榎本武揚は、自焼した翔凰丸を見て「敵ながらあっぱれ」として讃えたという。
1月29日(慶応4年1月5日)、淀の戦いが起こる。
明治天皇が仁和寺宮嘉彰親王に錦旗を与え(岩倉具視が偽造したという説もある)、新政府軍が官軍となる。 旧幕府軍は慶喜の側近の一人で現職の老中でもあった淀藩主稲葉正邦を頼って、淀城に入り建て直しをはかろうとした。 しかし淀藩は新政府と戦う意思がなく、城門を固く閉じ旧幕府軍の入城を拒んだ。入城を拒絶された旧幕府軍は淀千両松に布陣し新政府軍を迎撃したが惨敗する。 この戦闘の最中、新選組結成時からの主要幹部隊士の一人であった井上源三郎が戦死する。
橋本の戦いが起こる。
幕府軍は後退を重ね、石清水八幡宮の鎮座する男山の東西に分かれて布陣した。 西側の橋本は遊郭のある宿場で、そこには土方歳三率いる新撰組の主力などを擁する幕府軍の本隊が陣を張った。東に男山、西に淀川を控えた橋本では、地の利は迎え撃つ旧幕府軍にあった。 しかし、対岸の大山崎を守備していた津藩が新政府軍側へ寝返り、旧幕府軍へ砲撃を加えた。 思いもかけない西側からの砲撃を受けた旧幕府軍は戦意を失って総崩れとなり、淀川を下って大坂へと逃れた。 この戦いで、京都見廻組の長であった佐々木只三郎が重傷(のち死亡)、新撰組諸士調役兼監察山崎烝が重傷(後紀州湾沖にて死亡)、同吉村貫一郎が行方不明となった。 新政府軍は、橋本実梁を東海道鎮撫総督に任命して出撃させる。
1月30日(慶応4年1月6日)、開戦に積極的で無かったとされる慶喜は大坂城におり、旧幕府軍の敗戦が決定的となる。
1月31日(慶応4年1月7日)、新政府が徳川慶喜追討を発令
慶喜に対して追討令が出た報を聞くと、その夜僅かな側近及び老中・板倉勝静、同・酒井忠惇、会津藩主・松平容保・桑名藩主・松平定敬と共に密かに城を脱し、大阪湾に停泊中の幕府軍艦・開陽丸で江戸に退却した。 旧幕府軍の総大将の徳川慶喜の撤退と、新政府軍の砲兵力、新政府軍の優勢により多くの藩が旧幕府軍を見限ったことで、旧幕府軍の全面敗北となった。 旧幕府方は15,000人の兵力を擁しながら緒戦にして5,000人の新政府軍に敗れた。両軍の損害は不明とされている。 鳥羽伏見の戦いで旧幕府軍が新政府軍に敗れると、徳川慶喜は大坂城を脱出して江戸の上野寛永寺大滋院にて謹慎し、新政府軍は東征軍を江戸へ向かって進軍させた。 北陸道の新政府軍は北陸道鎮撫総督府の山縣有朋と黒田清隆を指揮官としていた。新政府軍は越後における旧幕府軍の平定と会津藩征討のため、長岡にほど近い小千谷(現・新潟県小千谷市)を占領した。
長岡藩は、大政奉還以後も徳川家を支持し、長岡藩主・牧野忠訓と上席家老、軍事総督・河井継之助のもと、軍事顧問に招いたプロイセンの商人・スネル兄弟を通じて独自に当時日本に3門しか無かったガトリング砲の2門を購入し、フランスの新型銃2,000挺を購入するなどの火器・兵器を購入し富国強兵に努めていた。 また河井の指導の下、恭順派の安田鉚蔵らを退け藩論を武装中立論に統一していた。
会津藩は佐川官兵衛を使者として長岡藩に奥羽越列藩同盟への参加を申し入れるが、河井は同盟への参加を拒んだ。
江戸城では主戦派の小栗忠順や榎本武揚らと恭順派とが対立する。 以後、戊辰戦争の舞台は江戸市街での上野戦争や、北陸地方、東北地方での北越戦争、会津戦争、箱館戦争として続く。

2月1日(慶応4年1月8日)、徳川慶喜が江戸に向けて大坂を出発
2月2日(慶応4年1月9日)、新政府軍は岩倉具定を東山道鎮撫総督に、高倉永?を北陸道鎮撫総督に任命して出撃させていた
2月3日(慶応4年1月10日)、慶喜・松平容保(会津藩主、元京都守護職)・松平定敬(桑名藩主、元京都所司代)を初め幕閣など27人の「朝敵」の官職を剥奪し、京都藩邸を没収するなどの処分を行った。
2月4日(慶応4年1月11日)、神戸事件
2月4日(慶応4年1月11日)、慶喜は品川に到着。諸藩に対して兵を上京させるよう命じた。
2月5日(慶応4年1月12日)、徳川慶喜が江戸城に帰城し諸門の閉鎖を各国公使館へ通告
慶喜は江戸城西の丸に入り今後の対策を練る。
鳥羽・伏見敗戦にともなって新政府による徳川征伐軍の襲来が予想されるこの時点で、徳川家の取り得る方策は徹底恭順か、抗戦しつつ佐幕派諸藩と提携して形勢を逆転するかの2つの選択肢があった。 勘定奉行兼陸軍奉行並の小栗忠順や、軍艦頭並の榎本武揚らは主戦論を主張。
小栗の作戦は、敵軍を箱根以東に誘い込んだところで、兵力的に勝る徳川海軍が駿河湾に出動して敵の退路を断ち、フランス式軍事演習で鍛えられた徳川陸軍で一挙に敵を粉砕、海軍をさらに兵庫・大阪方面に派遣して近畿を奪還するというものであった。
2月6日(慶応4年1月13日)、慶喜はひとまず歩兵頭に駿府(現静岡市)警備を命じた。
2月7日(慶応4年1月14日)、慶喜は土井利与(古河藩主)に神奈川(現横浜市)警備を命じた。
2月8日(慶応4年1月15日)、王政復古を各国公使に通告
2月8日(慶応4年1月15日)、主戦論を主張した小栗忠順に容れない慶喜は、小栗を罷免する。
2月10日(慶応4年1月17日)、慶喜は目付を箱根・碓氷の関所に配した。
新政府軍は、熾仁親王が新政府の総裁職に就任すると、幟仁親王も議定に任命された。しかし政治的な役割は熾仁親王に託し、自らは表立った活動をしないまま議定職の廃止を迎えた。幟仁親王は政治から距離を置く代わりに、神祇事務科総督に就任したのを皮切りに国家神道や国学の普及に努めた。 官軍の東征が始まると、対応可能な適任者がいなかった幕府は勝海舟を呼び戻した。勝は、徳川家の家職である陸軍総裁として、後に軍事総裁として全権を委任され、旧幕府方を代表する役割を担う。 官軍が駿府城にまで迫ると、幕府側についたフランスの思惑も手伝って徹底抗戦を主張する小栗忠順に対し、早期停戦と江戸城の無血開城を主張、ここに歴史的な和平交渉が始まる。 勝海舟は海軍奉行並に異動。役高5000石。列座は陸軍奉行並の上。
2月12日(慶応4年1月19日)、ロッシュ仏公使が徳川慶喜に再挙を勧告(慶喜は拒否)。慶喜は在江戸諸藩主を召し、恭順の意を伝えて協力を要請する。
2月13日(慶応4年1月20日)、慶喜は松本藩・高崎藩に碓氷関警備を命令。さらに親幕府派の松平春嶽・山内容堂らに書翰を送って周旋を依頼するなど、さしあたっての応急処置を施している。 静寛院宮にも恭順の意を伝えて協力の要請を行う。
13代将軍徳川家定正室として江戸城大奥の総責任者であった天璋院(近衛敬子)は、薩摩の出身で島津斉彬の養女であった縁から、また明治天皇の叔母にあたる14代将軍徳川家茂正室の静寛院宮(和宮親子内親王)も東征大総督有栖川宮とかつて婚約者であった縁から、それぞれ東征軍との縁故があり、また上野寛永寺には前年に京都から入山した輪王寺宮公現法親王(後の北白川宮能久親王)がおり、藁にもすがる思いの慶喜はこれらの人物を通じて、東征軍に対し助命ならびに徳川家存続の歎願を立て続けに出している。
2月14日(慶応4年1月21日)、慶喜は外国事務総督東久世通禧から諸外国の代表に対して、徳川方に武器・軍艦の供与や兵の移送、軍事顧問の派遣などの援助を行わないよう要請した。 静寛院は慶喜の歎願書に橋本実麗・実梁父子宛の自筆歎願書を添え、侍女の土御門藤子を使者として遣わした。
2月16日(慶応4年1月23日)、慶喜は恭順派を中心として配置した徳川家人事の変更を行った。
若年寄 : 平山敬忠、川勝広運
陸軍総裁 : 勝海舟、副総裁 : 藤沢次謙
海軍総裁 : 矢田堀鴻、副総裁 : 榎本武揚
会計総裁 : 大久保一翁、副総裁 : 成島柳北
外国事務総裁 : 山口直毅、副総裁 : 河津祐邦
このうち、庶政を取り仕切る会計総裁大久保一翁と、軍事を司る陸軍総裁勝海舟の2人が、瓦解しつつある徳川家の事実上の最高指揮官となり、恭順策を実行に移していくことになった。 この時期、フランス公使レオン・ロッシュがたびたび登城して慶喜に抗戦を提案しているが、慶喜はそれも退けている。 新選組局長の近藤勇は、抗戦派と恭順派が対立する江戸城において勝海舟と会い、天領である甲府を新政府軍に先んじて押さえるよう出陣を命じられた(一説には、江戸開城を控えた勝海舟が、暴発の恐れのある近藤らを江戸から遠ざけたとも言われる)。
この時、新選組は甲陽鎮撫隊と名を改め、近藤勇は大久保剛(後に大和)、副長の土方歳三は内藤隼人と変名した。
2月18日(慶応4年1月25日)、21日の慶喜の要請を受け諸外国は、それぞれ局外中立を宣言。事実上新政府軍は、かつて諸外国と条約を締結した政府としての徳川家と、対等の交戦団体として認識されたことになる。
局外中立宣言後、英国公使ハリー・パークスは横浜に戻り、治安維持のため、横浜在留諸外国の軍隊で防備する体制を固めたのち、東征軍および徳川家の情勢が全く不明であったことから、公使館通訳アーネスト・サトウを江戸へ派遣して情勢を探らせる。
2月20日(慶応4年1月27日)、慶喜は徳川茂承(紀州藩主)らに隠居・恭順を朝廷に奏上することを告げた。ここに至って徳川家の公式方針は恭順に確定したが、それに不満を持つ幕臣たちは独自行動をとることとなる。
2月23日(慶応4年2月1日)、東海道先鋒総督の橋本実梁は、在陣中の桑名(三重県桑名市)でこの書状を受け取る。 しかし、参謀西郷隆盛はいかに和宮からの歎願であったとしても所詮は賊徒からの申し分であるとして歯牙にもかけず、知らせを受けた京都の大久保もまた同意見であった。 土御門藤子はやむなく上京する。 2月24日、ジョンソン米大統領に対する弾劾が米国下院を通過(126対47)
2月27日(慶応4年2月5日)、旧幕府軍では、伝習隊の歩兵400名が八王子方面に脱走(後に大鳥圭介軍に合流する)。
2月28日(慶応4年2月6日)、新政府軍の内部で天皇親征の方針が決まる。それまでの東海道・東山道・北陸道鎮撫総督は先鋒総督兼鎮撫使に改称された。 土御門藤子が入京、議定長谷信篤・参与中院通富らに静寛院の歎願を訴えた結果、万里小路博房から岩倉具視へも伝わる。
2月29日、英国で第一次ディズレーリ内閣成立
2月29日(慶応4年2月7日)、戊辰戦争: 有栖川宮熾仁親王が東征大総督に就任
2月29日(慶応4年2月7日)、旧幕府兵の一部(歩兵第11・12連隊)が脱走。

3月2日(慶応4年2月9日)、慶喜は鳥羽・伏見の戦いの責任者を一斉に処分。
新政府軍では、有栖川宮熾仁親王が東征大総督に任命される。先の鎮撫使はすべて大総督府の下に組み入れられた上、東征大総督には江戸城・徳川家の件のみならず東日本に関わる裁量のほぼ全権が与えられた。 東征大総督府参謀には、正親町公董・西四辻公業(公家)・広沢真臣(長州)が任じられた。
3月5日(慶応4年2月12日)、戊辰戦争: 徳川慶喜が寛永寺に蟄居慶喜は江戸城を徳川慶頼(田安徳川家当主、元将軍後見職)・松平斉民(前津山藩主)に委任して退出し、上野寛永寺大慈院に移って、その後謹慎生活を送る。 新政府側でも徳川家(特に前将軍慶喜)に対して厳しい処分を断行すべきとする強硬論と、長引く内紛や過酷な処分は国益に反するとして穏当な処分で済ませようとする寛典論の両論が存在した。 薩摩藩の西郷隆盛などは強硬論であり、大久保利通宛ての書状などで慶喜の切腹を断固求める旨を訴えていた。 大久保も同様に慶喜が謹慎したくらいで赦すのはもってのほかであると考えていた節が見られる。 このように、東征軍の目的は単に江戸城の奪取のみに留まらず、徳川慶喜(およびそれに加担した松平容保・松平定敬)への処罰、および徳川家の存廃と常にセットとして語られるべき問題であった。
一方、長州藩の木戸孝允・広沢真臣らは徳川慶喜個人に対しては寛典論を想定していた。
また公議政体派の山内容堂・松平春嶽・伊達宗城(前宇和島藩主)ら諸侯も、心情的にまだ慶喜への親近感もあり、慶喜の死罪および徳川家改易などの厳罰には反対していた。 寛典論の広沢は、東征大総督府参謀を辞退する。 3月7日(慶応4年2月14日)、東征大総督府参謀を辞退した広沢真臣の代わりに強硬派の西郷隆盛(薩摩)と林通顕(宇和島)が補任された。
3月8日(慶応4年2月15日)、堺事件
3月8日(慶応4年2月15日)、東征大総督が京都を進発して東下を開始。
3月9日(慶応4年2月16日)、土御門藤子が、橋本実麗に対して口頭書ながら徳川家存続の内諾を得る。
3月9日、アンブロワーズ・トマ歌劇「ハムレット」初演(オペラ座)
3月11日(慶応4年2月18日)、土御門藤子が京都を発つ。
3月12日、エディンバラ公アルフレッド暗殺未遂(ニューサウスウェールズ)
3月13日、ジョンソン米大統領に対する弾劾裁判が米国上院で開始
3月14日(慶応4年2月21日)、輪王寺宮公現法親王が江戸を発って東海道を西に上る。
3月16日(慶応4年2月23日)、戊辰戦争: 寛永寺で彰義隊結成
3月16日(慶応4年2月23日)、太政官日誌創刊
3月17日(慶応4年2月24日)、中外新聞創刊(柳河春三)
3月18日(慶応4年2月25日)、勝海舟は陸軍総裁を免じ、軍事取扱に異動。
3月21日(慶応4年2月28日)、脱走した歩兵第11・12連隊を含め、羽生陣屋(埼玉県羽生市)に1800人が結集する。
3月23日(慶応4年2月30日)、パークス英公使暗殺未遂
3月23日(慶応4年2月30日)、土御門藤子が江戸へ戻り、静寛院に復命している。
3月24日、米国でメトロポリタン生命保険会社設立
3月24日(慶応4年3月1日)、甲陽鎮撫隊(新撰組)は、江戸を出発し甲府へ向かった。
近藤は混成部隊を指揮するため、行軍中に大名旅行のように振舞い、さらに天候の悪化なども重なり時間を空費する(沖田総司は途中で江戸に戻った)。 その間に、土佐藩の板垣退助、薩摩藩の伊地知正治らが先鋒総督府参謀として、新政府軍3,000を率いて甲府城に入城してしまう。 甲陽鎮撫隊は勝沼(現・甲州市)まで前進し甲州街道と青梅街道の分岐点近くで軍事上の要衝であるこの地に布陣した。300いた兵は恐れをなして次々脱走し、121まで減ってしまった。 近藤は会津の侍がこちらへ向かっているといい、なんとか脱走兵を防いだ。
土方は神奈川方面へ赴き旗本の間で結成されていた菜葉隊に援助を頼むが黙殺される。
3月28日(慶応4年3月5日)、東征大総督は駿府に到着。
3月29日(慶応4年3月6日)、東征大総督は江戸城総攻撃の日付を3月15日と決定した。
甲州勝沼の戦いが起こる。
甲陽鎮撫隊と新政府軍との間で戦闘が始まった。戦況は鎮撫隊側が不利で、新政府軍からの砲撃で大砲は破壊された。会津の援軍が虚報だとわかると、近藤、永倉新八、原田左之助らの説得も空しく、兵は逃亡した。 甲陽鎮撫隊は八王子へ退却した後に解散し、江戸へ敗走した。近藤らはその途中土方と合流、下総流山(千葉県流山市)へ転戦した。 これらの暴発は、陸軍総裁勝海舟の暗黙の承認や支援を得て行われており、いずれも兵数・装備の質から東征軍には全く歯が立たないことを見越したうえで出撃していた。 恭順への不満派の江戸からの排除という目的もあったと思われる。
3月30日(慶応4年3月7日)、輪王寺宮公現法親王が駿府で大総督有栖川宮熾仁親王と対面し、慶喜の謝罪状と自身の歎願書を差し出したが、参謀西郷隆盛・林通顕らがかえって甲陽鎮撫隊による抗戦を厳しく咎める事になる。
3月31日(慶応4年3月8日)、羽生陣屋(埼玉県羽生市)に結集した1800人は、下野国簗田(栃木県足利市梁田町)で東征軍と戦って敗れた。 古屋はのちに今井信郎らと衝鋒隊を結成し、東北戦争・箱館戦争に従軍する。

