西暦1941年(昭和一六年)

概要

12月にアジア・太平洋戦争(〜1945年)が勃発する。日本では「大東亜戦争」と呼称した。


1月、イギリスはイベリア半島先端の植民地ジブラルタルと、北アフリカのエジプト・アレキサンドリアを地中海の東西両拠点とし、クレタ島やキプロスなど地中海を確保して枢軸国軍に対する反撃を企画。2月までに北アフリカ・リビアの東半分キレナイカ地方を占領し、ギリシャにも進駐した。 一方ドイツ軍は、劣勢のイタリア軍支援のため、エルヴィン・ロンメル陸軍大将率いる「ドイツアフリカ軍団」を投入。
1月1日、映画館でニュース映画の上映が義務化 1月2日、海軍航空部隊が昆明を爆撃(〜3日)
1月6日、米海軍が ミズーリ (戦艦)を起工
1月7日、皖南事変。国民党軍が移動中の新四軍を包囲攻撃(第二次反共攻勢)
1月8日、東條陸相が戦陣訓を通達
1月10日、独ソ不可侵条約更新
1月16日、大日本青少年団結成
1月17日、国民政府が新四軍に解散命令
1月18日、欧州航路最終の貨物船だあばん丸が横浜に帰港
1月20日、中国共産党が新四軍を再編
1月21日、松岡外相がタイ・仏印紛争に関して調停を申入れ、両国受諾
1月22日、中国共産党が皖南事変に抗議し国民政府に国共調整臨時弁法12条を要求
1月23日、野村駐米大使が出発(グルー駐日大使と東京駅で握手後、郵船鎌倉丸で横浜出港)
1月27日、オーストラリア中央部で、マグニチュード6規模の地震が発生。
1月28日、日本海洋学会創立
1月31日、日本の調停によりタイ・仏印紛争が妥結し停戦協定を妥結

2月1日、第1回東亜児童大会開催
2月3日、大本営政府連絡会議で対独伊ソ交渉要領を決定(日ソ国交調整)
2月5日、警視庁が「警察訓」を帝都の警察官に示達
2月5日、支那方面作戦視察中の大角大将らの搭乗機が広東省黄揚山に激突(9日に殉職確認)
2月7日、タイ・仏印紛争調停会議が東京で開催
2月11日、李香蘭の日劇出演にファンが殺到し警官隊出動
2月11日、国粋大衆党が南進要請皇民大会を開催(武道館)
2月13日、統制経済の複雑化に対応するため,警視庁が経済保安課を経済警察部に昇格
2月14日、野村駐米大使がルーズベルト大統領と初会談
2月14日、ドイツ軍はリビアのトリポリに上陸後、迅速に攻撃を開始し、イタリア軍も指揮下に置きつつイギリス軍を撃退した。
2月15日、堀切駐伊大使がムッソリーニ首相と初会談
2月16日、蒙古聯合自治政府主席徳王一行が靖国神社・明治神宮に参拝
2月26日、情報局が各総合雑誌に執筆禁止者(非左翼自由主義者)の名簿を内示
2月28日、タイ・仏印紛争緊迫によりハノイの邦人引揚げを準備

3月8日、野村駐米大使とハル国務長官が日米交渉開始

4月、日本はアメリカとの戦争回避のため、日米交渉を開始したが、英国首相ウィンストン・チャーチルの参戦要請を受けていたフランクリン・ルーズベルト大統領の対日強硬策などにより交渉は難航した。
4月1日、国民学校令施行
4月1日、ドレミファの階名がイロハとなる
4月3日、ロンメル将軍の独軍が北アフリカ戦線で英軍を撃破
4月5日、日本癌学会創立
4月5日、賀川豊彦らキリスト教会代表が平和使節として渡米
4月6日、ユーゴスラビアがソ連と不可侵条約に調印
4月6日、琵琶湖で訓練中の第四高等学校漕艇部11名らが遭難し全員死亡(琵琶湖遭難事故)
4月6日、ナチス・ドイツを始めとする枢軸国がユーゴスラビアとギリシャに侵攻(ユーゴスラビア侵攻、ギリシャ・イタリア戦争)
4月6日、ドイツ軍はユーゴスラビア王国やブルガリア王国などのバルカン半島(バルカン半島の戦い)諸国やギリシアなどエーゲ海島嶼部に相次いで侵攻。続いてクレタ島に空挺部隊を降下(クレタ島の戦い)させ、大損害を被りながらも同島を占領した。 ドイツはさらにジブラルタル攻撃を計画したが中立国スペインはこれを認めなかった。
4月11日、ドイツ軍はリビア東部のトブルクを包囲したが、占領はできなかった。 ドイツ軍は、5月から11月にかけて、エジプト国境のハルファヤ峠で激戦になり前進は止まった。ドイツ軍は88ミリ砲を駆使してイギリス軍戦車を多数撃破したが、補給に問題が生じて12月4日から撤退を開始。
4月13日、日ソ中立条約成立 4月17日、ユーゴスラビアが独に降伏
4月23日、ギリシャが独に降伏 政府が日本における高等教育を受けている学生の人数を調査し示す。

