西暦1936年(昭和一一年)

概要

二・二六事件が起こる。 陸軍皇道派青年将校らによる二・二六事件の際、侍従武官長・本庄繁陸軍大将の「彼らも国を憂えて起こした行動で必ずしも咎めるものではないかと存じます」との進言に、昭和天皇は怒りも露に「朕が頼みとする股肱の老臣を殺害する、かくの如き凶暴の将校の精神に何ら許すべきものがあると言うのか。老臣たちを悉く倒すは朕が首を真綿で締めるに等しき行為ではないか」、さらに「お前達がやらぬなら朕自ら近衛師団を率いてこれを鎮圧に当たらん」と発言したとされる。この事は「君臨すれども統治せず」の立憲君主の立場を採っていた天皇が、政府機能の麻痺に直面して初めて自らの意思を述べたとも言える。これによって決起軍は反乱軍と認定され、事件は速やかに解決に向かったのである。この時の発言を、太平洋戦争終結のいわゆる"ご聖断"と合わせて、「立憲君主としての立場(一線)を超えた行為だった」とか「あの時はまだ若かったから」と後に語ったと言われている。 なお、1975年(昭和50年)にエリザベス女王が来日した際、事件の影の首謀者と言われることもある真崎甚三郎の息子を、昭和天皇は自分の通訳に選んでいる。 アーサー・ラヴジョイ「存在の大いなる連鎖」二・二六事件の出来事は1989年に映画「226」として日本で公開された。


1月5日、皇道派の磯部浅一が川島陸軍大臣を官邸に訪問し、約3時間話した。「青年将校が種々国情を憂いている」と磯部が言うと、「青年将校の気持ちはよく判る」と川島は答えた。「何とかしてもらわねばならぬ」と磯部が追及しても、具体性のない川島の応答に対し、「そのようなことを言っていると今膝元から剣を持って起つものが出てしまう」と言うが、「そうかなあ、しかし我々の立場も汲んでくれ」と答えた。
1月15日、日本がロンドン海軍軍縮会議から脱退
1月15日、松竹大船撮影所開所
1月22日、英ジョージ5世死去。エドワード8世即位(12月10日には退位)
1月23日、磯部浅一が浪人森伝とともに川島陸軍大臣と面会した際、渡辺教育総監に将校の不満が高まっており「このままでは必ず事がおこります」と伝えた。川島は格別の反応を見せなかったが、帰りにニコニコしながら一升瓶を手渡し「この酒は名前がいい。『雄叫(おたけび)』というのだ。一本あげよう。自重してやりたまえ。」と告げた。
1月24日、シャリアピン来日
1月25日、横山隆一「江戸ッ子健ちゃん」連載開始(東京朝日新聞、フクちゃん漫画の初め)
1月27日、シャリアピン独唱会(日比谷公会堂)
1月28日、磯部浅一が真崎大将のもとを訪問、「統帥権問題に関して決死的な努力をしたい。相沢公判も始まることだから、閣下もご努力いただきたい。ついては、金がいるのですが都合していただきたい」と資金協力を要請すると、真崎は政治浪人を通じての500円の提供を約束した。磯部はこれらの反応から、陸軍上層部が蹶起に理解を示すと判断。
1月29日、米ニューヨーク州のクーパーズタウンに「アメリカ野球殿堂」を開設。ベーブ・ルースら5人が殿堂入り
1月29日、中井正一、論文「委員会の論理」(「世界文化」)

2月1日、天皇機関説を提唱した美濃部達吉が、右翼に襲撃されて負傷
2月1日、安藤大尉が村中や磯部らの情報だけで判断しては事を誤ると提唱し、新井勲、坂井直などの将校15、6名を連れて山下の自宅を訪問した際、山下は、十一月事件に関しては「永田は小刀細工をやり過ぎる」「やはりあれは永田一派の策動で、軍全体としての意図ではない」と言い、一同は村中、磯部の見解の正しさを再認識した。
反乱部隊は蹶起した理由を「蹶起趣意書(けっきしゅいしょ)」にまとめ、天皇に伝達しようとした。蹶起趣意書は先任である野中四郎の名義になっているが、野中がしたためた文章を北が大幅に修正したといわれている。

