西暦1921年(大正一〇年)

1月、阿部次郎、論文「人生批評の原理としての人格主義的見地」 (中央公論)。

2月。大正八年に起こった良子女王との婚約破棄について、裕仁親王本人の意志が尊重され、宮内省から「婚約に変更なし」と発表された。 事件の責任を取って、中村雄次郎宮内大臣は辞任し、山縣は枢密院議長など一切の官職の辞表を提出した。
2月20日、ペルシアでレザー・ハーンがクーデターを起こす。
2月21日、モンゴル駐留中華民国軍を撃破した白軍ウンゲルンの占領下でボグド・ハーン政権が復活。

3月、倉田百三「愛と認識との出発」。
3月3日。裕仁親王、大正天皇の病状悪化の中で、イギリスをはじめヨーロッパ諸国を歴訪。(9月3日まで) イギリスやフランス、ベルギー、イタリア、バチカンなどを公式訪問した。これは史上初の皇太子の訪欧であり、国内には反対意見も根強かったが、山縣有朋や西園寺公望などの元老らの尽力により実現した。裕仁親王の出発は新聞で大々的に報じられた。お召し艦には戦艦香取が用いられた。イギリスでは日英同盟のパートナーとして大歓迎を受け、国王ジョージ5世やロイド・ジョージ首相らと会見した。ジョージ5世はバッキンガム宮殿での最初の夜、慣れぬ外国で緊張する当時の裕仁親王に父のように接し緊張を解いたという。イタリアでは国王ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世らと会見したほか、各国で公式晩餐会に出席したり、第一次世界大戦当時の激戦地などを訪れた。後に昭和天皇はこの外遊が非常に印象的であったと述べている。
3月4日、ウオレン・G・ハーディングが第29代米大統領に就任。
3月8日、ロシア共産党が新経済政策(ネップ)を採用する。
3月13日、モンゴル人民党がキャフタで臨時人民政府樹立。
3月18日、ポーランドとソビエト連邦の間でリガ条約が結ばれる。ポーランドは西ウクライナと西ベラルーシを、ソ連は残りのウクライナとベラ
3月18日、ルーシを併合し、ウクライナ人民共和国政府はフランスに亡命した。

4月8日、国有財産法・借地法・借家法公布。
4月11日、日本でメートル法公布
4月24日、赤瀾会結成(日本初の女性による社会主義団体)

5月。山縣の辞表は天皇の意思により却下される。
5月、ロンドン会議で連合国の対ドイツ賠償の総額が1320億金マルクに決定される。
5月20日、旧区制廃止、旧区に該当していた県庁所在自治体などが市制施行。

6月3日、東京市電運転手連続殺傷事件が起こる。
6月7日、ルーマニア・ユーゴスラビア相互援助条約が締結される。
6月7日、臨時国語調査会制発布 (会長森鷗外,委員上田萬年ら)

7月8日、イラクのバスラで世界記録となる最高気温58.8℃を観測。
7月11日、モンゴル人民革命。ウルガでボグド・ハーンを制限君主に推戴する人民政府樹立。
7月17日、ラッセル来日( 改造社の招聘)
7月23日、上海で中国共産党の創立大会が開催される。

9月1日、大塚製薬工場(大塚グループの源流会社)設立
9月10日、大日本蹴球協会(後の日本サッカー協会)創立
9月17日、軍備縮小同志会結成( 尾崎行雄・吉野作造ら)

10月、国際ペンクラブ、ロンドンにて結成。
10月23日 ハンガリー王国でオーストリア=ハンガリー帝国皇帝カール1世が逮捕される(カール1世の復帰運動が失敗)。

11月4日、原敬首相が東京駅で暗殺される(原敬暗殺事件)。
11月12日、ワシントン会議開催(〜1922年2月6日)
11月13日、高橋内閣成立
11月25日。当時20歳だった皇太子・裕仁親王が摂政に就任することで天皇は事実上の引退となり、宮内省発表による『天皇陛下御容体書』によって病状は公にされる運びとなった。このため、後々にも「病弱な天皇」として一般に認識されることになった。 裕仁親王、20歳で摂政に就任し、摂政宮(せっしょうみや)と称された。

12月、出隆「哲学以前」。
12月、魯迅『阿Q正伝』。
12月、西南学院高等部が福岡にできる
12月、浜松市でナウマン象の化石が発掘される。
12月13日、ワシントン会議で日本・米国・英国・フランスの四か国条約が調印される。日英同盟が廃棄される。
12月24日、第45議会召集。
12月27日。裕仁親王、虎ノ門付近で狙撃されるが、命中を免れ命を取り留めた(虎ノ門事件)。 その後は日光・沼津・葉山と転地療養を続ける。 その一方で、皇太子時代から巡啓に同行するなど近しい立場にあった原敬は、のちに語られる「大正天皇像」とは大きく異なる「気さく」で「人間味あふれる」「時にしっかりとした」天皇像を『原敬日記』に記している。