5月7日、中原会戦(〜6月15日)。
5月8日、東京条約が締結されタイ・フランス領インドシナ紛争が終結 タイ・フランス領インドシナ紛争が日本の仲介により終結。タイとフランスは東京条約で締結している。
5月19日、越南独立同盟(ベトミン)成立
5月20日、東京港が開港
5月21日、内田洋行設立
5月27日、第二次世界大戦: ドイツ海軍の戦艦ビスマルク沈没 5月27日、ルーズベルト米大統領が国家非常事態宣言を発令。
5月27日、日本軍、重慶を大空襲(一〇二号作戦、〜8月末)。

6月7日、東海銀行設立(愛知銀行・名古屋銀行・伊藤銀行が合併)
6月22日、ナチス・ドイツがソビエト連邦に対して攻撃開始(独ソ戦開始)
6月22日、ドイツは独ソ不可侵条約を破り、北はフィンランドから南は黒海に至る線から、イタリア、ルーマニア、ハンガリーなど他の枢軸国と共に約300万の軍で対ソ侵攻作戦(バルバロッサ作戦)を開始。独ソ戦が始まった。ソ連首相スターリンは情報部から、ドイツ軍の動向を繰り返し警告されていたが、それらはイギリスが意図的に流した偽情報と考え、侵攻に備えていなかった。そのため開戦当初、ソ連軍(赤軍)の前線部隊は混乱し、膨大な数の戦死者、捕虜を出し敗北を重ねる。独ソ戦開始後、日本では陸軍の一部には対ソ参戦を目指す北進論もあったが、ノモンハン事件において大きな被害を受けたため後は北進に消極的な意見が強く、また資源確保には南進が重要であり、蘭印(オランダ領インド、現インドネシア)からの軍事物資大量買付け交渉が失敗。ドイツが不可侵条約を破棄し、ソ連に宣戦布告した(独ソ戦)ことを受け、ウラディヴォストーク〜敦賀間の船便は運航を終了している。
6月24日、日本基督教団創立(認可は11月24日)(新教教会の合同)
6月26日、フィンランドがソ連に対して宣戦布告(継続戦争)
6月27日、ハンガリーがソ連に対して宣戦布告
6月27日、チトーがパルチザンを組織し、ドイツ軍に対するゲリラ戦を開始
6月30日、ドイツが日本に対して対ソ参戦を申入れるも日本は拒否

7月1日、山陰合同銀行設立(松江銀行と米子銀行が合併)
7月4日、帝都高速度交通営団設立(東京地下鉄道と東京高速鉄道が合併)
7月7日、アイスランドにアメリカ軍が駐留
7月7日、関東軍特種演習(関東軍、対ソ戦を準備、〜8月)。
7月12日、第二次世界大戦: 英ソ相互援助協定締結
7月15日、三井不動産創業
7月15日、長野地震
7月16日、第2次近衛内閣総辞職(松岡洋右外相更迭)
7月16日、ドイツ軍はスモレンスクを占領。
7月18日、第3次近衛内閣成立(外相豊田貞次郎)
7月19日、伊藤情報局総裁が「変転極まりなき国際関係に恃むは自力のみ」と土曜放送で強調
7月20日、第1回海の記念日
7月23日、ルーズベルト米大統領,シェンノート指揮下の義勇空軍の中国配置を認可し,軍事援助を明らかにする。
7月23日、日本・仏印間に南部仏印進駐細目の話合い成立
7月25日、米が在米対日資産を凍結
7月26日、英が在英日本資産を凍結
7月26日、極東アメリカ軍をフィリピンに創設(司令官ダグラス・マッカーサー中将)
7月27日、蘭印が在蘭印日本資産を凍結
7月28日、日本軍、フランス領インドシナ南部進駐(南部仏印進駐)。日本は南部仏印進駐を開始。アメリカは対抗措置として在米日本資産を凍結。さらに石油禁輸に踏み切った。これによってアメリカ・イギリス・中華民国・オランダとの関係がいっそう冷え込み、日本ではそれぞれの経済制裁国の英語の頭文字をとって「ABCD包囲網」と呼んだ。