2月5日、全日本職業野球聯盟設立
2月6日、第4回冬季オリンピックがガルミッシュ=パルテンキルヒェンで開催(2月16日まで)
2月12日、神戸モロゾフ洋菓子店が、英字雑誌に日本初のバレンタインチョコレートの広告を出す。
2月13日、安藤、野中は山下奉文少将宅を訪問し、蹶起趣意書を見せると、山下は無言で一読し、数ヵ所添削したが、ついに一言も発しなかった。
また、蹶起趣意書とともに陸軍大臣に伝えた要望では宇垣一成大将、南次郎大将、小磯国昭中将、建川美次中将の逮捕・拘束、林銑十郎大将、橋本虎之助近衛師団長の罷免を要求している。
蹶起趣意書では、元老、重臣、軍閥、政党などが国体破壊の元凶で、ロンドン条約と教育総監更迭における統帥権干犯、三月事件の不逞、天皇機関説一派の学匪、共匪、大本教などの陰謀の事例をあげ、依然として反省することなく私権自欲に居って維新を阻止しているから、これらの奸賊を誅滅して大義を正し国体の擁護開顕に肝脳を竭す、と述べている。
2月16日、スペイン総選挙で人民戦線派が圧勝。
2月18日、栗原安秀中尉宅での会合で「西園寺公望襲撃計画」が決定される。
2月19日、磯部が愛知県豊橋市へ行き、豊橋陸軍教導学校の対馬勝雄中尉に依頼し、同意を得る。 対馬は同じ教導学校の竹島継夫中尉、井上辰雄中尉、板垣徹中尉、歩兵第6連隊の鈴木五郎一等主計、独立歩兵第1連隊の塩田淑夫中尉の5名に根回しした。
2月20日、第19回衆議院議員総選挙
2月21日、磯部と村中は山口一太郎大尉に襲撃目標リストを見せた。襲撃目標リストは第一次目標と第二次目標に分けられていた。磯部浅一は元老西園寺公望の暗殺を強硬に主張したが、西園寺を真崎甚三郎内閣組閣のために利用しようとする山口は反対した。また真崎甚三郎大将を教育総監から更迭した責任者である林銑十郎大将の暗殺も議題に上ったが、すでに軍事参議官に退いていたため目標に加えられなかった。
山口一太郎大尉が西園寺襲撃をやめたらどうかと述べたが、磯部浅一は元老西園寺公望の暗殺を強硬に主張した。
2月22日、暗殺目標を第一次目標に絞ることが決定され、また「天皇機関説」を支持するような訓示をしていたとして 渡辺錠太郎教育総監が目標に加えられた。
2月23日、栗原が出動日時等を伝えに行き、小銃実包約二千発を渡した。
2月24日、板垣を除く5名で、教導学校の下士官約120名を25日午後10時頃夜間演習名義で動員する計画を立てる。
2月25日、朝、板垣が兵力の使用に強く反対し、結局襲撃中止となる。そして、対馬と竹島のみが上京して蹶起に参加した。反乱軍は襲撃先の抵抗を抑えるため、前日夜半から当日未明にかけて、連隊の武器を奪い、陸軍将校等の指揮により部隊は出動した。歩兵第1連隊の週番司令山口一太郎大尉はこれを黙認し、また歩兵第3連隊にあっては週番司令安藤輝三大尉自身が指揮をした。
2月26日、二・二六事件勃発
夜半当日は雪であった。反乱軍は機関銃など圧倒的な兵力を有しており、警備の警察官らの抵抗を制圧して、概ね損害を受けることなく襲撃に成功した。
内閣総理大臣・退役海軍大将の岡田啓介が、天皇大権を掣肘する「君側の奸」として襲撃の対象となった。同様に、元総理の高橋是清大蔵大臣も、陸軍省所管予算の削減を図っていたために恨みを買っており、襲撃の対象となる。他、斎藤実内大臣、鈴木貫太郎侍従長、陸軍教育総監の渡辺錠太郎大将、牧野伸顕前内大臣も襲撃の対象となった。
首相官邸(岡田啓介総理大臣)への襲撃には、全体の指揮を栗原安秀中尉が執り、第1小隊を栗原中尉自身が、第2小隊を池田俊彦少尉が、第3小隊を林八郎少尉が、機関銃小隊を尾島健次郎曹長が率いた。
警視庁では一月よりすでに情勢の只ならぬことを察し、再三に渡って東京警備司令部に対して取り締りを要請したものの取り合われなかった。このことから、警視庁では特別警備隊(現在の機動隊に相当する)に機関銃を装備して対抗することすら検討していたが、実現しないままに事件発生を迎えることとなった。
奇襲部隊によって、まず正門の立哨警戒の巡査が武装解除され、異変を察知して飛び出した外周警備の巡査6名も続いて拘束された。しかしこの間に、邸内警備の土井清松巡査は、総理秘書官兼身辺警護役の松尾伝蔵退役陸軍大佐とともに、岡田総理を寝室から避難させ、村上嘉茂衛門巡査部長が廊下で警戒に当たった。また裏門の詰め所では、小館喜代松巡査が特別警備隊に事態を急報する非常ベルを押す一方、清水与四郎巡査は邸内に入って裏庭側の警備に当たった。非常ベルの音を聞いて襲撃部隊が殺到するのに対し、小館巡査は拳銃で応戦したものの、全身に被弾して昏倒した(後に警察病院に収容されたものの、午前7時30分、「天皇陛下万歳」の叫びを最後に殉職)。また清水巡査は、裏庭側からの避難を試みた岡田総理一行を押しとどめたのち、非常避難口を守ってやはり殉職した。
廊下を守る村上巡査部長は数分に渡って襲撃部隊と銃撃戦を演じたものの、全身に被弾しつつ一歩一歩追い詰められ、ついに中庭に追い落とされて殉職した。この間に邸内に引き返した岡田総理は女中部屋の押入れに隠され、松尾大佐と土井巡査はあえてそこから離れて中庭に出たところを襲撃部隊と遭遇、松尾大佐は射殺され、土井巡査も拳銃弾が尽き、林八郎少尉に組み付いたところを左右から銃剣で刺突され、殉職した。しかしこれらの警察官の抵抗の間に岡田総理は隠れることができ、また松尾大佐は岡田とあまりにも容貌が似ていたことから、襲撃部隊は彼を総理と誤認、目的を果たしたと思いこんだ。
一方、遺体が松尾のものであることを確認し、女中たちの様子から総理生存を察知した福田耕総理秘書官と迫水久常総理秘書官らは、麹町憲兵分隊の小坂慶助憲兵曹長、青柳利之憲兵軍曹及び小倉倉一憲兵伍長らと奇策を練り、岡田総理を変装させた。同時に岡田総理が亡くなったという報を流した。