4月1日(慶応4年3月9日)、勝海舟は山岡鉄舟を駿府の西郷隆盛との交渉に向かわせて基本条件を整えた。 この会談に赴くに当たっては、江戸市中の撹乱作戦を指揮し奉行所に逮捕されて処刑寸前の薩摩武士益満休之助を説得して案内役にしている。 差し迫る東征軍に対し、寛永寺で謹慎中の徳川慶喜を護衛していた高橋泥舟の義弟で精鋭隊頭の山岡鉄太郎(鉄舟)は、慶喜の意を体して、駿府まで進撃していた東征大総督府に赴くこととなった。 山岡は西郷を知らなかったこともあり、まず陸軍総裁勝海舟の邸を訪問する。 勝は山岡とは初対面であったが、一見してその人物を大いに評価し、進んで西郷への書状を認めるとともに、前年の薩摩藩焼き討ち事件の際に捕らわれた後、勝家に保護されていた薩摩藩士益満休之助を護衛につけて送り出した。 (山岡と益満は、かつて尊王攘夷派の浪士清河八郎が結成した虎尾の会のメンバーであり、旧知であった) 山岡と益満は駿府の大総督府へ急行し、参謀西郷隆盛の宿泊する旅館に乗り込み、西郷との面談を求めた。 すでに江戸城総攻撃の予定は3月15日と決定していたが、西郷は勝からの使者と聞いて山岡と会談を行い、山岡の真摯な態度に感じ入り、交渉に応じた。 ここで初めて東征軍から徳川家へ開戦回避に向けた条件提示がなされたのである。
このとき江戸城総攻撃の回避条件として西郷から山岡へ提示されたのは以下の7箇条である。
1. 徳川慶喜の身柄を備前藩に預けること。
2. 江戸城を明け渡すこと。
3. 軍艦をすべて引き渡すこと。
4. 武器をすべて引き渡すこと。
5. 城内の家臣は向島(東京都墨田区)に移って謹慎すること。
6. 徳川慶喜の暴挙を補佐した人物を厳しく調査し、処罰すること。
7. 暴発の徒が手に余る場合、官軍が鎮圧すること。
山岡は上記7箇条のうち第一条を除く6箇条の受け入れは示したが、第一条のみは絶対に受けられないとして断固拒否し、西郷と問答が続いた。 ついには山岡が、もし立場を入れ替えて西郷が島津の殿様を他藩に預けろと言われたら承知するかと詰問すると、西郷も山岡の立場を理解して折れ、第一条は西郷が預かる形で保留となった。 ここに来ての西郷の軟化は、和宮などの度重なる歎願や、徳川家側の責任者が信頼に足る大久保一翁・勝らであることが判明したことなどにより、この頃すでに西郷や大久保利通らの間にも、慶喜の恭順が完全であれば厳罰には及ばないとの合意ができつつあったためと思われる。 実際、この日西郷が山岡に提示した7条件も、前月に大久保利通が新政府に提出した意見書にほぼ添うものであった。
4月2日(慶応4年3月10日)、山岡はこの結果を持って江戸へ帰り勝に報告。
4月3日(慶応4年3月11日)、パークス英公使が徳川慶喜討伐に反対する
4月3日(慶応4年3月11日)、西郷も山岡を追うように駿府を発つ。 東山道先鋒総督参謀の板垣退助(土佐藩)が八王子駅に到着。
4月4日(慶応4年3月12日)、輪王寺宮公現法親王の交渉もむなしく、大総督宮から歎願不採用が申し下された。 また天璋院は慶喜個人に対してはあまり好感情を持っていなかったが、徳川家存続には熱心であり、「薩州隊長人々」に宛てて歎願書を記し、また3月11日に東征軍へ使者として老女を遣わしている。 この使者は13日に帰城しているが、ほとんど影響を与えなかったようである。 これらの歎願の多くは結果的には却下されることが多かったが、大総督有栖川宮や参謀西郷隆盛などに何らかの心理的影響を与えた可能性もあり、小説やドラマなどでは積極的にエピソードとして採用されている。 東山道先鋒総督参謀の伊地知正治(薩摩藩)が板橋に入る。
4月5日(慶応4年3月13日)、神仏分離令布告
4月5日(慶応4年3月13日)、西郷が江戸薩摩藩邸に入る。 東山道先鋒総督岩倉具定も板橋駅に入る。
13日の午後、ハリー・パークスは新政府の代表を横浜へ赴任させるよう要請すべくラットラー号を大阪へ派遣している。 東征軍が関東へ入ると、東征軍先鋒参謀木梨精一郎(長州藩士)および渡辺清(大村藩士)は、横浜の英国公使館へ向かい、来るべき戦争で生じる傷病者の手当や、病院の手配などを申し込んだ。 しかし、パークスはナポレオンさえも処刑されずにセントヘレナ島への流刑に留まった例を持ち出して、恭順・謹慎を示している無抵抗の徳川慶喜に対して攻撃することは万国公法に反するとして激昂し、面談を中止したという。 またパークスは、徳川慶喜が外国に亡命することも万国公法上は問題ないと話したという。 このパークスの怒りを伝え聞いた西郷が大きく衝撃を受け、江戸城攻撃中止への外圧となったという説がある。 勝は東征軍との交渉を前に、いざという時の備えのために焦土作戦を準備していたという。 もし東征軍側が徳川家の歎願を聞き入れずに攻撃に移った場合や、徳川家臣の我慢の限度を越えた屈辱的な内容の条件しか受け入れない場合には、敵の攻撃を受ける前に、江戸城および江戸の町に放火して敵の進軍を防いで焦土と化す作戦である。 1812年にナポレオンの攻撃を受けたロシア帝国がモスクワで行った作戦(1812年ロシア戦役)を参考にしたというが、それとは異なりいったん火災が発生した後はあらかじめ江戸湾に集めておいた雇い船で避難民をできるだけ救出する計画だったという。 勝は焦土作戦を準備するにあたって、新門辰五郎ら市井の友人の伝手を頼り、町火消組、鳶職の親分、博徒の親方、非人頭の家を自ら回って協力を求めたという。 これらは後年の勝が語るところであるが、勝は特有の大言癖があるため、どこまでが真実なのかは不明である。 しかし、西郷との談判に臨むにあたってこれだけの準備があったからこそ相手を呑む胆力が生じたと回顧している。 3月13-14日、田町(東京都港区)の薩摩藩江戸藩邸において、山岡の下交渉を受けて、徳川家側の最高責任者である会計総裁・大久保一翁、陸軍総裁・勝海舟と、東征軍参謀・西郷隆盛との江戸開城交渉が行われる。 小説やドラマなどの創作では演出上、勝と西郷の2人のみが面会したように描かれることが多いが、実際には徳川家側から大久保や山岡、東征軍側から村田新八・桐野利秋らも同席していたと思われる。 勝と西郷は元治元年(1864年)9月に大坂で面会して以来の旧知の仲であり、西郷にとって勝は、幕府の存在を前提としない新政権の構想を教示された恩人でもあった。 西郷は徳川家の総責任者が勝と大久保であることを知った後は、交渉によって妥結できるであろうと情勢を楽観視していた。 この時、東山道先鋒総督参謀の板垣・伊地知・岩倉による江戸城の包囲網は完成しつつあり、緊迫した状況下における会談となった。 しかし西郷は血気にはやる板垣らを抑え、勝らとの交渉が終了するまでは厳に攻撃開始を戒めていた。
4月5日(慶応4年3月13日)、第一回交渉 江戸に到着したばかりの西郷と、西郷の到着を待望していた勝との間で、3月13日に行われた第一回交渉では和宮の処遇問題と、以前山岡に提示された慶喜の降伏条件の確認のみで、突っ込んだ話は行われず、若干の質問・応答のみで終了となった。
4月6日(慶応4年3月14日)、第二回交渉 3月14日の第二回交渉では、勝から先般の降伏条件に対する回答が提示された。
1. 徳川慶喜は故郷の水戸で謹慎する。
2. 慶喜を助けた諸侯は寛典に処して、命に関わる処分者は出さない。
3. 武器・軍艦はまとめておき、寛典の処分が下された後に差し渡す。
4. 城内居住の者は、城外に移って謹慎する。
5. 江戸城を明け渡しの手続きを終えた後は即刻田安家へ返却を願う。
6. 暴発の士民鎮定の件は可能な限り努力する。
これは、以前に山岡に提示された条件に対する全くの骨抜き回答であり、事実上拒否したに等しかったが、西郷は勝・大久保を信頼して、翌日の江戸城総攻撃を中止し、自らの責任で回答を京都へ持ち帰って検討することを約した。 ここに、江戸城無血明け渡しが決定された。 この日、京都では天皇が諸臣を従えて自ら天神地祇の前で誓う形式で五箇条の御誓文が発布され、明治国家の基本方針が示されている。 西郷が徳川方の事実上の骨抜き回答という不利な条件を飲み、総攻撃を中止した背景には、英国公使ハリー・パークスからの徳川家温存の圧力があり、西郷が受け入れざるを得なかったとする説がある。 ただしパークスの発言が実際に、勝と交渉中の西郷に影響を与えたかどうかについては不明である。 そもそも上記のパークス・木梨の会談が行われたのがいつのことであるかが鮮明ではない。主に3月13日説をとる史料が多いが、14日説をとるもの、日付を明示していないものもある。 しかし、いずれもパークスが先日上方へ軍艦を派遣した後に面会したと記載されている。 パークスによる軍艦派遣は西洋暦4月5日すなわち和暦3月13日であることが確実なため、会談自体は3月14日以降に行われたと考えざるをえない。 となると、前述の3月14日夕刻まで行われた第2回勝・西郷会談と同日になってしまうため、事前にパークスの発言が西郷の耳に届いていたとは考えがたい。 そのため萩原延壽は、「パークスの圧力」は勝・西郷会談の前に西郷へ影響を与えたというよりは、会談後に西郷の下にもたらされ、強硬論から寛典論に180度転じた西郷が、同じく強硬派だった板垣や京都の面々にその政策転換を説明する口実として利用したのではないかと述べている。 事実、板垣は総攻撃中止の決定に対して猛反対したが、パークスとのやりとりを聞くとあっさり引き下がっている。 パークスの話を西郷に伝えた渡辺清も、後に同様の意見を述べている。
結果、江戸城下での市街戦という事態は回避され、江戸の住民150万人の生命と家屋・財産の一切が戦火から救われた。 また慶喜の身柄は横浜沖に停泊していたイギリス艦隊によって亡命させる手筈になっていた。 この会談の後も戊辰戦争は続くが、勝は旧幕府方が新政府に抵抗することには反対だった。 一旦は戦術的勝利を収めても戦略的勝利を得るのは困難であることが予想されたこと、内戦が長引けばイギリスが支援する新政府方とフランスが支援する旧幕府方で国内が2分される恐れがあったことなどがその理由である。 勝との会談を受けて江戸を発った西郷は急ぎ上京する。
4月7日(慶応4年3月15日)、五榜の掲示
4月10日、ブラームス「ドイツ・レクイエム」初演(ブレーメン)
4月12日(慶応4年3月20日)、京都にてさっそく朝議が催された。
強硬論者だった西郷が慶喜助命に転じたことは、木戸孝允・山内容堂・松平春嶽ら寛典論派にも驚きをもって迎えられた。 郷の提議で勝の出した徳川方の新条件が検討された。 第一条、慶喜の水戸謹慎に対しては政府副総裁の岩倉具視が反対し、慶喜自ら総督府に出頭して謝罪すること、徳川家は田安亀之助(徳川慶頼の子)に相続させるが、北国もしくは西国に移して石高は70万石ないし50万石とすることなどを要求した。 しかし結局は勝案に譲歩して水戸謹慎で確定された。 第二条に関しても、田安家に江戸城を即刻返すという勝案は却下されたものの、大総督に一任されることになった。 第三・四条の武器・軍艦引き渡しに関しては岩倉の要求が通り、いったん新政府軍が接収した後に改めて徳川家に入用の分を下げ渡すことになった。 第五・七条は原案通り。第六条の慶喜を支えた面々の処分については副総裁三条実美が反対し、特に松平容保・松平定敬の両人に対しては、はっきり死罪を求める厳しい要求を主張した。 結局は会津・桑名に対して問罪の軍兵を派遣し、降伏すればよし、抗戦した場合は速やかに討伐すると修正された。 この決定が後の会津戦争に繋がることになる。修正・確定された7箇条を携えて、西郷は再び江戸へ下ることとなった。
4月15日(慶応4年3月23日)、この間の期間に東征軍海軍先鋒大原重実が横浜に来航し、附属参謀島義勇(佐賀藩士)を派遣して徳川家軍艦の引き渡しを要求したが、勝は未だ徳川処分が決定していないことを理由にこれを拒否している。 勝としては交渉相手を西郷のみに絞っており、切り札である慶喜の身柄や徳川家の軍装に関して、西郷の再東下より前に妥協するつもりはなかったためである。
4月18日(慶応4年3月26日)、日本初の観艦式(天保山沖)
4月20日(慶応4年3月28日)、西郷は横浜にパークスを訪問し、事の経緯と新政権の方針を説明している。(なおその前日には勝もパークスを訪問している) パークスは西郷の説明に満足し、ここに「パークスの圧力」は消滅した。 江戸へ再来した西郷は勝・大久保らとの間で最終的な条件を詰めていった。
4月26日(慶応4年4月4日)、大総督府と徳川家との間で最終合意に達し、東海道先鋒総督橋本実梁、副総督柳原前光、参謀西郷らが兵を率いて江戸城へ入城した。 同時に徳川慶喜の死一等を減じ、水戸での謹慎を許可する勅旨が下された。
4月30日(慶応4年4月8日)、東征大総督有栖川宮は駿府を発する。

5月1日(慶応4年4月9日)、京都では明治天皇が紫宸殿において軍神を祀った。
5月3日(慶応4年4月11日)、戊辰戦争: 江戸開城。 慶喜はこの勅旨を受け、謹慎所の寛永寺から水戸へ出発し、同日をもって江戸城は無血開城、東征軍が接収した。 江戸城の新政府への明け渡しと前将軍徳川慶喜の水戸藩預かり・蟄居が決定すると、これに不満を抱く旧幕府の将士の中には江戸を脱出する者が相次いだ。 海軍副総裁の榎本武揚は徳川家に対する処置を不満とし、約束の軍艦引き渡しを断固拒否していたが、抗戦派の旧幕臣らとともに旧幕府艦隊7隻を率いて品川沖から出港し、館山沖に逃れた。 結局、勝の説得により艦隊はいったん品川に戻り、新政府軍に4隻(富士・朝陽・翔鶴・観光)を渡すことで妥協したが、これにより降伏条件は完全には満たされなくなった。 その後も再三にわたり勝は榎本に自重を求めたが、徳川家に対する処分に不服の榎本はこれを聞かなかった。 大鳥圭介は陸軍を率いて市川に入り、福田道直は新制歩兵隊である撒兵隊を率いて木更津に入った。 こうして、徳川家処分に不満を持つ抗戦派は、江戸近辺で挙兵するが、新政府軍に各個撃破されていくことになった。 抗戦派の幕臣や一橋家家臣の渋沢成一郎、天野八郎らは彰義隊を結成した。彰義隊は当初本営を本願寺に置いたが、後に上野に移した。 旧幕府の恭順派は彰義隊を公認して江戸市内の警護を命ずるなどして懐柔をはかったが、江戸城留守居の松平斉民は、彰義隊を利用して江戸の治安維持を図ったが、かえって彰義隊の力が増大し、新政府軍の懐疑を招く。 徳川慶喜が水戸へ向かい渋沢らが隊から離れると彰義隊では天野らの強硬派が台頭し、旧新選組の残党(原田左之助が参加していたといわれる)などを加えて徳川家菩提寺である上野の寛永寺(現在の上野公園内東京国立博物館)に集結して、輪王寺公現入道親王(後の北白川宮能久親王)を擁立した。 下総市川の国府台にも幕臣などが集まり、約2,000人の兵力となった。指揮官は大鳥圭介、土方歳三を中心とし、新選組、伝習隊、桑名藩隊などが参加していた。 新政府も、新政府軍として長州藩の大村益次郎が指揮する。 大村は武力殲滅を主張し、上野を封鎖するため各所に兵を配備してさらに彰義隊の退路を限定する為に神田川や隅田川、中山道や日光街道などの交通を分断した。 大村は三方に兵を配備し、根岸方面に敵の退路を残して逃走予定路とした。
5月4日(慶応4年4月12日)、撒兵隊2,000を率いて木更津に着いた福田は、大鳥が市川の国府台にいるとの報を受けて市川の増援のためにまず江原鋳三郎の第1大隊に兵300を与えて中山法華経寺に派遣し、続いて第2大隊・第3大隊の兵600を船橋大神宮に派遣してここを撒兵隊の本営とした。 ところが、現地に着いてみると幕府軍は全く存在していなかったのである。 これは11日に新撰組副長であった土方歳三が大鳥と合流し、流山で局長近藤勇が新政府軍に捕らえられた事を知った大鳥が市川滞在に危惧を抱き、日光山で会津藩と連携して新政府軍に抵抗する作戦に変更して、撒兵隊が木更津に入った12日には既に全軍市川から離れ、2手に分かれて北に向かっていたのである。 大鳥が北に逃れたと聞いていた新政府軍にとっても撒兵隊の出現は予想外であり、直ちに千住宿を守備していた岡山藩に撒兵隊の武装解除を命じた。 一報、日光へ向かった旧幕府軍の先鋒部隊はさらに二手に分かれた。 一隊は秋月登之助が率いて下妻に向かい、もう一隊は土方が率いて下館へ向かった。
5月8日(慶応4年4月16日)、大鳥圭介の率いる旧幕府軍中・後軍や別働隊は、小山付近で東山道軍総督府大軍監香川敬三の率いる新政府軍と4度の戦闘を行い、これを敗走させた。
5月9日(慶応4年4月17日)、土方は下館城を包囲し大手前に大砲を設置し下館藩に旧幕府軍への参加を要請した。 しかし下館藩は藩主石川総管の病気などを理由に参加を拒み、物資の供出にのみ同意した。 その後秋月隊は下妻藩から30人(10人の説も)の兵を供出させ土方隊と合流。
5月10日(慶応4年4月18日)、土方隊はそのまま宇都宮へ向かった。
5月11日(慶応4年4月19日)、戊辰戦争: 宇都宮城の戦い。
旧幕府軍の先鋒部隊は宇都宮城を攻撃した。 土方の率いる桑名藩隊は城の南東の簗瀬橋を突破し下河原門に攻め寄せたが、新政府軍も奮戦し激戦となった。 秋月率いる伝習第一隊は中河原門を攻撃し、回天隊は南館門を攻撃した。 戦闘中、1人の兵士が戦闘の激しさに耐えられなくなり、敵前逃亡を図った。 土方はこの兵士を斬り捨て、「退却するものは誰でもこうだ」と言い放った。 これにより旧幕府軍の士気が上がり下河原門を突破する。新政府軍は二の丸に火をかけ退却し、宇都宮城はわずか1日で落城した。 宇都宮城の炎は夜通し消えることはなかった。 5月13日(慶応4年4月21日)、東征大総督有栖川宮は江戸城へ入城。ここに江戸城は正式に大総督府の管下に入り、江戸城明け渡しが完了した。徳川慶喜が謝罪し、江戸を平定したことを報告している。 薩摩藩兵・長州藩兵・大垣藩兵・鳥取藩兵・土佐藩兵などからなる新政府軍は、宇都宮城の奪回に向け、宇都宮城へ向かった。 旧幕府軍は壬生城を攻撃するため南下したが、新政府軍はこれを姿川で阻止し、両軍は川を挟んで対峙する形となった。 やがて新政府軍の援軍が到着し旧幕府軍は退却した。 戦いの直前に、日光で新政府軍と旧幕府軍が対峙した。しかし新政府軍の司令官板垣退助は「日光は徳川家康以来の文化的・国家的財産が多く集まっており戦火でそれらを失うには忍びない」と考え、旧幕府軍に使者を送り、対決の場所を替えようと主張した。 旧幕府軍側も同調し、日光は戦火を免れた。この功を讃えて、JR及び東部日光駅から神橋へ向かう道路沿いには現在大きな板垣退助像が立っており、彼が救った寺社の方角をじっと睨んでいる。 ただしこの話は、板垣を美化するための後世の作り話との説もある。
5月15日(慶応4年4月23日)朝、新政府軍は宇都宮城へ攻撃を開始した。城下の入り口にあたる六道の辻が攻防の最前線となり激戦となった。 六道の辻が新政府軍の手に落ちると、新政府軍は旧日光街道新田町の延命院・桂林寺に砲台を築き、宇都宮城及び桑名藩隊が守備する明神山(宇都宮大明神)・八幡山に向け砲撃を開始した。 土方は桑名藩隊を率いていたが二荒山神社(竹林があった宇都宮城松が峰門付近ともいわれる)で足の指に被弾し負傷、秋月も負傷した。 これにより両名は戦場を離脱し今市へ護送された。新政府軍は宇都宮城を奪回した。 今市に護送された土方と秋月は会津西街道を通って会津へ向かった。 破壊された宇都宮二荒山神社はその後明治新政府によって復興され、社格も一時は外された国弊社に復帰された。 この戦いの戦火を免れた日光は、江戸期も京からの勅使の往来が定期的にあった(日光例幣使街道)。 これに対し、宇都宮は豊臣秀吉による藤原北家流宇都宮氏改易に続いて江戸徳川家の膝下となり、江戸期は京から隔絶されていた。 このことも、血で血を洗う短期決戦の激戦の舞台となってしまった一因であろう。
5月16日、ジョンソン米大統領に対する弾劾が不成立(1票差)
5月17日(慶応4年4月25日)、八幡で武装解除の交渉が行われ、翌日には3日以内の武装解除を撒兵隊先鋒の江原に命じた。 江原は大鳥隊との連携の可能性が無くなった以上、単独での江戸奪還は困難と考えて徳川家の家名再興が許されるのならば武装解除やむなしとしてこれを受け入れた。 ところが、陣中に戻った江原がこの意向を伝えたところ、隊内の強硬派の突き上げを受けて武装解除の議論はまとまらなかった。 これに対して新政府軍は市川・国府台近くの弘法寺に本陣を置いて、行徳に福岡藩100、八幡に岡山藩他100、鎌ケ谷に佐土原藩200、本陣のある市川には安濃津藩400(一部徳島藩の援軍含む)が配備された。
5月20日(慶応4年4月28日)、4藩の隊長は軍議を開き、閏4月1日までに武装解除に応じなければ攻撃を開始する意向を固めた。
5月23日(慶応4年閏4月2日)、4藩は最後通告を発したものの、撒兵隊はこれを拒否する。江原は新政府軍の総攻撃が近いと考えて先手を打つことにした。
5月24日(慶応4年閏4月3日)、早朝午前5時頃、撒兵隊が八幡の岡山藩陣地を攻撃した。不意を突かれた岡山藩兵は大混乱に陥った。 安濃津藩の援軍が駆けつけて市川方面から砲撃を仕掛けたものの、岡山・安濃津藩軍は総崩れとなり市川にて大砲2門を奪われ、後方の弘法寺で攻防が行われた。 この間に市川宿が炎上して127軒が炎上した。ところが、昼頃に急を聞いて駆けつけた松戸方面から岡山藩の増援が、新宿方面から安濃津藩・薩摩藩の援軍が駆けつけたために戦況は一転し、撒兵隊は八幡・中山を放棄して船橋に撤収しようとした。 一方、鎌ケ谷にいた佐土原藩軍は、八幡方面からの砲声を味方である岡山・安濃津藩が撒兵隊に攻撃を仕掛けたと(実際とは反対に)勘違いをして木下街道から馬込沢を経由して(現在の鎌ヶ谷大仏−船橋駅のバスとほぼ同ルートか?)船橋方面に進軍しようとした。 途中、佐土原藩軍を待ち受けていた撒兵隊の別働隊が待ち構えており、馬込沢と夏見で衝突、一部の兵士は迂回を試みて近くの金杉(夏見の東側)や行田(同西側)でも衝突した。撒兵隊を駆逐した佐土原藩軍は昼頃に船橋に突入した。 だが、これは結果的には双方にとって想定外であった。 佐土原藩軍は既に安濃津藩軍などが船橋に入っているものと思っていたのに対して実際には味方の兵が船橋にはおらず、逆に船橋大神宮の本営では江原が市川で新政府軍を打ち破っているという報を受けていたために敵が突然船橋に現れたことに動揺を来たしたのである。 やむなく佐土原藩軍は単独での攻撃を決意、船橋大神宮の西に大砲を設置し、別働隊を大神宮の南側と北側に配置して砲撃と同時に大神宮への攻撃を仕掛けた。佐土原藩軍と撒兵隊は大神宮の北側にある「宮坂」で衝突して激しい戦いが繰り広げられたものの、船橋大神宮が砲弾の直撃を受けて炎上したため、総崩れとなった。 その頃、行徳を出た福岡藩軍は薩摩藩の援軍の力を借りて二俣を経由して船橋の入り口にあたる海神に進出、中山と船橋の連絡を遮断した。 これを知らずに船橋に撤退しようとしていた市川・中山方面からの撒兵隊は挟み撃ちに遭ってしまい潰走、負傷した隊長の江原さえもが放置される有様であった。 更に船橋の街中で撒兵隊の残党がなおも抵抗を続けたために佐土原藩軍は船橋宿に火を放った。 これが先の大神宮の火災と折からの強風が重なって予想以上の大火災となり、船橋を構成する3村で814軒が焼失してしまった。 幸いな事に翌日の激しい雨の影響で火災は鎮火され、新政府軍は船橋の完全な制圧に成功したのである。公式の資料に明らかになっている死者は新政府側20名・旧幕府側13名だと言われている。 五井戦争が起こる。(市川・船橋戦争で敗走してきた幕府軍の一隊と新政府軍が戦った房総最後の戦闘である) 市川・船橋戦争に敗れた幕府軍の一隊は上総方面に南下、これを追って官軍も4日に検見川、6日に千葉(蘇我)へ追撃してきた。
5月24日(慶応4年閏4月3日)、江湖新聞創刊(福地源一郎)
5月25日(慶応4年閏4月4日)、新政府の特使として柳原前光が市川に入って被害状況などを確認した後、市川宿には金500両、町の中心部が悉く焼失した船橋宿には3,000両を下賜して両地域の住民が新政府に敵意を抱かないように配慮した。 その後、新政府軍は木更津にいた福田と撒兵隊の主力を敗走させ、請西藩以外の房総諸藩は新政府に恭順の姿勢を示したのである。 なお、怪我をして現地に取り残された江原鋳三郎は、その後秘かに江戸に逃れて新政府側に投降し、新しく徳川家の当主となった徳川家達に仕えて静岡藩に下向、後に「江原素六」と改名して政治家・教育者として名を残すことになった。
5月27日(慶応4年閏4月6日)夜、上総国八幡(市原市)辺りで薩摩藩兵二人が幕府軍によって殺害される。
5月28日(慶応4年閏4月7日)、これを機に幕府軍と新政府軍は養老川で対峙し五井戦争が勃発した。幕府軍は養老川の渡り船場の保持を村方に命じた。 昼、官軍は養老川を渡河し姉ヶ崎へ進出、ここには、撤兵頭福田八郎右衛門を擁した第3大隊が布陣していたが、官軍の猛攻に撤退せざるえなかった。 この五井周辺の戦いで幕府軍もよく敢闘したが兵60名が戦死し敗れ、これ以後房総半島における組織的抵抗ができなくなった。 参謀伊地知正治、部隊長野津鎮雄、川村純義の率いる新政府東山道軍は宇都宮城の戦いに勝利し、宇都宮を拠点として確保していた。 新政府軍は、薩摩藩兵を中心とし、大垣藩兵、長州藩兵、忍藩兵で形成されていた。 新政府軍は宇都宮から大田原まで進軍していたが、会津による白河城占拠を知った江戸からの指令で、そのまま白河へと前進した。

