西暦1935年(昭和一〇年)

概要

天皇機関説が排撃された天皇機関説事件について、昭和天皇は侍従武官長・本庄繁に「美濃部説の通りではないか。自分は天皇機関説で良い」と言った。昭和天皇が帝王学を受けた頃には憲法学の通説であり、昭和天皇自身、「美濃部は忠臣である」と述べていたにもかかわらず、直接・間接には何ら行動を起こすことはなかった。機関説に関しての述懐を、昭和天皇のリベラルな性格の証左としながら、同時に美濃部擁護で動かなかったことを君主の非政治性へのこだわりとする記述は、しばしば見られるが、現実にはそれほど単純でない。 機関説は、「国家法人説」と呼ばれるドイツの学説に由来するが、この学説は国家の本質を「法人」とする点において主権および主権者の存在をあいまいにする意図をもった学説であり、当時すでに、後発資本主義国であり、外見的立憲主義の典型とされていたドイツにおいてさえ「時代遅れ」とされていた。しかし、戦前期の日本においては、天皇を国家の一機関として観念するという点において、社会科学的思考と結びつく側面をもつと同時に、吉野作造の「民本主義」と並んで護憲運動や大正デモクラシーの理論的バックボーンを演じていたことは、日本資本主義がドイツよりもさらに後発であることと、立憲主義がさらに外見的であったことを反映していた。しかし、昭和天皇がそこまでの理解を持っていたかは疑問である。昭和天皇の理解していた機関説は、「一機関」としての性質を強調する一木-美濃部ラインのものではなく、有機体の「頭部」であることを強調する、清水澄の学説に近かったとする説もある。
尉官クラスの青年将校が、政治家と財閥系大企業との癒着が代表する政治腐敗や、大恐慌から続く深刻な不況等の現状を打破する必要性を声高に叫んでいた。陸軍はこうした動きを危険思想と判断し、長期に渡り憲兵に青年将校の動向を監視させていたが、昭和9年11月、事件の芽をあらかじめ摘む形で陸軍士官学校事件において磯部と村中を逮捕した。しかしこれによって青年将校の間で逆に陸軍上層部に対する不信感が生まれることになった。
クロード・レヴィ=ストロースが、セレスタン・ブーグルによって、サンパウロ大学教授に就任


1月1日、国民政府が華北・満洲国間の通郵実施
1月3日、国際司法裁判所判事、安達峰一郎博士の葬儀がハーグで挙行
1月25日、宝塚大劇場焼失

2月7日、元陸軍歩兵大尉村中孝次が、昭和9年11月20日に発生した陸軍士官学校事件において、皇道派に属する陸大の村中孝次大尉、磯部浅一一等主計、片岡太郎中尉らの逮捕に関与したとして、片倉衷と辻政信を誣告罪で告訴。しかし軍当局は黙殺した。
2月18日、貴族院で菊池武夫が、美濃部達吉の天皇機関説を反国体的と糾弾
2月28日、デュポン社のウォーレス・カロザースがポリマー66(ナイロン)を開発

3月4日、村中孝次の告訴が、証拠不十分で不起訴となる。
3月16日、アドルフ・ヒトラーがヴェルサイユ条約を破棄し、ナチス・ドイツの再軍備を宣言。
3月21日、ペルシアが国号をイランに改称。

4月1日、村中孝次の告訴は不起訴となったが、停職処分という形で治められた。
4月2日、今度は磯部浅一が、片倉、辻、塚本の三人を告訴したが、これも黙殺された。
4月6日、満洲国皇帝溥儀が来日。靖国神社参拝 
4月7日、美濃部達吉が天皇機関説のため不敬罪で告発される。
4月9日、美濃部達吉の「憲法概要」など著書3冊が発禁となるも買手殺到し書店で売切れ。
4月24日、村中孝次は告訴の追加を提出したが、一切黙殺された。

5月6日、アメリカ合衆国で公共事業促進局発足。
5月8日、磯部浅一が第一師団軍法会議に出頭して告訴理由を説明したが、当局は何の処置もとらなかった。
5月11日、村中孝次が陸軍大臣と第一師団軍法会議あてに、上申書を提出。
5月13日、磯部浅一が再度、第一師団軍法会議に出頭して告訴理由を説明するも、結果は同じ。
5月14日、フィリピンが独立協定を批准
5月19日、初のアウトバーン路線、フランクフルト・ダルムシュタット間開通
6月1日、鉄道省が女子車掌を初採用
6月1日、NHKが国際放送を開始
6月7日、有楽座開場
6月10日、梅津・何応欽協定成立(日本軍による華北分離工作の開始)。
6月20日 -富士通信機製造設立(後の富士通)
6月27日、土肥原・秦徳純協定成立。