高橋是清大蔵大臣への襲撃には、中橋基明中尉及び中島莞爾少尉が襲撃部隊を指揮し、赤坂表町3丁目の高橋私邸を襲撃した。警備の玉置英夫巡査が奮戦したが重傷を負い、高橋は拳銃で撃たれた上、軍刀でとどめを刺され即死した。

斎藤実内大臣への襲撃には、坂井直中尉、高橋太郎少尉、麦屋清済少尉、安田優少尉が率いる襲撃部隊が向かった。四谷区仲町三丁目(現:新宿区若葉一丁目)の斎藤内大臣の私邸を襲撃した。襲撃部隊は警備の警察官の抵抗を難なく制圧して、斎藤の殺害に成功した。遺体からは四十数発もの弾丸が摘出されたが、それが全てではなく、体内には容易に摘出できない弾丸がなおも数多く残留していた。

鈴木貫太郎侍従長(予備役海軍大将)への襲撃には、安藤輝三大尉が襲撃部隊を指揮し、第1小隊を永田露曹長が、第2小隊を堂込喜市曹長が、予備隊を渡辺春吉軍曹が、機関銃隊を上村盛満軍曹が率いた。麹町区(現:千代田区)三番町)の侍従長公邸に乱入した。鈴木は、永田・堂込両小隊長から複数の拳銃弾を撃ち込まれて瀕死の重傷を負うが、妻の鈴木たかの懇願により安藤大尉は止めを刺さず敬礼をして立ち去った。
その結果、鈴木は辛うじて一命を取り留める。襲撃部隊の撤収後、鈴木たかは昭和天皇に直接電話し、宮内庁の医師を派遣してくれるように依頼した。この電話が襲撃事件を知らせる天皇への第一報となった。(後の1945年4月〜8月17日までの期間、鈴木貫太郎氏は第42代内閣総理大臣を就任する事となる。この時、鈴木大臣は安藤大尉を「命の恩人」と語った。)