6月1日(慶応4年閏4月11日)、もしほ草創刊(岸田吟香ら)
6月10日(慶応4年閏4月20日)、戊辰戦争: 会津戦争 二本松藩兵が守備していた白河城へ会津兵が侵攻しこれを占領した。 会津藩兵(青龍隊等)と新選組(土方歳三が負傷により戦列を離れていたため山口二郎(斎藤一)が指揮)は、手薄な白河城南方の防備を固めるため、白坂口と棚倉口の小山や丘に兵を入れて防御態勢をとっていた。
6月11日(慶応4年閏4月21日)、政体書発布
6月15日(慶応4年4月25日)払暁、新政府軍は白坂口へ奇襲をかけたが会津藩兵はこれを迎撃。 新政府軍は長雨でぬかるんだ田地に足をとられ、行軍の疲労や土地勘の無さも重なり損害を出して芦野へ撤退した。
6月16日(慶応4年4月26日)、白河口総督として会津藩家老西郷頼母が、副総督として同横山主税が白河城に入場した。 また、仙台藩、棚倉藩、二本松藩の増援部隊も到着した。 山口二郎や純義隊の宮川六郎らは白坂口の防衛を献策したが、西郷頼母は「兵力で勝っており不要である」として却下した。 新政府軍は宇都宮城の土佐藩兵に協力を仰ぎ、東山道軍に薩摩藩の他の部隊を合流させ増員した。 兵力は新政府軍が約 700名、旧幕府軍が2,000から2,500名であった。
一方、北陸では、小千谷近くの雪峠で幕府脱走兵「衝鉾隊」と高田軍との交戦が開始。(これをもって北越戦争開始とする話もあるらしい)
6月17日(慶応4年4月27日)、小出島で西軍と会津軍と小競り合いが発生。同日、鯨波でも桑名軍と西軍とも小競り合いが発生した。
6月19日(慶応4年4月29日)、関東監察使として江戸に下った総裁三条実美は、鎮将府を設置して民政・治安権限を徳川家から奪取し、彰義隊の江戸市中取締の任を解くことを通告した。 その後、新政府自身が彰義隊の武装解除に当たる旨を布告する。 また、三条実美は田安亀之助(後の徳川家達。6歳)による徳川家相続を差し許す勅旨を伝達した。 ついで5月24日には駿府70万石に移封されることが発表となった。 これにより新たに静岡藩徳川家が成立したが、800万石から70万石への減封によって膨大な家臣団を養うことはできなくなり、駿府へ赴いた者は15000人程度だったという。 またこの時、会津では、新政府軍が白河城攻略のため、白坂口へ本陣を置いた。
6月20日(慶応4年5月1日)、新政府軍が白河城の攻略にかかった。 新政府軍は兵力を3つに分け、本体は伊地知が率い少数の囮部隊として中央から進軍、野津と川村が指揮する2部隊は左右へ迂回して旧幕府軍を包囲、退路を立ちつつ進軍し白河城を攻略する作戦をとった。 左右の迂回部隊がまず先発し、時間差をつけ遅れて本体が進軍、小丸山を占拠した。新政府軍本隊は、多数の旗を掲げて大軍と見せかけ、旧幕府軍が布陣していた白河城南に位置する稲荷山(現在の九番町西裏 - 稲荷公園)に砲撃して注意と兵力を引きつけた。 この際、稲荷山に激励に赴いた旧幕府軍副総督の横山主税が銃撃され戦死した。 西郷頼母は稲荷山へ白河城と他の方面から戦力を逐次投入し、新政府軍本隊へ攻撃をしかけた。 こうして手薄になった立石山と雷神山へ、新政府軍別動の2部隊が侵攻して占拠した。 これにより新政府軍は稲荷山を包囲する形となり山上から銃撃を加え、さらに兵力を展開して城下へと突入し白河城を占領した。 同盟軍は横山主税をはじめ幹部多数を失い、約700名の死傷者を出したが、新政府軍の死傷者は 20名前後と伝えられ、新政府軍の圧勝に終わった。 この頃新政府軍は関東を完全に制圧できていなかったため、白河城へ増援する余裕が無く、黒川藩によってわずかに兵力を増強できたに過ぎなかった。
6月21日(慶応4年5月2日)、ワーグナー歌劇「ニュルンベルクのマイスタージンガー」初演(ミュンヘン)
6月21日(慶応4年5月2日)、戊辰戦争: 北越戦争
6月21日(慶応4年5月2日)、河井は長岡への侵攻の中止と会津藩の赦免を求めて新政府軍の軍監・岩村精一郎と小千谷の慈眼寺で会談した。しかし岩村は河井の嘆願を一蹴、談判は決裂する。
6月22日(慶応4年5月3日)、小千谷の慈眼寺で長岡藩の総督、河井継之助と東山道先鋒総督府軍軍艦岩村精一郎との会談があるも、決裂に終了。長岡藩はこれを持って開戦を決意、北越戦争の開始。
6月22日(慶応4年5月3日)、戊辰戦争: 奥羽列藩同盟成立
6月23日(慶応4年5月4日)、長岡藩はやむなく奥羽越列藩同盟に正式に参加し、新発田藩など他の越後5藩もこれに続いて同盟に加わった。これにより長岡藩と新政府軍の間に戦端が開かれた。 地政的には奥羽越列藩同盟側は新潟港に武器弾薬の調達を頼っており、ここを制圧することは新政府軍にとって最重要課題であった。 新潟港には会津藩兵・米沢藩兵らの旧幕府軍が警備と防御のため駐留していた。 また新潟を制圧することにより、庄内方面及び阿賀野川を通じ会津方面へのルートを扼する事が出来た。 小千谷談判の決裂後、長岡藩は摂田屋(長岡市)の光福寺に本陣を置き、先に新政府軍が占領していた榎峠(長岡市〜小千谷市)を攻撃して奪回する。新政府軍は奪取された榎峠を攻撃するため、朝日山(小千谷市)の確保を目指し準備を進めた。 山県が前線を離れた留守の間に時山直八が攻撃を開始し、朝日山山頂に陣取る立見鑑三郎率いる桑名藩兵と長岡藩兵と戦うが時山は戦死し、新政府軍は敗走する。 その後、両軍とも攻め手を欠き、砲撃戦に終始する。新政府軍は小藩である長岡藩の頑強な抵抗によって被害を出しつつあった。
6月29日(慶応4年5月10日)、朝日山近くの榎木峠で戦が始まる。激戦の末、夜半、連合軍は榎峠を占領。西軍はそのまま敗走する。 6月30日(慶応4年5月11日)、長州4番小隊、薩摩外城隊等で信濃川右岸に移動するも既に時期喪失。 長岡軍を中心とした東軍はここに朝日山?榎峠のラインを確保。西軍は之にたいして朝日山奪還の準備を行なう。

7月1日(慶応4年5月12日)、妙見村・浦柄村は長岡藩に占領された。そこで、新政府軍は朝日山に攻撃をかけた。この攻撃には、山県有朋、時山直八が指揮をとった。
7月2日(慶応4年5月13日)、深い霧の中を新政府軍は攻めてきたが、東軍は加勢して応戦し、時山直八を討ち、東軍が有利になった。 その後、東軍は5千、新政府軍は1万の兵を集めたといわれ、13日から1週間、雨の中戦いが続いた。 その際、山県有朋は「あだ守るとりでのかがり影ふけて夏も身にしむ越の山風」と歌を呼んでいる。 その後、新政府軍は1隊はそのまま戦い、もう1隊を長岡城へ向かわせた。
7月4日(慶応4年5月15日)、太政官札発行 新政府軍側から宣戦布告がされ、午前7時頃に正門の黒門口(広小路周辺)や即門の団子坂、背面の谷中門で両軍は衝突した。 戦闘は雨天の中行われ、北西の谷中方面では藍染川が増水していた。 新政府軍は新式のスナイドル銃の操作に困惑するなどの不手際もあったが、加賀藩上屋敷(現在の東京大学構内)から不忍池を越えて佐賀藩のアームストロング砲や四斤半砲による砲撃を行った。 彰義隊は東照宮付近に本営を設置し、山王台(西郷隆盛銅像付近)から応射した。西郷が指揮していた黒門口からの攻撃が防備を破ると彰義隊は瓦解する。午後5時には戦闘は終結、彰義隊はほぼ全滅した。 戦闘中に江戸城内にいた大村が時計を見ながら新政府軍が勝利した頃合であると予測し、また彰義隊残党の敗走路も大村の予測通りであったとされる。 これらの戦いにより、抗戦派はほぼ江戸近辺から一掃された。 戦いの結果、新政府軍は江戸以西を掌握した。 この戦いに敗戦した彰義隊は有志により輪王寺宮とともに隠棲し、榎本武揚の艦隊に乗船し、平潟港(現茨城県北茨城市)に着船。 春日左衛門率いる陸軍隊等、一部の隊士はいわき方面で、残る隊士は会津へと落ち延びた。戊辰戦争の前線は関東の北の要塞であった宇都宮や、旧幕府勢力が温存されていた北陸、東北へ移った。 (戦闘が行われた黒門は荒川区の円通寺に移築されており、弾痕の残った柱などが保存されている。)
7月5日-6日(慶応4年5月16日-17日)、一方東北では、列藩同盟軍が連携が悪く兵力の集結や総攻撃の決断ができずに小規模の攻撃を行った程度であった。 こういった状況の中、仙台藩士細谷直英(十太夫)は、須賀川で奥州の大親分を含む東北地方の侠客・博徒・農民などを糾合して「衝撃隊」を結成し、黒装束に身を包んで長脇差で夜襲攻撃を繰り返した。 衝撃隊は新政府軍から「鴉組(からすぐみ)」と呼ばれて恐れられた。
7月8日(慶応4年5月19日)、戊辰戦争: 北越戦争、長岡城陥落 北越での膠着した戦局を打破すべく新政府軍は与板藩の御用商人による船の援助により信濃川を渡河し、長岡城下への奇襲攻撃をかけた。 当時、長岡藩をはじめとした同盟軍主力部隊は榎峠等の守備に回っており、城下はがら空きの状態だった。 城はわずか半日で落城し、長岡藩兵は栃尾に退却した。 しかし新政府軍に追撃する余力が無かったため、長岡藩兵は態勢を整え加茂に集結。 長岡城が落城すると、東軍、新政府軍は蒲原へ向かった。その後今町(見附市)を奪回し、新政府軍と睨みあった。 以後、山県有朋率いる新政府軍が戦線を引き下げ、八丁沖東部と西部に戦線を再構築した後、同盟軍も新たに占拠した見附から南下。 南下した同盟軍と新たな戦線を構築した新政府軍の間で八丁沖西部戦線で小規模な小競り合いは発生したが、大規模な戦闘は発生しないままこう着状態が続く。
7月9日、米国憲法修正第14条が批准。
7月15日(慶応4年5月26日)、旧幕府軍はようやく兵力の再集結を終え、約2,000の兵力をもって白河城へ総攻撃をかけた。 雨中であり両軍とも小銃の着火に手間取ったが、特に旧幕府軍では旧式の小銃が多く戦力の大きな低下を招いた。
7月16日-17日(慶応4年5月27日-28日)、旧幕府軍はさらに連続して攻撃をかけたが、新政府軍はこれを撃退した。 6月に入ると、新政府軍は5月6日の今市の戦いや5月15日の上野戦争での勝利によって関東から旧幕府勢力を駆逐できたため戦力に余力が生じ、板垣退助率いる土佐藩兵や、江戸の薩摩藩兵を白河城へ増援できるようになった。
7月26日(慶応4年6月7日)、八丁沖の戦いが起こる 米沢藩兵はそれまで大隊長だった斉藤篤信を仮参謀に任命(後任の大隊長は香坂勘解由)、これにより今後この方面の米沢藩兵は斉藤の指揮の元で戦う事になる。 六月七日早朝、斉藤率いる米沢藩兵5個小隊(桃井清七郎隊・徳間久三郎隊・大津英助隊・左近司周助隊・大熊左登美隊)は見附南方の集落傍所村に集結し、刈谷田川を渡河し刈谷田川東岸の集落の中興野村に入る。 ここに本陣を設けた米沢藩兵は猿橋川西岸の集落の大口村に進み、ここから猿橋川西岸の集落の十二潟村に陣地を構えた新政府軍に攻撃を開始。 十二潟村の陣地を守っていたのは加賀藩兵1個中隊相当(箕輪知太夫隊)及び砲1門で、米沢藩兵5個小隊は大口村から対岸の十二潟村の新政府軍陣地を攻撃するが、砲兵不在の米沢藩兵は薩長仕込みの西洋流陣地を攻めあぐね、逆に加賀藩砲兵隊の反撃に苦戦。 こうして暫くは猿橋川を挟んで大口村と十二潟村の間で米沢藩兵と加賀藩兵の間で銃砲撃戦が行なわれるが、正午頃加賀藩砲兵隊の放った弾丸が大口村の農家に命中。 この砲撃によって発生した火災は大口村中に燃え広がり、その火災は大口村だけではなく隣の池之島村まで広がり、この火災による黒煙の為戦闘続行が不可能となり、両軍とも一旦引き揚げ陣容を立て直す事になる。 米沢藩参謀の甘粕継成は傍所村隣の葛巻村に本陣を構えていたが、十二潟村に攻め入った斉藤隊の苦戦と斉藤の戦死(誤報)が伝わると手勢の2個小隊(須田右近隊散兵隊・上野貞助散兵隊)と2個大筒隊(桐生源作30匁大筒隊・蓬田新次郎隊)を率いて中興野村に向かう。 また米沢藩兵の苦戦を知った会津藩朱雀士中四番隊(隊長佐川官兵衛)及び砲1門と長岡藩兵1個小隊(大川市左衛門隊)も援軍に加わり、米沢藩兵・会津藩兵・長岡藩兵の同盟軍は中興野村に急行。 甘粕等の同盟軍が中興野に到着すると、そこには斉藤率いる米沢藩兵5個小隊が休憩しており、斉藤の戦死が誤報と知った甘粕は火災が収まった事を確認し、自らが率いてきた軍勢と斉藤の軍勢を併せて十二潟村への攻撃を再開。 かくして米沢藩兵7個小隊(桃井清七郎隊・徳間久三郎隊・大津英助隊・左近司周助隊・大熊左登美隊・須田右近隊散兵隊・上野貞助散兵隊)と2個大筒隊(桐生源作30匁大筒隊・蓬田新次郎隊)、会津藩兵1中隊相当(朱雀士中四番隊)及び砲1門、長岡藩兵1個小隊(大川市左衛門隊)による同盟軍は大口村に向かい、再び猿橋川対岸の十二潟村への攻撃を開始。 こうして戦力を増強して再び攻撃を開始した同盟軍だが、一方の新政府軍も十二潟村の苦戦を伝え聞いた筒場村を守る薩摩藩城下士小銃十番隊(隊長山口鉄之助)と外城三番隊(有馬誠之丞)の2個中隊相当が十二潟村に援軍として来援。 このように同盟軍・新政府軍共に午前の戦いより増強された戦力で戦闘を開始したが、午前の戦いでは砲撃力不足で新政府軍の陣地を攻めあぐねた同盟軍は、午後の戦いでは会津藩兵の砲1門と米沢藩兵の2個大筒隊が新政府軍の陣地に砲撃を行なうが、勇猛果敢な薩摩藩兵は陣地を出て同盟軍に猛反撃を開始した。 この薩摩軍の猛反撃の前に同盟軍は多くの犠牲を出し、特に新政府軍陣地を攻め落とす決め手となるべき会津藩砲1門の砲手が戦死。 これにより会津藩兵の砲1門が使えなくなった同盟軍は攻撃力が低下し、また勢いに乗った薩摩藩兵の猛攻を支えきれなくなり、結局夕暮れ頃には同盟軍は大口村を捨てて撤退する事になる。 十二潟以外の八丁沖西部戦線でも、同盟軍は筒場村と大黒村の新政府軍陣地に攻勢を仕掛けるが、この攻撃は小規模なものだったので単なる銃撃戦で終わった。 攻撃は失敗した同盟軍だったが、翌日から猿橋川右岸(東岸)の諸集落に進出して陣地を構築し始め、猿橋川左岸(西岸)の集落に陣地を構築した新政府軍と対陣する事になる。
7月27日(慶応4年6月8日)、新聞紙の無許可発行を禁止
7月27日(慶応4年6月8日)、森立峠の戦闘。 新政府軍の撤退により栃尾を奪回した同盟軍だが、この栃尾からは山岳地帯を通って長岡まで繋がる森立峠があり、長岡藩兵はこの森立峠を奪取して長岡奪回の橋頭堡を得ようと、この森立峠攻撃を実地。 この攻撃に参加した同盟軍は川島億二郎率いる長岡藩兵4個小隊(花輪彦左衛門隊・渡辺進隊・荻野喜右衛門隊・稲葉又兵衛隊)・会津藩二番遊撃隊(隊長井深宅右衛門)半隊・衝鋒隊・村松藩兵2個小隊の戦力で、一気に奇襲で森立峠を突破するつもりだった。 この時森立峠を守備していたのは加賀藩兵1中隊相当(小川仙之助隊)と飯田藩兵1個小隊のみで、その森立峠に同盟軍は忍び寄っていく。しかし奇襲の予定だったのに、堪えきれずに長岡軍が先に発砲を開始したため、新政府軍に察知され瞬く間に銃撃戦に発展。 それでも戦力に勝る同盟軍は新政府軍を圧倒したが、砲声を聞いて駈けつけた長州藩奇兵隊三番隊が援軍に駆けつけ、スナイドル銃による猛射撃を行なった為、同盟軍はこの反撃を支えきれず森立峠から撤退する。
7月29日(慶応4年6月10日)、今までの戦いで指揮権が統一されていない攻撃は非効率と言うのを実感した同盟軍は八藩(会津藩・庄内藩・長岡藩・桑名藩・村松藩・村上藩・山形藩・上ノ山藩)家老の連名を以って米沢藩総督の千坂高雅に同盟軍の総指揮を取るように要請。
7月31日(慶応4年6月12日)、会津で旧幕府軍は白河城へ攻撃を仕掛けたが、失敗に終わった。