7月、真崎甚三郎教育総監が罷免されて皇道派と統制派との反目は度を深める事となった。
7月1日、船橋・千葉間省線の電化完成(東京・千葉間全通)
7月11日、静岡地震。静岡、清水などに被害集中。死傷者9299人。全壊367、半壊1830。(日本被害地震総覧)
7月11日、磯部浅一が「粛軍に関する意見書」を陸軍の三長官と軍事参議官全員に郵送した。しかし、これも黙殺される気配があったので、500部ほど印刷して全軍に配布した。中央の幕僚らは激昂し、緊急に手配して回収を図った。
7月14日、フランス人民戦線結成

8月1日、警視庁で無線自動車が登場
8月1日、中国共産党が抗日救国統一戦線を提唱(八・一宣言)
8月2日、7月の意見書の件において、村中孝次と磯部浅一は免官となったが、理不尽な処分であったとされている。
8月10日、国体明徴声明発表
8月12日、永田鉄山暗殺事件(相沢事件)が発生。白昼に統制派の中心人物、永田鉄山陸軍省軍務局長が皇道派の相沢三郎中佐に斬殺される事件が起こった。五・一五事件(1932年)で犬養毅総理を殺害ほか、各地を襲撃した海軍青年将校らが禁錮15年以下の刑しか受けなかったことも二・二六事件の動機の一つになったともいわれる。ただし五・一五事件は古賀清志海軍中尉らの独断によるテロであり、将校としての地位を利用して部下多数を動員したクーデターではない。なお三井財閥は血盟団事件(1932年2月-3月)で団琢磨を暗殺されて以後、青年将校らによる過激な運動の動向を探るために「支那関係費」の名目で半年ごとに1万円(総務省統計局の戦前基準国内企業物価指数で、平成25年の価値にして7000万円ほど)を北一輝に贈与していた。三井側としてはテロに対する保険の意味があったが、この金は二・二六事件までの北の生活費となり、西田税(北の弟子で国家社会主義思想家)にもその一部が渡っていた。

9月、磯部浅一が、川島義之陸軍大臣を訪問。川島は「現状を改造せねばいけない。改造には細部の案など初めは不必要だ。三つぐらいの根本方針をもって進めばよい、国体明徴はその最も重要なる一つだ」と語った。
9月14日、第一高等学校が駒場に移転(東京帝大農学部と敷地を交換)
9月15日、ナチス・ドイツにおいて、ニュルンベルク法制定(ユダヤ人の公民権が停止・ドイツ人との通婚が禁止される)
9月26日、第四艦隊事件
9月26日、和辻哲郎「風土 人間学的考察」

10月、イタリア、エチオピア侵攻を開始。
10月3日、イタリアがエチオピアへ侵攻開始(第二次エチオピア戦争)
10月28日、八杉貞利編「露和辞典」発刊(岩波書店)

11月1日、汪兆銘が抗日派新聞記者に狙撃さる
11月3日、中国、幣制改革を実施。
11月9日、アメリカ産業別労働組合会議設立
11月9日、上海で日本人水兵が殺害さる(中山事件)
11月17日、12歳の稲田悦子がフィギュア・スケートのオリンピック選手に決定
11月25日、日本、冀東防共自治委員会(後の冀東防共自治政府)を設立。
11月26日、日本ペンクラブ発足(初代会長島崎藤村)
11月28日、土讃本線三縄-豊永間開通(最後の「陸の孤島」高知県が鉄道で結ばれる)
11月28日、小林秀雄「私小説論」

12月1日、初の年賀郵便用切手発売開始
12月2日、澄宮崇仁親王に三笠宮の称号
12月4日、第二親王が義宮正仁と命名
12月7日、東京電気化学工業(後のTDK)設立
12月8日、大本教教祖出口王仁三郎と幹部三十余名を不敬罪・治安維持法違反で検挙(第二次大本事件)
12月8日、関東軍支援のもと李守信軍がチャハル省に進軍
12月9日、ロンドン海軍軍縮会議(第2回)開催
12月9日、北平の学生1万名が抗日・華北分離工作反対デモ(一二・九学生運動)
12月10日、大阪野球倶楽部(後の阪神タイガース)発足 12月16日、天理教本部が脱税で捜索
12月14日、磯部浅一が小川三郎大尉を連れて、古荘幹郎陸軍次官、山下奉文軍事調査部長、真崎甚三郎軍事参議官を訪問。山下奉文少将は「アア、何か起こったほうが早いよ」と言い、真崎甚三郎大将は「このままでおいたら血を見る。しかしオレがそれを言うと真崎が扇動していると言われる」と語った。
12月17日、同盟通信社創立(翌年1月1日開業)
12月17日、ダグラスDC-3初飛行
12月18日、中華民国で冀察政務委員会設置
12月22日、アンソニー・イーデンが英外相に就任
12月23日、望月圭介逓相ら政友会脱退派が昭和会を結成
12月24日、第68議会召集
12月26日、牧野伸顯内大臣辞任(後任齋藤實)