河野寿大尉は民間人を主体とした襲撃部隊(河野以下8人)を指揮し、湯河原の伊藤屋旅館の元別館である「光風荘」にいた牧野伸顕前内大臣を襲撃した。玄関前で乱射された機関銃の銃声で目覚めた身辺警護の皆川義孝巡査は、牧野伯爵を裏口から避難させたのち、襲撃部隊に対して拳銃で応射し、遅滞を図った。これにより河野大尉が負傷したが、皆川巡査も重傷を負った。このとき、牧野伯爵の付き添い看護婦であった森鈴江が皆川巡査を抱き起こして後送しようとしたが、皆川巡査は既に身動きが取れず、また森看護婦も負傷していたことから、襲撃部隊の放火によって炎上する邸内からの脱出は困難として、森看護婦のみを脱出させ、自らは殉職した。
脱出を図った牧野は襲撃部隊に遭遇したが、旅館の従業員が牧野を「ご隠居さん」と呼んだために旅館主人の家族と勘違いした兵士によって石垣を抱え下ろされ、近隣の一般人が背負って逃げた。なお襲撃の際、旅館の主人・岩本亀三および従業員八亀広蔵が銃撃を受けて負傷。
午前2時頃、事件後まもなく北一輝のもとに渋川善助から電話連絡により蹶起の連絡が入った。同じ頃、真崎甚三郎大将も政治浪人亀川哲也からの連絡で事件を知った。真崎は加藤寛治大将と伏見宮邸で会う旨を決めて陸相官邸へ向かった。
午前4時半頃、山口一太郎大尉は電話で本庄繁大将に、青年将校の蹶起と推測の目標を告げた(山口一太郎第4回公判記録)。
午前5時、反乱部隊将校の香田清貞大尉と村中孝次、磯部浅一らが丹生誠忠中尉の指揮する部隊とともに、陸相官邸を訪れる。
本庄繁侍従武官長のもとには、反乱部隊将校の一人で、本庄の女婿である山口一太郎大尉の使者伊藤常男少尉が訪れ、「連隊の将兵約五百、制止しきらず、いよいよ直接行動に移る」と事件の勃発を告げ、引き続き増加の傾向ありとの驚くべき意味の紙片、走り書き通知を示した。これに対して本庄繁侍従武官長は、制止に全力を致すべく、厳に山口に伝えるように命じ、同少尉を帰した。そして本庄は岩佐禄郎憲兵司令官に電話し、さらに宿直中の侍従武官中島哲蔵少将に電話して、急ぎ宮中に出動した。
一方で鈴木貫太郎の夫人・鈴木たかが昭和天皇に直接電話したことにより事件の第一報がもたらされた。たかは皇孫御用掛として迪宮の4歳から15歳までの11年間仕えており親しい関係にあった。中島侍従武官に連絡を受けた甘露寺受長侍従が天皇の寝室まで赴き報告したとき、天皇は、「とうとうやったか」「まったくわたしの不徳のいたすところだ」と言って、しばらくは呆然としていたが、直ちに軍装に着替えて執務室に向かった。また半藤一利によれば天皇はこの第一報のときから「賊軍」という言葉を青年将校部隊に対して使用しており、激しい敵意をもっていたように伝えられている。
同午前5時、野中四郎大尉が指揮する約500人の部隊(歩兵第3連隊第7中隊常盤稔少尉以下156名、同第3中隊清原康平少尉以下152名、同第10中隊鈴木金次郎少尉以下142名、同機関銃隊立石利三郎曹長以下75名)が警視庁を襲撃、その圧倒的な兵力及び重火器によって、抵抗させる間もなく警視庁全体を制圧し、「警察権の発動の停止」を宣言した。この際、交換手の背に銃剣を突きつけて電話交換室を占拠し、警察電話を遮断することで警察の動きを封じようとしたが、兵士の電信電話知識の乏しさをつかれて、実際には全ての通信が維持されていた。この電話手の働きにより、小栗一雄警視総監を始め各部長は、警視庁占拠直後より情勢を知らされた。総監官舎の襲撃等も想定されたことから、総監・部長は急遽脱出して、まず麹町警察署で緊急の協議を行い、まず警務部長名で非常呼集を発令、本庁勤務員は部ごとに麹町、丸の内、錦町、表町の各警察署に、また各警察署の勤務員はそれぞれの所属署に集合・待機するよう命じた。ついで、麹町警察署は反乱部隊の占領地域に近く、襲撃を受ける懸念が指摘されたことから、総監・部長は神田錦町警察署に移動し、ここに「非常警備総司令部」を設けた。
警視庁では、決死隊を募って本庁舎を奪還しようという強硬論も強かったものの、安倍源基特高部長は、警察と軍隊が正面から衝突することによる人心の混乱を懸念して強く反対し、警視総監もこれを支持したことから、最終的に、陸軍、憲兵隊自身による鎮圧を求め、警察は専ら後方の治安維持を担当することとした。
午前5時20分頃、襲撃された内大臣斎藤實私邸の書生からの電話で、事件を知った木戸幸一内大臣秘書長は、小栗一雄警視総監、元老西園寺公望の原田熊雄秘書、近衛文麿貴族院議長へ電話し、宮中に向かった。
午前6時、高橋少尉と安田少尉が部隊を指揮し、東京市杉並区上荻窪2丁目にあった渡辺錠太郎私邸を襲撃。この時点においては、斎藤や高橋といった重臣が殺害されたという情報が、渡辺の自宅には入っていなかった。殺されるであろう事を感じた渡辺は、傍にいた次女の渡辺和子を近くの物陰に隠し、拳銃を構えたが、直後にその場で殺害された。
6時頃、木戸幸一内大臣秘書長が宮中に参内した。すぐに常侍官室に行き、すでに到着していた湯浅倉平宮内大臣、広幡忠隆侍従次長と対策を協議した。温厚で天皇の信任も厚かった斎藤を殺害された宮中グループの憤激は大きく、全力で反乱軍の鎮定に集中し、実質的に反乱軍の成功に帰することとなる後継内閣や暫定内閣を成立させないことでまとまり、宮内大臣より天皇に上奏した。青年将校たちは宮中グループの政治力を軽視し、事件の前も後もほとんど何も手を打たなかった。こうして宮中グループの支持を受けることができなかったことも青年将校グループの大きなミスであった。
6時半頃、陸相官邸を訪れた、反乱部隊将校の香田大尉と村中、磯部らが、川島義之陸軍大臣に会見して、香田が「蹶起趣意書」を読み上げ、蹶起軍の配備状況を図上説明し、要望事項を朗読した。川島陸相は香田らの強硬な要求を容れて、古庄次官、真崎、山下を招致するよう命じた。川島陸相が対応に苦慮しているうちに、他の将校も現れ、陸相をつるし上げた。
7時頃、斎藤瀏少将、小藤大佐、山口大尉がまもなく官邸に入り、古庄次官が到着した。
石原莞爾大佐宅にも事件について連絡がなされる。
午後8時、半蔵門に近い麹町警察署の署長室には当時、宮内省直通の非常電話が設置されており、その電話が鳴ると、たまたま署長をサイドカーに乗せて走り回る役目の巡査が出た。一度「ヒロヒト、ヒロヒト...」と名乗り巡査が「どなたでしょうか」と訊ねるといちど電話が切れ、再度の電話では別の男性の声で「これから帝国で一番偉い方が訊ねる」と前置きし、最初に名乗った人間が質問、巡査からは「鈴木侍従長の生存報告」「総理の安否は不明で、官邸は兵が囲んでいる」などの報告を受けた。巡査は会話の中で、相手が「朕」の一人称を使ったことから昭和天皇だと理解し、体が震えたという。電話の主はその後、「総理消息をはじめ情況を知りたいので見てくれ」と依頼し、巡査の名前を尋ねたが、巡査は「麹町の交通でございます」と答えるのが精一杯だったという。
同午前8時、真崎甚三郎、荒木貞夫、林銑十郎の3大将と山下奉文少将が歩哨線通過を許される。真崎と山下は陸相官邸を訪れ、天皇に拝謁することを勧めた。
真崎大将は陸相官邸を出て伏見宮邸に向かい、海軍艦隊派の加藤寛治とともに軍令部総長伏見宮博恭王に面会した。真崎大将と加藤は戒厳令を布くべきことや強力内閣を作って昭和維新の大詔渙発により事態を収拾することについて言上し、伏見宮をふくむ三人で参内することになった。真崎大将は移動する車中で平沼騏一郎内閣案などを加藤に話したという。参内した伏見宮は天皇に「速やかに内閣を組織せしめらること」や昭和維新の大詔渙発などを上申したが、天皇は「自分の意見は宮内大臣に話し置きけり」「宮中には宮中のしきたりがある。宮から直接そのようなお言葉をきくことは、心外である」と取り合わなかった。
午前9時、川島陸相が天皇に拝謁し、反乱軍の「蹶起趣意書」を読み上げて状況を説明した。事件が発生して恐懼に堪えないとかしこまる川島に対し、天皇は「なにゆえそのようなもの(蹶起趣意書)を読み聞かせるのか」「速ニ事件ヲ鎮圧」せよと命じた。この時点で昭和天皇が反乱軍の意向をまったく問題にしていないことがあらためて明瞭になった。
正午頃、迫水秘書官は大角岑生海軍大臣に岡田首相が官邸で生存していることを伝えたが、大角海相は「聞かなかったことにする」と答えた。
杉山元参謀次長が甲府の歩兵第49連隊及び佐倉の歩兵第57連隊を招致すべく上奏。
午後に清浦奎吾元総理大臣が参内。「軍内より首班を選び処理せしむべく、またかくなりしは朕が不徳と致すところとのご沙汰を発せらるることを言上」するが、天皇は「ご機嫌麗しからざりし」だったという(真崎甚三郎日記)。磯部の遺書には「清浦が26日参内せんとしたるも湯浅、一木に阻止された」とある。
正午半過ぎ、前述の荒木・真崎・林のほか、阿部信行・植田謙吉・寺内寿一・西義一・朝香宮鳩彦王・梨本宮守正王・東久邇宮稔彦王といった軍事参議官によって宮中で非公式の会議が開かれ、穏便に事態を収拾させることを目論んで26日午後に川島陸相名で告示が出された。