8月1日(慶応4年6月13日)、当初はこの要請に戸惑いを見せた米沢藩側だが、この要請を受諾し、以降は千坂がこの方面の同盟軍の総督に、米沢藩参謀の甘粕継成がこの方面の同盟軍の参謀に就任し、千坂の指揮の元同盟軍初の統一された翌日の八丁沖西部戦線・東部戦線への大攻勢が行なわれる事になる。 指揮権を統一した同盟軍は、総督たる千坂高雅の指揮の元、八丁沖西部戦線と東部戦線での一斉大攻勢を行なう事を決断する。
8月2日(慶応4年6月14日)払暁、大雨が降りしきる中、押切村の同盟軍本営に置かれた米沢藩砲2門と長岡藩砲2門が一斉に砲撃を開始し、この砲声を合図に八丁沖西部戦線の中之島村・中興野村・押切村・福井村、東部戦線の田井村にそれぞれ集結していた同盟軍は、それぞれの攻撃部署に一斉に攻撃を開始。 川辺村の戦い 終始大雨だった為、川辺村の陣地を守る薩摩藩外城四番隊も、大雨の降りしきる払暁前の暗闇に紛れて接近する同盟軍を発見する事が出来ず、押切村からの砲声を受けて一斉に攻撃を開始した同盟軍の攻撃は完全な奇襲となる。 そのような奇襲を受けても勇猛な外城四番隊は反撃に転じたが、流石は歴戦の衝鋒隊が猛射撃と散兵戦術を見せた為、遂に川辺村を守る外城四番隊も上田藩1個小隊もこの猛攻を支えきれず、川辺村の陣地を捨てて撤退。 こうして川辺村は同盟軍の手に落ちた為、同盟軍本営は川辺村を攻め落とした衝鋒隊と米沢藩兵に、未だ戦闘中の隣村十二潟村への援軍を命じるが、衝鋒隊は本営の命令を無視して攻め落とした川辺村で略奪の悪癖をまた始める。 ただこの命令無視は衝鋒隊だけでなく、川辺村に進駐した米沢藩兵も略奪こそしなかったが、ぐずぐずしてる内に体制を立て直した薩摩藩外城四番隊は反撃の為川辺村に来襲。 この外城四番隊の逆襲は川辺村を奪われた雪辱を果たそうかのように凄まじい物だったらしく、また衝鋒隊が「弾薬が切れた為後退する」と逸早く撤退した為、残された米沢藩兵6個小隊はこれと言った抵抗も出来ずに結局川辺村を奪回されて敗退。
十二潟村の戦い
十二潟村に対する攻撃は、砲声の合図と共に米沢藩兵6個小隊が進軍を開始し、七日の戦いと同様に十二潟村対岸の集落の大口村をまずは占拠。 大口村占領後対岸の十二潟村の新政府軍陣地に銃撃を開始するが、新政府軍の陣地の堅い守り(八丁沖西部戦線の新政府軍の陣地の中では十二潟村の陣地が一番堅固だった)に退けられていく。 この為押切村の本営より川辺村を占領した同盟軍に、十二潟村攻撃の援軍に向かうように命令がでるが、前述のように衝鋒隊が略奪に夢中になってしまい、また米沢藩兵がもたもたしてしている間に結局川辺村は奪回され、これにより十二潟村攻撃の援軍は幻となってしまい、結果十二潟村への攻撃は失敗に終わった。
筒場村の戦い  
筒場村への攻撃は同盟軍の本営が置かれた押切村の部隊が担当となり、本営直属の砲5門(米沢藩2門・長岡藩2門・村松藩1門)の砲撃の元、米沢藩兵と会津藩兵が攻撃を開始する。 しかし、この筒場村には新政府軍精鋭の薩摩藩2個中隊相当(城下士小銃十番隊・外城三番隊)が主力となっていて守りを固めていたので(二番遊撃隊も居た可能性有り、もしそうなればこの筒場村を守っていた薩摩藩兵は3個中隊相当)、同盟軍の攻撃も思うように捗らなかった。 むしろ攻撃精神旺盛な薩摩藩兵の砲撃の前に、砲門の数で圧倒的な優勢の筈の同盟軍は砲撃戦で圧倒されてしまい、長岡藩と村松藩の砲兵が多数負傷。 同盟軍の砲撃も会津藩軍事顧問の肩書きを持つヘンリー・スネルが自ら砲を操り筒場村への砲撃を行なうが、防戦の一方で薩摩藩兵は隣の大黒村に城下士小銃十番隊半隊を援軍に送っている事からも、筒場村を守る新政府軍が余裕を持った戦いを行なっていたのは明確で、結局押切村からの筒場村への攻撃も失敗に終わった。
大黒村の戦い
砲声が聞こえると共に福井村から進発した長岡藩兵と会津藩兵は銃撃もそこそこに一斉に大黒村に突撃。 この日大黒村には高田藩兵1個小隊(緒戦は半小隊のみ)が守備しているに過ぎなかったが、完全に奇襲であった上にここを守る高田藩兵が農兵隊だった為に、士族部隊である長岡藩兵・会津藩兵の白兵戦にかなう訳がなく、瞬く間に大黒村から駆逐。
余談ですが小銃の扱いは短期間で習得出来る為、戊辰戦争では農町民兵が活躍し、中でも大鳥圭介率いる伝習隊などは各地で新政府軍を破り大活躍するが、刀や槍の扱いには長い鍛錬が必要な為、こと白兵戦となると農兵隊は士族部隊の敵では無く、前述の伝習隊でさえも銃撃戦では無類の強さを見せたが、白兵戦となるとてんで弱かったのを指揮官の大鳥自らが認めている。
大黒村は同盟軍、中でも長岡藩兵と会津藩兵の猛攻の前に陥落したが、敗北した高田藩兵は蜘蛛の子を散らすように敗走し、何人かの兵が隣村の筒場村に逃げ込んだ為、筒場村の新政府軍は大黒村の陥落を知る事になる。 これを受け筒場村を守る薩摩藩城下士小銃十番隊長の山口鉄之助は、十番隊の半隊を引き連れ大黒陣地に急行し、大黒村を奪取したばかりの同盟軍に襲い掛かった。 この山口率いる城下士小銃十番隊半隊の攻撃は、流石は新政府軍の精鋭と呼ばれた薩摩藩兵の中でも最強と呼ばれた城下士小銃隊だけあって、圧倒的多数な同盟軍を突き崩すし大いに奮戦。 しかし山口達の奮戦がいかに勇猛果敢だったとしても、この頃には米沢藩兵4個小隊や長岡藩兵1個小隊(田中稔隊)も大黒村に到着していたので所詮は多勢に無勢、長岡藩兵・会津藩兵・米沢藩兵に囲まれた薩摩藩城下士小銃十番隊は隊長の山口と半隊長の皆吉九平太が戦死すると言う大損害を受け敗走。 こうして大黒村は陥落したが、この同盟軍の一斉攻撃と大黒村の陥落を知った関原本営の山形有朋は、長州藩奇兵隊八番隊(隊長三好六郎)と長府藩報国隊二番隊(隊長内藤百太)、他に加賀藩兵等の援軍を至急大黒村に送った。 かくして大黒村を占領した同盟軍に新手の新政府軍が襲いかかり、また筒場村からも城下士小銃十番隊の残りの半隊を始めとした援軍が攻め寄せ、他にもようやく体制を立て直した高田藩兵も戦闘に加わった為、大雨の降りしきる中大黒村では新政府軍と同盟軍入り乱れの死闘の末、遂に力尽きた同盟軍は夕暮れ頃大黒村から撤退した。
亀崎村・赤坂山の戦い
八丁沖西部戦線で同盟軍の一斉攻撃が行われたが、八丁沖を隔てた八丁沖東部戦線の田井村に駐留する米沢藩柿崎家教大隊もまた、押切村からの砲声を聞き進軍を開始。 この時の柿崎大隊の動きについては詳細ははっきりとは記録にないが、二手に分かれて亀崎村と赤坂山をそれぞれ攻撃し、この地を守る大垣藩兵1個小隊及び大垣支藩兵半小隊を破って敗走させた。 かくして亀崎村と赤坂山を占領した柿崎大隊だが、亀崎村南方の浦瀬村にこの敗戦が伝わると、大垣藩兵と共に亀崎村と赤坂山を守っていた松代藩八番狙撃隊(隊長小幡助市)・同三番小隊(隊長吉村左織)と、元々浦瀬村を守っていた長州藩奇兵隊四番隊(隊長能見兵児)が亀崎村と赤坂山奪回の為出撃する。 今度は攻守を逆にして、米沢藩柿崎大隊の守る亀崎村と赤坂山に、新政府軍の長州藩兵と松代藩兵が攻めかかる事となり、激戦の末に夕暮頃に米沢藩兵を破り亀崎村と赤坂山を奪回した。 栃窪村の戦い この日の同盟軍の戦いは八丁沖西部戦線と東部戦線だけではなく、栃尾周辺の山岳地帯の栃窪村にも同盟軍は攻撃を開始した。 もっともこの攻撃は押切本営の指揮下に置かれた攻撃ではなく、栃尾村に駐留する同盟軍(主に長岡藩兵)が独自に行なった攻撃であった。 この為大軍を運用するには不向きの山岳地帯の戦いとは言え、導入されたのは長岡藩兵3個小隊と米沢藩兵1個小隊の計4個小隊のみだった。 この同盟軍4個小隊は土ヶ谷村の守りを村松藩兵に任せた後に進軍を開始し、栃尾周辺の山岳地帯の重要地である栃窪村に向かった。 この栃窪村攻撃隊は少数とは言え戦術的には中々優れており、長岡藩兵1個小隊(保地九朗右衛門隊)に間道を迂回させ、退路と援軍を断つ為に栃窪村の背後を断った上で残りの部隊が栃窪村に攻撃を開始。 このように戦術的には中々優れた同盟軍の攻撃だったが、栃窪村を守るのは精鋭の松代藩六番狙撃隊と同四番小隊、退路を断たれても怯む事無く迎撃したので、結局攻撃を仕掛けた同盟軍が撃退され土ヶ谷村に撤退する事となった。 以上のように初の統一指揮による大規模攻勢となったこの日の同盟軍の攻撃だったが、これだけの大軍を導入したのにも関らず八丁沖西部戦線の攻撃は、主攻撃も無ければ助攻撃も無い完全な平攻めであった。 戦術的には主攻撃地点を決め、そこに戦力を集中して一気に敵の戦線を突破すべきするのが定石なのに、どの集落の攻撃にも満遍なく兵力を配置した為、決定的な攻撃力を得れず、折角川辺村と大黒村を一時は占拠するものの、それ以上戦果は得れなかった。 また、大曲戸村には予備戦力とでも言うべき戦力が居たため、主攻撃と助攻撃を設けなくてもこの戦力を奪取した川辺村か大黒村に投入すれば、戦果を拡大出来た可能性は高かったと思えるが、この大曲戸の戦力が戦闘に参加した様子は見えないので、大曲戸の部隊は完全に遊兵と化していたと思われる。 このように、主攻撃と助攻撃を設けず単なる平攻めを行ったのと、予備戦力と言うべき戦力を遊ばせ遊兵としてしまったと言う二重の失策を犯した攻撃が成功する訳が無く、過去最大の戦力を投入した同盟軍の攻撃は見るべき戦果も無く新政府軍に撃退されたのである。 この体たらくは「戊辰役戦史」でも書かれている通り、全て同盟軍の総指揮を取った千坂の能力不足と決断力の無さが原因と言わざるを得ない。 かくして指揮権を統一し、統一されての軍事行動を取れるようになった同盟軍だったが、折角の指揮権統一も総督の千坂が才覚も度胸もなかったため意味をなさず、この後の攻勢でも同盟軍はただ無意味な平攻めを繰り返すだけであった。 これに対して新政府軍の山県も平攻めだったではないかと言う批判があるかもしれないが、平攻め同士の戦いなら戦力に勝る方が勝つの自明の理であった。 また、この日この越後方面の新政府軍の組織が、今までの大総督府の指揮下の北陸先鋒総督府から、大総督府から独立した会津追討越後口総督府に再編成された。 これにより越後方面の新政府軍は朝廷直属の組織となり、独自の戦争指導を行なう事になる。 この組織変更により、飾り物の公家等の顔ぶれは代わったが、実際の軍務の実権を山県が掌握してると言うのは今までと変わりない状況であった。 しかし今までよりも遙に強い権限を得た山県は、他戦線への援軍すらも越後口に回すと言う強引な手法で越後口新政府軍の戦力を次々に増強していった。
8月3日(慶応4年6月15日)、米沢藩の出羽方面軍だった大隊頭横山与市率いる与板組6個小隊(桜孫左工門隊・温井弥五郎隊・高野織右工門隊・津田仁左工門隊・石井次郎右工門隊・船田善左工門隊)が見附に到着。
8月4日(慶応4年6月16日)、戊辰戦争: 磐城の戦い
8月5日(慶応4年6月17日)、米沢藩の支藩藩主である上杉主水率いる8個小隊による1大隊(桐生丈右衛門隊・小幡弥五右工門隊・山崎虎吉隊・北村重助隊・角善左工門隊・泉崎弥市朗隊・鈴木源五郎隊・丸田右兵衛隊)が見附に到着。 5月に会津に援軍して派遣されていた大隊頭江口縫殿右衛門率いる6個小隊(佐藤孫兵衛隊・山吉新八隊・安部清兵衛隊・上村九左衛門隊・大石与三郎隊・新屋十次郎隊)も見附に転進して来た為、この中越方面の米沢藩兵の戦力は飛躍的に増強された。 今までのらりくらりと風見鶏をしていた新発田藩ですが、遂に米沢藩兵の圧力に屈して、遂に軍勢を同盟軍に差し出すことになり、こうして新発田藩が差し出した溝口半左衛門率いる7個小隊(後述)は、前述の米沢藩大隊長の横山与一に伴われ、同じく十七日に見附に到着。 しかし軍勢を出したと言っても、今までの言動からとても新発田藩を信じる事の出来ない同盟軍は、新発田藩兵の戦意を試す為にも、新発田藩兵を米沢藩兵の指揮下に入れる事を決定。 こうして新発田藩兵7個小隊の内4個小隊は、八丁沖西部戦線の米沢藩兵の指揮を取る仮参謀斉藤篤信の指揮下に入り、残り3個小隊は八丁沖東部戦線の米沢藩兵の指揮を取る大隊長柿崎家教の指揮下に入れられた。 また米沢藩は戦力だけではなく、銃弾・弾薬・雷管等の新発田藩に供出させた。 これは米沢藩兵の補給を滞らせた事に対する懲罰行為だけではなく、八丁沖戦線の激戦により米沢藩兵が慢性的な弾薬不足に陥っていたので、その一時的な解決法として「懲罰」と称して新発田藩に銃弾・弾丸・雷管等を供出させたと思われる。 新発田藩が同盟軍に差し出した戦力は7個小隊と伝えられるが、確認出来る中越戦線に出兵した新発田藩の小隊長は溝口四郎左衛門・高山晟一郎・佐藤八右衛門・鈴木長次郎・里村縫殿・服部吉左衛門・窪田嘉右衛門・高山安兵衛の8名。 新発田市史を読む限り途中で小隊長の交代が行なわれた様子は無いので、中越戦線に出兵した新発田藩兵は伝えられる通り7個小隊だったのか実際は8個小隊だったのか判断がつきかねない状態だったように思われる。
十二潟村・筒場村等の八丁沖西部戦線の戦闘
8月7日(慶応4年6月19日)、新発田軍を指揮下に置いた斉藤は、米沢藩兵と新たに指揮下となった新発田藩兵を率いて十二潟村に攻撃を開始。 この日の戦いでは中興野村と五百刈を出陣した同盟軍は、まず先鋒として新発田藩4個小隊(溝口四郎左衛門隊・高山晟一郎隊・佐藤八右衛門隊・鈴木長次郎隊)が進み、その後を督戦軍として米沢藩兵2個小隊(鈴木源五郎隊・桐生丈右衛門隊)が進んだ(後軍として仙台藩兵2個小隊が続くと言う記述もあり)。 ただ今までの新発田藩の動向から督戦軍だけでは信用出来ない同盟軍参謀であり米沢藩参謀の甘粕継成は、黒金武五郎を始めとした6人の軍目付を直接新発田藩兵の中に送りこみ監視させる。 この新発田藩兵と米沢藩兵の攻撃に対し、当時十二潟村は長州藩奇兵隊八番隊(隊長三好六郎)と加賀藩兵1個中隊相当(隊長蓑輪知太夫)が守っており、新発田藩兵と米沢藩兵はこれまでの戦い通りまずは十二潟村対岸の大口村を占拠して、ここから十二潟村に攻撃を開始した。 この日の天気は晴天の猛暑だったので、銃撃を繰り返す銃身が焼けるような熱さになるのにも関わらず、米沢藩兵の目を気にした新発田藩兵は猛攻を繰り返し、佐藤八右衛門以下の多くの死傷者を出す事になる。 結局この日の戦いは夕方に同盟軍が撤退した為終わったが、それまで新発田藩に疑念の目を向けていた甘粕と斉藤は、この日の新発田藩兵の戦いぶりを見て、その疑念が晴れたと書状を残している。
8月8日(慶応4年6月20日)夜、長岡藩総督の河井継之助は、先の十四日に行なわれた同盟軍初の一斉攻撃が失敗したのは、同盟軍総督になった千坂高雅の作戦が、「何の工夫も無い平攻めだったから」と判断し、会津藩の佐川官兵衛(朱雀士中四番隊隊長、事実上信濃川西岸の会津藩兵の指揮官)を伴い、見附の千坂の本陣を訪れ、自らの作戦を提案する。 この時河井が提案した内容は、まず別働隊を夜間八丁沖内を迂回させ、新政府軍の最前線である大黒村の背後(南東)に位置する福島村を奪取し、福島村を奪取後合図の火の手を挙げ、この合図を受け福井村から大黒村を攻め、福井村からの部隊と福島からの部隊で大黒村を正面と背後から挟撃し、新政府軍の有力な拠点である大黒村も奪取して、新政府軍の戦線に楔を打ち込むという戦術を駆使した作戦であった。 また河井はこの作戦を実地するに当たり、千坂に米沢藩兵の散兵隊を福島村への迂回部隊に参加させるよう求めた。 長岡藩兵と比べると弱兵の米沢藩兵だが、全兵7連発発射可能のスペンサー銃を装備した散兵隊は河井から見ても頼もしく見えたのか、この福島村への迂回部隊に米沢藩散兵隊の参加を求める。 これらの河井の提案を千坂は了承し、散兵隊だけでなく自らの指揮下の米沢藩兵と新発田藩兵を以って八丁沖西部戦線と東部戦線で一斉攻撃を行なう事を決断した。