8月、ユダヤ難民の上海移住開始。 神戸のユダヤ人は上海へ再配置されることが決定した。難民到着以前に神戸に居住していた人々だけが、同地に留まることを認められた。
8月1日、米、石油の対日輸出全面禁止を発表
8月12日、大西洋憲章発表
8月18日、豊田外相が日米首脳会談を要請
8月25日、イギリス・ソビエト連邦がイラン進駐を開始

9月3日、日米首脳会談の要請を米国が拒否
9月6日、御前会議にて「帝国国策遂行要領」を決定
9月6日の御前会議で、対英米蘭戦は避けられないものとして決定された。御前会議では発言しないことが通例となっていた昭和天皇はこの席で敢えて発言をし、明治天皇御製の 「四方の海 みなはらからと 思ふ世に など波風の 立ちさわぐらん」 四方の海にある国々は皆兄弟姉妹と思う世に なぜ波風が騒ぎ立てるのであろう) という短歌を詠み上げた。 昭和天皇自身は開戦には消極的であったと言われている。 しかし、12月25日には日本軍の勝利を確信して、「平和克復後は南洋を見たし、日本の領土となる処なれば支障なからむ」と語ったと小倉庫次の日記に記されている。
9月19日、ドイツ軍はキエフを占領。さらに北部のレニングラードを包囲。
9月28日、日本軍、西貢に上陸。

10月中旬、ドイツ軍は首都モスクワに接近。市内では一時混乱状態も発生し、ソ連政府は約960km離れたクイビシェフへ疎開を余儀なくされた。 しかし、その頃からドイツ軍は泥まみれの悪路に難儀し、さらに戦線が伸びきって補給に問題が生じ、前進は鈍った。またソ連軍の新型T-34中戦車、KV-1重戦車、「カチューシャ」ロケット砲などに苦戦。
10月16日、近衛首相、内閣を総辞職。
10月18日、日本で戦争回避を目的に陸軍大将東條英機内閣が成立。
10月18日、東條英機が内閣総理大臣となり、東條内閣を組閣。
10月26日、セントライト号が京都農林省賞典(のちの菊花賞)を制し、日本競馬史上初の三冠馬となる。

11月、ドイツ軍は冬に備えた装備も不足したまま、例年より早い冬将軍の到来で厳しい寒さに見舞われる。 ポーランドとフィンランド侵攻、バルト3国併合などの理由で、それまでソ連と距離をおいていた連合国側は、独ソ戦開始後、ソ連を連合国に受け入れることを決定。武器供与法にしたがって膨大な物資の援助が始まる。
一方、ドイツは日本に対し、東から対ソ攻撃を行うよう働きかけるが、日本は独ソ戦開始前の 1941年4月13日には日ソ中立条約を締結していた。 また南方の資源確保を目指した日本政府は、東南アジア・太平洋方面進出を決め、対ソ参戦を断念する。 リヒャルト・ゾルゲなど、日本に送り込んだスパイの情報により、日本の対ソ戦放棄を知ったソ連は、極東ソ連軍の一部をヨーロッパに振り分け、これがその後、影響を与える事となった。
11月2日、陸軍予科士官学校が市ヶ谷台から埼玉県朝霞ヶ原に移転
11月15日、第77臨時議会召集
11月17日、東條首相の施政方針演説を録音放送(初の議会放送)
11月19日、ドイツ軍は厳寒のなか、南部のロストフ・ナ・ドヌも占領し、モスクワ近郊約23kmにまで迫った。
11月23日、南雲機動艦隊が単冠湾(ひとかっぷわん)に集結
11月24日、日本基督教団設立認可(新教教会の合同)
11月26日、ハル国務長官が日本側乙案を拒否し中国撤兵要求を提議(ハル・ノート ) アメリカのコーデル・ハル国務長官から来栖三郎特命全権大使、野村吉三郎駐米大使に通称「ハル・ノート」が手渡された。中国大陸(原文「China」)から全面撤退すべし、との強硬な撤退要求を受け、日本政府はこれを全中国大陸からの撤退要求と解釈。 事実上の最後通牒と認識し、日米交渉は完全に決裂した。同日、日本海軍機動部隊は南千島の択捉島単冠湾(ヒトカップ湾)からハワイに向け出港した。
11月26日、南雲機動艦隊が単冠湾を出港
11月27日、大本営政府連絡会議が「ハル・ノートは日本に対する最後通牒である」と結論
11月29日、日本音楽文化協会結成