 一、蹶起ノ趣旨ニ就テハ天聴ニ達セラレアリ
 二、諸子ノ真意ハ国体顕現ノ至情ニ基クモノト認ム
 三、国体ノ真姿顕現ノ現況(弊風ヲモ含ム)ニ就テハ恐懼ニ堪ヘズ
 四、各軍事参議官モ一致シテ右ノ趣旨ニヨリ邁進スルコトヲ申合セタリ
 五、之以外ハ一ツニ大御心ニ俟ツ

この告示は山下奉文少将によって陸相官邸に集まった香田・野中・津島・村中の将校と磯部浅一らに伝えられたが、意図が不明瞭であったため将校等には政府の意図がわからなかった。しかしその直後、軍事課長村上啓作大佐が「蹶起趣意書」をもとにして「維新大詔案」が作成中であると伝えたため、将校らは自分たちの蹶起の意志が認められたものと理解した。
正午、憲兵司令部にいた村上啓作軍事課長、河村参郎少佐、岩畔豪雄少佐に「維新大詔」の草案作成が命令された。
午後三時頃に村上課長が書きかけの草案を持って陸相官邸へ車を飛ばし、草案を示して、維新大詔渙発も間近いと伝えたという。
午後3時に東京警備司令官香椎浩平中将は、蹶起部隊の占領地域も含まれる第1師管に戦時警備を下令した(7月18日解除)。戦時警備の目的は、兵力を以て重要物件を警備し、併せて一般の治安を維持する点にある。結果的に、蹶起部隊は第一師団長堀丈夫中将の隷下にとなり、正規の統帥系統にはいったことになる。
午後3時、前述の告示が東京警備司令部によって印刷・下達された。しかしこの際に第二条の「諸子の真意は」の部分が
「諸子ノ行動ハ国体顕現ノ至情ニ基クモノト認ム 」

と「行動」に差し替えられてしまった。反乱部隊への参加者を多く出してしまった第一師団司令部では現状が追認されたものと考えこの告示を喜んだが、近衛師団では逆に怪文書扱いする有様であった。
午後4時、戦時警備令に基づく第一師団命令が下った。この命令によって反乱部隊は歩兵第3連隊連隊長の指揮下に置かれたが、命令の末尾には軍事参議官会議の決定に基づく次のような口達が付属した。

 一、敵ト見ズ友軍トナシ、トモニ警戒ニ任ジ軍相互ノ衝突ヲ絶対ニ避クルコト
 二、軍事参議官ハ積極的ニ部隊ヲ説得シ一丸トナリテ活溌ナル経綸ヲ為ス。閣議モ其趣旨ニ従ヒ善処セラル