同盟軍参謀の甘粕継成は、信濃川西岸に展開する同盟軍の戦意が少ないと判断した為、信濃川西岸に展開する同盟軍の指揮を取る会津藩越後口総督の一之瀬要人を督戦すべく地蔵堂の一之瀬の本陣へ出張中の為、この作戦に参加する事はなかった。 更に、いざ地蔵堂に到着した甘粕は、この地で庄内藩家老の石原多門より「会津兵は戦いをせずに、農民から略奪ばかりして困る」と苦情を受けたので、甘粕は一之瀬に会津士魂と呼ばれた民衆からの略奪行為を辞めるように伝る。 これを受けた一之瀬はその場では甘粕に謝罪したが、結局その後も会津兵は一之瀬の厳命には従わず各地で略奪行為を続けたのである。 この自藩兵を纏める事も出来ない一之瀬に対して甘粕は、「人物としては好ましいが、才覚は無い」と言う人物評を残している。

8月9日(慶応4年6月21日)夜半、まずは迂回部隊が進発する。 当時長岡の北東に広がっていた広大な湿地帯である八丁沖は、場所によっては底無し沼の箇所も在ったが、場所によっては通行可能な場所も在った。 その八丁沖内で漁をして生計を立てていた長岡藩の下級藩士を案内にして、迂回部隊は通行可能な部分を迂回部隊は進軍し、大黒村の横を通り抜け大黒村後方の福島村に迫っていく。 当時福島村は、富山藩五番小隊(隊長森田三郎)が守っていたが、最前線では無い福島村が攻撃されるとは思っていなかったらしく、ろくに歩哨すら出さずに油断をしていた。
8月10日(慶応4年6月22日)未明、「通行不能」と言われていた八丁沖から突然同盟軍迂回部隊が現れて福島村に攻撃を開始。 ただでさえ油断していて軍装すらしていなかった上に、そもそもが弱兵の富山藩兵では、奇襲を成功させた上に、ただでさえ連度の高い長岡藩兵と会津藩兵、そして連度はともかく全兵スペンサー銃を装備した米沢藩散兵隊の攻撃に耐えれる筈がなく、ろくな防戦も出来ずに富山藩5番小隊は敗走。 富山藩五番小隊を破り、見事福島村を奪取した同盟軍迂回部隊は、合図の火の手を上げ、その後二手に分かれ一方は反転し、背後から新政府軍の重要な拠点である大黒村に向かい、もう一方はそのまま八丁沖沿いに進軍して福島村南西の集落の宮下村に向かった。 この福島上空に上がった火の手を見た各地の同盟軍は、一斉に攻撃を開始したが、その中でも大黒村奪取を目指す主攻撃部隊は、福井村を出発して猛然と正面の大黒村目指し攻撃する。 この時大黒村を守っていたのは高田藩兵(竹田十左衛門大隊所属の部隊、何小隊が布陣していたかは不明)だったが、長岡藩兵・会津藩兵を主力とした主攻撃部隊は猛攻の末大黒村を攻め落とし、見事新政府軍の戦線に楔を打ち込むことに成功。 大黒村を奪取した同盟軍だったが、主攻撃部隊の大黒村攻撃を支援する為に新政府軍の各陣地を拘束すべく攻撃を開始した米沢藩兵を主力とした助攻撃部隊の攻撃が不徹底だった為、筒場村より薩摩藩城下士小銃十番隊が、浦瀬村からは松代藩六番狙撃隊(隊長海野寛男)・同八番狙撃隊(隊長小幡助市)・同四番小隊半隊(隊長代理小宮山三吉)が次々と大黒村に援軍として駆けつけ、かくして大黒村の地で同盟軍主攻撃部隊及び迂回部隊と、新政府軍の薩摩藩兵と松代藩兵が激突する事となった。 先の福島村と大黒村の戦いでは、新政府軍の守備部隊を鎧袖一触で打ち破った同盟軍迂回部隊だが、これは同盟軍迂回部隊の強さも大きかったが、何より福島村を守っていた富山藩兵、大黒村を守っていた高田藩兵が弱兵だったのが同盟軍迂回部隊の勝利の最大の理由であった。 しかしこの時大黒村奪回の為に急行してきたのは士気も連度も高い薩摩藩兵と松代藩兵、さっきとは違い勇敢に攻め寄せてくる薩摩藩兵と松代藩兵の攻撃の前に同盟軍も苦戦に陥った。 特に勇猛果敢だったのは薩摩藩城下士小銃十番隊の戦いぶりであった。 この部隊は先日の十四日の戦いで隊長である山口鉄之助を失ったばかりだが、更にこの日の戦いでは監軍の村田長左衛門と半隊長の大重彌早太が戦死、同じく監軍の大久保金四朗が重傷と次々に士官が倒れていく。 これだけ士官が倒れれば部隊の指揮系統が破綻してもおかしくはなかったのだが、健在である数少ない士官である後の西南戦争で勇名を馳せた監軍である中島健彦が、旗下の兵をよく纏めたので、これだけの損害を出したのにも関わらず薩摩藩城下士小銃十番隊は獅子奮迅の闘いを続けたのである。 しかし薩摩藩兵と松代藩兵がどんなに強兵でも、同盟軍の主攻撃部隊と迂回部隊と比べると数的に劣勢なので、薩摩藩兵と松代藩兵の活躍も空しく、次第に劣勢に陥り始めていく。 このように前線の新政府軍の戦況は芳しくなかったが、一方の新政府軍の司令部もまたこの奇襲を受け完全に後手に回っているという状況であった。 しかし後手に回ったとは言え、上記した通り飾り物の総督を以前より豪華にする事に成功した新政府軍を率いる山県有朋は、その総督を利用して他の戦線への援軍を奪い取るなどの強引な手法も使って兵力を増強していたので、緒戦こそ同盟軍の奇襲に遅れを取ったものの、その後次から次へと前線に援軍を送ったため、次第に各戦線の新政府軍は持ち直し始め、逆に同盟軍の攻撃は鈍りつつあった。 特に危機に陥っている大黒村には、新手の長州藩千城隊一番隊(隊長福井太郎)・同二番隊(隊長平岡来三郎)・奇兵隊七番隊(隊長三浦五郎)・同八番隊(隊長三好六郎)を援軍に向かわせていた。
8月10日(慶応4年6月22日)昼頃、それまでの攻守が逆転し同盟軍主攻撃部隊と迂回部隊が新政府軍に包囲される状況になっていく。 こうして大黒村で新政府軍と同盟軍の死闘が再び行なわれ、長州藩千城隊一番隊隊長の福井太郎、米沢藩散兵隊隊長の千坂多門始め新政府軍・同盟軍問わず多くの将兵が倒れていった。 しかし最終的には兵力的に有利な新政府軍が同盟軍を包囲して、同盟軍は包囲殲滅の危機に陥る事になる。 この危機は長岡藩の三間と会津藩の佐川が指揮下の兵を突撃させ、新政府軍の包囲網を突き破った事により離脱に成功したが、折角奪取した福島村と大黒村を結局新政府軍に奪回され、新政府軍の戦線に楔を打ち込むという同盟軍の作戦は失敗に終わったのである。 一方、次第に戦力が増強されていた新政府軍は、それまでの守勢一辺倒から攻勢に転じ、まずは同盟軍の拠点たる栃尾攻撃を決断する。 この攻撃が誰によって立案されたかは判らないが、長府藩の福原和勝や長州藩の福田侠平辺りが主戦論者だったと伝えられている。
8月12日(慶応4年6月24日)、兵力を増強した新政府軍は板垣退助が棚倉城攻略のため800の兵を率いて出発した。 棚倉藩は白河の東に位置し新政府軍が会津へ侵攻する際の後背に位置するため、確保する必要があったからである。 新政府軍の動きを旧幕府軍は予期していたが、むしろ白河城奪還の好機と見て白河へ兵力を集結させ、棚倉藩への増援は行われなかった。 棚倉城はその日のうちに落城して棚倉藩は降伏した。
8月13日、ペルー(当時)アリカで大地震(M9.1、死者25,000名)
8月13日(慶応4年6月25日)、旧幕府軍は予定通り白河城へ攻撃をかけたが失敗に終わった。
8月18日、ピエール・ジャンサンが太陽光の中に未知の元素を示す輝線スペクトルを発見(後にヘリウムと同定) 7月、東海道、畿内を中心に、江戸から四国に「ええじゃないか」騒動が広がる。
8月19日(慶応4年7月1日)払暁、新政府軍は栃尾から西方4キロの栃窪方面・栃尾から西南方6キロの森立峠方面・栃尾から南方10キロの半蔵金方面の三方から進軍を開始した。 その陣容は、栃窪方面軍が長州藩奇兵隊四番隊(隊長能見兵児)・同千城隊一番隊(隊長井上弥八郎)・薩摩藩外城四番隊(隊長中村源助)・大垣藩兵1個小隊半・大垣支藩兵半小隊・松代軍藩六番狙撃隊(隊長海野寛男)・同四番小隊(隊長山越新八郎)による編成で、森立峠方面軍が長州藩奇兵隊三番隊(堀潜太郎の戦死後隊長不明)・同千城隊三番隊(隊長平野捨五郎)・薩摩藩遊撃隊二番隊(隊長大迫喜右衞門)半隊・加賀藩兵1中隊相当(隊長小川仙之助)による編成で、半蔵金方面軍が長州藩奇兵隊七番隊(隊長三浦五郎)・長府藩報国隊1個小隊・松代藩一番小隊(隊長蟻川賢之助)と言う編成であった。 他にも高田藩兵・飯田藩兵・上田藩兵等の予備兵力を用意した大兵力で、この大兵力で一気に同盟軍の拠点たる栃尾を陥落させるつもりであった。 これに対し同盟軍は、八丁沖東部戦線及び西部戦線で攻勢に出ていた為、栃尾の守備兵力は十分ではなかったが、斥候により新政府軍の接近を知り兵力を配備し、急ごしらえの感があるものの新政府軍迎撃の態勢を整えていった。 まず、栃窪から栃尾に至る本道上の土ヶ谷に長岡藩兵1個小隊(鬼頭六左衛門隊)と米沢藩兵1個小隊が守備し、土ヶ谷西南方の山頂に陣地を設けてそこを長岡藩兵2個小隊(小嶋久馬右衛門隊・槙小太郎隊)で守備を行った。 また、森立峠から栃尾に至る途中の一之貝陣地を会津藩二番遊撃隊(隊長井深宅右衛門)と村松藩兵1個小隊(堀平多隊)が守備し、その一之貝後方の荷頃陣地に軍事掛川嶋億二郎が率いる長岡藩兵2個小隊(柿本五左衛門隊・渡辺進隊)と仙台藩兵1個小隊が守備を行う。 そして、半蔵金から栃尾に至る西中野俣には長岡藩兵1個小隊(花輪彦左衛門隊)を配備。 この他にも長岡藩兵・米沢藩兵・村松藩兵等が配備され、以上の布陣で新政府軍を迎え撃った。 かくして一日払暁に進軍を開始した新政府軍と同盟軍との戦闘が各地で繰り広げられた。 まず、栃窪方面では本道を進軍する新政府軍を、同盟軍は土ヶ谷と土ヶ谷西南方の山頂陣地から挟撃した為、新政府軍を逆に撃退。 しかし、奇兵隊四番隊が間道を迂回し、山頂を守る長岡藩小嶋隊と槙隊を追い落とす事に成功すると、本道を進む本隊も土ヶ谷を奪取して、そのまま栃尾に進軍する。 森立峠方面では、加賀藩小川隊が先鋒となったが、急ごしらえとは言え同盟軍の一之貝陣地は固く抜けないという状況であった。 これを見た奇兵隊三番隊が迂回して一之貝陣地東方の大平山の山頂を占領し、ここから銃撃を行なうと一之貝守備兵も動揺し、更にはこれを見た薩摩藩兵が突撃したした為、一之貝陣地は奪取され同盟軍は後方の荷頃に撤退する。 しかし勢いに乗る薩摩藩兵はそのまま荷頃陣地にも攻めかかり、激戦の末遂にこれを奪取した。 そして半蔵金方面では、ここを守る花輪彦左衛門隊は奮戦するも、幾ら奮戦したと言っても所詮1個小隊に過ぎず、更に攻めるのは長州藩奇兵隊・長府藩報国隊・松代藩兵といずれも戦上手の軍勢だったため、どんなに花輪隊が強靭な防御を見せても、次から次へと迂回して包囲してくるので、支えきれずこれまた遂に栃尾目指し撤退する。 このように、栃窪方面・森立峠方面・半蔵金方面のいずれでも敗れた同盟軍だが、攻撃の拠点であり、何より長岡藩に残された唯一の領土である栃尾だけは死守しようと、かつて戦国武将の上杉謙信公の居城だった栃尾城跡を最終防衛ラインにして布陣した。 元来、中世戦国時代の山城は近代戦には不向きとされているが、この戦いでは同盟軍は栃尾城跡の狼煙台等の外郭ラインに塹壕や胸壁を築いて布陣して、ここまで勝ち進んできた新政府軍を食い止める事に成功した。 新政府軍としても栃尾を間近として引き下がるのは不本意だったが、栃尾城跡の防衛ラインが想像以上に堅固だったのと、夕暮れとなり慣れぬ土地での夜戦は避けたいと言う判断から、遂に栃尾を目の前にして撤収した。 このようにして同盟軍はかろうじて栃尾を守る事に成功した。 しかし栃尾が陥落の危機に瀕したと言うのは長岡藩兵に非常なショックを与え、このため河井継之助は長岡藩兵のほぼ全軍を栃尾に集結させ栃尾の守りを固める事を指示する。 これによりその後も散発的に起きた栃尾周辺の戦いで同盟軍は栃尾を守りきるが、以降、第二次長岡城攻防戦まで長岡藩兵が大規模な攻勢に転ずる事はなかった。 会津では、旧幕府軍は白河城へ攻撃をかけたが失敗に終わった。 8月20日(慶応4年7月2日)、22日の攻撃の失敗に懲りた同盟軍は一旦攻勢を中断し、米沢藩の方でも長期に渡る戦いを労う為に「報奨金の支給」「新しい軍服(筒袖)の支給」「滞陣中の兵士に日にニ回は汁を、また二日に1度は漬物を支給する」「熱射病防止の為にコショウを支給する」等の処置をとる。 また兵士を労うだけではなく綱紀粛正の為に、小隊長である増岡孫次郎を「小隊長の能力無し」と更迭するなどを行なった。 これらの処置により、兵士の士気の回復に成功した米沢藩兵は自軍のみで八丁沖西部戦線の突出部の大黒村への攻撃を決意する。 結果的にこの攻撃には長岡藩兵2個小隊も参加したが、これは「もし米沢藩兵単独での攻撃が成功したら長岡藩の立場が無い」と言う河井継之助の打算による派遣だと思われるので、この7月2日の戦いは実質米沢藩兵単独による攻撃と判断して良いかと考えられる。 かくして2日払暁、仮参謀斉藤篤信の指揮の米沢藩兵13個小隊(曾根敬一郎隊・山崎虎吉隊・浅羽徳太郎隊・小野里勘蔵隊・桃井清七郎隊・戸狩左門隊・古海勘左衛門隊・上野貞助隊・松本幾之進隊・鈴木源五郎隊・桐生丈右衛門隊・山崎理左衛門隊・左近司周助隊)及び長岡藩兵2個小隊(池田彦四郎隊・本富寛之丞隊)が、大黒村への総攻撃を開始。 これに対し、新政府軍の配備は、大黒村に高田藩1個小隊(竹田十左衛門大隊の内の1小隊)、大黒村支陣地の水門陣地に長州藩千城隊四番隊(隊長諏訪御守)、同じく支陣地の一ッ屋陣地に富山藩1個小隊と言う布陣であった。 この日の払暁は濃い霧が漂っていた事もあり、米沢藩兵の奇襲は完全に成功した形で、かつこの日の米沢藩兵の攻撃はかつてない猛攻だった事もあり(特にスペンサー銃を装備した浅羽・桃井・上野の撤兵隊の活躍は目覚しいものがあった)、緒戦では支陣地の水門陣地と一ッ屋陣地を奪取するなどの戦果を挙げた。 しかし、幾ら米沢藩兵の勢いが凄まじいと言っても、単一箇所への攻撃では、6月22日の戦い以上に戦力を増強している新政府軍の防御陣を突き崩す事は出来なかった。 また新政府軍も長州藩兵や薩摩藩兵や竜岡藩兵等の装備の優れた援軍を次々に投入してきた為、大黒村で新政府軍と米沢藩兵の死闘が繰り広げられる。 これにより応援に駆けつけた長州藩千城隊六番隊隊長三浦政三郎が重傷(後戦傷死)を負うなどの死闘が繰り広げられる事になったが、新政府軍と違い予備戦力の無い米沢藩兵は、援軍を投入する事は出来ず、遂に米沢藩兵は力尽きて撤退する。 この日の戦いで米沢藩兵は、山崎虎吉・桃井清三郎・曾根敬一郎の3人の小隊長を始め50名近い戦死者と、浅羽徳太郎と戸狩左門の2人の小隊長を始めとした多くの負傷者を出した為、この方面では攻勢を行うのが不可能な状況に陥り、この日以降この戦線では第二次長岡城攻防戦まで大規模な攻撃が行われる事はなくなった。 会津では、旧幕府軍は白河城へ攻撃をかけたが失敗に終わった。西郷頼母が総督を罷免され、後任として内藤介右衛門がその任に就いた。
8月23日、清国揚州で反キリスト教暴動(揚州教案)
8月26日(慶応4年7月8日)、庄内藩は白河口救援のため大隊を派遣したが、その途上で秋田藩および新庄藩などが奥羽越列藩同盟から離反したとの報が入ったため、派遣を取りやめ同部隊を新庄藩攻撃の任にあてた。
8月31日(慶応4年7月14日)、旧幕府軍の白河城への攻撃はこれが最後となった。以降、周辺地域で戦闘が続いたが、劣勢となった旧幕府軍は白河方面から撤退し、これによって白河口の戦いは終結した。