12月、ドイツ軍はウクライナを経てモスクワに接近するが、ソ連軍の反撃で後退する。
12月1日、日米関係の悪化により、外務省は情報収集の必要性から、情報部内に「ラヂオ室」を設置(のちのラヂオプレス)。
12月5日、ソ連軍は反撃を開始してドイツ軍を150km以上も撃退した。ドイツ軍は開戦以来、かつて無い深刻な敗北を喫した。 政権取得以後、ナチス党の一党独裁国家となったドイツ政府によってドイツ国内、また開戦後の占領地では過酷な恐怖政治が行われていた。 秘密国家警察ゲシュタポ、ナチス親衛隊が国民生活を監視し、反政府的言動を厳しく弾圧した。 しかし、ヒトラーによる独裁に反対するドイツ軍関係者によるヒトラー暗殺計画が多数行われた他、ナチス党内においても覇権争いが行われているなど、その体制は決して一枚岩でなかった。 12月1日の御前会議で、事実上軍部が指導的地位にあった日本政府は対英米蘭開戦を決定。こうして日本は第二次世界大戦へ参戦する事となった。 なお、日本政府がハル・ノートの内容に憤慨し、野村吉三郎大使に対しアメリカ政府との交渉打ち切りを指示していた事を、既にアメリカ政府は暗号解読によって察知していたといわれている。 また、当時ドイツに対し劣勢だったイギリスのウィンストン・チャーチル首相、中華民国の蒋介石総統らによるアメリカ参戦の要望も強かった。
12月6日、英国がフィンランド・ハンガリー王国・ルーマニア王国に対して宣戦布告
12月7日(現地時間)、日本海軍機がハワイを攻撃し太平洋戦争が勃発。
12月8日午前1時30分(JST)、日本陸軍の佗美浩少将率いる第18師団佗美支隊が、淡路山丸、綾戸山丸、佐倉丸の3隻と護衛艦隊(軽巡川内基幹の第3水雷戦隊)に分乗し、タイ国境に近いイギリス領マレー半島北端のコタバルへ上陸作戦を開始した。アジア太平洋戦線における戦闘はこの時間に開始された。 8日正午、佗美支隊は苦戦しながらも橋頭堡を確保し、8日夜には大雷雨を衝いて夜襲により飛行場を制圧。
12月8日 日本軍、英米蘭に宣戦布告。
12月8日、日本軍のマレー半島上陸および真珠湾攻撃で太平洋戦争(大東亜戦争)が開戦する。日本、対米英宣戦布告。但し、アメリカ合衆国をはじめとする旧連合国を中心とする欧米諸国では、真珠湾攻撃の際の現地ハワイの日付である12月7日を開戦日とみなす
12月9日、中華民国(重慶政府、蒋介石政権)、日独伊に宣戦布告。
12月9日、中華民国が日独伊に対し正式に宣戦布告し、太平洋戦争(大東亜戦争)が始まる。 日本は上海全域を占領した。ユダヤ系アメリカ人からの資金援助及び全ての連絡は、英米対敵通商法(Anglo-American Trading with the Enemy Act)によって事実上途絶した。法的には、上海におけるユダヤ難民への連絡と援助に関するアメリカ財務省の規制は相当緩かったが、アメリカのユダヤ人組織は強い愛国心を示し、反逆活動の切っ掛けを与えぬよう主張した。 アメリカのユダヤ資本導入の道は閉ざされた。こうした内外の情勢の変化は、計画の実質的な破綻をもたらした。 日本陸軍は、昼にコタバル市内を占領。コタバルへ上陸した日本陸軍はシンガポールを目指し半島を南下。同日、日本陸海軍機がフィリピンの米軍基地を攻撃。 マレー半島上陸開始の約1時間半後、6隻の航空母艦から発進した日本海軍機による当時のアメリカ自治領ハワイ・真珠湾のアメリカ海軍太平洋艦隊に対する攻撃(真珠湾攻撃)が行われた。 日本海軍は、アメリカ太平洋艦隊をほぼ壊滅させたが、第2次攻撃隊を送らず、オアフ島の燃料タンクや港湾設備を徹底的に破壊しなかった事、攻撃当時アメリカ空母が出港中で、空母と艦載機を破壊できなかった事が、後の戦況に影響を及ぼす事になる。
12月10日、マレー沖海戦。
12月10日、日本軍がグアム島占領
