西暦1940年(昭和一五年)

概要

ドイツが北欧侵攻や日独伊三国軍事同盟で勢いが増してゆく。 旧日本海軍の艦上戦闘機、零式艦上戦闘機(零戦、ゼロ戦)が正式に採用される。 越南の八劬双(バクソン)で民衆蜂起。


1月11日、津田左右吉が早稲田大学教授を辞任
1月12日、ソビエト連邦、フィンランド各都市を空襲
1月14日、阿部内閣総辞職
1月15日、静岡市で大火(焼失5121戸、死亡4名)
1月16日、米内内閣成立
1月21日、浅間丸事件 。房総沖で英国軍艦が浅間丸を臨検し、ドイツ船客21名を引致
1月29日、西成線列車脱線火災事故。

2月2日、斎藤隆夫の反軍演説。
2月11日、前年からフィンランドに侵入したソ連軍は総攻撃を開始。フィンランド軍防衛線を突破した。
2月11日、日本、皇紀2600年(紀元2600年)祝典。阿部定を含む多数の囚人が恩赦を受ける。
2月12日、津田左右吉の『神代史の研究』など発禁となる。
2月16日、ノルウェー領海で英・独が軍事衝突(アルトマルク号事件)
2月27日、炭素14をMartin KamenとSam Rubenが発見。
2月29日、米アカデミー賞発表。『風と共に去りぬ』でマミーを演じたハティ・マクダニエルがアカデミー賞助演女優賞を受賞、黒人として初のアカデミー賞受賞者となる。

3月、フィンランドはカレリア地方などの領土をソ連に割譲して講和した。
3月6日、大日本航空が横浜-サイパン-パラオ間定期航空路を開始
3月7日、戦争政策批判により衆議院が民政党斎藤隆夫を除名処分
3月12日、ソ連フィンランド講和条約がモスクワで調印(冬戦争終結)
3月20日、仏ダラディエ内閣辞職、レノー内閣成立
3月28日、敵性語追放:内務省が芸能人の外国名・ふざけた芸名禁止を通達(ミスワカナ、ディック・ミネ、バッキー白片、藤原釜足ら16名)
3月30日、汪兆銘、南京で親日政府樹立(南京政府)。

4月、ドイツは中立国であったデンマークとノルウェーに突如侵攻し(北欧侵攻)占領した。しかし、ノルウェー侵攻で脆弱なドイツ海軍は多数の水上艦艇を失った。
4月1日、所得税法施行規則改正施行(勤労所得の源泉徴収開始)
4月5日、ヱスビー食品設立
4月9日、ドイツ軍がデンマーク王国・ノルウェー王国に侵攻(北欧侵攻)、デンマークが降伏。
4月9日、日本ニュース映画社(後の日本映画社)設立(4新聞のニュース映画部門が統合)
4月10日、米穀強制出荷命令発動

5月10日、ドイツ軍はヨーロッパ西部へ侵攻を開始。戦略的に重要なベルギーやオランダ、ルクセンブルグのベネルクス3国に侵攻(オランダにおける戦い)。
5月10日、英チェンバレン内閣総辞職、チャーチル挙国一致内閣成立
5月10日、英国がアイスランドに侵攻
5月15日、オランダが降伏。政府は王室ともどもロンドンに亡命。またベルギー政府もイギリスに亡命。
5月18日、日本軍、重慶を大空襲(一〇一号作戦、~9月4日)。
5月28日、オランダはドイツと休戦条約を結ぶ。なおアジアにおけるオランダ植民地は亡命政府に準じて、連合国側につくこととなる。 ドイツ軍は、フランスとの国境沿いに、外国からの侵略を防ぐ楯として期待されていた巨大要塞・マジノ線を迂回。アルデンヌ地方の深い森を突破し、フランス東部に侵入。電撃戦で瞬く間に制圧し(ドイツ軍のフランス侵攻)、フランス/イギリスの連合軍を英仏海峡のダンケルクへ追い詰めた。 一方、イギリス海軍は英仏連合軍を救出するためダイナモ作戦を展開。その際、ドイツ軍が妨害をしなかったため、約3万人の捕虜と多くの兵器類は放棄したものの、精鋭部隊は撤退させる事に成功。
5月28日、ドイツにベルギーが降伏。