9月3日(慶応4年7月17日)、江戸ヲ称シテ東京ト為スノ詔書
9月10日(慶応4年7月24日)、八丁沖の攻防の末に、同盟軍は長岡城を奪還、薩長軍は敗走。 一度落城した城が奪還されるのは軍事的に異例の事態であった。 この事態に新政府軍は混乱状態に陥り指揮は迷走した。しかしこの戦いで長岡藩側も大きな被害を受け、河井も脚に弾丸を受け負傷した。
9月11日(慶応4年7月25日)、會津国/二本松藩では、二本松藩兵主力が、奥羽列藩同盟の要請に従って、日光や白河方面の戦いに出ていた。 二本松主力は白河城奪回に失敗するも郡山で奥羽同盟側の坂兵団と供に白河奪回に向けてがんばっていた。 ところが三春守山が恭順し、二本松と白河を結ぶ街道上の本宮を占領されるという事態になる。奥羽街道は二本松から南下して本宮、さらに南下すると郡山となっていた。 つまり二本松藩主力軍は退路を遮断されてしまい、二本松へ帰る事ができなかった。 仙台藩兵の様に遠く会津領を廻って帰藩した様に、二本松兵も迂回路を使って帰藩すれば良かったのだが、何故かそれをせず坂兵団と行動をともにしてる。 その後、坂兵団も本宮を攻撃しているのだが、ごく一部の部隊が本宮攻撃を行っただけで、強い意志で本宮奪回作戦を展開した訳ではなかった。 ここで坂兵団が行わなければならなかった事は、本宮を攻撃して回復、二本松藩との連絡路を確保するか、戦闘を避けて会津に向かい、会津経由の退路及び補給線の確保だったろう。二本松にある同盟軍と坂兵団とで本宮を挟撃する事も出来たと思われる。 しかし彼らは何もせずに、ただ郡山に留まっていた。このあたりは同盟諸藩各部隊の連絡連携が取れていなかったと判断すべきなのかもしれない。彼らは今どんな戦局なのかまったく解っていなかった可能性があるわけだ。 三春守山が恭順となれば、二本松が直接の攻められる危険がある。二本松城が危機に陥っていると知れれば二本松藩兵たちは必死で帰藩しようとしただろう。 結局明治新政府軍が二本松攻略戦を開始しようとした時、二本松藩主力部隊は城下にまったくいなかった。 新政府軍は、小浜にあった部隊と本宮にある板垣支隊主力をもって二本松攻略に乗り出す。小浜、本宮二方向より二本松を攻めるという作戦である。教導となって道案内をするのは三春兵だ。地理に詳しい三春藩の参戦により間道はすべて押さえられたと見て良い。 主力部隊が帰藩していない二本松藩は、老人や農民町人、そして少年達を動員して対抗するしかなかった。会津仙台の僅かな援軍も到着していたが、兵力不足はどうしようもなく明白で、絶望的な戦いとなる事は予想済みだ 。そして、この戦いに十三歳?十六歳で編成された二本松少年隊が投入される事になる。 二本松藩は先進的な藩ではなく、ごく普通の藩であった。洋銃知識や西洋兵学に関しても疎いところがある。政府軍が二本松を占領した時の分捕り品で一番多いのがミニェー銃だった所を見ると、訓練度も会津藩とほぼ同じ程度と思われる。 そんな二本松藩にあって輝いているのが木村銃太郎を隊長に頂く二本松少年隊である。
9月12日(慶応4年7月26日)、二本松少年隊にも出陣命令が下り、木村銃太郎に率いられて大壇口に布陣した。少年隊は田畑地帯に陣を構えた様で、見晴らしが良過ぎ、身を隠せる場所が無い。そこで畳を持ち出し、それを重ね合わせて即席の胸壁を築き、当番をたてて付近を巡回、警戒活動をした。 実戦を知らない少年達なので、この時はまだ遠足気分が抜けず、「何となく江戸見物にでも行きたらん心地し、浮々として夜半に至れども寝られず。」(『二本松戊辰少年隊記』より抜粋)」といった感じだった。
9月13日(慶応4年7月27日)、奥羽越列藩同盟から、本宮の陥落で進退窮まった三春藩が新政府へ降伏した。 二本松でも突然藩庁から撤収命令が届く。少年達が不思議がっていると、どうやら藩庁が降参する気配だという。 少年達は一様に「ここに至って降参とは何事か」と不満を露わにした。実はこの時、大垣藩からの密使が二本松藩に恭順を薦めに来ていた。 二本松藩主夫人は大垣藩主の娘であり、大垣藩とは親戚の関係にあったのだ。 新政府軍の中にある大垣藩士たちにとっても、自分達の殿様の娘を討つ様な事はしたくない。ある者は乞食に変装し、またある者は百姓を装って二本松藩に密書を届け、血の滲むような努力をして二本松恭順工作をしていた。 また藩内の恭順派も運動して、藩滅亡の危機を避けようとしていたのである。藩内では抗戦か恭順かで大激論が交わされた。 本宮を占領され、藩主力部隊を呼び戻す事も叶わず、兵力が全くない今、防御の方策も無い。戦えば確実に藩は滅ぶのである。 議論は謝罪恭順に傾きつつあった。だがこれを主戦派の家老丹羽一学が覆してしまった。 「昨三春信に背きて西軍を城中に引く、其の所行神人共に怒る所、我にして今其の輩に倣はば人之を何とか言はん。縦令西軍に降り、一時社稷を存せんも東北諸藩皆我に敵たらば何を以てか能く孤城を保たん。夫れ降るも亡び、降らざるも亦亡ぶ、亡は一のみ、寧ろ死を出して信を守るに若かずと議輙ち決す。(『二本松藩史』より抜粋)」 こうして徹底抗戦に決まった。それは、藩滅亡を覚悟しての決定であった。ここに二本松藩の立場の苦しさが滲み出ている。 奥羽同盟劣勢といえど、会津仙台米沢といった大藩は健在であり、負けが決定してた訳でもない。 もし新政府に恭順すれば、仙台会津両藩は、連絡線確保の為に両藩の中間点にある二本松藩を真っ先に攻撃する事は目に見えている。 だからといって主力藩兵が出払っている今の状態では、目前に迫る新政府軍には勝てない。つまりは亡びるしかない。 どっちに味方しても亡びるしか無いのならば、せめて後世に汚名だけは残したくない......。まさに苦渋の選択だった。 会津も仙台もいざとなったら二本松藩を滅ぼすだろうという冷徹な判断が為された。 こうして軍議は一変し、二本松藩は滅亡玉砕の道を突っ走り始めた。少年隊も再び大壇口に配備される事となる。
9月14日(慶応4年7月28日)、藩主丹羽長国は徹底抗戦落城を覚悟、事前に城を出て北方へ退去した。この日、郡山にあった坂兵団は本宮にある新政府軍を攻撃したが、先に述べた様に、全力攻撃ではなく簡単に撃退されている。 その事が早くも少年達の耳に入っており、少年隊記には「二十八日には銃砲声さらに聞こえず、これに加え敵の集影だも認ず。しかれども本宮口、三春口すでに敗れたれば、二十九日には必ず大敵の来襲あるべしとの警報頻々として櫛の歯を挽くがことし。(二本松戊辰少年隊記)」とある。
9月14-15日(慶応4年7月28-29日)、會津では、新政府軍は本宮へと進軍し、旧幕府軍は迎撃にあたったが打ち破られて敗走した。 白河口の戦いで新政府軍を率いた伊地知正治は、兵力劣勢ながら果敢な指揮をもって戦いを優勢に進めた。 一方旧幕府軍はリーダーシップを欠き、当初持っていた優勢な兵力を生かしきれずいたずらに損害を重ねた。白河口での敗北によって旧幕府軍は勝機を失い、会津戦争の大勢は決した。
9月15日(慶応4年7月29日)、戊辰戦争: 二本松の戦い、二本松城が陥落 新政府軍は再攻勢をかけて長岡城を再占領する。同日、会津藩兵・米沢藩兵らの守る新潟が陥落し、越後の全域は新政府軍の支配下に入った。 新政府軍の別働隊が二本松城を攻撃した。ついに新政府軍は二本松に向けて進軍を開始。先鋒は薩摩十一番隊と三番砲隊で三春兵が教導となって進軍する。 薩摩十一番隊の指揮官は薩摩藩辺見十郎太。後に西南戦争で薩軍に身を置き、「軍神」とまで言われた猛将で当時十九歳である。 対する二本松藩は、尼子平という絶竣な高地に前衛陣地を構築し、守るのは二本松藩の軍師小川平助であった。歴戦の薩摩兵も彼の守る要害尼子平を攻めあぐねた。 先鋒隊が手こずっている間に、政府軍本隊の先頭隊である薩摩十二番隊が援軍で駆けつけ、尼子平の二本松陣地に包囲攻撃を開始した。 さらに薩摩四番隊が迂回、尼子平を背面より攻撃した上に、薩摩砲隊が携臼砲による砲撃まで加え、ようやく尼子平を陥落させている。 薩摩兵はこの小川の勇戦ぶりを褒め称え、彼の強さにあやかるべく「その肝を食った」という伝承はこの時のものである。 そして、いよいよ少年隊たちが守る大壇口での戦いが始まった。 まず、少年達は与えられていた施条砲による砲撃を加えている。「見事にその頭上に、しかも三発までも爆発す。」とあり、見事な砲撃を披露している。 榴弾は、砲弾が着地する直前に爆発させるのが最も効果的なのだ。空中で爆発した砲弾は、その爆風圧を地面へ広範囲に叩き付ける。 逆に地面に落ちてから爆発した場合は、地面より上に爆風圧が飛んでいき、爆風自体の破壊力は小さくなる。最も効果のある砲撃とは、まさに敵の頭上直前で爆発させる事である。 木村銃太郎が、その砲撃技術を見せつけたと言っていいだろう。撃たれた薩摩軍は、すぐさま散開して正法寺町の民家や樹木といった遮蔽物に隠れ、応戦を開始する。 ここでも強兵薩摩兵が驚くことになった。二本松兵の射撃が非常に上手かったのだ。圧倒的な兵力をもって攻め掛かったのは薩摩兵の方であった。その薩摩兵の前進がココで再び止まってしまうのである。 少年達の前にいた薩摩兵達もたまらず近くにあった民家に隠れ、少年達に向けて射撃を始めた。少年達の耳元を弾丸が掠め飛んでいく。 砲撃戦は激しく、松林の松の木を薙ぎ倒し、田畑の土を空中へ跳ね上げる様子を、少年達の記録は生々しく伝えている。 この大壇口攻撃軍の指揮官の中に、冒頭で紹介した名将野津道貫がいた。その野津が大壇口の戦いをこう回顧している。 「薩兵一個大隊が辺見十郎太に引率せられ奥羽街道を前進し来ると、二本松の南方約十丁許の丘陵上に兵數不詳の敵兵は砲列を布いて我が軍を邀撃するのであつた。我が軍は早速之に應戦したが、敵は地物を利用して、おまけに射撃が頗る正確で、一時我が軍は全く前進を沮碍された。我が軍は正面攻撃では奏効せざることを覚り、軍を迂回させて敵の両側面を脅威し、辛うじて撃退することを得たが、恐らく戊辰戦争中第一の激戦であつたであろう。(『二本松藩史』より抜粋)」 野津は会津鶴ヶ城攻略戦にも参加しており、それでもなお「奥羽第一の激戦」と言う程だから、二本松藩の抵抗は会津藩の抵抗を凌ぐほど激しかったのだろう。 実際、会津藩本城鶴ヶ城に侵攻した際、強力な抵抗を受けたのは母成峠にあった幕府伝習歩兵ぐらいで、十六橋防御でも防備準備に取りかかるのがあまりに遅すぎる等戦術上の不手際が目立つ。 薩摩兵達はほとんど何の抵抗も受けず会津城下に流れ込んだ。 会津藩の記録では、なんとか時間稼ぎをしようとしていたのだが、打つ手打つ手が兵力の逐次投入という一番マズイ方法を取っている上、ただでさえ少ないという兵力を、さらに各方面に分散配置していた。 この様な薄皮一枚程度の会津の防衛線は、鎧袖一触で粉砕されていった。会津白虎隊もその薄皮の一枚だったのである。 会津藩の敗因は「兵器の性能」と言い切る歴史研究家や作家もいるが、実際はこういった戦略戦術上のミスがあまりに多く、兵器の性能の差だけとは言えない。 話しを戻そう。 二本松少年隊の砲撃技量は高かった。薩摩兵が楯にしている民家を、大砲による砲撃で破壊する事を試みて、五軒を命中破壊に成功しているのだ。 しかし薩摩兵の後続部隊が到着し、大壇口の二本松兵を包囲するかの様に部隊を展開布陣させると兵力差がじわじわと二本松兵を追い詰めた。 少年達の目も血走り、激しい射撃戦を行ったが、もはや劣勢は歴然であり、それを知ってか知らずか少年達は誰もが無言で射撃に集中している。 大壇口は頑強に抵抗を続け、薩摩兵の猛攻に絶え続けた。 一方大壇口とは別方面である小浜方面から進撃した新政府軍は、二本松藩の防御線を突破し、二本松城下に雪崩れ込みつつあった。 二本松藩主戦派の中心的人物である丹羽一学は、城下に雪崩れ込む敵兵を追い払うべく、兵を叱咤激励しているが、刀槍しか装備していない留守部隊だけではどうしようもない。 ついに持ちこたえる事が不可能である事を覚り、自ら城に火を掛けて自刃した。 二本松城の炎上で落城は決定的となり、城下は混乱状態となる。 一方、大壇口にいる少年隊の劣勢も続いていた。弾避けの畳も敵弾の為にズタズタになってしまい用をなさない。 弾丸の雨の中から脱出すべく『二本松戊辰少年隊記』の記録者、水野好之少年は竹藪の中に逃げ込んだ。 弾丸が竹に当たり「ガラガラ」けたたましい音を立てたと伝えている。さらに竹藪の中は敵弾が障害物に当たると別の方に向かって跳ね飛び(専門的にはこれを「跳弾」という)、かえって危険だったという。 水野少年は、大きな木材の陰に隠れ敵弾を避けていたが、そこに「隊長撃たれたり」という声が聞こえてきたという。 木村銃太郎は、二の腕を撃ち抜かれていた。すでに撤退命令が出されており、銃太郎もこれまでと思ったのだろう少年達に集合の合図を掛けると、大砲の火門に釘を撃ち込み、敵に奪われても使えないようにするといった撤退作業に移っている。 少年達が集まり、銃太郎はその少年達に訓辞を与えて撤退するつもりだった様だ。その瞬間、銃太郎の腰を敵弾が貫いた。 「此の重傷にては到底入城叶ひ難し、疾く首を取れ」 と言う隊長銃太郎に対し、少年達は互いに顔を見合わせて、 「隊長の傷は浅し、肩にすがりて退却せられよ。」 と言い寄った。 信頼する隊長を失いたくないという少年達だが、戦況は切迫しており、一刻も早い撤退が必要だった。 怪我を負った身での敗走は、少年達の撤退を遅らせ、犠牲を増やすのみと判断したのだろう。 銃太郎は「今は無益の押問答する時にあらず、疾く々々」と言って、首を差し出したという。 少年達は副隊長二階堂守衛の薦めに応じて、泣く泣く木村銃太郎の首を切り落とした。 不慣れだった事もあり、手元が狂って三太刀目でようやく首を落とした。その首も少年達には重く、二人で持って逃げたと伝えられている。 二本松兵達は、第二線に下がり最後の防戦を行うつもりだったが、後退してみると思いがけない光景が目に入ってきた。自分達の守るべき城が炎に包まれていたのだ。 第二線に下がってみると、すでに城が燃えておりその方向からも攻撃を受けるという状態となっていた。 正面の薩摩兵と城下に充満する新政府軍の挟撃を受けては壊滅せざるを得ない。ここで抗戦することはできなかった。 二本松兵達は一挙に敗走へと追い込まれる。少年達も呆然とした。すでに城下は新政府軍の占領下にあった。自分達の城が火炎に包まれ、帰るべき故郷は敵に奪われてしまっていたのだ。 どこへ行ったら良いのか解らない。こうなっては城下にいる敵兵に挑み掛かるしかない。まだ城下には少数ながら二本松兵が抵抗を続けていた。 少年達もそれに加わるべく敵の占領下である二本松城下に突入していった。しかし、多勢に無勢でどうしようもない。 少年隊のある者は戦死し、ある者は捕らえられた。こうして二本松少年隊は壊乱する。壊乱してもなお少年達は戦おうとした。 その行動は少年らしい純粋さから出た行動だった。 この後、二本松兵達は会津藩を頼みとして会津領に撤収、二本松領奪回を目指し母成峠の戦いに参加する。 だが、すでに戦いは会津防衛戦であり、二本松奪回の為の戦いではなかった。会津藩も仙台藩も二本松藩の為に戦う余裕などなく自藩防衛に専念していった。 二本松藩兵の多くが白河口へ出兵していたこともあり二本松城は落城した。
9月18日-(慶応4年8月-)、籏巻峠の戦いが起こる。
この時の戦局としては次の通り。
新政府軍は北越戦争に大兵力を投じており、新政府軍は援軍として新編成の徴兵隊を編成していたものの未だ最初の一隊を編成し終えたところであった。 西の二本松城には同規模の兵力を持つ白河口方面軍がいたが、8月7日時点の白河口方面軍は身動きがとれない状況にあった。 東京の新政府大都督府と、現地指揮官との意見の対立が原因だった。新政府大都督府の大村益次郎は北上して四条隆謌の軍と共同して仙台藩を攻める提案をし、板垣退助、伊地知正治らの現地指揮官は単独での会津攻撃を提案してお互いに譲らない。 大村益次郎が折れるまで、まだ若干の日数を要した。こうして、手持ちの戦力でやりくりするしかない四条隆謌の軍だったが、四条総督は参謀木梨精一郎、河田景与(佐久馬から改名)との協議の末、白河口方面軍を待たずに単独で仙台藩に攻め込むことを即日で決定。 積極果敢な判断をした四条隆謌だが、この時点で四条の軍は北に突出し、すでに西の白河口方面軍と連携がとれない位置に進出していた。 大山柏が著作中で指摘しているように、一度大敗すれば、各個撃破されかねない危険性があった。 また、徳川家家職の海軍副総裁榎本武揚の率いる榎本艦隊も蝦夷共和国建国に向けた動きを見せており、太平洋沿岸の制海権においても不安があった。 元は会津藩、庄内藩の朝敵赦免を目的として結成された奥羽列藩同盟だが、長州藩士世良修蔵の殺害によって新政府との対決に大きく舵をとり、北方政権の樹立を目指していた。 仙台藩は実質石高100万石とも言われる国力と輪王寺宮北白川宮能久親王を領内に迎えたことから盟主となる。 仙台藩は盟主として北越方面、秋田方面、白河口方面、磐城国方面に兵を送っていたが、旧態依然の兵装、戦術だったこともあり各地で敗北を喫した。 磐城国は全域が新政府軍の支配下に入り、白河口方面では須賀川に留まって白河城奪回を狙っていた会津、仙台、二本松藩の部隊があったが、守山藩、三春藩の寝返りによって敵中に孤立し、会津藩経由で仙台藩への撤退を余儀なくされていた。 奮闘していた二本松藩は本城を落とされ、会津藩は直接侵攻可能な位置に新政府軍を迎えることになった。 仙台藩も磐城国の中村城という仙台領まで7キロメートルという位置に新政府軍が入り、新政府軍の領内侵攻はもはや現実的な脅威だった。 中村城からは陸前浜街道が仙台藩へ向けて伸びており、街道は藩境で「駒ヶ嶺(標高50メートル内外)」を通過する。 駒ヶ嶺はかつて伊達政宗が相馬氏から奪った要害であったが、今回は新政府を防ぐための重要防衛拠点となった。 中村城の北西には標高260mの旗巻峠があり、旗巻峠からは中村城を眼下に一望できる上、峠を駆け下りれば一息に中村城を強襲できる位置にあった。 仙台藩は駒ヶ嶺と旗巻峠の二箇所を重要な拠点と定め、それぞれに兵を配置した。 この時、新政府軍は、長州藩を中心に各藩兵、および降伏したばかりの相馬中村藩兵によって構成される約3,000名。 司令官は仙台追討総督四条隆謌であり、その下に実戦指揮官の木梨精一郎、河田景与の両参謀がついていた。 率いられる兵力の内訳は長州藩800名、福岡藩400名、広島藩400名、鳥取藩300名、津藩100名、熊本藩500名、徴兵7番隊400-500名、久留米藩不明。 加えて、降伏したばかりの相馬中村藩兵5小隊、1砲隊(人数不明)が新政府軍に組み込まれ、さらに相馬中村藩の農兵、軍夫合わせて2,800名を編成中だった。 仙台藩は、駒ヶ嶺に駒ヶ嶺総督の石田正親を2,000の兵とともに配置。 他にも中村城の北西にある標高260mの旗巻峠に本吉郡松岩領主の鮎貝太郎平を1,200の兵とともに配置し、これには白河口から連戦を続ける鴉組の細谷直英も副参謀として加わっていた。 旗巻峠からは中村城を眼下に一望できるため、新政府軍が駒ヶ嶺に兵を動かせば中村城へ強襲するか、もしくは駒ヶ嶺の援護に回って新政府軍を挟撃する役割が与えられている。 仙台藩は他にも武装(後装式銃、アームストロング砲)、戦術を洋化した額兵隊を星恂太郎の元で編成つつあったが、未だ兵備の途中であった。 代わりに駒ヶ嶺への協力は元込め銃の一部の供給とアームストロング砲の貸与を行った。 また、仙台藩は相馬中村藩の降伏の動きを察して相馬中村藩を牽制すべく北西2kmの黒木に一部兵力を集結させていたが、相馬中村藩の降伏と新政府軍入城は迅速であったため、8月7日時点で黒木に集結した仙台藩兵は進軍か退却か方針を決し得ない状態だった。 仙台藩兵の特徴 としては、仙台藩は62万石の大藩であり、実石高は100万石にも及ぶと評されたが、新田開発によって得たそれらの土地は一門や重臣の知行地が多くを占めていた。 藩が動かせる兵力は7,000名程度と評価されていたが、藩一門らの供出する兵力は指揮系統が統一されておらず、兵装と戦術(密集突撃)も旧態依然のままだった。 これまでの敗戦から仙台藩も不足を把握し、額兵隊の編成と同時に洋式銃の購入を急いでいたが、粗悪品を売りつけられるなど成果は捗々しくなかった。 戦術においてはこれまでの交戦により、砲撃の被害を最低限に抑えるため散開戦術を取るようになっていたが、未だ銃器の多くは火縄銃を始めとする前装式の銃が占めていた。
9月23日、ラレスの叫び(Grito de Lares): プエルト・リコがスペイン王国からの独立を宣言、鎮圧される
9月25日(慶応4年8月7日)、仙台追討総督四条隆謌率いる新政府軍は平潟上陸から相馬中村藩の降伏に至るまでの磐城の戦いを終え、相馬中村藩の中村城に入城した。 中村城に入った兵力は3,000名ほどであり、仙台藩を単身で攻めるには兵力が不足していた。 新政府軍は黒木の仙台藩兵に向け、降伏したばかりの相馬中村藩兵に攻撃を命じる。 相馬中村藩は磐城の戦いの終結までは仙台藩と肩を並べて戦っていたが、今度は新政府軍の一員として奮戦する必要があった。 相馬中村藩は5小隊と1砲隊をもって黒木へ向けて進撃する。 これを迎え撃つ仙台藩兵は相馬中村藩の降伏で士気が上がらない上に、そのかつての友軍の攻勢を受けて戦意を崩壊した部隊が多発し、戦わずして多数の部隊が退却。 遠藤主悦の率いる3小隊だけが残されたが、この3小隊は戦意を失わず、踏みとどまって相馬中村藩の攻勢をよく防いだ。 この遠藤の働きに一時は後退していた残余の仙台藩の部隊も引き返し、反撃を受けた相馬中村藩は苦境に陥る。 相馬中村藩不利が鮮明になったところで、中村城から長州藩と徴兵隊が救援に出撃。黒木の仙台藩兵は新手を支えきれず壊走し、仙台藩国境まで撤退した。 この戦いにおいて新政府軍は黒木まで前進し、仙台藩兵は国境に兵力を集結させた。両軍の死者は相馬中村藩が死者5名、徴兵隊が1名。仙台藩では5名の死者を出した。 新政府軍は確保した黒木に陣を置き、福岡藩と相馬中村藩兵に駒ヶ嶺の南にある椎木までの前進を指示した。
9月27日(慶応4年8月9日)、両藩は椎木まで前進。椎木は駒ヶ嶺の目前にある土地であり、高台となっている地点から駒ヶ嶺への砲撃が可能であったため、危惧を覚えた仙台藩兵は両藩へ向けて攻撃を仕掛ける。 駒ヶ嶺を駆け下りての仙台藩の攻勢は数も勢いも仙台側が上回り、両藩はたちまち守勢に立たされた。 その救援の使者を受けた新政府軍徴兵隊は兵を二分して本道と間道を前進。仙台藩兵は間道の高台と本道から現れた敵増援によって包囲の危機に立たされ、周囲の民家に火を放ちながら退却した。
9月27日、アルコレアの戦い(Battle of Alcolea): スペイン王国でクーデター軍が王党派軍を撃破
9月28日(慶応4年8月10日)、西の旗巻峠から仙台藩兵が進出し、黒木の北1kmの大坪に姿を表す。駒ヶ嶺方面へ進出した新政府軍の後方をかく乱するための1部隊での襲撃であった。 本来は薄明前の到着を企図していた仙台藩兵だったが、山間の道を辿るのに時間を要して大坪への到着は午前8時。 朝方の攻勢となり、新政府軍の不意を突くことには失敗していた。それでも新政府軍への後方を脅かすために、低地であった大坪へ下りていった。 新政府軍でこの地域を守備していたのは相馬中村藩の1小隊のみであったが、相馬中村藩兵は大坪が低地であることを嫌って村落東の高台に陣を構えていた。 旗巻峠から東進を続けてきた仙台藩は、結果としてその真正面に進出した形になる。 たちまち高台からの狙撃にさらされる仙台藩兵であったが、相手が少数ということもあって相馬中村藩の篭る高台へ向かう。 しかし、攻め上ったものの守りは固く、攻めあぐねているうちに新政府側に援軍が到着する。 まずは黒木から徴兵隊が駆けつけ、ついには椎木からも新政府部隊が接近するにおよんで仙台藩は攻略を断念。 大坪の西へと退却し、旗巻峠に集結して再び新政府軍の隙をうかがうことになる。 合流した新政府軍は山地に逃げ込んだ仙台藩兵を追わず、それぞれの陣地へと戻っていった。
9月29日(慶応4年8月11日)、新政府軍は駒ヶ嶺の攻略に乗り出す。
新政府軍の目指すところは駒ヶ嶺を抜けて北2.5kmにある新地であり、そのために駒ヶ嶺に砲撃可能な椎木の高台へ各藩の砲兵を集結させ、長州藩の1中隊と熊本藩が頃合を見て駒ヶ嶺へ進出する構えだった。 また、駒ヶ嶺東の海岸沿い(原釜-今神-今泉)に福岡藩、鳥取藩を配置し、駒ヶ嶺西の2.5kmの菅谷には徴兵隊と久留米藩を配して三方から攻めあがる戦略を立てていた。 仙台藩の防衛線の疲弊を新政府軍は企図していた。 相馬中村藩兵は先導役として1小隊ずつそれぞれ3隊に配置され、今回も対仙台藩の先頭に立つことになる。 予想される旗巻峠方面からの敵増援に対しては、黒木へ至る間道に相馬中村藩、広島藩、津藩、長州藩から部隊を引き抜き、その動きを塞ぐ形になっていた。 仙台藩は目前に展開した新政府軍に合わせて海岸沿いの今泉、駒ヶ嶺、菅谷、そして駒ヶ嶺と菅谷の中間にある曹善堂に陣を構えて新政府軍を待ち受けていた。 仙台藩はこれまでの経験から戦術を検討し、胸壁を設置し、浅く塹壕を掘っていた。 だが、曹善堂への兵の配置はやや手薄になっており、仙台からの増援を待ちつつ防衛線を構築しようとしていた。
9月29日(慶応4年8月11日)午前6時、新政府軍の椎木から駒ヶ嶺関門に向けて一斉に砲撃を開始した。 砲撃は命中精度が高く、関門の左大門、右大門とも瞬く間に打ち破られた。 仙台藩も駒ヶ嶺北の高台から砲撃を返すが、砲撃の密度の差が激しく、多くの仙台藩兵は塹壕に身を隠すしかなかった。 新政府軍は仙台藩兵の迎撃が微弱なことを確認して三方に分けた部隊を前進させる。 原釜から海岸線に沿って北上を始めた福岡藩と鳥取藩だったが、行軍中の田畑はその日沼地と化しており進軍に手間取っているうちに、体勢を立て直した今泉方面からの反撃を受けることになった。 両藩は砲撃を返すものの、歩兵が遅々として前に進まないために効率がはかばかしくなかった。 しばらくして両藩は海岸線に近づくほど泥が深いことに気づき、進路を西よりに変更する。 再度前進を始めた両藩だったが、今泉への前進は地勢と反撃に遮られて中々思うとおりには進まなかった。 打つ手が尽きた両藩は無理をせず退却を決断し、砲兵の援護によって安全に原釜へと引き上げた。 曹善堂の西には菅谷村落があり、そこにも仙台藩は守備隊を配していた。ここを攻略するために配されたのは久留米藩と徴兵隊。 午前の砲撃とともにが菅谷に向けて攻めあがるが、菅谷村落に第一陣地、その北の高台に第二陣地を構えて迎え撃つ仙台藩の体勢は万全だった。 新政府軍の攻勢は守備陣地を前に進撃を阻まれ、午後2時までこう着状態に陥る。新政府軍は菅谷方面の苦戦を連絡し、増援を待つ。 その応援の要請を受けたのは、旗巻峠からの襲撃に備えていた津藩 100名だった。 津藩は旗巻峠からの敵兵が一向に見えないことから、本隊の応援を決断。相馬中村藩1小隊を伴い、午後2時、菅谷に到着する。 津藩を加えた菅谷方面は直ちに攻撃を再開し、津藩と相馬中村藩兵の迂回攻撃が功を奏して仙台藩兵はようやく後退を開始する。 こうして菅谷村落陣地を手に入れた新政府軍だったが、仙台藩兵は第二陣地の高台に拠って射撃を続け、新政府軍は菅谷陣地で足止めを余儀なくされた。 こうして東の海岸線、西の菅谷が膠着状態に陥った新政府軍だったが、本道方面を狙う長州藩は、椎木の高台から仙台藩の急所、曹善堂の手薄な守りを見抜いていた。 特に脆くなっているのは曹善堂と駒ヶ嶺の間の高台であり、長州藩1中隊は直ちに高台に向けて攻勢を開始する。 長州藩の練度の高い攻撃は、磐城の戦いにおいて戦況を決する一撃となったが、この駒ヶ嶺でも同様に仙台藩は抗することもできず突破された。 長州藩は高台を制圧し、東の駒ヶ嶺本陣を側面から直接攻撃を開始。 仙台藩指揮官石田正親は予備隊を投入するなど駒ヶ嶺を守ろうとするが、混戦となったことから白兵戦に加わってきた新政府軍砲兵隊の攻撃を受けて次第に後退していく。 特に先頭に立つ相馬中村藩の誘導が的確であった。 仙台藩は宇多郡駒ヶ嶺領主宮内長十郎の館を守るべく反撃を続けたが、黒木の戦いで奮戦した参謀の遠藤主悦は膝を打ち抜かれるなど怪我人、死傷者を多数出して退却を始める。 新政府軍は宮内長十郎の館を占拠。仙台藩を追撃し、夕刻に戦略目標の新地へ到達した。 本道方面が破られたことは、仙台藩の敗北を意味する。 海岸線では福岡藩と鳥取藩が駒ヶ嶺方面の火の手を見て、本道での勝利を知ったため再び今泉方面へ向けて出撃した。 それを迎え撃つべき仙台藩兵は、駒ヶ嶺失陥に動揺して退路を断たれるのを恐れて退却したため、両藩は戦闘によらずして今泉までの進撃を果たし、 守備兵を置いて原釜に戻った。
9月30日(慶応4年8月12日)、菅谷方面では本道を制圧したことと、一向に旗巻峠から襲撃がないために広島藩兵が合流。新政府軍は新手を加えて菅谷第二陣地まで攻め上り、戦意を喪失した仙台藩兵の退却によって菅谷方面の戦いも集結した。 本戦闘は砲撃から白兵戦に至るまでの激戦であり、新政府軍の死者は26名、怪我人は160名を数え、仙台藩の死者は32名、怪我人78名を数えた。 新政府軍はとうとう仙台藩領に進出し、占領した駒ヶ嶺に兵力を集結させた。 仙台藩はついに領内へ新政府軍を迎えることになり、大きく動揺する。 これまで仙台藩の戦闘は他藩領での戦闘であり、退却を繰り返していたが、新政府軍のいる位置はもはや退くことのできない地点だった。 特に新政府軍は徴兵制を始めたばかりであり、相馬中村藩の農兵のような増援が予測できるだけに、一刻も早く総力をもって新政府軍を領内からたたき出す必要があった。 だが、東北戦争に共通した特徴として仙台藩の戦略は鈍重であり、この戦闘において旗巻峠の部隊を動かすことができなかった。 駒ヶ嶺を失った仙台藩は駒ヶ嶺北の坂元に集結していたが、駒ヶ嶺を新政府の手から取り戻すべく、奪還のための出兵を軍議において決定する。 旧幕軍の春日左衛門の指揮する陸軍隊6小隊も加わり、約3,000名となった仙台藩の戦力は3隊に分けられた。 駒ヶ嶺、曹善堂、今泉を同時に攻めて新政府軍を釘付けにした上に、旗巻峠の鮎貝太郎平の兵を動かして駒ヶ嶺の後方から新政府軍拠点の相馬中村城へ攻め込むという戦略を意図していた。 攻勢の開始は、部隊編成が整う8月16日と定められた。 新政府軍総督の四条隆謌は「仙台追討総督」の役目をもって仙台藩と交戦していた。
9月30日、スペイン女王イサベル2世がフランスへ亡命