前述の告示とこの命令は一時的に反乱部隊の蹶起を認めたものとして後に問題となった。反乱部隊の元には次々に上官や友人の将校が激励に集まり、糧食が原隊から運び込まれた。
午後になるとようやく閣僚が集まりはじめる。参謀本部作戦課長の石原莞爾大佐が、宮中東溜りの間で開かれた軍事参議官会議を終えて退出する途中の川島義之陸軍大臣をつかまえて、事件の飛び火を警戒して日本全土に戒厳令を布くことを強く進言している。石原はすみやかに戒厳令を布いて反乱軍の討伐体制を整えようとしていた。その直後に宮中に居合わせていた内田信也鉄道大臣は、石原を始めとする幕僚たちの強弁で傲慢な態度を目撃しており、「夕景に至る頃おいには、陸軍省軍務局員や参謀本部の石原莞爾大佐らが、閣議室(宮内省臨時閣議室)の隣室に陣取り、卓を叩いて聞えよがしに、戒厳令不発令の非を鳴らし、激烈な口調で喚きたてていたが、石原大佐ごときは帯剣をガチャつかせて、閣議室に乗り込み強談判におよんで来たので、僕らは『統帥部と直接交渉は断然ことわる、意見は陸相経由の場合のみ受取るから......』と、はねつけた」と証言している。
なお、このとき石原莞爾らが強引に推進した戒厳令の施行が、翌27日からの電話傍受の法的根拠に繋がる。
午後8時40分、戒厳施行が閣議決定された。当初警視庁や海軍は軍政につながる恐れがあるとしてこの戒厳令に反対していた。しかしすみやかな鎮圧を望んでいた天皇の意向を受け、枢密院が召集。
午後9時、後藤文夫内務大臣が首相臨時代理に指名された。後藤首相代理は閣僚の辞表をまとめて天皇に提出したが、時局の収拾を優先せよと命じて一時預かりとした。その後、閣議が開かれる。
主立った反乱部隊将校は陸相官邸で皇族を除いた荒木・真崎・阿部・林・植田・寺内・西らの軍事参議官と会談したが結論は出なかった。蹶起者に同調的な将校の鈴木貞一、橋本欣五郎、満井佐吉が列席した。磯部は手記においてこの時の様子を親が子供の尻ぬぐいをしてやろうという『好意的な様子を看取できた』としている。「緒官は自分を内閣の首班に期待しているようだが、第一自分はその任ではない。またかような不祥事を起こした後で、君らの推挙で自分が総理たることはお上に対して強要となり、臣下の道に反しておそれ多い限りであるので、断じて引き受けることはできない」と真崎はいった。
2月27日、午前1時すぎ、石原莞爾、満井佐吉、橋本欣五郎らは帝国ホテルに集まり、善後処置を協議した。山本英輔内閣案や、蹶起部隊を戒厳司令官の指揮下にいれ軍政上骨抜きにすることなどで意見が一致し、村中孝次を陸相官邸から帝国ホテルに呼び寄せてこれを伝えた。
早暁に戒厳令が施行された。行政戒厳であった。東京市に戒厳令布告(〜7月16日)
午前3時、戒厳令の施行により九段の軍人会館に戒厳司令部が設立され、東京警備司令官の香椎浩平中将が戒厳司令官に、参謀本部作戦課長の石原莞爾大佐が戒厳参謀にそれぞれ任命された。しかし、戒厳司令部の命令「戒作命一号」では反乱部隊を「二十六日朝来出動セル部隊」と呼び、反乱部隊とは定義していなかった。「皇軍相撃」を恐れる軍上層部の動きは続いたが、長年信頼を置いていた重臣達を虐殺された天皇の怒りはますます高まる。
午前8時20分、「戒厳司令官ハ三宅坂付近ヲ占拠シアル将校以下ヲ以テ速ニ現姿勢ヲ徹シ各所属部隊ノ隷下ニ復帰セシムベシ」の奉勅命令が参謀本部から上奏され、天皇は即座に裁可した。
本庄繁侍従武官長は決起した将校の精神だけでも何とか認めてもらいたいと天皇に奏上したが、これに対して天皇は「自分が頼みとする大臣達を殺すとは。こんな凶暴な将校共に赦しを与える必要などないと一蹴した。奉勅命令は翌朝5時に下達されることになっていたが、天皇はこの後何度も鎮定の動きを本庄侍従武官長に問いただし、本庄はこの日だけで13回も拝謁することになった。
午前9時、暗殺された高橋是清大蔵大臣の代わりに、商工大臣町田忠治が兼任大蔵大臣親任式を挙行した。後世において、高橋は事件後に位一等追陞されるとともに大勲位菊花大綬章が贈られた。
午後0時45分、川島陸相が拝謁に訪問。対して天皇は、「私が最も頼みとする大臣達を悉く倒すとは、真綿で我が首を締めるに等しい行為だ」「陸軍が躊躇するなら、私自身が直接近衛師団を率いて叛乱部隊の鎮圧に当たる」とすさまじい言葉で意志を表明し、暴徒徹底鎮圧の指示を伝達した。
午後1時過ぎ、憲兵によって岡田首相が官邸から救出された。福田耕総理秘書官と迫水久常総理秘書官らは、変装した岡田総理と同年輩の弔問客を官邸に多数入れ、反乱部隊将兵の監視の下、変装させた岡田内角勝利大臣を退出者に交えてみごと官邸から脱出させた。
天皇の強硬姿勢が陸相に直接伝わったことと、殺されていたと思われていた岡田首相の生存救出で内閣が瓦解しないことが明らかになったことで、それまで曖昧な情勢だった事態は一気に叛乱軍鎮圧に向かうことになった。
午後2時、陸相官邸で真崎・西・阿部ら3人の軍事参議官と反乱軍将校の会談が行われた。この直前、反乱部隊に北一輝から「人無シ。勇将真崎有リ。国家正義軍ノ為ニ号令シ正義軍速カニ一任セヨ」という「霊告」があった旨連絡があり、反乱部隊は事態収拾を真崎に一任するつもりであった。真崎は誠心誠意、真情を吐露して青年将校らの間違いを説いて聞かせ、原隊復帰をすすめた。相談後、野中大尉が「よくわかりました。早速それぞれ原隊へ復帰いたします」と言った。
午後4時25分、反乱部隊は首相官邸、農相官邸、文相官邸、鉄相官邸、山王ホテル、赤坂の料亭「幸楽」を宿所にするよう命令が下った。
午後5時。弘前より上京した秩父宮が上野駅に到着。秩父宮はすぐに天皇に拝謁したが、「陛下に叱られたよ」とうなだれていたという。これは普段から皇道派青年将校たちに同情的だった秩父宮の姿勢を昭和天皇が叱ったものだとする説が支配的である。
午後7時、戒厳部隊の麹町地区警備隊として小藤指揮下に入れとの命令(戒作命第7号)があった。
夜、石原莞爾が磯部と村中を呼んで、「真崎の言うことを聞くな、もう幕引きにしろ、我々が昭和維新をしてやる」と言った。