6月、ルーズベルト大統領が国防力強化のため、科学者動員令を発令400の大学や研究機関から3万人の科学者がカーネギー研究所(ワシントン)に集められ、レーダーやVT信管などの軍事技術の開発が始まる。
6月、ソ連はバルト三国に圧力をかけ、ソ連軍の通過と親ソ政権の樹立を要求し、その回答を待たずに3国へ侵入。バルト三国に軍隊を駐留させ、40万以上の大軍で侵攻。 そこに親ソ政権を組織して反ソ分子を逮捕・虐殺・シベリア収容所送りにする。さらにバルト三国を併合。ソ連はルーマニアにベッサラビアを割譲するように圧力をかける。 さらにドイツ軍は首都パリを目指す。敗色濃厚なフランス軍は散発的な抵抗しか出来ない。
6月、ソ連軍がベッサラビアとブコビナ北部に侵入し、領土を割譲させた。
6月1日、木戸幸一が内大臣として宮城に復帰
6月3日、独空軍がパリを空襲
6月4日、イギリス海軍はダンケルクから約34万人もの英仏連合軍を救出した。イギリスのウィンストン・チャーチル首相は後に出版された回想録の中で、この撤退作戦を「第二次世界大戦中で最も成功した作戦であった」と記述した。
6月4日、独軍がダンケルクを占領したが、抱囲されていた英仏軍の大半は脱出に成功(ダンケルクの戦い、ダイナモ作戦)
6月5日、独軍が対仏総攻撃を開始
6月7日、ノルウェー国王ホーコン7世が英国に亡命
6月9日、ノルウェー国王が英国より対独抗戦中止を命令
6月10日、伊が対英仏宣戦布告
6月10日、 伊の対応を米ルーズベルト大統領が「背中から刺すようだ (Stab in the Back)」と非難
6月10日、独にノルウェーが降伏
6月10日、フランス軍はパリを放棄。 さらにフランスが敗北濃厚になったのを見て、ムッソリーニのイタリアも、ドイツの勝利に相乗りせんとばかりに、イギリスとフランスに対し宣戦布告した。
6月11日、仏政府がトゥールに移転
6月13日、仏軍がパリより撤退
6月14日、ドイツ軍は戦禍を受けてないほぼ無傷のパリに入城した。
6月14日、独軍がパリに無血入城
6月14日、仏政府がボルドーに移転
6月14日、隅田川で勝鬨橋開通
6月15日、伊軍が仏領に侵入
6月15日、ソ連軍がリトアニアに進駐開始
6月16日、仏レノー内閣辞任、ペタン元帥が首相に就任
6月17日、仏ペタン首相が独軍に休戦提議
6月17日、ソ連軍がラトビア・エストニアに進駐開始
6月18日、仏ド・ゴール将軍が自由フランスとしてロンドン放送で対独抗戦継続を呼びかける
6月18日、筑摩書房創業
6月19日、日本がフランスに対漢援助禁止を警告
6月22日、フランス軍はパリ近郊コンピエーニュの森においてドイツ軍への降伏文書に調印した。 なお、その生涯でほとんど国外へ出ることが無かったヒトラーが自らパリへ赴き、パリ市内を自ら視察し即日帰国した。 その後、ドイツによるフランス全土に対する占領が始まった直後、講和派のフィリップ・ペタン元帥率いる政権ヴィシー政権が樹立される。 一方、ロンドンに亡命した元国防次官兼陸軍次官のシャルル・ド・ゴールが「自由フランス国民委員会」を組織する傍ら、ロンドンのBBC放送を通じて対独抗戦の継続と親独的中立政権であるヴィシー政権への抵抗を国民に呼びかけ、イギリスやアメリカなどの連合国の協力を取り付けてフランス国内のレジスタンス運動を支援した。
6月22日、独仏休戦協定締結
6月24日、近衛文麿が枢密院議長を辞任し新体制運動推進を決意表明
6月27日、伊仏休戦協定締結
6月28日、ソ連がルーマニア領に進駐
6月30日、モンゴル人民共和国で新憲法公布