10月1日(慶応4年8月13日)、大総督府から「奥羽追討平潟口総督」という新たな役目を受けた。 これは仙台藩のみならず、奥羽列藩同盟を戦略目標とする方針転換であった。 大総督府はその役目を果たせるように全20回、総勢10,000名におよぶ大規模な兵力増強を決定したが、この時期はいずれも編成途中であり、新政府軍は現有戦力のまま仙台藩の攻勢を迎え撃つこととなった。
10月1日、タイ王国でラーマ5世即位
10月4日(慶応4年8月16日)、河井は会津へ落ち延びる途中で膝の傷から破傷風を併発し会津塩沢(只見町)で死去した。これ以降、旧幕府軍と新政府軍の戦いは東北地方に中心を移した(→会津戦争) かねてからの予定通り仙台藩兵は坂元から駒ヶ嶺に向けて出陣した。 3隊に分かれて前進する様子は駒ヶ嶺北の新地を哨戒する新政府軍の斥候の知るところとなり、新政府軍もそれぞれ配置につく。 この日、前線にいた部隊は熊本藩と久留米藩であった。駒ヶ嶺東、海側の藤崎には熊本藩が入り、久留米藩は駒ヶ嶺の陣で防御を固めた。 しかし久留米藩の兵力では駒ヶ嶺の西の山側の地域に配置できず、駒ヶ嶺の西1kmから先には兵が配置されていなかった。 3隊にわかれた仙台藩のうち海側の部隊は、藤崎の熊本藩と交戦する。 藤崎は低地であったため熊本藩は上からの射撃を受けたが、熊本藩は胸壁や樹木に隠れ、後方からの援軍を待つことにした。 降り始めた雨によって火縄銃を中心とした仙台藩の火力が落ちたのも、熊本藩を落ち着かせることにつながった。 一方、駒ヶ嶺の久留米藩は仙台藩の2部隊の襲撃を受けて苦境に陥っていた。 仙台藩の山側の部隊が駒ヶ嶺よりに進路を変えたため、元から駒ヶ嶺を目指していた中央部隊とほぼ並列して前進。 殺到した2部隊によって、久留米藩は一時陣地の保持が難しい状況となる。 仙台藩の先陣を行く西山権弥の隊は駒ヶ嶺の番所を抜き、外郭を制圧、火を放って久留米藩兵の一部が潰走を始めるなど駒ヶ嶺の奪取まであと一息のところまで迫ったが、折りしもの雨はこの頃には大雨となっていた。 火勢はたちまちに弱まり、仙台藩の火縄銃、大砲を中心とした火力は激減。 降雨の影響を受けない後装銃を用いた新政府軍はかろうじて陣地を維持した。 午後3時頃、到着した長州藩良城中隊、岩国藩精義隊中隊が援軍として久留米藩を支援。 長州藩は駒ヶ嶺に増援に入り、岩国藩兵は西側を回って仙台藩の側面を突く動きをみせる。 岩国藩の横撃は仙台藩の反撃を受けて押し返されたが、駒ヶ嶺は長州藩の到着によって盛り返し、仙台藩は二面に敵をもったことで動きが鈍る。 そこへ新政府軍に鳥取藩兵2小隊が到着し、これを機に久留米藩、長州藩は攻勢に移ると、仙台藩は堪えきれずに潰走。駒ヶ嶺の北北西4.5kmの福田にまで追い立てられ、その日の軍事行動を断念した。 一方、参戦が期待された仙台藩の旗巻峠方面軍だったが、旗巻峠の鮎貝太郎平は派兵の要望を受けたものの、守兵1,200名を総動員しての攻撃には難色を示していた。 結局、旗巻峠を守る役目を優先し、この戦闘に参戦させた兵力は細谷直英に率いさせた数小隊(兵数未詳、200以下?)だけであった。 この鮎貝の判断に対して、補訂戊辰役戦史の著者大山柏は「駒ヶ嶺方面に呼応して大軍を動かすべきなのに、義務を果たすためだけの少数の出兵を出した」と指摘している。 細谷の率いる部隊は、旗巻峠の麓にある初野へ向けて軍を進めたが、旗巻からの攻撃に備えて配置された鳥取藩2小隊と相馬中村藩2小隊に遭遇、交戦を開始する。 仙台藩の細谷は鴉組を率いたゲリラ戦で新政府軍を苦しめた経験がある戦巧者であり、初野に新政府軍を見つけるや、高地に登って上から攻撃した。 新政府軍4小隊は一方的に射撃にさらされて初野を放棄。 東に約700mに退いて高地に登り、再び仙台藩を迎撃しようとした。 細谷は初野に火を放った後に再び新政府軍へ向けて前進。その攻勢に押され、鳥取藩、相馬中村藩とも一時は再度後退の瀬戸際に立たされる。 しかし、新政府軍に鳥取藩の4 小隊が増援が到着。 8小隊と倍増した新政府軍は踏みとどまった。 さらには、これに加えて初野の東にある黒木から広島藩が増援に到着した。 だが、広島藩は急ぎのあまりそのまま平地に部隊を展開させたため、細谷はこれに攻撃を指示。 広島藩の前進も阻まれて、新政府軍苦戦の戦況は変わらなかった。この予想外の苦戦に新政府軍は素早く対応する。 津藩兵は駒ヶ嶺への増援のために北に進んでいたのだが、黒木の北に進み出たところで初野の細谷隊への攻撃命令が下り、転進。期せずして回り込む形で細谷隊の左側面に進み出て、一斉に射撃を浴びせかけた。 細谷隊は不意をつかれ動揺。雨脚が強くなっていたことから反撃もままならず、結果、多数の死傷者を出しながら旗巻峠へと撤退していった。 この戦闘による戦死者は新政府軍が3名に対して仙台藩は38名。 仙台藩が優勢に戦いを進める局面もあったが、仙台藩の火器は射程と殺傷力で劣るために新政府軍に接近して使用せねばならず、常に死傷者が続出した。 また、新政府軍には蘭方医関寛斎を始めとした治療のための人員が随行していたため、戦傷からの死者をある程度抑えることができた。 仙台藩の場合、戦傷者は後方の拠点仙台まで連れ帰って処置する必要があり、前線に張り付いたまま適切な治療を施されずに死亡する藩士もいた。 駒ヶ嶺への襲撃を退けた新政府軍は配置替えを行う。 駒ヶ嶺東の海側の今泉には熊本藩に変わり津藩が入り、要の駒ヶ嶺には長州兵、駒ヶ嶺の西には福岡藩、さらにその西方には相馬中村藩兵と東西に広く陣地を形成し、その後方に残りの部隊が補助として入っていた。 旗巻峠に対しては、麓の初野に鳥取藩5小隊が備えとして置かれ、注意を払っている。 また、10月4日(慶応4年8月16日)に津藩176名、10月7日(慶応4年8月19日)に四国から大洲藩2小隊が加わったことでその数を増していた。 仙台藩は攻勢が失敗が終わったが、再度の攻撃を企図していた。 その作戦は先日と同じく3部隊に分かれて駒ヶ嶺を正面左右から圧迫し、さらに旗巻峠からの攻撃も加えて新政府を潰走させようというものだった。 仙台藩の兵力は前回の攻撃と変わりなく[30]、そのために攻撃の成功は旗巻峠からの増援と各隊の奮戦にかかっていた。
10月7日(慶応4年8月19日)、榎本武揚は8隻(開陽・回天・蟠竜・千代田形・神速・長鯨・美賀保・咸臨)を率いて東征軍に抵抗する東北諸藩の支援に向かった。 後に榎本らは箱館の五稜郭を占拠し、最後まで新政府軍に抵抗した(→箱館戦争)。
10月7日、コーネル大学開校。
10月8日(慶応4年8月20日)、坂下で前哨戦が行われた。 伝習隊が奮戦する一方で、会津藩兵等は敗走したため、伝習隊は殿を務め白兵戦に慣れないため大損害を受けたが、新政府軍の進撃を食い止めた。 旗巻峠に対しては、雨天の中を仙台藩3部隊が前進を開始する。 仙台藩左翼、海側の部隊は鈴木直記、茂庭三郎に率いられて今泉北の釣師浜を通過、今泉の新政府軍へ向けて攻撃を開始した。 今泉を守っていたのは津藩271名だったが、防衛線の広さと後背が沼地になっている地の不利もあって仙台藩兵に対して防戦一方となる。 津藩の孤軍苦闘は続いたが、午後3時に増援されたばかりの大洲藩2小隊が到着。 さらには西の駒ヶ嶺方面から長州藩が援軍を回したために一挙に新政府軍が優位となり、仙台藩兵は今泉の攻略を諦めて釣師浜へ向けて退却を始める。 新政府軍は後退する仙台藩兵を追撃し、散々に追いたて、さらに釣師浜と今泉の中間にある大戸浜には駒ヶ嶺からの増援部隊が現れることで仙台藩は退路を遮断された上に挟撃を受けることになった。 海側の仙台藩兵が受けたこの日の被害は、壊滅的なものだった。 駒ヶ嶺へと向かった仙台藩の中央部隊は仙台藩兵と旧幕府の陸軍隊によって構成されていたが、仙台藩兵の特徴として有力重臣が兵を供出して軍を構成しているために指揮系統が煩雑であった。 そのために駒ヶ嶺の北方に展開するにあたって手間取り、時間を空費した。 一方、旧幕臣の春日左衛門率いる陸軍隊は統制がとれていたため、仙台藩を尻目に単独で前進。 新政府軍の前哨陣地を一蹴すると、追走してきた仙台藩今井虎太郎の部隊とともに駒ヶ嶺本陣へ向けて攻撃を開始した。 だが、この駒ヶ嶺本陣にこもっていたのは長州藩であり、新政府の戦力でもっとも精強な部隊であったために陸軍隊もその防御を崩せない。 さらには新政府軍に増援として岩国藩1中隊が加わって、その守りは万全となって陸軍隊と仙台藩今井隊のみでは攻略が不可能となっていた。 しかし仙台藩の後続の部隊は駒ヶ嶺西側の攻防に参加し、その上防戦一方となっていたために陸軍隊と今井隊への増援は見込めず、両隊は駒ヶ嶺の攻略を断念して退却した。 駒ヶ嶺西側の陣地で守備していたのは福岡藩だったが、仙台藩の中央部隊の大半が西側陣地攻略に動いており、大軍を相手にすることになった。 福岡藩は奮戦し、かろうじて戦線を維持しながら周囲の部隊へ援軍を要請。すぐさま長州藩の一部と広島藩が来援し、仙台藩兵を撃退した。 仙台藩兵を退けると、長州藩と広島藩の部隊はその陣地に留まることなく移動を続け、さらに仙台藩兵の横に出て側面への攻勢に移る。 仙台藩は駒ヶ嶺本陣に向かわせる予定だった後発5小隊も西側に回したが、新政府軍の攻勢を抑えることはできず、押されるがままに東へと後退を始める。 仙台藩兵は新地まで押し返されるともはや北方へ退却するしかなかった。 この際、新政府軍の1部隊が海岸線の部隊の援護に向かい、大戸浜にあらわれて海岸線部隊を壊滅させた。 仙台藩の西側の部隊は伊達勝三郎、金須内蔵之丞に率いられ、曹善堂方面に攻勢をしかけた。新政府軍で守りについていたのは、福岡藩と相馬中村藩であり、少数で広範囲に散開して偵察にあたる相馬中村藩の背後には熊本藩が詰めていた。 接敵した相馬中村藩は熊本藩への援軍を求め、熊本藩も支援のためにすぐさま相馬中村藩へ援護に向かう。 しかし、仙台藩は相馬中村藩ではなく、福岡藩方面へ兵力を傾けていたために相馬中村藩兵のみで撃退が可能であり、その相馬中村藩の要望により福岡藩方面へ熊本藩兵は転進。 仙台藩の右側面に突き刺さると仙台藩兵の戦意は衰え、午後4時には北東へ逃走した。 熊本藩と相馬中村藩の両藩はさらに中央の駒ヶ嶺への支援のために移動を開始するが、その頃には駒ヶ嶺の仙台藩兵はすでに敗走中であり、曹善堂方面の新政府軍はこれ以上の戦闘をすることなく引き上げた。 旗巻峠の仙台藩守将の鮎貝は、駒ヶ嶺の部隊から強く要望されたにも関わらず、派遣した部隊は2小隊のみだった。 旗巻峠にはアームストロング砲が備わっていたが、これは仙台藩の洋化部隊である額兵隊から無理をいって借り出したものであった。 仙台藩は旗巻峠から砲撃しつつ、2小隊を曹善堂方面に進出させるが、歩兵攻撃と連動するなどの効果的な運用をまるで行わなかったため成果はない。 派遣された2小隊は佐藤宮内率いる部隊が鳥取藩兵を後退させるなど奮戦するものの弾薬も尽き果て、旗巻峠に引き返すしかなかった。 こうして、第三次駒ヶ嶺攻防戦はいずれの局面も仙台藩の敗北に終わった。 この戦いでの戦死者は新政府軍が12名を数えたのに対して、仙台藩は98名にもおよんだ。 これには海岸側で逃げ場なく挟撃され、海に飛び込むしかなかった仙台藩兵の溺死も含む。
10月9日(慶応4年8月21日)、濃霧の中、新政府軍2,000は本隊と右翼隊に分かれて母成峠を目指した。新政府軍は薩摩藩兵と土佐藩兵を主力とし、他に長州藩兵と佐土原藩兵がいた。 母成峠の旧幕府軍守備隊は会津藩兵、仙台藩兵、二本松藩兵、そして伝習隊や新選組ら 700であった。戦いは早朝に始まった。 旧幕府軍の指揮官は歴戦の大鳥圭介であり、兵力を縦深陣地に配備し、その配下の伝習隊は善戦した。 しかし新政府軍の側面攻撃が功を奏し、敗色が濃くなるに及びまたもや会津藩兵等は伝習隊を置き去りにして逃走した。 やがて峠は新政府軍が制圧し、夕方頃にはほぼ勝敗は決した。前日に引き続き再び殿となった伝習隊は大打撃を受けた。 母成峠を突破した新政府軍は怒濤の勢いで猪苗代城へ向けて進撃し、猪苗代城代・高橋権大夫は城に火を放って若松へ撤退した。 伝習隊は諸所に火を放ち新政府軍の進撃を遅滞させることを試みる。
10月10日(慶応4年8月22日)、猪苗代に到着した新政府軍はそのまま若松へ向けて進撃を続け、川村純義の隊は猛進して十六橋を突破した。 会津藩は白虎隊などの予備兵力をかき集めて出陣させたが、新政府軍は戸ノ口原の戦いでこれを破る。
10月11日(慶応4年8月23日)朝、会津藩は若松の市街地へ突入。 会津藩にとって、藩境がわずか1日で突破されたことは予想外のことであった。越後口や日光口では藩境あるいは藩外での戦いが続いていた頃である。 藩主・松平容保自ら滝沢本陣まで出陣して救援軍を差し向けたが全てが遅かった。 結局は若松に突入され、白虎隊や娘子軍、西郷頼母一家に代表されるような悲劇を引き起こすことになった。 一方で、相次ぐ重税により藩に愛想を尽かしていた領民もおり、お上の戦に対しては他人事の様子で、中には新政府軍に協力する者もいたことが記録にある。 会津軍は籠城を余儀なくされ、他の戦線でも形勢不利となっていく。 会津藩の降伏は1か月後のことだが、会津藩の劣勢が確実な状況になったことで、仙台藩・米沢藩・庄内藩ら奥羽越列藩同盟の主力の諸藩が自領内での戦いを前に相次いで降伏を表明し、奥羽での戦争自体が早期終息に向かった。 母成峠の戦いが会津戦争ひいては戊辰戦争全体の趨勢を決したと言えよう。