2月28日、午前0時、反乱部隊に奉勅命令の情報が伝わった。
午前5時、遂に蹶起部隊を所属原隊に撤退させよという奉勅命令が戒厳司令官に下達された。
午前5時半、香椎浩平戒厳司令官から堀丈夫第一師団長に発令された。
午前6時半、堀師団長から小藤大佐に蹶起部隊の撤去、同時に奉勅命令の伝達が命じられた。小藤大佐は、今は伝達を敢行すべき時期にあらず、まず決起将校らを鎮静させる必要があるとして、奉勅命令の伝達を保留し、堀師団長に説得の継続を進言した。香椎戒厳司令官は堀師団長の申し出を了承し、武力鎮圧につながる奉勅命令の実施は延びた。自他共に皇道派とされる香椎戒厳司令官は反乱部隊に同情的であり、説得による解決を目指し、反乱部隊との折衝を続けていた。この日の早朝には自ら参内して「昭和維新」を断行する意志が天皇にあるか問いただそうとまでした。しかしすでに武力鎮圧の意向を固めていた杉山参謀次長が激しく反対したため「討伐」に意志変更した。
朝、石原莞爾大佐は、臨時総理をして建国精神の明徴、国防充実、国民生活の安定について上奏させ、国政全体を引き締めを内外に表明してはどうかと香椎戒厳司令官に意見具申した。
午前9時ごろ、撤退するよう決起側を説得していた満井佐吉中佐が戒厳司令部に戻ってきて、川島陸相、杉山参謀次長、香椎戒厳司令官、今井陸軍軍務局長、飯田参謀本部総務部長、安井戒厳参謀長、石原戒厳参謀などに対し、昭和維新断行の必要性、維新の詔勅の渙発と強力内閣の奏請を進言した。香椎司令官は無血収拾のために昭和維新断行の聖断をあおぎたい、と述べたが、杉山元参謀次長はふたたび反対し、武力鎮圧を主張した。
正午、山下奉文少将が奉勅命令が出るのは時間の問題であると反乱部隊に告げた。これをうけて、栗原中尉が反乱部隊将校の自決と下士官兵の帰営、自決の場に勅使を派遣してもらうことを提案した。川島陸相と山下少将の仲介により、本庄侍従武官長から奏上を受けた昭和天皇は「自殺するなら勝手にさせればよい。このような者共に勅使など論外だ」と非常な不満を示して叱責した。しかしこの後もしばらくは軍上層部の調停工作は続いた。自決と帰営の決定事項が料亭幸楽に陣取る安藤大尉に届くと、安藤は激怒し、それがもとで決起側は自決と帰営の決定事項を覆した。
午後1時半ごろ、事態の一転を小藤大佐が気づき、やがて、堀師団長、香椎戒厳司令官も知った。結局、奉勅命令は伝達できず、撤退命令もなかった。形式的に伝達したことはなかったが、実質的には伝達したも同様な状態であった、と小藤大佐は述べている。
午後4時、戒厳司令部は武力鎮圧を表明し、準備を下命(戒作命第10号の1)。 同時刻、皇居には皇族7人(伏見宮博恭王、朝融王、秩父宮、東久邇宮、梨本宮、竹田宮、高松宮)が集まり、一致して天皇を支える方針を打ち出した。
教育総監部本部長の中村孝太郎中将が教育総監代理に就任した。殺害された渡辺錠太郎氏は事件後に位階を一等追陞されるとともに勲一等旭日桐花大綬章が追贈された。
午後6時、蹶起部隊にたいする小藤の指揮権を解除(同第11号)。
午後11時、翌29日午前5時以後には攻撃を開始し得る準備をなすよう、司令部は包囲軍に下命(同第14号)。また、奉勅命令を知った反乱部隊兵士の父兄数百人が歩兵第3連隊司令部前に集まり、反乱部隊将校に対して抗議や説得の声を上げた。
同午後11時、「戒作命十四号」が発令され反乱部隊を「叛乱部隊」とはっきり指定し、「断乎武力ヲ以テ当面ノ治安ヲ恢復セントス」と武力鎮圧の命令が下った。一方の反乱部隊の側も、28日夜から29日にかけて、栗原・中橋部隊は首相官邸、坂井・清原部隊は陸軍省・参謀本部を含む三宅坂、田中部隊と栗原部隊の1個小隊は赤坂見附の閑院宮邸附近、安藤・丹生部隊は山王ホテル、野中部隊は予備隊として新国会議事堂に布陣して包囲軍を迎え撃つ情勢となった。
2月29日、岡田啓介内閣総辞職
2月29日、二・二六事件の反乱部隊に原隊復帰勧告(「兵に告ぐ」)が出され、5時間で帰順。
午前5時10分に討伐命令が発せられる。
午前8時30分には攻撃開始命令が下された。戒厳司令部は近隣住民を避難させ、反乱部隊の襲撃に備えて愛宕山の日本放送協会東京中央放送局を憲兵隊で固めた。同時に投降を呼びかけるビラを飛行機で散布した。
午前8時55分、ラジオで「兵に告ぐ」と題した「勅命が発せられたのである。既に天皇陛下のご命令が発せられたのである...」に始まる勧告が放送され、また「勅命下る 軍旗に手向かふな」と記されたアドバルーンもあげられた。また師団長を始めとする直属上官が涙を流して説得に当たった。これによって反乱部隊の下士官兵は午後2時までに原隊に帰り、安藤輝三大尉は自決を計ったものの失敗した。
残る将校達は陸相官邸に集まり、陸軍首脳部は自殺を想定して30あまりの棺桶も準備し、一同の代表者として渋川善助の調書を取ったが、野中大尉が強く反対したこともあり、法廷闘争を決意した。この際野中四郎大尉は自決したが、残る将校らは午後5時に逮捕され反乱はあっけない終末を迎えた。同日、北、西田、渋川といった民間人メンバーも逮捕された。