12月10日、日本軍がルソン島上陸 日本海軍双発爆撃機隊(九六式陸上攻撃機と一式陸上攻撃機)の巧みな攻撃により、当時世界最強の海軍を自認していたイギリス海軍東洋艦隊の、当時最新鋭の戦艦プリンス・オブ・ウェールズと巡洋戦艦レパルスを一挙に撃沈した(マレー沖海戦)。 なお、これは史上初の航空機の攻撃のみによる行動中の戦艦の撃沈であり、この成功はその後の世界各国の戦術に大きな影響を与えた。なお、当時のイギリス首相チャーチルは後に「第二次世界大戦中にイギリスが最も大きな衝撃を受けた敗北だ」と語った。 イギリス軍への攻撃は宣戦布告無く開始され、アメリカ政府への宣戦布告文書交付は、駐米大使館での暗号文書き起こし、大使館員のタイプ遅延などのため、外務省の指令時間より1時間近くも遅れた。 このため、英米への攻撃が「だまし討ちだ」と、その後長年に渡ってアメリカ政府によって喧伝される事となった(なお、 1939年9月のドイツとソ連のポーランド攻撃は完全に宣戦布告が行なわれかったが、このように喧伝されることは無かった。 さらに、戦時国際法では期限のない最後通牒を、事実上の宣戦布告とみなすことは可能、とするのが通説であることに鑑みれば、ハル・ノートを突きつけられた時点で、これは宣戦布告に等しい、とみなす考えも有る。)。 かねてより参戦の機会を窺っていたアメリカは、真珠湾攻撃を理由に連合軍の一員として正式に参戦した。 当時日本海軍は、短期間で勝利を重ね、有利な状況下でアメリカ軍をはじめ、連合軍と停戦に持ち込むことを画策。そのため、負担が大きくしかも戦略的意味が薄い、という理由でハワイ諸島への上陸は考えていなかった。 しかし、ルーズヴェルト大統領以下、当時のアメリカ政府首脳は、日本軍のハワイ上陸を本気で危惧し、ハワイ駐留軍の本土への撤退を想定していた。さらに、日本海軍空母部隊によるアメリカ本土西海岸空襲、アメリカ本土侵攻の可能性が高い、と分析していた。 日本陸軍がルソン島へ上陸。さらに太平洋のアメリカ領グアム島も占領。
12月11日、ドイツ・イタリアがアメリカに宣戦布告。アメリカ合衆国が連合国の一員として正式に参戦し、ここにきて名実ともに世界大戦となった。
12月12日、日本政府、支那事変も含めて戦争名称を「大東亜戦争」と決定
12月15日、第78臨時議会召集
12月16日、日本軍が英領ボルネオに上陸
12月16日、大和 (戦艦)竣工(呉海軍工廠)
12月17日、台湾全島で地震。嘉義市では死傷223名、倒壊千戸
12月20日、大東亜戦争勃発により株式市場高騰
12月21日、大日本帝国とタイ王国の間で日泰同盟調印 東南アジア唯一の独立国だったタイ王国は、当初は中立を宣言していたが、日本との間に日泰攻守同盟条約を締結し、事実上枢軸国の一国となった。
12月22日、日本軍がウェーク島上陸
12月23日、日本陸軍がウェーク島を占領。
12月24日、第79議会召集
12月24日、ドイツの領地ベンガジがイギリス軍に占領。 日本陸軍がボルネオ(現カリマンタン)島、ジャワ島とスマトラ島などにおいて、イギリス・アメリカ・オランダなど連合軍に対する戦いで大勝利を収めた。
12月25日、日本軍が香港占領(英軍降伏) 日本陸軍がイギリス領香港を占領。しかしポルトガル植民地東ティモールと、香港に隣接するマカオには、中立国植民地を理由に侵攻しなかった。 中国戦線において、中国国民党の蒋介石率いる中華民国政府は、アメリカやイギリス、ソ連からの豊富な軍需物資、戦闘機部隊や軍事顧問など、人的援助を受けた。 日本軍は、地の利が有る国民党軍の攻撃に足止めされ、中国共産党軍(八路軍と呼ばれた)はゲリラ戦を展開、絶対数の少ない日本軍を翻弄し、泥沼の消耗戦を余儀なくされた。 なお、満洲国や中華民国南京国民政府も、日本と歩調を合わせて連合国に対し宣戦布告した。