現在、母成峠には、古戦場碑や戦死者の慰霊碑が建てられ、また当時の土塁等も残されている。

政体書によって新しい政治制度を採用。また、明治と改元して一世一元の制を定めた(改元の詔書が発せられたのは、慶応4年9月8日(1868年10月23日)。しかし改元は、慶応4年1月1日(1868年1月25日)に遡って適用されるとした)。
大教宣布(だいきょうせんぷ)の詔が発布される。
天皇に神格を与え、神道を国教と定めて、日本を祭政一致の国家とする国家方針を示した。 明治維新後、復古神道を奉じる平田派の国学者を中心に祭政一致論が高まっていく。 明治天皇は、近代の天皇制が確立した時期の天皇である。若年で即位して以来、大政奉還、王政復古と戊辰戦争、明治維新、日清戦争、日露戦争など、激動の幕末から明治時代を経験し、明治新政府、近代国家日本の指導者、象徴として、絶対君主として国民から畏敬された。日常生活は質素を旨とし、自己を律すること峻厳にして、天皇としての威厳の保持に努めた。また、乗馬と和歌を好み、文化的な素養にも富んでいた。しかし、普段は茶目っ気のある性格で、皇后や女官達は自分が考えたあだ名で呼んでいたという。 若い頃(とりわけ明治10年代)には、侍補で親政論者である漢学者元田永孚や佐々木高行の影響を強く受けて、西洋の文物に対しては懐疑的であり、また自身が政局の主導権を掌握しようと積極的であった時期がある。元田永孚の覚書(「古稀之記」)によると、天皇は伊藤博文の欠点を「西洋好き」と評していた。特に教育に関しては儒学を基本にすべしとする元田の最大の理解者でもあり、教育行政のトップに田中不二麿や森有礼のような西洋的な教育論者が任命された事には不快感を抱いていた。 遠島処分となった武田金次郎以下110名は、朝廷より水戸への帰藩を命ぜられ、佐柿を後にした。

維新後も勝は旧幕臣の代表格として外務大丞、兵部大丞、参議兼海軍卿、元老院議官、枢密顧問官を歴任、伯爵を叙された。 勝はこうした新政府の役職を得ながらも、仕事にはあまり興味がなく、出勤して椅子に座りただ黙っているだけの日々を送っていたという。本人は「部下に仕事を丸投げして判子を押すだけのような仕事しかしてないよ」と語っている。 座談を好み、特に薩長の新政府に対して舌鋒鋭く批判し続けた。西郷隆盛や大久保利通、木戸孝允の大きさを、その後の新政府要人たちの器と比較して語っている。 徳川慶喜とは、幕末の混乱期には何度も意見が対立し、存在自体を疎まれていたが、その慶喜を明治政府に赦免させることに晩年の人生のすべてを捧げた。この努力が実り、慶喜は明治天皇に拝謁を許され特旨をもって公爵を授爵し、徳川宗家とは別に徳川慶喜家を新たに興すことが許されている。 そのほかにも旧幕臣の就労先の世話や資金援助、生活保護など、幕府崩壊による混乱や反乱を最小限に抑える努力を新政府の爵位権限と人脈を最大限に利用して維新直後から30余年にわたって続けた。 幕末には寒村でしかなかった横浜に旧幕臣を約10万人送り込んで横浜港発展に寄与したり、静岡に約8万人もの旧幕臣を送り込んで静岡の茶の生産を全国一位に押し上げ名産としている。 こうした努力から、新政府側の中心的役割を担った薩摩藩でさえも旧士族が反乱を起こし西南戦争という大規模な内戦にまで拡大したのに比べ、徳川幕府の旧家臣がこれといった反乱を起こさずに職業の転換を実現しているのは勝の功績である。 勝は日本海軍の生みの親ともいうべき人物でありながら、海軍がその真価を初めて見せた日清戦争には始終反対し続けた。 連合艦隊司令長官の伊東祐亨や清国の北洋艦隊司令長官・丁汝昌は、勝の弟子とでもいうべき人物であり、丁が敗戦後に責任をとって自害した際は勝は堂々と敵将である丁の追悼文を新聞に寄稿している。 勝は戦勝気運に盛り上がる人々に、安直な欧米の植民地政策追従の愚かさや、中国大陸の大きさと中国という国の有り様(ありよう)を説き、卑下したり争う相手ではなく、むしろ共闘して欧米に対抗すべきだと主張した。 三国干渉などで追い詰められる日本の情勢も海舟は事前に周囲に漏らしており予見の範囲だった。李鴻章とも識り合いであり、「政府のやることなんてぇのは実に小さい話だ」と後に述べている。 晩年は、ほとんどの時期を赤坂氷川の地で過ごし、『吹塵録』(江戸時代の経済制度大綱)、『海軍歴史』、『陸軍歴史』、『開国起源』、『氷川清話』などの執筆・口述・編纂に当たったが、その独特な大風呂敷な記述を理解できなかった読者からは「氷川の大法螺吹き」となじられることもあった。

10月12日(慶応4年8月27日)、明治天皇即位大礼
10月12日、築地ホテル館完成(慶應4年8月)
10月23日(明治元年9月8日)、元号が慶應から明治に改元(一世一元の詔)

11月1日、観音埼燈台着工(1949年に灯台記念日と制定)
11月2日、史上初の標準時を英国ニュージーランド植民地が導入
11月3日、米大統領選挙でユリシーズ・グラントが勝利
11月4日(明治元年9月20日)、東幸: 明治天皇が京都を出立
11月26日(明治元年10月13日)、東幸: 明治天皇が東京入りして江戸城を皇居と治定し東京城と改称
11月27日、ウォシタ川の戦い

12月4日(明治元年10月21日)、戊辰戦争: 箱館戦争 12月9日、英国で第一次グラッドストン内閣成立
12月19日(明治元年11月6日)、東幸: 東幸を祝し明治天皇が東京府民に酒約三千樽を下賜(天盃頂戴)