7月2日、仏政府がヴィシーに移動
7月3日、イギリス海軍H部隊がフランス植民地アルジェリアのメルス・エル・ケビールに停泊中のフランス海軍艦船を、ドイツ側戦力になることを防ぐ目的で攻撃し、大損害を与えた(カタパルト作戦)。 アルジェリアのフランス艦艇は、ヴィシー政権の指揮下にあったものの、ドイツ軍に対し積極的に協力する姿勢を見せていなかった。 それにも拘らず、連合国軍が攻撃を行って多数の艦艇を破壊し、多数の死傷者を出したために、親独派のヴィシー政権のみならず、ド・ゴール率いる自由フランスさえ、イギリスとアメリカの首脳に対し猛烈な抗議を行った。 また、イギリス軍と自由フランス軍は9月に西アフリカのダカール攻略作戦(メナス作戦)を行ったが失敗に終わった。
7月3日、英艦隊がアルジェリアのオラン港の仏艦隊を撃滅
7月4日、陸軍首脳部が米内内閣打倒のため陸相畑俊六に辞職を勧告
7月5日、ヴィシー仏政府が対英国交断絶
7月10日、独空軍による英本土空襲開始(バトル・オブ・ブリテン)
7月11日、仏ルブラン大統領辞職、ヴィシー政権でペタン元帥が国家主席に選出(第三共和政終了)
7月12日夜、三宅島が噴火する。死者11人、負傷20人。全壊焼失24戸。(日本火山総覧)
7月15日、満州国の新京に建国神廟が創建
7月16日、米内内閣総辞職(畑陸相の単独辞職)
7月19日、近衛文麿、松岡洋右、東條英機、吉田善吾が会談(荻窪会談)
7月19日、独ヒトラーが英国に和平を求める国会演説を行う
7月21日、リトアニア、ラトビア、エストニアが独立した「社会主義共和国」であると宣言
7月21日、日本労働総同盟解散
7月22日、第2次近衛内閣成立
7月26日、閣議で基本国策要綱を決定(大東亜の新秩序・国防国家)
7月27日、大本営政府連絡会議が「世界情勢の推移に伴う時局処理要綱」を決定。 「帝國は世界情勢の變(変)局に対処し内外の情勢を改善し速やかに支那事變の解決を促進するとともに好機を捕捉し對南方問題を解決す 支那事變の処理いまだ終わらざる場合において對南方施策を重点とする態勢轉換に関しては内外諸般の情勢を考慮しこれを定 右二項に對処する各般の準備は極力これを促進す」 「佛印(広州湾を含む)に対しては援蒋行為遮断の徹底を期するとともに速やかにわが軍の補給擔(担)任、軍隊通過および飛行場使用等を容認せしめかつ帝國の必要なる資源の獲得に勉 情況により武力を行使することあり」

8月1日、東京府が食堂・料理屋などでの米食使用を禁止。
8月1日、国民精神総動員本部が「贅沢は敵だ!」の立看板1500枚を東京市内に設置。
8月1日、三菱ウェルファーマ(当時の社名:武田化成、後の吉富製薬)設立。
8月13日、西ヨーロッパから連合軍を追い出したドイツは、イギリス本土への上陸を目指し、上陸作戦「アシカ作戦」の前哨戦として、ドイツ空軍総司令官ヘルマン・ゲーリングは、本格的に対イギリス航空戦「バトル・オブ・ブリテン」を開始するよう指令。 この頃、イギリス政府はドイツ軍の上陸と占領に備え、王室と政府をカナダへ避難する準備と、都市爆撃の激化に備えて学童疎開を実施。イギリス国民と共に、国家を挙げてドイツ軍の攻撃に抵抗した。 イギリス空軍は、スピットファイアやホーカー ハリケーンなどの戦闘機や、当時実用化されたばかりのレーダーを駆使して激しい空中戦を展開。 ドイツ空軍は、ハインケルHe-111やユンカースJu-88などの爆撃機で、当初は軍需工場、空軍基地、レーダー施設などを爆撃していたが、やがてロンドンなど、イギリスの諸都市に対して無差別爆撃を行った。 メッサーシュミットBf-109戦闘機の航続距離不足で爆撃機を十分護衛できず、爆撃隊は大損害を被り、また開戦以来、電撃戦で大戦果を上げてきた急降下爆撃機も大損害を被った。
8月15日、立憲民政党の解散により議会制民主主義が実質上停止
8月20日、八路軍、日本軍に対して大攻勢(百団大戦、~12月5日)。 大日本農民組合解散
8月30日、第二次ウィーン裁定:ルーマニア王国、北トランシルヴァニアをハンガリー王国に割譲。