3月、ドイツがヴェルサイユ条約で軍隊の駐留が禁止されていたラインラント地方に軍隊を進駐させる。
3月4日、午後2時25分、山本又元少尉が東京憲兵隊に出頭して逮捕される。牧野伸顕襲撃に失敗して負傷し東京第一衛戍病院に収容されていた河野大尉は3月5日に自殺を図り、6日午前6時40分に死亡した。
3月7日、ドイツがラインラントに進駐
3月6日、二・二六事件で、牧野伸顕前内大臣を襲撃した河野寿大尉が入院中に自殺。戒厳司令部発表によると、叛乱部隊に参加した下士官兵の総数は1400余名で、内訳は、近衛歩兵第3連隊は50余名、歩兵第1連隊は400余名(450人は超えない)、歩兵第3連隊は900余名、野戦重砲兵第7連隊は10数名であったという。また、部隊の説得に当たった第3連隊付の天野武輔少佐は、説得失敗の責任をとり29日未明に拳銃自殺した。
3月9日、広田弘毅内閣成立
3月12日、ソ蒙相互援助議定書締結。
3月24日、牧野信一、小田原で自殺。
3月29日、明仁親王、満2歳で両親のもとを離れ、赤坂離宮構内の東宮仮御所で東宮傅育官によって育てられる。当初は日曜日には宮中に帰っていたが、一ヵ月を過ぎるころから日曜も東宮仮御所で過ごすようになった。慣例に従い、女児に近い格好で育てられていたが、学習院初等科入学に際し、おかっぱに伸ばしていた髪を無断で刈られ数日間ふさぎこんでしまった。その後、「これからは、だまってこんなことはしないでね」と精一杯の抗議をした。

4月15日、日本・ブラジル間に国際電話開通
4月28日、ファールーク1世がエジプト王に即位。

5月1日、第69特別議会召集
5月7日、立憲民政党斎藤隆夫の粛軍演説
5月18日、阿部定事件

6月1日、国民歌謡放送開始
6月20日、東京音楽学校に邦楽科設置
6月26日、世界初の実用ヘリコプター「Focke-Wulf Fw61」が初飛行。

7月3日、巨人が公式戦で初勝利(対名古屋戦)。
7月10日、初の国立公園記念切手発行(「富士箱根」)
7月10日、コム・アカデミー事件。講座派学者と左翼系人物を一斉検挙。
7月16日、東京市の戒厳令解除
7月17日、スペイン内戦勃発
7月20日、モントルー条約調印。ボスポラス海峡の新通航制度を決定。
7月25日、上野動物園からクロヒョウが逃げだしパニックとなる。
7月31日、国際オリンピック委員会で第12回夏季オリンピック開催地を東京に決定

8月1日、第11回夏季オリンピックがベルリンで開幕(〜8月16日)
8月1日、警視庁の赤バイが白バイになる
8月11日、ベルリン五輪から河西三省が「前畑ガンバレ」の実況
8月24日、成都事件。四川省成都で日本人新聞記者2名が殺害さる(他2名重傷)
8月24日、日本、関東軍防疫部編成(1941年に731部隊と改編)。

9月2日、第1回全日本グライダー大会開催
9月3日、北海事件。広東省北海で日本人商人が殺害される
9月11日、大阪市立美術館開館
9月19日、関門鉄道トンネル起工
9月26日、ソ連でニコライ・エジョフが秘密警察長官にあたる内務人民委員に任命され、スターリンの大粛清が本格的にはじまる。

10月、ドイツとイタリアとの間に「ベルリン・ローマ枢軸」の協定が結ばれる。
10月8日、初のカラーニュース映画公開 10月29日、イラクでバクル・シドキ将軍によるクーデター起こる。

11月3日、アメリカ合衆国大統領選挙でフランクリン・ルーズベルトが再選
11月3日、書道博物館開館
11月6日、関釜連絡船で金剛丸 (7,082t) 就航(日本商船の最高記録23kt)
11月7日、東京・永田町に国会議事堂落成
11月11日、秋田県去沢町にある鉱山ダムが豪雨のため決壊し下流の村落を濁流が襲った。死者374名、行方不明44名。(中沢ダム決壊事故)
11月14日、方面委員(民生委員の旧制度)が法制度化(方面委員令、勅令第398号)
11月18日、独伊がフランコ政権を承認
11月20日、尾去沢鉱山沈殿池決壊事故(秋田県鹿角市、死者362名)
11月24日、時事新報廃刊
11月25日、ドイツと日本は日独防共協定を結ぶ。(日独防共協定締結)
11月30日、水晶宮 (The Crystal Palace) 焼失。
11月30日、綏遠事件。関東軍が内蒙古軍を指揮して綏遠省に侵攻するが、中国軍に敗退。

12月1日、陸軍戦車学校開校
12月5日、ソビエト連邦でスターリン憲法が制定される。
12月10日、(英11日)英エドワード8世退位。ジョージ6世即位
12月11日、常磐線日暮里駅・松戸駅間の電化完成。上野駅・松戸間に電車運転開始
12月12日、神戸銀行設立 12月12日、西安事件
12月16日、柴犬が天然記念物に指定
12月22日、コニカ(当時の社名:小西六写真工業)設立
12月24日、第70議会召集
12月31日、ワシントン海軍軍縮条約失効