9月、日本は阿部信行内閣当時、ヨーロッパの戦争への不介入方針を掲げたが、同内閣総辞職後、松岡洋右ら親独派を中心に日独伊三国軍事同盟を締結し、枢軸国側に立つ事になる。
9月1日、東京朝日新聞と大阪朝日新聞の題号を『朝日新聞』に統一。
9月7日、クラヨーヴァ条約:ルーマニア、南ドブロジャをブルガリアに割譲。
9月15日、ドイツ空軍は昼間のロンドン空襲を中止。その後、ヒトラーはイギリス上陸作戦を無期延期にする。 参戦したイタリアは北アフリカの植民地リビアからエジプトへ侵攻。
9月19日、御前会議
9月23日、日本軍、フランス領インドシナ北部に進駐(北部仏印進駐)。
9月23日、日仏印軍事協定成立。
9月27日、フランス降伏、枢軸国の勢力が拡大するに及んで近衛文麿内閣は、正式に日独伊三国同盟を締結した。親独ヴィシー政権成立後、同政府との合意に基づいて中華民国への援助ルート遮断を目的に日本軍は北部仏印進駐を開始した。
9月27日、731部隊、浙江省で細菌戦を実施(~12月)。

10月、イタリアはバルカン半島のアルバニアからギリシャへ、準備をきちんとせず性急に侵攻。
10月1日、第5回国勢調査(内地人口7311万4308人、外地人口3211万1793人)
10月3日、閑院宮 が参謀総長を辞任(後任に杉山元大将)
10月12日、大政翼賛会発会式
10月12日、独軍がルーマニアに進軍開始
10月14日、立教大学のチャールズ・ライフスナイダー総長が辞任し名実共に日本の大学に
10月17日、神嘗祭の日に皇紀二千六百年奉祝全国基督教信徒大会を開催し、日本基督教団の設立を決議
10月27日、戸田漕艇場竣工
10月27日、メキシコが対日禁輸を解除
10月28日、伊軍がギリシアに進軍開始(ギリシャ・イタリア戦争)
10月28日、ヒトラーとムッソリーニが会見
10月31日、バトル・オブ・ブリテン終了
10月31日、東京のダンスホール閉鎖
10月31日、タバコ改名(バットが金鵄、チェリーが桜)
10月31日、日本軍、燼滅作戦(三光作戦)開始。

11月、イタリア東南部のタラント軍港が、航空母艦から発進したイギリス海軍機の夜間爆撃に遭い、イタリア艦隊は大損害を被った。またギリシャ軍の反撃に遭ってアルバニアまで撃退される。
11月1日、戦時統制で築地小劇場が国民新劇場と改称
11月3日、小西六が国産初のカラーフィルムを発表
11月5日、米大統領選挙でルーズベルトが三選
11月5日、帝室博物館で正倉院御物特別展開催(初の一般公開)
11月7日、アメリカ合衆国ワシントン州のタコマナローズ橋が強風により落橋。
11月10日、紀元二千六百年記念行事(〜11月14日)
11月10日、全国の神社で午前10時に浦安の舞が奉納
11月10日、全国で提灯行列・旗行列
11月10日、赤飯用餅米特配
11月11日、英海軍が空母艦載機によりタラント軍港を攻撃(タラント空襲)
11月13日、御前会議で日華基本条約および支那事変処理要項を決定
11月14日、海軍省が兵備局を新設(15日発足)
11月14日、ドイツ軍がイギリス中部の都市コヴェントリーを空爆
11月20日、ハンガリーが枢軸国に加入
11月22日、トルコ全土で戒厳令
11月23日、大日本産業報国会結成
11月23日、ルーマニアが枢軸国に加入
11月23日、タイによるタイ領回復のための南部仏印進行によってタイ・フランス領インドシナ紛争が勃発。
11月24日、元老西園寺公望公死去(国葬12月5日)
11月24日、スロバキアが日独伊三国条約に加入
11月25日、タイ・仏印国境紛争勃発
11月25日、第1回全国学生柔道大会開催
11月27日、ルーマニアでイオン・アントネスクによるクーデター。ニコラエ・ヨルグを含む、亡命中の旧国王カロル2世の支持者60人以上が逮捕・処刑される。
11月29日、議会開設五十周年式典(国会議事堂)
11月30日、日華基本条約調印(汪兆銘政権承認、日清通商航海条約破棄)

12月、イタリアはイギリス軍に逆にリビアへ侵攻されるありさまであった。
12月6日、内閣情報局設置(内閣情報部廃止)
12月18日、独ヒトラーが独ソ戦(バルバロッサ作戦)の準備を命令
12月24日、第76議会召集
12月29日、米ルーズベルトが「米国は民主主義国の兵器廠となる」と発言